★バウンティ号 の反乱物語 |
ジョン・フライヤー航海長 1789 航海長を解任される、ボートに追放、無罪・少佐となる |
大航海物語 イギリス★ |
PITCAIRN ISLANDS ボートに追放されるフライヤー航海長たち 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
バウンティ号 英領ピトケーン 1988/5/9 発行 |
LIBERIA アフリカの南が喜望峰 リベリア 1928 発行 |
CORREOS DE CHILLE
チリ 昭和19年 1944/3/2 発行 |
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ISLE OF MAN ボートで漂流するフライヤーたち マン島 1989/8/28 発行 |
フィジー水道を抜けるブライ艦長のボート バウンティ号の反乱200年記念 英領フィジー 1989/4/28 発行 |
Bounty’s longboat being chased in Fiji waters ブライ艦長一行が乗せられたバウンティ号のボートがフィージー水道を通過しました。 |
フライヤーは1787年にバウンティ号の航海長に任命されて、同年12/23にブライ艦長のもとでポーツマス港を出帆し、一路タヒチ島へと向かいました。ところが、艦長がマゼラン海峡ではなく、ホーン岬を回航して太平洋へ抜ける航路を命じましたので、荒れ狂うドレーク海峡を無事に突破しましたが、艦長が「何故か?」、フライヤーを降格しクリスチャン航海士を副長に抜擢しました。タヒチ島で「パンの木の苗木」を積み込んだバウンティ号は1789/4/4にタヒチ島を出帆したが、4/28に反乱が起こりクリスチャン副長たちが船を乗っ取り、フライヤーは艦長と共にボートに追放されました。 |
ジョン・フライヤー (1753/8/15〜1817/5/26) John Fryer、海軍少佐 Commander ジョン・フライヤーはイングランドのノーフォーク・カウンティのウェルス港(Wells-next-the-Sea, Norfolk)で生まれ、イングランド海軍に入隊しました。1781年に航海長としてキャメル号(HMS Camel)に乗り組みました。そして、「バウンティ号の反乱」を経験した後も戦艦に常務して海軍の軍務をこなし、退役後はウェルスに戻って亡くなり、同地の教会に葬られました。彼の墓所は現在も教会にあります。 1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーションで働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられました。「パンノキの苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆するブライに与えられた船は”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募りました。フライヤーはバウンティ号航海長に34才で任命され、フレッチャー・クリスチャンは彼のもとで働く航海士に任命されました。 1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス軍港を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」といって南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、おりしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヶ月もの遅れを出したとして、航海中であるにもかかわらず、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人クリスチャン1等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中も艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。 |
バウンティ号はさらに西へ帆走して10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789年4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して脱走しようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 | タヒチ島 仏領ポリネシア 1986/8/28 発行 |
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取りブライ艦長達を1隻のボートlongboatランチ、救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。フライヤーは艦長に対して不満を持ってはいましたが、反乱には加わらず艦長と行を共にしました。 |
1789/6/12にブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフォア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人が英国に生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。 | ボートで漂流するフライヤーたち マン島 1989/8/28 発行 |
1789/6/12にブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフォア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4にフライヤーと艦長以下15人が英国に生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。 | チモール島 ポ領チモール 1956 発行 |
フライヤーはブライ艦長とともに大英帝国海軍の軍法会議に掛けられ、ブライ艦長がフライヤーに不利な証言をしたにもかかわらず、ブライ艦長の法廷では艦長に対して有利な証言をしました。判決は無罪となり、海軍に復帰しました。ブライ艦長から再び「”パンの木”の苗木を西インド諸島に運び植林する作戦を命じられた」ので、一緒に行かないかと誘われましたが断りました。そして、1790年に航海長として戦艦サンダラー号(HMS
Thunderer)に乗り組みました。 1812/4/6に海軍を退役して、故郷のウェルス港に戻りました。そして5年後の1817年に60才で波乱に富んだ一生を故郷で静かに閉じました。08/1/27 |
2層甲板軍艦 |
・フライヤー航海長:の略歴表 | |||
乗艦日 | 艦 船 名 | 職 位 | |
1781/01/20 | Master: HMS Camel | 航海長: | キャメル号 |
1787/12/07 | Master: HMS Bounty | 航海長 | バウンティ号 |
1790 | Master: HMS Thunderer | 航海長 | サンダラー号 |
1793/01/09 | Master: HMS Inconstant | 航海長 | インコンスタント号 |
1795/07/26 | Master: HMS St. George | 航海長 | セントジョージ号 |
1796/01/17 | Master: HMS Britannia | 航海長 | ブリタニア号 |
1798 | Superintendent of First Rate Division, Portsmouth |
軍管区長 | ポーツマス第一軍管区 |
1800/11/03 | Master: HMS Royal George | 航海長 | ロイヤルジョージ号 |
1801 | Commander: HMS Serrapis (storeship) | 艦 長 | 補給艦・セラピス号 |
1804 | Commander: HMS William (storeship) | 艦 長 | 補給艦・ウィリアム号 |
1806 | Commander: HMS Abundance (storeship) | 艦 長 | 補給艦・アバンダンス号 |
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |