★オランダ |
南アフリカ・ケープタウン 1652 喜望峰へ入植 |
大航海物語★ |
SOUTH AFRICA−SUID AFRIKA | ||
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オランダ船・ドロメダ号 | オランダの船団 | オランダ人のケープ上陸 |
南アフリカ 1926 発行 | 南アフリカ 1952/3/14 発行 | |
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ケープ・タウン→ 喜望峰→ アグラス岬→ |
Bophuthatswana アフリカ大陸南端の地図 ボツワナ 1991/9/12 発行 |
LIBERIA アフリカ南端が喜望峰 リベリア 1928 発行 |
・オランダ人の南アフリカのケープ(喜望峰)への入植 1647年3月のある日、喜望峰を回って本国へ帰るオランダ船団の中の1隻「ハーレム号」がテーブル・ベイの北方でたまたま運悪く座礁してしまいました。座礁した船には数多くの高価な商品が満載されていたため、船団長は乗組員のレンダード・ヤンセン以下58名に対しこれらの商品を守って、翌年の本国向けオランダ船の到来を待つように指示を与えました。こうして彼らは今日のケープタウン北方のリートフレイ近辺に砦を築き、年を越すはめになりました。彼らは原住民と取り引きを行ったり、テーブルベイ近辺の様子を視察してまわり、翌年にアジアから本国へ帰る船に拾われて無事に本国へ戻りました。たまたまその船の中にいたのが、長崎の出島勤務時代に闇取り引きの嫌疑をかけられ、本国召還処分とされたヤン・ファン・リーベックでした。 オランダ東インド会社は、ヤンセンにテーブルベイ付近の状況に関する報告書を提出させました。この報告書に基づきオランダの東インド会社は、テーブルベイ近辺の気候・風土が食料補給地として適していると判断し、ケープ入植を決定しました。入植の指揮官の人選にあたっては、若いヤンセンは見送られ、リーベックに白羽の矢が立ちました。彼は再びアジアで勤務する夢を捨てきれれず、そのための踏み台としてケープ入植の指揮官職に自ら応募していたのです。 1488年ポルトガル人のバーソロミュー・ディアス船長がアフリカ大陸最南端(本当の最南端はアグラス岬)の喜望峰を発見し、1497年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパ人としては初めてナタール(現南アフリカ連邦)へ足を踏み入れましたが、その地に入植したのは1652年(1651年説有)にリーベック率いるオランダ人でした。 では、なぜオランダ人は南アフリカに来たのでしょうか? それはオランダ東インド会社がアジア貿易の中継地とするためにケープタウンのテーブル・マウンテンの麓に要塞を築いたからなのでした。そして、1652年が南アフリカ連邦の国家起源となったのでした。 1910年、日本の白瀬中尉が南極探検の途上に来訪、越冬。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/3/25追記 |