United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 帆船大航海 (Sailing Ships
Great Voyages)
パンドラ号の遭難 1791 バウンティ号の反乱者を捜索中に座礁 |
大航海物語 イギリス編★ |
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トケラウ諸島のヌクノヌ島とパンドラ号 トケラウ諸島 1970 発行 |
クイーンズランド海岸の地図と 座礁したパンドラ号 ノーフォーク島 1991/8/28 発行 |
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・パンドラ号 HMS Pandora, 24-gun frigate of the Royal Navy、134men (1779/5/17〜1791/8/29座礁、翌日沈没) パンドラ号は1779年ロンドンで進水・就航し、アメリカ独立戦争中(1775-1783)は北米方面に配備されていましたが、1783年にフナクイムシ対策の防虫剤加工のため、帰国しドック入りしました。 パンドラ号は、1790/3/15にバウンティ号のブライ艦長達がイギリスに戻って反乱を報告したので、バウンティ号の捜索のために派遣されることになりました。パンドラ号(エドワード・エドワーズ艦長、1742-1815)は1790年11月にイギリスを出帆しました。 |
1791/3/23、タヒチ島に到着し、14人の元バウンティ号乗組員(大部分は非反乱者)を逮捕し、1791/5/8に反乱者を収監してタヒチ島を出帆しました。パンドラ号には牢がなかったので「パンドラの箱」とあだ名される臨時の牢獄を造り,足に鉄の鎖をして反乱者たちを収監していました。赤道直下での窓のない「箱の中」は強烈な熱さと異臭に満ちていたと伝えられています。 | タヒチ島に到着したパンドラ号 ノーフォーク 1991 発行 |
パンドラ号は、1791/6/12にトケラウ諸島のヌクノヌ島(Nukunonu,Tokelau)を発見してクラレンス公爵島(Duke of Clarence's Island)と名付けて上陸しました。 |
パンドラ号は、その後もバウンティ号の捜索を3ヵ月ものあいだ副長たちを探しましたが、ようとして、行方が解らず、オーストラリアのグレートバリアリーフ(Great Barrier Reef)から、トレス海峡(Torres Strait)へ向けて航海中の、1791/8/29にグレートバリアリーフ近くのクイーンズランド海岸で、暗礁に乗り上げ座礁・難破し、翌8月30日に沈没してしまいました。 |
座礁したパンドラ号 ノーフォーク 1991 発行 |
難破したパンドラ号の乗組員は、パンドラ号の31人と4人の囚人が水死しました。1792年7月と8月に135人の内、78人と10人の囚人が4隻のボートに分譲して漂流すること15日後にチモール島に到達しました。囚人は別の軍艦で本国送還となり、パンドラ号に代わって反乱者(10人)を収監したゴルゴン号(HMS Gorgon、44 gun 5th rate frigate、911t)が、1792/6/19ポーツマスに到着しイギリスに戻りイギリスへ帰国できました。 | チモール島 ポ領チモール 1956 発行 |
1792/8/12デューク号にて軍事裁判が開始されました。1792年に軍法会議で10人の内、4人が無罪放免、2人が有罪でも恩赦、1人が法的手続の問題で釈放され、3人が絞首刑になりました。その後、パンドラ号のエドワード艦長と士官達はヘクター号(HMS
Hector、74-gun ship)での軍法会議にかけられましたが、無罪・放免となりました。 |
約200年後の1977年に難破したパンドラ号が発見され、その残骸が引き上げられて、オーストラリアのクイーンズランド博物館(Museum
of Tropical Queensland)のパンドラ・ギャラリー(Pandora
Gallery)に展示されました。 参考地図HP:〜 ・トレス海峡、 ・トケラウ諸島 ・グレートバリアリーフ 2007/4/20追記 |
難破船の遺品の調査 ノーフォーク 1991 発行 |
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・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和6年 2024/2/26 |