★バウンティ号 の反乱物語 |
ウィリアム・ブラウン 1789 「バウンティ号の反乱」、植木職だった |
大航海物語 イギリス★ |
PITCAIRN ISLANDS バウンティ号で「パンの木の苗木」を手入れする植木職ブラウン 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
バウンティ号 英領ピトケーン 1988/5/9 発行 |
PITCAIRN ISLANDS タヒチ島で「パンの木の苗木」を採集するブラウンたち 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
パンの木の苗木と実 英領ピトケ−ン諸島 発行 |
|
|
|
PITCAIRN ISLANDS ピトケ−ン島 ピトケーン 1969/9/17 発行 |
PITCAIRN ISLANDS 太平洋でのタヒチ島とピトケーン島の位置(中央付近) ノーオーク、フィジー、トンガ、サモア、タヒチ、ピトケーン、イースターの島々 英領(ジョージ6世)ピトケーン 1940-51 発行(200%) |
ブラウンは「るいれき」の傷跡で醜い顔になり嫌らわれていましたが、植木職人としての技術磨きキューガーデンで働いていました。1787年にバウンティ号に乗り組みタヒチ島へ到着後、「パンの木の苗木」を積み込む仕事に打ち込み、バウンティ号が1789/4/4にタヒチ島を出帆し、4/28に反乱が起こりクリスチャン副長たちが船を乗っ取りました。その時ブラウンは闘いませんでしたが、反乱者と共にタヒチ島へ戻り、副長たちと共にピトケーン島へ移住しました。ピトケーン島での反乱に巻き込まれて、32才で殺害されました。 |
ウィリアム・ブラウン (1761頃〜1793/10/?) William Brown ウィリアム・ブラウンはイングランドのレスターシャー(Leicestershire, England)で生まれました。身長160cm、細身、暗い茶髪で、瘰癧(るいれき、Scrofula、リンパ腺結核)の傷跡が顔にあって、ことに瞼が片ホホに垂れ下がって喉に達するという、それはひどい顔をしていました。26才の時にキューガーデン(Kew Gardens、王立植物園)で植物学者・園芸家として働いていましたが、著名な植物学のネルソン(David Nelson)の推薦で「植木の輸送」に行くことになりました。 1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーションで働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられ、「パンの木の苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆する艦長に”バウンティ号”(HMAV Bounty)が与えられ、ブラウンは英国植物学協会の推薦で、バウンティ号に乗り組みました。 1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。ジョン・フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン1等航海しを副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタルがその横柄で反抗的な態度に、艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。航海中のブラウンは静かで行儀よくしていましたが、ただ、リューマチの痛みと、軽い壊血病(scurvy)の症状が出てからは、仕事をサボっているとて服務規律違反の罰として、艦長に酒(grog)の配給を停止されました。だが、他の乗組員のような「鞭打ちの刑」は免れました。 バウンティ号はさらに西へ帆走して、出帆から10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。着いてからのブラウンは”パンの木の苗木”を採集してきては、植木鉢に入れる仕事に没頭しました。それから約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、ブラウンは植物の世話に専念し、忙しく働きました。イングランドであれhど忌み嫌われていたブラウンの顔は、ここでは顔の傷跡は勇者の印として受け入れられました。またブラウンは、彼の植木職の技術はかけがえの無いものとして、タヒチ島のポリネシア人たちに高く評価され尊敬されていることが良くわかりました。 |
その上に女性からの眼差しはイングランドのそれとは比べものにならないほど好意的なもので、彼はテアヒツアヒテア(Teatuahitea)と結婚しました。クリスチャン副長もタヒチの女性と結婚し、その他の多くの乗組員達も現地生活を楽しみました。島での約6ヵ月間の生活は水夫たちにしてみれば楽園だったのでした。水夫の多くは短気なブライ艦長と再び航海に出るのをますます嫌うようになりました。3人の水夫が仕事を放棄して逃げようとしたため、ブライ艦長は鞭打ちの刑を科しました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。 | タヒチの女(浜辺にて) ゴーギャン 1891年作オルセー美術館蔵 仏領ポリネシア 1958/11/3 発行 |
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボートlongboatランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。出帆当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長など12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。ブラウンは武器を取っての戦いはしませんでしたが、この反乱者12人の中の一人として行を共にしました。 その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗しましたので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に定住しようと覚悟を決め、1789年9月に23人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、17人のタヒチ人男女(男6人、女11人)を連れて、隠れ住むための未知の無人島探しの航海へとタヒチ島を後に、ブラウンも一緒に出帆しました。1790/1/15にブラウンたちは絶海の孤島で、イギリス海軍の海図にも正確には載っていない無人島”ピトケーン島”にたどり着きました。ピトケーン島に到着した後、入植者の間でバウンティ号を破壊するかどうかの議論がおき、議論している間に、クィンタルが船を燃やしたと言われています。 3年後の1793年10月に元乗組員と、一緒に連れて来た4人のタヒチ(ポリネシア)人の男との間で殺し合い(反乱)が起こり、クリスチャン副長を含めた5人の元乗組員とタヒチ人の男全員が殺されました。ブラウンも巻き込まれて32才で殺害されました。彼は結婚はしていましたが子供ができず、ピトケアン島に住み着いてからは短い人生を送りました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/1/319 |