★バウンティ号 の反乱物語 |
ジェームス・モリソン 1791 ”パンドラの箱”で地獄を見る、恩赦、砲術長で遭難死 |
大航海物語 イギリス★ |
PITCAIRN ISLANDS イギリス出帆前に物資を積み込むモリソンたち 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
バウンティ号 英領ピトケーン 1988 発行 |
St.CHRISTPHER NEVIS ANGUILLA 大砲と丸い砲弾 セント・クリストファーネヴィスアンギラ 1970 発行 |
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パンドラ号 トケラウ諸島(現NZ領) 1999 発行 |
FIJI クイーンズランド海岸の地図と 座礁したパンドラ号 ノーフォーク島 1991/8/28 発行 |
ジェームス・モリソンははバウンティ号に乗り組んで反乱に加わらずタヒチ島に置き去りにされていたのを、反乱者の捜索に来たイギリス軍艦パンドラ号に捕らえられ、「パンドラの箱」と呼ばれた牢獄に押し込められ地獄をみました。またパンドラ号が遭難したときも生き延び、イギリスに送還された後に軍法会議で死刑の判決を受けた後、恩赦で釈放されました。その後、イギリス海軍に復帰し、地中海で砲術長として活躍した後、インド方面へ向かう途中マダガスカル近海で船が遭難して船と運命を共にしました。 |
ジェームス・モリソン掌帆兵曹 (1760〜1807) James Morrison 砲術長 Master Gunner ジェームス・モリソンはイギリス・スコットランドのルイス島ストーノウェイ(Stornoway、Isle of Lewis)の住人で、彼の父は土地を商う企業家でした。18才で海軍に入り、サフォーク号(Suffolk)に書記(Clerk)で乗り組みました。次いでターマガント号(Termagant)に少尉候補生として乗り組み、ハインド号(Hind)で砲手となり、1783年に砲術長の試験に合格しました。ました。 1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーションで働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられました。「パンノキの苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆するブライに与えられた船は”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募り、モリソンも27才でバウンティ号の乗組員として志願しました。ところが、砲術長は惜しくも2日前に決まっていましたが、彼の科学的探究心から乗り組みを希望して、下位の地位ながら甲板長助手(Boatswain's Mate、掌帆兵曹)として27才でバウンティ号に乗組みました。 1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン1等航海しを副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。 |
バウンティ号はさらに西へ帆走して、10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789年4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して逃げようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 | タヒチ島 仏領ポリネシア 1986/8/28 発行 |
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかった、また、直接手は下さなかったが反乱に同調した、という説も有)13人は船に残されました。 モリソンはこの船に残された13人中の1人でした。 |
その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に移住しようと覚悟を決め、1789年9月に23人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、8人の反乱者と原住民を連れて島を後に出帆してしまいました。 残された元乗組員はヘイウッドの指揮のもとで、タヒチ島の部族紛争を解決し、島の統一に貢献して平和に暮らしながら、モリソンはオランダ領東インドのバタヴィアに渡りイギリスへ帰ろうと思い、密にスクーナー船の建造に取り掛かりました。 |
タヒチの女(浜辺にて) ゴーギャン 1891年作オルセー美術館蔵 仏領ポリネシア 1958/11/3 発行 |
8ヵ月の苦労の後に船がほとんど完成したので、信頼できる数人に話しました。出来上がるとレゾリューション号(Resolution)と命名し、こんどは海水から食料保存用の塩の生成にとりかかり、何日も海水を沸騰させました。そして塩漬け豚肉を入れる樽も造りました。準備完了しましたが、船出には失敗しました。それというのも航海道具の六分儀や海図とかが無く、しかも十分な飲料水をつめなかったからでした。そうこうしているうちに・・・・・ |
1789/6/12にブライ艦長が指揮するボートは、海図無しで艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行し、トンガのトフォア島を経由して45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島に着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15人がイギリスに生還できました。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。ブライ艦長たちの報告を聞いたイギリス海軍は反乱者達を探すためフリゲート艦パンドラ号を派遣することを決定しました。1790年11月に軍艦パンドラ号はバウンティ号の捜索のためにイギリスを出帆し、1791年3月にタヒチ島に到着し、タヒチ島にいたモリソン他の叛徒を「海賊の極悪人」として3/29に逮捕しました。パンドラ号には牢がなかったので、クォーターデッキ(後甲板)に | タヒチ島に到着したパンドラ号 ノーフォーク島 1991/8/28 発行 |
「パンドラの箱」とあだ名される木造の箱で臨時の牢獄を造り,手かせと足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監しました。その箱は換気が悪い上に直射日光が当たり、それはもうサウナに閉じ込められているのと同じで、赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちて、地獄の状態だったと伝えられています。モリソンたちはその中に4ヵ月間も閉じ込められました。パンドラ号はその後も3ヵ月ものあいだ副長たちを探しましたが、ようとして行方が解らず、1791/8/30にオーストラリア近海のトレス海峡近くクイーンズランド海岸で座礁沈没してしまいました。この時に叛徒3人が水死しました。遭難後に4隻のボートにモリソン他98人が分譲し、15日間の漂流後にチモール島に着きました。 | クグレートバリアリーフの地図と 座礁したパンドラ号 ノーフォーク島 1991/8/28 発行 |
レゾリューション号は艦長が手土産代わりにチモール島オランダ指令官に贈呈しました。叛徒はオランダ東インド会社の帆船でバタビアに連行されました。そこからイギリス軍艦ゴーゴン号(HMS Gorgon)でケープタウン経由で、モリソン他の叛徒は本国送還となり、1792年6月にイングランドに到着しました。同年の軍法会議で10人の内3人が絞首刑となり、モリソンは1792/9/18に軍法会議で死刑の判決が言い渡されました。国王のお慈悲で刑は執行されず、ターマント号のスターリング艦長(Captain Stirling of the Termagant)の命乞いの嘆願書でピーター・ヘイヲッドと共に10/26に許されて釈放されました。モリソンは獄中で「バウンティ号の航海とタヒチ島の風習」という本を書きました。 | チモール島 ポ領チモール 1956 発行 |
その後、モリソンは大英帝国海軍に復帰し、砲術長の位(the rank of Master Gunner)になることが出来て、地中海方面の艦隊作戦で活躍しました。そしてプリマスの海軍術科学校で砲術教官(gunnery instructor)を勤めました。 サー・ツルーブリッジ艦長の戦艦ブレンハイム号(Sir Thomas Troubridge in the Blenheim)に砲術長として乗り組み、インドのマドラス(Madras)を1807/1に出帆してケープ・タウンに向かう途中で大嵐(サイクロン cyclone)に遭遇、同年マダガスカル近海で軍艦が沈没し、全乗組員が船と運命を共にし、モリソンも47才で亡くなりました。 |
嵐で遭難するイギリス軍艦 |
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・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/2/10 |