United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)海戦大航海(V-15-2
コリングウッド提督
1805
トラファルガーの海戦
信号旗 ポストシップ
大航海物語
 イギリス編

BAHAMAS
コリングウッド提督


コリングウッド中将       ロイヤル・ソブリン号

1805 トラファルガーの海戦200年記念 2005
バハマ 2005 発行

ANTIGUA
トラファルガーの海戦に従軍した提督と戦列艦
コリングウッド提督 ロイヤル・ソブリン号
ネルソン提督  ビクトリー号
アンチグア 1982/6/16 発行

Jersey LIBERIA
臨終のネルソン提督           ヴィクトリー号
ヴィクトリー号
信号
ヴィクトリー号艦上での瀕死のネルソン提督を描く 切手小型シート
1805 トラアルがーの海戦200年記念 2005
ジャージー 2005 発行
リベリア 1972 発行

イギリスのコリングウッド提督はナポレオン戦争をネルソン提督と共に戦い、1805年トラファルガーの海戦に従軍してフランス・スペイン連合艦隊と戦い勝利して、ネルソン提督の亡き後は後継者の艦隊司令官になりました。

初代コリングウッド男爵カスバート・コリングウッド海軍中将
 (Vice Admiral Cuthbert Collingwood, 1st Baron Collingwood, 1748/9/26-1810/3/7)
 生地:イングランド北東部タイン&ウィア地域ノーサンバーランド州ニューカッスルアポンタイン市
    (Newcastle upon Tyne, Northumberland, Tyne and Wear, North East, England)
 没地:英領ミノルカ島マオン港のヴィル・デ・パリス号艦上にて61才没
    (HMS Ville de Paris, Port Mahon, British Menorca Island)
コリングウッド提督は英国ノーサンバーランド州ニューカッスルアポンタイン市(Newcastle upon Tyne City, #1G53)で生まれ、同地の王立グラマースクール(Royal Grammar School, Newcastle)で初等教育を受けました。1760年11才で従兄弟ブレイスウェイト艦長(Captain Richard Braithwaite)のフリゲート艦シャノン号(frigate HMS Shannon, 28gn)に志願兵でボーイ(Volunteer Boy:艦長給仕)として初めて海に出ました。その後ポーツマス港(#1B21, Portsmouth)でロダム艦長(Robert Roddam, 1719-1808)警備艦レノックス号(guardship HMS Lenox 74gn)に乗組み、数年間の経験を積みました。 1774年グレイヴス提督(Samuel Graves, 1713-1787/3/8)の艦隊で4等50門戦列艦プレストン号(HMS Preston, 50gn)に乗り組んでボストンに向かいました。アメリカ独立戦争ではバンカーヒルの戦い(1775/6/17)に従軍し、1775/6/17に少尉(second Lieutenant )に昇進。 1777年にフリゲート艦ロウスタッフ号(frigate HMS Lowestoffe, 32gn)に乗組んで初めてネルソン艦長に出会いました。
艦長給仕(Ship's Boy)

ジャージー 1985 発行
1779/6/20にブリッグ艦バジャー号(brig HMS Badger, 12gn)に乗組みネルソン艦長の後継の艦長に昇任しました。1780/3/22に小型(6等艦ポストシップ:post ship)フリゲート艦ヒンチンブルック号(frigate HMS Hinchinbrook, 28gn)の艦長のネルソン提督がニカラグアの探検調査でニカラグア湖 (Lake Nicaragua)や、そこから流れ出てカリブ海に注ぐサン・ファン川(San Juan River, 192km)や、レオン湖(Lake Leon, Nicaragua)をボートで遡上して太平洋を目指す探検中にニカラグア横断ができず、その探検が失敗してネルソン提督が精神的に不安定になって休養が必要になったので、コリングウッド艦長がヒンチンブルック号の勅任艦長(Post captain)に就任して、探検隊員をジャマイカに帰還させました。

その後、1779/8〜9月にかけてイングランドのシアネス造船所(Sheerness Dockyard, River Medway 113km, Kent, #1B23)で改修された小型6等フリゲート艦ペリカン号(Post ship Frigate HMS Pelican, 24gn)の艦長に、1781/6月に就任しました。そして1781/7/22にフランスの16門艦ル・セルフ号(16gn ship Le Cerf)を拿捕しました。1781/8/2にペリカン号がハリケーンに巻き込まれ、ジャマイカ島南東(#14)51km沖合のモラント・キー群島(Morant Cays, Jamaica)で難破しました。乗組員は、いかだで上陸し、救助されるまで10日間そこに留まりました。その後、艦を失った艦長に義務付け 嵐で遭難する英シリウス号

ノーフォク 1992 発行
られている軍法会議が開かれ、ハリケーンの甚大な被害が地域全体に及んだことを考慮して、コリングウッド艦長とその乗組員は艦の喪失について無罪になり、艦を持たない艦長としてハーフペイ待遇(Half-pay:半額手当)の予備役になりました。1782年初頭にイギリスに戻って戦列艦サンプソン号(HMS Sampson, 64gn)艦長。1783年に5等艦メディエーター号(HMS Mediator, 44gn)艦長で西インド諸島に赴任して、1786年の終わりまで、ネルソン提督と兄弟のウィルフレッド・コリングウッド艦長(Wilfred Collingwood)などと共に、アメリカの船舶が西インド諸島と交易するのを妨害しました。1786年にイギリスへ帰国。1791/6/16にかつての上官ロロダム(Robert Roddam)の孫で、故郷ニューカッスルの商人で政治家のブラッケット(John Erasmus Blackett, 1729-1814)の娘サラ・ブラッケット(Sarah Blackett, 1762-1819)と結婚。サラ(Sarah Newsham-Collingwood, 1792-1851)とメアリー(Hon, Mary Patience Collingwood, 1793-1828)が誕生しました。

1793年に海峡艦隊(Channel Fleet)長官ボウヤー少将(Rear Admiral Sir George Bowyer, 5th and 1st Baronet, 1740-1800/12/6)の旗艦プリンス号(HMS Prince, 98gn)の艦長。1794年にはバーフラー号(HMS Barfleur, 98gn)の艦長として栄光の6月1日海戦に従軍。1797年エクセレント号(HMS Excellent 74gn)の艦長でサン・ビセンテ岬の海戦(1797/2/14)に従軍し、勝利して名をあげました。スペインのカディス港封鎖を行った後、ポーツマスに帰港して修理で数週間滞在。1799/2/14に白色艦隊少将(rear admiral of the White)に任ぜられ、トライアンフ号(HMS Triumph, 74gn)に将旗を掲げました。1801/1/1赤色艦隊少将(rear admiral of the Red)に任ぜられて海峡艦隊に着任。やがてフランススペインの主力艦隊基地のある地中海へ転任し、活発に港湾封鎖任務を実施。アミアンの和約(1802/3/25)が結ばれてフランス革命戦争(1792-1799)が終結すると帰国しました。短期間の休戦期間の後、1803/4月にナポレオン戦争(1803-1805)が始まると再び戦場へと旅立ち亡くなり不帰の客となりました。

1801年に提督は、まずブレスト(Brest)沖でフランス艦隊を封鎖。1804/4/23に青色艦隊中将(Vice admiral of the Blue)に昇進。1805/11/9に赤色艦隊中将(Vice admiral of the Red)に昇進。その頃に第三次対仏大同盟(Third Coalition 1805/4/11-1806)が結成され、ナポレオンはイギリス上陸作戦を始めようと準備していました。1805年にコリングウッド艦隊はツーロン港を脱出したフランス艦隊を追跡。最初、西インドへと向かったフランス・スペイン連合艦隊はカディスへと帰還する途中、提督の3隻の小艦隊と遭遇するも、提督は16隻の戦列艦による追跡を振り切った後、敵艦隊がまだ半分も入港していないうちにカディスの封鎖を再開しました。その後、スペイン北西フィニステレ岬沖でフィニステレ岬の海戦(1805/7/22)が戦われて英が勝利。その3ヵ月後、提督の艦隊とネルソン地中海艦隊と合流した英艦隊が仏西連合艦隊に決戦を挑むトラファルガーの海戦が勃発しました。

1805/10/22朝にカディスを出帆したフランスのビューサントル号(Bucentaure, 80gn)を旗艦とする総司令官ヴィルヌーヴ提督艦隊とスペインのプリンシペ ・デ・アストゥリアス号(Principe de Asturias 112gn)を旗艦とするグラビナ提督艦隊の33隻とがトラファルガー岬沖を三日月型の縦陣にて帆走してい
ました。そこへイギリスのヴィクトリー号を旗艦とする総司令官ネルソン提督艦隊とロイヤル・ソブリン号(HMS Royal Sovereign 100gn)を旗艦とするコリングウッド提督艦隊の27隻とが、いわゆるネルソンのT字戦法(ネルソン・タッチ)で突っ込んでトラファルガーの海戦が始まり、ネルソン艦隊は仏ス無敵艦隊の先鋒の進路を遮断して、補足殲滅。コリングウッド艦隊は中央と後方の仏ス無敵艦隊を撃破しました。ネルソン提督は壮烈な戦死をとげるも、イギリスが勝利しました。その後コリングウッド提督が総司令官を引き続き地中海艦隊長官(Commander-in-Chief, Mediterranean Fleet, 1805-1810)に就任。
※11時45分にネルソン提督は
旗艦ヴィクトリー号に合図の信号旗(Signal flag)の Z旗
王国の興廃はこの一戦にあり、各員の一層の奮励努力を期待する!
(England expects that every man will do his duty !)
を掲げたといわれています。
信号旗
コリングウッド提督は海戦後、イングランド北東端ノーサンバーランド州(#1G53)の”コールドバーンとヒースプールのコリングウッド男爵”(Baron Collingwood, Caldburne and Hethpool, Northumberland County)に叙せられ、国会両院から2,000ポンドの年金が贈られました。提督は休暇中はタイン市北約24kmのノーサンバーランド州のモーペス町(Morpeth town, Newcastle upon Tyne)のコリングウッドハウス(Collingwood House)と、現ノースシールズ西部郊外チャートンのチャートンホール(Chirton Hall, Chirton, North Shields)に居住。

トラファルガーの海戦以降大きな海戦はなく、地中海艦隊長官となってマルタ島で政治・外交的任務に忙殺されて健康状態が悪化し、度々辞職を申し出るも認められませんでした。1810年に帰国が許可されて帰国の途上に地中海バレアレス諸島の当時英領のミノルカ島東部マオン港(Port Mahon)のヴィル・デ・パリス号(HMS Ville de Paris, 110gn)艦上にてのため61才で亡くなりました。生前に強制徴募や鞭打ちに反対する寛容なところがあって、水兵たちには「親父さん」と親しみと尊敬をもって呼ばれていたといわれています。なお、提督には子息がなかったため、コリングウッド男爵位は1代で終わりました。

提督に因んで、ニューカッスルの「王立コリングウッド小学校」(Collingwood's school, the Royal Grammar School, Newcastle)、英海軍の戦術学校は「コリングウッド学校」(HMS Collingwood, The Maritime Warfare School of the Royal Navy)と命名。地名では、カナダのジョージア湾にあるオンタリオ州コリングウッド町(Collingwood town, Georgian Bay, Ontario, Canada)、オーストラリアのメルボルン市のコリングウッド(Collingwood, Melbourne city, Australian)、ニュージーランドのコリングウッドの町(Collingwood town, New Zealand)、およびブリティッシュコロンビア州バンクーバー近くのハウサウンドの入り口(Howe Sound, Vancouver, British Columbia, Canada)はコリングウッドチャンネル(Collingwood Channel)と命名。またタイン川(River Tyne, 100km)沿いのタインマス(Tynemouth)の町にはコリングウッド記念碑が有って、提督の旗艦だったロイヤル・ソブリン号(HMS Royal Sovereign)の大砲4門が保存・展示されています。

参考:〜
・ポストシップ
 (Post ship)
ポストシップとは、18世紀後半からナポレオン戦争期にかけて、イギリス海軍で6等艦を指す呼称でした。通常のフリゲート艦よりも小型で、搭載砲数は28門未満でしたが、等級艦(最低でも20門)のため、艦長(Commanding Officer)には海尉や海尉艦長(Commander captain)ではなく勅任艦長(Post captain)が必要とされました。このため、20門から26門の砲を搭載した船がポストシップと呼ばれましたが、1817年頃迄使用されました。海軍士官たちはポストシップをフリゲート艦と呼ぶこともありました
6等フリゲート艦(右)
(左)スループ艦


セントヘレナ 1998 発行
が、海軍本部は厳密にはそれらをフリゲート艦とは認めていませんでした。船型はフリゲート艦に似ており、伝統的なクォーターデッキと船首楼を備えていました(これらは20門スループ艦には見られない特徴)。しかし真のフリゲート艦とは異なり、船体中央部に最下甲板(オルロップデッキ:Orlop deck)がありませんでした。重心が高いため速度が遅く、風上への帆走性能も低かったものの、航洋性(耐波性)には優れていました。戦時以外では、イギリス海軍は特に遠隔地の海外基地でフリゲート艦の代替として頻繁に使用しましたが、戦時中はその遅い船足から主に船団護衛任務にあたりました。

参考HP:〜
 ・トラファルガーの海戦図(ネルソン・タッチ)      2007/3/15

こちらで
グラヴィナ提督
サフレン提督
ラ・ブルドネス提督
ヴィルヌーヴ提督
栄光の6月1日海戦 (1794/6/1)
グロワ島の海戦 (1795/6/23)
フィニステレ岬の海戦 (1805/7/22)
サン・ビセンテ岬の海戦  (1780/1/16、月光の海戦)
・大航海物語の海戦編
ビクター・ヒューズ船長
フランス領ギアナ
マゼラン(海峡)
スパイス(香辛料)
コーヒー(嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
クリッパートン島(絶海の孤島)
フランスの王と王族
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド(エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.4/8/19(2022)追記、令和7年 2025/12/21

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