United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 海戦物語(Naval Sea Battles)
栄光の6月1日海戦 1794/6/1 Glorious First of June |
France 国連 1980 発行 |
大航海物語 海戦編★ |
フランス海軍 |
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2本マスト・スクーナー艦 Scooner(Goelette) |
2本マスト・コルベット艦 Corvette |
Frigate 36 canons 3本マスト・フリゲート艦:36門艦 |
Le vaisseau de 74 canons 3本マスト・戦列艦:74門艦 |
・栄光の6月1日海戦 (1794/6/1) Glorious First of June、フランス革命戦争中の海戦。 (Order of battle at the Glorious First of June) 場所:ウェサン島沖西方400海里の大西洋上 結果:イギリスの戦術的勝利、フランスの戦略的成功 栄光の6月1日海戦はイギリス(大ブリテン王国:Kingdom of Great Britain)と第一共和政下(First French Republic)のフランスとの間で行われた、フランス革命戦争(French Revolutionary Wars)における最初にして最大の海戦。別名、第3次ウェサン島の海戦(Third Battle of Ushant)、あるいはフランス語で革命暦2年プレリアル(牧草月)13日の海戦(Bataille du 13 prairial an 2)、又は単にプレリアルの海戦(Combat de Prairial)ともいわれています.。フランス大革命(1789/7/14)の勃発で、1793/1/21のルイ16世(Louis XVI 1754/8/23-1793/1/24)の処刑はヨーロッパ諸王国に危機感を抱かせ、その革命が自国に飛び火することを恐れた近隣諸王国は対仏大同名(第1次:First Coalition 1793-1797、第2次:1798/12/24-1801、第3次:1805/4/11-1806、第4次:1806/10/6-1807/7/7、第5次:1809/4/9-1809/10/14、第6次:1812-1814等)を結成してフランスを封鎖したので、フランスの食料事情が悪化し、穀物収穫の失敗とも重なって、飢餓が襲ってきつつありました。フランスがそれを解決するには、海外の植民地の食料を海上から輸送する以外には道はありませんでした。これを海上から阻止しようとしたイギリスとの間で、英仏海峡からビスケー湾(Bay of Biscay)や大西洋で英仏の両国艦隊が激突しました。 英仏両国艦隊の事情:〜 イギリスとフランス両国の海軍は、1794年時点で非常に異なる段階にありました。数的にはイギリス艦隊が優位に立っていたのですが、フランス艦はより大きく、より強く、重い砲を備えており、フランスの1等級艦は三層甲板に110〜120門の砲を備えていたのに対し、イギリス艦は最大のものでも100門艦でした。しかし、士気や要員配置や規律は1794年の春では、海軍力にも影響を及ぼしていました。 イギリス海軍(Royal Navy)の事情 1790年のスペイン戦備から3年以上に渡って、イギリス海軍は海上行動の準備が整った状態にありました。海軍大臣(First Lord of the Admiralty)チャールズ・ミドルトン(Admiral Charles Middleton, 1st Baron Barham PC 1726-1813)の下の広範囲な準備によって、海軍の造船所はフル稼働し、戦争の準備は整っていました。それは10年前のアメリカ独立戦争(American War of Independence 1775/4/19〜1783/9/3)の時の失敗から学んだ教訓でした。1794年の春にはフランスの護送船団(Covoy)がヨーロッパ海域に到着するのに対して、英のリチャード・ハウ提督(Admiral of the Fleet Richard Howe, 1st Earl Howe KG 1726-1799)は彼の艦隊(British Channel Fleet)を3つのグループに分けました。第1番目の艦隊は戦艦ヘクター号のジョージ・モンタギュー提督(Admiral Sir George Montagu 1750-1829)には戦列艦6隻とフリゲート艦2隻で、東インド、西インド、ニューファンドランド島へ行く護送船団をフィニステレ岬まで護衛する任務を与えました。第2番目の艦隊は戦艦サフォーク号のピーター・レーニア提督(Admiral Peter Rainier, Jr. 1741-1808)には戦列艦6隻を与えて残りの船団を護衛することにしました。第3番目の艦隊はハウ提督が直率する戦列艦26隻と数隻の支援艦でした。彼らは、到着するフランス船団をビスケー湾で待ち受けることにしました。 フランス海軍(French Navy)の事情 イギリスと対照的に、フランス海軍はフランス革命後の余派で混乱のさなかでした。艦隊の船の品質は高かけれど、艦隊の指揮系統は5年前(1789)の革命の開始以来フランス全体に及んだものと同じ危機で、船と兵器の質の高さは、それを使用する乗組員の質と全く対応しておらず、兵員はほとんどが訓練不足で未熟でした。恐怖政治は多くの熟練した水夫と士官の死や追放に帰結し、政治的な理由で任命された士官や徴兵された兵(その多くはまったく海に出たことがなかった)が大西洋艦隊を満たしていました。この問題を抱えた艦隊の司令官に新たに任命されたのは、アメリカ独立戦争(1775-1783)の時にインド洋でアンドレ・ドゥ・サフレン艦隊にいた提督ルイ・トマス・ヴィラレー・ドゥ・ジョワイユーズ中将(Vice-Admiral Louis Thomas Villaret de Joyeuse 1750-1812)でした。彼は高度な戦術的才能を備えていることを実証していまいたが、効率的に戦うことの出来る新しい将校団を形成しようとする試みは、新たに任命されたもう一人の人物に絶えず妨げられました。それは、国民公会(National Convention)が代理として送り込んだジャン=ボン・サン=アンドレ(Jean Bon Saint-Andre 1749-1813)という男で、その任務は艦隊と提督それぞれの、革命への熱意の程を国民公会に直接報告することでした。彼はしばしば戦略の立案や作戦の実行に口を挟みました。もっとも、こうしたジョワイユーズ提督の悩みの一方で、サン=アンドレのパリへの報告は定期的にル・モニトゥール紙(Le Moniteur)に発表され、国内での海軍の大衆化に大いに役立ちました。 栄光の6月1日海戦(Glorious First of June) ハウ提督の率いるイギリス海峡艦隊(British Channel Fleet)が新大陸のアメリカ合衆国から航海してきた、きわめて重要なフランスの食料(穀物)輸送船団の通過を阻もうとしました。その船団はジョワイユーズ提督が指揮するフランス大西洋艦隊(French Atlantic Fleet,)によって護衛されていました。両軍はフランス領のウェサン島の西400海里(約740km)の大西洋上で激突しました。その海戦は、1794/5月にビスケー湾で繰り広げられた一連の海戦の頂点に達しました。それまでは両軍とも多数の商船や小型軍艦を捕獲して、別々の、しかし決定的でない戦いを進めていましたが、1794/6/1の海戦は両方の艦隊に更なる戦闘を行うことができないような甚大な影響を与えました。両軍ともそれぞれ勝利を主張し、7隻の戦列艦を失ったにもかかわらず、ジョワイユーズ提督は食用料(穀物)輸送船団を安全に目的地に航海させる十分な時間を稼ぐことができました。しかし一方、イギリス艦隊に以後の封鎖作戦を行う余力を残してしまったことで、彼は艦隊を港に留め置かざるを得ないことになりました。 1794年の春にピエール・ヴァンスタブル少将(Rear-Admiral Pierre Vanstabel 1744-1797)はフランス大西洋艦隊の2隻の戦列艦を含む5隻を率いて、待望久しいアメリカからの食料(穀物)輸送船団を迎えるためにアメリカ東部沿岸まで出向いていました。ジョセフ=マリー・ニエリ少将(Rear-Admiral Joseph-Marie Nielly 1751-1833)は、5隻の戦列艦と随伴の艦を率いてロシュフォール港(Rochefort, Charente-Maritime:シャラント=マリティーム県)を出帆し、輸送船団との会合のために中部大西洋まで進出しました。ジョワイユーズ提督は25隻の戦列艦とともにブレスト港(Brest)に残り、ハウ提督のイギリス艦隊の脅威と対峙していました。 フランスの護送船団はフランスの海外植民地で生産される食料を全て新大陸バージニア州南東部チェサピーク湾のハンプトン・ローズ(Hampton Roads、Chesapeake Bay)に集められる商船に船積みし、さらにアメリカ合衆国からも食物と商品を購入して船積みした商船隊を護衛するというものでした。1794/4〜5月に商船隊は護送船団(Cnvoy)を構成し、フランス大西洋艦隊の護衛の下、フランスのブレスト港まで大西洋を横断航海して行くことになりました。仏のヴァンスタブル提督艦隊によって護衛されたフランス護送船団は1794/4/2に新大陸バージニアを出帆。そして英のハウ提督艦隊は5/2に西方航路(Western Approaches)を行くイギリス船団を護衛しつつ、フランス船団を捕捉するために、全艦隊を率いて英国ポーツマスから出帆。仏のジョワイユーズ提督艦隊が未だブレスト港にいることを確認したハウ提督艦隊は、仏の輸送船団を求めてビスケー湾を捜すことに2週間を費やして、5/18にブレスト港に戻り、ジョワイユーズ艦隊が前日に出帆したことを知り、ハウ提督艦隊は大西洋の奥深くジョワイユーズ艦隊を追跡。この時、海上にはフランスのニエリ艦隊とイギリスのモンタギュー艦隊もいて、それぞれ若干の戦果を上げました。ニエリ艦隊は5月の第2週、大西洋の奥深くで仏の輸送船団に出会いました。英のモンタギュー艦隊が実りのない南方の捜索を行っている間に、ニエリ艦隊は船団を護送してヨーロッパに近づいいていました。 5/28にハウ提督艦隊はジョワイユーズ提督艦隊を捕捉し、フランス艦隊を2分しょうと決戦を挑みましたが、ジョワイユーズ提督艦隊は哨戒していたフリゲート艦から輸送船団が間近にいることを聞いて、自分の艦隊をあえて西に移動させ、それにつられてハウ提督が極めて重要な輸送船団から離れるように仕向けました。それに乗ったハウ提督は翌日も攻撃を続けましたが、ロドニー提督がセインツの海戦(Battle of the Saintes 1782-1782)でとった戦法ではなく、フランス艦隊を2分するという画期的な試みは、ハウ提督艦隊の先頭艦である戦艦シーザー号(HMS Caesar)が命令の遂行に失敗したためにうまくいきませんでした。双方ともに大きな損害を出しましたが、決定的な戦いとはならず、どちらも勝敗を確認することなく分離しました。続く2日間は濃霧のために戦いは無く、1794/6/1に霧が晴れた時、両艦隊の戦列の間隔はわずか6マイル(10km)で、ハウ提督には決戦の用意が出来ていました。2つの艦隊は長距離での発砲を開始、フランス艦隊に突撃した艦の多くは、さしたる損害なく近接戦闘を開始。海戦の結果は、フランスの犠牲者が約3,000人の捕虜を含めておよそ7,000人であるとされています。イギリスの犠牲者数は合計で約1,200人とされています。 5月の巡航の後、イングランドに帰国してポーツマス港で修理と補給を受けつつ海に出る機会を待っていた10隻の戦列艦からなるモンタギュー艦隊は6/3に出帆し、フランス艦隊か、ハウ艦隊を求めて、6/8にはウェサン島沖に進出。6/8の15時30分にモンタギュー艦隊は帆影を見つけて、すぐに敵であることを確認。それはコルニク提督(Admiral Pierre-Francois Cornic)艦隊であり、同じく輸送船団と帰還する艦隊を探しているものでした。モンタギュー艦隊はコルニク艦隊を追跡してビスケー湾に追い込み、翌日の海戦を期待して一晩中フランス戦隊を封鎖。6/9にモンタギュー艦隊は西方にジョワイユーズ提督艦隊の残存戦列艦19隻を発見し、急いで回頭して2つの艦隊に挟撃されて圧倒されることを避け、南に避退しました。するとジョワイユーズ提督艦隊とコルニク艦隊は1日かけて追跡し、その後東に転身して安全なフランスの港を目指しました。モンタギュー艦隊が避退して、ジョワイユーズ提督艦隊とコルニク艦隊が思いがけず南にモンタギュー艦隊を追跡している隙に、ハウ提督艦隊は苦もなくウェサン島を通過して6/12にプリマス沖に到着、そして間もなく、モンタギュー艦隊と合流しました。ジョワイユーズ提督艦隊とコルニク艦隊はその前日にフィニステレ岬近くのベルソーメ湾(Bertheaume Bay)に投錨するも、サン=アンドレは共和制に対する市民の態度を確認するまでブレストへ港への入港を許可しませんでした。アメリカからの輸送船団は6/12にフランス沖に到着、喪失は嵐による1隻だけでした。 イギリスもフランスも、この海戦の勝利を主張し、イギリスは終始戦場の主導権を握りつつ、1隻も失わずにフランス艦7隻を捕獲または撃沈しました。フランスは必要不可欠な輸送船団を、重要な損失なく大西洋を通過させフランスに到着させました。2つの艦隊は、それぞれの国において賞賛と批判を浴びることとなり、批判は戦いにあまり貢献したと思われない艦長に向けられたものでした。イギリス艦隊はスピットヘッド泊地(Spithead:イングランド南部、ハンプシャー州のソレント海峡(イギリス本土とワイト島の間の海峡)の東側、ギルキッカー・ポイント沖にある停泊地。ポーツマス軍港の港外に当たり、国王が艦隊を観閲する観艦式が行われる場所でもある)へのジョージ3世国王(George III :George William Frederick 1738-1820)と全王族の訪問という栄誉を受けました。戦い終わってイギリスではジョージ3世国王がハウ提督にガーター勲爵士授与を考えましたが実現しませんでした。フランではジョワイユーズ提督が中将に昇進し、大革命(1789)後に海軍に復帰して(ブレスト港にいた?)いたケルグレン提督が、ジョワイユーズ提督が戦隊を再編成した後に、戦いを再開しなかったことに憤りを覚えており、ハウの艦隊の残存艦に戦いを挑んでいれば戦略的成功のみならず戦術的にも大きな成果を収めていただろうと考えていたという説もあります。 6月1日の参戦艦:(1794/6/1):〜両軍の艦隊編制
提督トーマス・パスレイ少将(Rear-Admiral Thomas Pasley)の旗艦 ウィリアム・ホープ艦長(Captain William Johnstone Hope) ・ロイヤル・サブリン号(HMS Royal Sovereign First rate)100門、戦死14/傷44、マストと帆装を損傷 提督トーマス・グレイヴス少将(Vice-Admiral Thomas Graves) ヘンリー・ニコルス艦長(Captain Henry Nicholls) ・マールバラ号(HMS Marlborough Third rate):74門、戦死29/傷80、全マスト喪失 ジョージ・バークリー艦長(Captain George Cranfield-Berkeley) ・ディフェンス号(HMS Defence Third rate):74門、戦死17/傷36、全マスト喪失 乗組員:650人 ジャームス・ガンビエール艦長(Captain James Gambier) (中央戦隊〜11隻) ・インプレグナブル号(HMS Impregnable Second rate):98門、死7/傷24、マストと帆装を損傷 提督ベンジャミン・コールドウェル少将(Rear-Admiral Benjamin Caldwell) ジョージ・ウェストコット艦長(Captain George Blagdon Westcott) ・トレメンダス号(HMS Tremendous Third rate):74門、死3/傷8 ジェームス・ピゴット艦長(Captain James Pigott) ・バーフラー号(HMS Barfleur Second rate):98門、死9/傷25 提督ジョージ・ボウヤー少将(Rear-Admiral George Bowyer) カスバート・コリングウッド艦長(Captain Cuthbert Collingwood) ・インヴィンシブル号(HMS Invincible Third rate):74門、死4/傷10 トーマス・パケンハム艦長(Captain Thomas Pakenham) ・カローデン号(HMS Culloden Third rate):74門、戦死2/傷5 アイザック・ションバーグ艦長(Captain Isaac Schomberg) ・ジブラルタル号(HMS Gibraltar Third rate):80門、戦死2/傷12 トーマス・マッケンジー艦長(Captain Thomas Mackenzie) ・クイーン・シャーロット号(HMS Queen Charlotte First rate):100門 提督ハウ卿(Admiral Lord Howe)の旗艦 艦長ロジャー・カーティス卿(Captain Sir Roger Curtis) 艦長アンドリュー・ダグラス卿(Captain Sir Andrew Snape Douglas) 戦死13/傷29、マストと帆装を大破 ・ブランズウィック号(HMS Brunswick Third rate):74門 ジョン・ハーヴェー艦長(Captain John Harvey)、戦死 ウィリアム・クラックラフト海尉(Lieutenant William Edward Cracraft) 戦死45/傷114、ミズンマスト喪失/その他マストと帆装を大破 ・ヴァリアント号(HMS Valiant Third rate):74門、戦死2/傷9 トーマス・プリングル艦長(Captain Thomas Pringle) ・オライオン号(HMS Orion Third rate):74門、戦死2/傷24、マストと帆装を小破 ジョン・ダックワース艦長(Captain John Thomas Duckworth) ・クイーン号(HMS Queen Second rate):98門 提督アラン・ガードナー少将(Rear-Admiral Alan Gardner) 戦死14/傷40、メンマスト喪失/その他マストと帆装を損傷 (後衛戦隊(本隊)〜7隻) ・ラミリーズ号(HMS Ramillies Third rate):74門、戦死2/傷7 ヘンリー・ハーヴェイ艦長(Captain Henry Harvey) ・アルフレッド号(HMS Alfred Third rate):74門、戦傷8 ジョン・バゼリー艦長(Captain John Bazely)
アルベマール・バーティ−艦長(Captain Albemarle Bertie) (フリゲート〜7隻) ・フェートン号(HMS Phaeton Fifth rate):38門、戦死3/傷5 ウィリアム・ベンティンク艦長(Captain William Bentinck) ・ラトーナ船(HMS Latona Fifth rate):38門、 エドワード・ソーンブロー艦長(Captain Edward Thornbrough) ・ナイジャー号(HMS Niger Fifth rate):36門 アーサー・レギー艦長(Captain Arthur Kaye Legge) ・サウサンプトン号(HMS Southampton Fifth rate):36門 (Captain Robert Forbes) ・ヴィーナス号(HMS Venus Fifth rate):36門 ウィリアム・ブラウン艦長(Captain William Brown) ・アキロン号(HMS Aquilon Fifth rate):36門 ロバート・ストップフォード艦長(Captain Robert Stopford) ・ペガサス号(HMS Pegasus Sixth rate):28門 ロバート・バーロー艦長(Captain Robert Barlow) (その他) ・シャロン号(HMS Charon)、病院船(Hospital ship):非武装 ジョージ・カウンテス艦長(Captain George Countess) ・コメット号(HMS Comet):14門、火船(Fireship) ウィリアム・ブレッドリー艦長(Commander William Bradley) ・インセンディアリー号(HMS Incendiary):14門、火船(Fireship) ジョン・クーク艦長(Commander John Cooke) ・キングフィッシャー号(HMS Kingfisher):18門、スループ艦(Sloop) トーマス・ル・マーチャント・ゴッセイリン艦長(Captain Thomas Le Marchant Gosseyln) ・ラトラー(HMS Rattler):16門、カッター船(Cutter) 艦長ジョン・ワイン大尉(Lieutenant John Winne) ・レンジャー号(HMS Ranger):16門、カッター船(Cutter) 艦長チャールス・コトグレーヴ大尉(Lieutenant Charles Cotgrave) (死傷者合計:953、戦死953、負傷724人) (支援艦隊)〜モンターギュ提督艦隊(Admiral Montagu's squadron) ・ヘクター号(HMS Hector Third rate):74門 提督ジョージ・モンターギュ少将(Rear-Admiral George Montagu) ローレンス・ハルステッド艦長(Captain Lawrence Halstead) ・アレクザンダー号(HMS Alexander Third rate):74門 リチャード・ブライ艦長(Captain Richard Bligh) ・ガンゲス号(HMS Ganges Third rate):74門 ウィリアム・トラスコット艦長( Captain William Truscott) ・コロッサス号(HMS Colossus Third rate):74門 チャールス・ポール艦長( Captain Charles Pole (追加支援:6/4) ベローナ号(HMS Bellona Third rate):74門 ジョージ・ウィルソン艦長(Captain George Wilson) ・ザセウス号(HMS Theseus Third rate)74門 ロバート・セルダー艦長(Captain Robert Calder) ・アロガント号(HMS Arrogant Third rate):74門 リチャード・ルーカウ艦長(Captain Richard Lucas) ・ミノタウル号(HMS Minotaur Third rate):74門 トーマス・ルイス艦長(Captain Thomas Louis) (追加支援:6/4) ・ルビー号(HMS Ruby Third rate):64門 艦長リチャード・ビッカートン卿( Captain Sir Richard Bickerton ・パラス号(HMS Pallas Fifth rate):32門 ヘンリー・カーゾn艦長(Captain Henry Curzon) ・コンコード号(HMS Concorde Fifth rate):36門 艦長リチャード・ストレッチャン卿(Captain Sir Richard Strachan) (レーニア提督船団(Admiral Rainier's convoy)の護衛艦隊) ・サフォーク号(HMS Suffolk Third rate):74門 ピーター・レーニア提督(Admiral Peter Rainier) ・フィリゲート艦(Frigates Third rate):64門、 4〜5隻
ルイ・エルエリティエール艦長(Captain Louis L'Heritier) 捕獲された後:イギリス艦インペテューズ号(HMS Impetueux)となる ・テメレール号(Temeraire Third rate):74門、損失不明 モーレル艦長(Captain Morel)、ニーリー艦隊からの支援艦 ・テリブル号(Terrible First rate):110門、損失不明19、メイン&ミズンマスト喪失 フランシス・ボーヴェスト少将(Rear-Admiral Francois Joseph Bouvet)の旗艦 ピエール=ジャック・ロンガー艦長(Captain Pierre-Jacques Longer) ・アンペティユー号(Impetueux Third rate):74門、死100(含艦長)/傷85、全マスト喪失・捕獲 ドゥーヴィル艦長(Captain Douville)、捕獲後ドックヤードの火災で焼失 ・ミュシュース号(Mucius Third rate):74門、損失不明、全マスト喪失 ラムリー艦長(Captain Larregny) ・トゥールヴィル号(Tourville Third rate):74門、損失不明 ラングロリス艦長(Captain Langlois) ・ガスパラン号(Gasparin Third rate):74門、損失不明 ターディ艦長(Captain Tardy) ・コンヴェンシオン号(Convention Third rate):74門、損失不明 ジョセフ=アラーリー艦長(Captain Joseph-Allary) ・トレント・エ・アン・メー号(Trente-et-un-Mai Third rate):74門、5/31の支援艦 オノール・ガンチューム艦長(Captain Honore Ganteaume) 損失不明、マストおよび帆装大破(Extensive damage) ・ティラニシード号(Tyrannicide Third rate):74門、損失不明、マストおよび帆装大破 アラン・ホセ・ドルデリン艦長(Captain Alain-Joseph Dordelin) ・ジュスト(Juste Third rate):80門、死100/傷145、全マスト喪失・捕獲 ブラヴェスト艦長(Captain Blavet) 捕獲された後:イギリス艦ジャス号(HMS Juste)となる ・モンターニュ号(Montagne First rate):120門、死20、傷300弱 提督ジョワイユーズ少将(Rear-Admiral Villaret de Joyeuse)の旗艦 ポール・バシアー艦長(Captain Paul Basire) ジャン=フランソ・ヴィグノー艦長(Captain Jean-Francois Vignot) ・ジャコバン号(Jacobin Third rate):80門、損失不明 ジャン・アンドレ・ガシン艦長(Captain Jean Andre Gassin) ・アシレ号(Achille Third rate)74門、死36/傷60、全マスト喪失・捕獲、捕獲後廃棄(dismantled)解体 ギルシューム・ラ・ヴィラグリス(Captain Guillaume-Jean-Noel La Villegris) ・ヴァンジュール・ドゥ・ププル号(Vengeur du Peuple Third rate.):74門 ジャン・フランソア・ルノーディン艦長(Captain Jean Francois Renaudin) 死傷200〜600、捕獲されるも損傷大のため沈没処分となる ・パトロワール号( Third rate):74門、損失不明 ルカドゥー艦長(Captain Lucadou)、ニーリー艦隊からの支援艦
・レプブリカン号(Republicain First rate):110門、損失不明、全マスト喪失 ホセ=マリエ・ニーリー少将(Rear-Admiral Joseph-Marie Nielly) ピエール=マンデ・レボウ艦長(Captain Pierre-Mande Lebeau) ・サン・パレイユ号(Sans Pareil Third rate):80門、死260/傷120、捕獲 ジャン=フランソア・カランド艦長(Captain Jean-Francois Courand) 捕獲後イギリス艦サンス・パレイル号(HMS Sans Pareil)となる ・シピオン号(ScipionThird rate):80門、死64/傷151、全マスト喪失 ヒューグェット艦長(Captain Huguet) (その他) ・フリゲート艦(frigates) ・コルベット艦(corvettes) ・ブリッグ艦(brigs) ・カッター船(cutters)など16隻。 (船団護衛艦隊)〜 ヴァンスタブル提督艦隊(Admiral Vanstabel's squadron) ・ジャン・ヴァート号(Jean-Bart Third rate):74門 提督ピエール・ヴァンスタブル少将(Rear-Admiral Pierre Vanstabel)の旗艦 ・タイガー号(Tigre Third rate):74門 ・エンバスカード号(Embuscade frigate):フリゲート艦:32門 艦長モリス=ジュリアン・エメロー大尉(Lieutenant Maurice-Julien Emeriau) (その他) ・フリゲート艦(frigate) ・ブリッグ艦(brig) コリンズ提督艦隊(Admiral Cornic's squadron)l ・マジェストゥ号(Majestueux First rate):110門 提督ピエール・フランソワ・コリンズ少将(Rear-Admiral Pierre-Francois Cornic)の旗艦 ・アキロン号(Aquilon Third rate):74門 ・ジュピター号(Jupiter Third rate):74門 ・マラート号(Marat Third rate):74門 ・ネスター号(Nestor Third rate):74門 ・レドゥタブル号(Redoutable Third rate):74門 ・レヴォルーション号(Revolution Third rate):74門 ・スペルベ号(Superbe Third rate):74門 (その他) ・フリゲート艦(frigates)、2隻 ・コルベット艦(corvette) ・カッター船(cutter)。 ・ノーサンバーランド号の装備:〜 French ship Northumberland、1780
参考HP:〜 ・栄光の6月1日海戦の地図 ・ウェサン島の場所地図 ・ビスケー湾の場所地図 ・大西洋の地図 こちらで ・グロワ島の海戦 (1795/6/23) ・サン・ビセンテ岬の海戦(1797/2/14) ・フィニステレ岬の海戦 (1805/7/22) ・サフレン提督の戦歴(4):アメリカ独立革命戦争 切手コレクションの ・イギリス皇太子ご成婚 ・切手で綴る 東海道五十三次 ・全米50州(アメリカ) ・世界で1番美しい 蝶々 世界遺産の ・富士山 (日本) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・ピラミッド (エジプト) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/12/20)、 令和 R.3/11/30(2021) |