United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)バウンティ号航海(V3-7
ピーター・ヘイウッド候補生
1791
”パンドラの箱”で地獄を見る、恩赦、艦長となる
判決 レサーブルドロンヌ海戦
大航海物語
バウンティ号編

ISLE OF MAN
ピーター・ヘイウッド候補生

マン島 1989/8/28 発行

PITCAIRN ISLANDS
太平洋でのタヒチ島ピトケーン島の場所地図(中央付近)
ノーオークフィジートンガサモアタヒチ島ピトケーンイースターの島々
ジョージ6世
英領ピトケーン 1940-51 発行(200%)

TOKELAU
パンドラ号

トケラウ諸島(現NZ領) 1999 発行
FIJI
太平洋と世界地図

フィジー 1977/4/12 発行
PITCAIRN ISLANDS
バウンティ号

英領ピトケーン 1988 発行

ヘイウッド候補生はバウンティ号の反乱で一躍有名になりましたが、反乱には加わらずタヒチ島に置き去りにされていたのを、反乱者の捜索に来たイギリス軍艦パンドラ号に捕らえられ、「パンドラの箱」と呼ばれた牢獄に押し込められ地獄をみました。またパンドラ号が遭難したときも生き延び、イギリスに送還された後に軍法会議で死刑の判決を受けた後、恩赦で釈放されました。その後、イギリス海軍に復帰し、新大陸方面などで活躍して海軍代将になりましたが病に倒れ58才で亡くなりました。
ピーター・ヘイウッド候補生 (1772/6/6〜1831/2/10)
 Peter Heywood、艦長(Captaon)、代将(rank of commodore)
ヘイウッド候補生はイギリスのマン島で生まれ、1785年に13才で、イギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス(#1B21)士官養成所のイギリス海軍兵学校の生徒(カディット:Cadete)として2年間を過ごして士官候補生(Midshipman)になりました。

1787年に15才でブライ艦長のもとで、少尉候補生(Midshipman)としてバウンティ号に乗組み、最初の大遠洋航海へと、1787/12/23にポーツマスを出帆しました。バウンティ号は乗組員は46人の小規模な帆船で、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び、そこのプランテーションで働く奴隷達の食料とするために植林することを使命として専門の植木職人も乗り組んでいました。

航海中はブライ艦長が乗組員全員にたいして、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人クリスチャン1等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。
バウンティ号はさらに西へ帆走して10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789/4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して脱走しようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科し タヒチ島











仏領ポリネシア 1986 発行
ました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789/4/28早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で亡くなっていた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかった、また、直接手は下さなかったが反乱に同調した、という説も有)13人は船に残されました。ピーター・ヘイウッドはこの船に残された13人中の1人でした。
その後、バウンティ号はポリネシアのオーストラル諸島のツバイ(Tubuai, Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に移住しようと覚悟を決め、1789/9月に23人の反乱者のうち14人をタヒチに残し、8人の反乱者と原住民を連れて島を後に出帆してしまいました。 タヒチの女(浜辺にて)
ゴーギャン 1891作オルセー美術館蔵


仏領ポリネシア 1958/11/3 発行
残されたヘイウッドと元乗組員はタヒチ島の部族紛争を解決し、島の統一に貢献して、平和に暮らしていました。ところが・・・・・
1789/6/12にブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人が英国に生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。ブライ艦長たちの報告を聞いたイギリス海軍は反乱者達を探すためフリゲート艦パンドラ号を派遣することを決定しました。 タヒチ島に到着したパンドラ号

ノーフォーク島 1991/8/28 発行
1790/11月に軍艦パンドラ号はバウンティ号の捜索のためにイギリスを出帆し、1791/3月にタヒチ島に到着し、タヒチ島にいたヘイウッド候補生他の叛徒を「海賊の極悪人」として逮捕しました。
パンドラ号には牢がなかったので、クォーターデッキ(後甲板)に「パンドラの箱」とあだ名される木造の箱で臨時の牢獄を造り,手かせと足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監しました。その箱は換気が悪い上に直射日光が当たり、それはもうサウナに閉じ込められているのと同じで、赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちて、地獄の状態だったと伝えられています。ヘイウッド候補生たちはその中に4ヵ月間も閉じ込められました。パンドラ号はその後も3ヵ月ものあいだ副長たちを探しましたが、ようとして行方が解らず、1791/8/30にオーストラリア近海の クイーンズランド海岸の地図と
座礁したパンドラ号


ノーフォーク島 1991/8/28 発行
トレス海峡近くクイーンズランド海岸で座礁沈没してしまいました。この時に叛徒3人が水没して
亡くなりました。遭難後に4隻のボートにヘイウッド候補生他98人が分譲し、ヘイウッド候補生はボートのシートの下に寝た状態で縛り付けられて、15日間の航海後にチモール島に着き、その後オランダ東インド会社の帆船でバタビア(現インドネシアの首都ジャカルタ)に連行されました。そこからイギリス軍艦ゴーゴン号(HMS Gorgon)でケープタウン経由で、ヘイウッド他の叛徒は本国送還となり、1792/6月にイングランドに到着しました。同年の軍法会議で10人の内3人が絞首刑となり、 チモール島

ポ領チモール 1956 発行
ヘイウッド候補生は軍法会議で、「反乱が起こった時は下甲板にいたので、艦長たちがボートに追放された時まで、何が起こったかを知らなかった」と述べましたが、「反乱に抵抗しなかった」として有罪(死刑)になりました。その後、判決が不当だとして訴えていましたが、モリソンと共に恩赦を受け釈放され、フッド提督の推薦でイギリス海軍に復帰できました。

・1792/9/18、フッド提督が判決を発表した:10人
No  氏 名 判決  メ モ
1 ジョセフ・コールマン 無罪 1792/9/18
2 トーマス・マッキントッシュ 無罪 1792/9/18
3 チャールズ・ノーマン 無罪 1792/9/18
4 盲目マイケル・バーン 無罪 1792/9/18
5 ヘイウッド 有罪 恩赦、ヘクター号クォーターデッキでモンタギュー艦長が通告、1792/10/26
6 ジェームズ・モリソン 有罪 恩赦、ヘクター号クォーターデッキでモンタギュー艦長が通告、1792/10/26
7 ウィリアム・マスプラット 有罪 恩赦、ヘクター号クォーターデッキでモンタギュー艦長が通告、1792/10/26
8 ジョン・ミルワード 有罪 絞首刑、ブランズウィック号ヤードアームで執行、1793/2月
9 トーマス・バーキット 有罪 絞首刑、ブランズウィック号ヤードアームで執行、1793/2月
10 トーマス・エリソン 有罪 絞首刑、ブランズウィック号ヤードアームで執行、1793/2月
※戦列艦ヘクター号(HMS Hector, 74gn 3rd rate ship)
 ・モンタギュー艦長(Admiral Sir George Montagu 1750-1829)
 ・クォーターデッキ(Quarter Deck)後甲板
※戦列艦ブランズウィック号(HMS Brunswick, 74gn 3rd rate ship)
 ・ヤードアーム(Yardarm)帆桁の端。


1792年にヘイウッド候補生は叔父パスリー提督(Admiral Sir Thomas Pasley, 1st Baronet, 1734-1808)の乗艦、2層砲列甲板の3等戦列艦ベレロフォーン号(HMS Bellerophon、74gn)に士官候補生として乗組みました。1793/9月に司令官ハウ提督(1726-1799)の召喚で、海峡艦艦隊旗艦の戦列艦クイーン・シャーロット号(HMS Queen Charlotte, 100gn 1st rate ship)に乗組みました。そして、1794/6/1にフランス艦隊がウェサン島で敗北を喫した「栄光の6月1日海戦」のときもクイーン・シャーロット号に乗艦していて、1795/3月までクイーン・シャーロット号に勤務。ヘイウッド候補生は、1794/8月少尉代理(acting lieutenant)に昇進しました。1795/3月に、有罪判決を受けた反乱者としてのさらなる昇進の資格についての疑念は脇に置かれ、海上での最低6年間の勤務が 2層甲板軍艦

セントクリストファーネヴィスアンギラ 1970 発行
なかったにもかかわらず、少尉(3rd Lieutenant)に昇進。仏ビスケー湾グロワ島沖での”グロワ島の海戦”(Battle of Groix, 1795/6/23,英勝利・仏負)にクイーン・シャーロット号で従軍。1796/1月にヘイウッド少尉は中尉(2nd Lieutenant)に昇進して、フォックス号(Frigate HMS Fox, 32gn)で東インドへ航海して、この方面に9年間駐留。1796年末に大尉(1st lieutenant)に昇進。1798年半ばにサフォーク号(HMS Suffolk, 74gn 3rd rate ship)に転属。1799/5/17にブリッグ艦アンボイナ号(Brig HMS Amboyna, 10gn)の艦長。1800/8月には爆撃艦バルカン号(Bomb ship Vulcan, 船首に迫撃砲装備)の艦長に任命され、8年前に捕虜となっていたクパン(Coupang:現インドネシアのティモール島東ヌサ・トゥンガラ州々都, #19)を訪問。1803年にヘイウッド艦長は一連の軍艦指揮の後、勅任艦長(Post captain)に昇進し、水路学者としてレオパード号(HMS Leopard, 50gn 4rth rate ship)で、セイロン島とインドの東海岸など、それまで研究されていなかった地域の一連の調査を実施して「美しく作成された海図」を作成しました。後年、モロッコの北海岸、南アメリカのラプラタ川(Rio de la Plata)地域、インドネシアのスマトラ島とオーストラリア北西部の海岸の一部、その他の水路や海岸線について同様の海図を作成することになました。

大尉ヘイウッド艦長は、1803/4月に、1801年に捕獲した仏フリゲート艦を改装したデデニューズ号(frigate HMS Dedaigneuse, 40gn)の指揮を執って東インド諸島へ航海しました。1803/12/14にデデニューズ号はフランスの私掠船エスピーグル号(French privateer Espiegle)を捕獲しました。1805/1/24に健康状態が悪く、兄が亡くなったため、デデニューズ号の指揮を辞任後、英東インド会社のサイレンセスター号(East Indiaman Cirencester)の乗客として英国に戻りました。

1805〜1806年に短期間軍務をはなれて上陸後、ジョージ・マレー提督(Vice Admiral Sir George Murray, KCB 1759-1819)率いるマレー艦隊の旗艦ポリフェモス号(HMS Polyphemus, 64gn 3rd rate ship)艦長のフラッグ・キャプテン(Flag Captain:旗艦々長)に任命されました。1802/3月、マレー艦隊は喜望峰から南米への兵士輸送に従事。ナポレオン戦争フランスと同盟を結んでいたスペインからアルゼンチン首都ブエノスアイレス(#1)を奪取しようとしたイギリスのラプラタ侵攻(British invasions of the River Plate, 第1次1806・第2次1807、英負・ス勝利)を支援。その後、ポリフェムス号はラプラタ地域(#2)に留まり、測量と商船護衛の任務を遂行しました。

1808年にイギリスに戻ってドニゴール号(HMS Donegal, 74gn, 3,069屯)の指揮を執りました。翌年、ドニゴール号艦隊は仏ビスケー湾で3隻の仏フリゲート艦を攻撃し破壊したビスケー湾レ・サーブル・ドロンヌ沖での ”レ・サーブル・ドロンヌの海戦”(1809)に勝利しました。
”レ・サーブル・ドロンヌの海戦”
 (Battle of Les Sables-d'Olonne, 1809/2/24)勝利
・英艦隊司令官ロバート・ストップフォード少将(Rear-Admiral Robert Stopford)
No  艦 名 Ship  艦 長 Captain
1 シーザー号 HMS Caesar 3rd rate 80 チャールズ・リチャードソン Charles Richardson
2 ドニゴール号 HMS Donegal 3rd rate 74 ピーター・ヘイウッド Peter Heywood
3 ディファイアンス号 HMS Defiance 3rd rate 74 ヘンリー・ホーサム Henry Hotham
4 アメリア号 HMS Amelia 5th rate 38 フレデリック・ポール・アービー Frederick Paul Irby
5 ドッテレル号 HMS Dotterel Brig-sloop 18 アンソニー・アブディ代将 Commander Anthony Abdy

・仏艦隊司令官ピエール・ロッシュ・ジュリアン提督
1 イタリアン号 Italienne 5th rate frigate 40 ピエール・ロッシュ・ジュリアン Pierre Roch Jurien
2 シベレ号 Cybele 5th rate frigate 40 レイモン・ココー Raymond Cocault
3 カリプソ号 Calypso 5th rate frigate 40 ルイ=レオン・ジャコブ Louis-Leon Jacob


1809/5月にネレウス号(HMS Nereus)の指揮を執った後、コリングウッド提督の指揮下で地中海で短期間勤務。1810/3月にコリングウッド提督が亡くなると、提督の遺体をイギリスに持ち帰りました。その後、ネレウス号で南アメリカに航海して、そこで3年間滞在し、交易路の保護に携わりました。最後の指揮はHMSモンタギュー号(HMS Montagu, 74gn 3rd rate ship)で、1814/5月にルイ18世がフランスに帰還した時に護衛を務めました。

1816/7/16にイングランドのケント州チャタム(Chatham, #1A23)でモンタギュー号から下艦して、、ついに海から引退しました。2週間後、10年前に出会った未亡人フランシス・ジョリフ(Frances Joliffe)と44才で結婚し、ロンドン近郊のハーリンゲイ(#1H94)に定住しました。夫婦には子供がいませんでしたが、タヒチには娘メアリー・グレイ(Mary Gray)がいました。

1818/5月に代将(rank of commodore)に任じられ、カナダ湖水地方(カナディアン・レイクス)の指揮官を辞退。陸上生活に満足していたため、戦争が勃発した場合のみ新たな任務を受け入れると述べました。引退後、タヒチ語辞典を出版しました。1828年に健康状態が悪化し始め、1831/2月に提督になる前に、惜しくも58才で脳卒中を起こして亡くなりました。ハイゲート・スクール礼拝堂(Highgate School chapel)の地下室に埋葬され、2008/12/8に記念碑が建立されました。また、ハイゲート墓地(Highgate Cemetery)の西側のフランシス夫人の墓にもヘイウッド代将の名が刻まれました。

参考HP:〜
バウンティ号の航海地図
(赤:ブライ艦長のバウンティ号の反乱場所への航海地図)
(黄:クリスチャン副長指揮下での反乱後のバウンティの航海地図)
(緑:ブライ艦長のティモール島クパンへのオープンボートの航海地図)
グロワ島の場所地図
 (ブレスト南東にあるフランス沖の赤い点で示されたグロワ島)
ラプラタ川河口の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      08/1/2、令和7年 2025/12/29
スタンプ・メイツ
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