United Kingdom ![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)バウンティ号航海(V3-16) マシュー・クィンタル水兵 1789 バウンティ号の反乱、鞭打ちの刑を受ける |
大航海物語 バウンティ号編★ |
| ISLE OF MAN マシュー・クィンタル ![]() マン島 1989/8/28 発行 |
| PITCAIRN ISLANDS | ||
パンの木の苗木を船外へ投げ捨て![]() 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
バウンティ号![]() 英領ピトケーン 1988 発行 |
バウンティ号を焼く![]() 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
ピトケ−ン島![]() ピトケーン 1969/9/17 発行 |
太平洋でのタヒチ島とピトケーン島の場所地図(中央付近) ノーオーク、フィジー、トンガ、サモア、タヒチ島、ピトケーン、イースターの島々
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我々は何処から来たのか? 我々は何者か? 我々は何処へ行くのか? Where have we come from ? What are we ? Where are we going ? Gaugin (1848-1903) ![]() ポール・ゴーギャン 1897-1898年作 ボストン美術館)蔵 仏領ポリネシア 1985/5/17 発行 |
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クィンタル水兵はタヒチから西インドへ「パンの木の苗木」を運ぶ」バウンティ号に志願して乗組み、艦長に反抗的な態度をとったため鞭打ちの刑を受け、益々反感を募らせ、その上にタヒチについてからの安楽な生活にはまってしまい、故国へ戻りたくなくなり、バウンティ号の反乱に加担して、船を乗っ取った一味と共に、ピトケーン島へ移住しましたが、酔っ払いで乱暴な彼はその島で仲間に殺害されました。 |
| マシュー・クィンタル水兵 (1766/3/3〜1799) Matthew Quintal(上等水兵:Able Seaman) クィンタル水兵はイギリスのコンウォール(#1@7)の出身で、明るい茶髪、色白の体には刺青を入れた粗暴な性格のたくましい体つきをした6尺ゆたかの大男でした。子供の時にイギリスのマン島に移住した母に育てられましたが、母が死ぬとその後の2年間は叔父と一緒に暮らし、さらにその後に父とプリマス(#1@6)で暮らし、さらに2年後にスループ型戦艦ニンファス号(sloop-of-war HMS Nymphas)の砲手だった叔父の使用人として働きました。叔父の死後は、3年間フリゲート艦(man-o-war, Frigate)の艦長の下で働きました。 1787年にウィリアム・ブライ艦長が西インド諸島のプランテーション(Plantation:大農園)で働く奴隷の安い食料を確保するため、太平洋のタヒチ島から「人手無用で育つ食料の木」と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び植林する作戦を命じられ、「パンの木の苗木の輸送作戦」を実施するため南太平洋への航海へ出帆する艦長に”バウンティ号”(HMAV Bounty)でした。ブライ艦長は乗組員を募り、クィンタル水兵は友人であるウィリアム・マッコイと一緒にバウンティ号の乗組員として志願した最後の乗組員の中の1人でした。 1787/12/23にバウンティ号はイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港(#1B21)を出帆しました。航海中はブライ艦長が乗組員全員に対して、幾つもの欠点をあげつらっては猛烈に叱責しました。1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」という南極からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬(Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。ジョン・フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、折りしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヵ月もの遅れを出したとして、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人フレッチャー・クリスチャン一等航海士を副艦長に抜擢しました。1788/3/10にはクィンタル水兵がその横柄で反抗的な態度に、艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。クィンタル水兵は同じくブライ艦長に対して不満を抱いていたアイザック・マーティンから反乱について聞かされ、マーティンと結託した後は、クィンタル水兵はクリスチャン副長を反乱計画に誘い込む話しを熱心に支持するようになり、こうしてクィンタル水兵は反抗に関して、クリスチャン副長に接近した最初の乗組員となりました。バウンティ号はさらに西へ帆走して、出港から10ヵ月以上の航海の後、789/10/26にタヒチ島に到着しました。
1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789/4/28早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(Longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかったか、直接手は下さなかったが反乱に同調したという説も有)13人は船に残されました。 その後、バウンティ号はポリネシアのツバイ島(Tubuai 、Austral Islands)に寄航し、定住地建設を試みましたが、原住民の攻撃にあって失敗したので、タヒチ島に戻りました。クリスチャン副長はイギリスの手の及ばない南海の未知の島に定住しようと覚悟を決め、1789/9月に22人の反乱者のうち、
マッコイの没後の1779年に酔ったクィンタルは、彼の英国に残した妻イザベラを連れて行くことが出来なかったから、彼は子供達を皆殺しにしてやると、生き残った反乱者であるアダムズとヤングに対して脅迫しました。アダムズとヤングは彼を何とかしないと、自分や子供達や他の者の命が危ないと判断し、クィンタルをアダムズの小屋へ呼び寄せて斧で殺害しました。その殺害場面を9才のエリザベス・ミルズという子供が目撃していて、後に証言したといわれています。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/5/30、08/8/8追記、令和7年 2025/11/15 |
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