United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage) バウンティ号の反乱(2) 絶海の孤島、ピトケーン島 1790 バウンティ号の反乱者が移住 |
大航海物語 ブライ編★ |
乗組員リスト・反乱(1)・ブライ物語 |
PITCAIRN ISLANDS | Pitcairn Islands |
ピトケーン島を発見する反乱者たち ピトケーン島に上陸 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
ピトケーン島 と バウンティ号の勇姿 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 His Majesty's Armed Vessel (HMAV) Bounty ピトケーン 1989 発行・小型シート |
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ピトケーン島の位置 130°05′00″W 025°04′05″E ピトケーン 1957/7/2 発行 |
バウンティ号から物資を島に揚陸 1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989 ピトケーン 1989/4/28 発行 |
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絶海の孤島 ピトケ−ン島 ピトケーン 1969/9/17 発行 |
太平洋でのタヒチ島とピトケーン島の位置(中央付近) ノーオーク、フィジー、トンガ、サモア、タヒチ島、ピトケーン、イースターの島々 英領(ジョージ6世)ピトケーン 1940-51 発行(200%) |
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タトリモア断崖 島の断崖絶壁に野鳥のコロニーが有 ピトケーン 1981/1/22 発行 |
パワラ谷尾根 Pawara Valley Ridge ピトケーン 1981/1/22 発行 |
グンカンドリ FRIGATE BIRD ピトケーン 1964-65 発行 |
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ISLE OF MAN | ||
フレッチャー・クリチャン副長 |
マシュー・クィンタル |
ピーター・ヘイウッド |
バウンティ号の反乱200年記念 マン島 1989 発行 |
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PITCAIRN ISLANDS | ||
ブライ艦長を捕えるウィリアムズ(顎ヒゲ) ピトケーン 1989/4/28 発行 |
植木職ブラウン ピトケーン 1989/4/28 発行 |
ジョン・アダムスとバウンティイ湾 ピトケ−ン 1999/5/25 発行 |
バウンティ号の反乱(2)<反乱の顛末とその後> (Munity on the Bounty, 1789/4/28) バウンティ号は1787/12/23にイギリスのポーツマス港を出帆しました。出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、苗木を積み込んでからの「水の制限」により、不満が一気につのり、副長フレッチャ−・クリスチャンをそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に、副長が船を乗っ取り、ブライ艦長以下を1隻のボートに押し込め、船から追放しました。 |
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バウンティ号は1789/4/4にタヒチ島を出帆し、4/28にフレンドリー諸島(トンガ)で反乱が起きました。途中の死亡者(2人)を除き、当時の乗組員44人のうち反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらない者のうち艦長と行を共にしなかった13人は船に残されました。反乱者を乗せたバウンティ号はフランス領ポリネシアの トゥブアイ諸島(Tubuai)に3ヵ月滞在しましたが、その後、タヒチ島へ向かいました。16人の乗組員がタヒチ島に残り、クリスチャン副長と8人の反乱者はタヒチ島から別天地を求めて、バウンティ号で出帆しました。 タヒチ島を後にしたクリスチャン副長以下9人の乗組員は,タヒチ島の原住民(男6人、女11人、赤子1人)をバウンティ号に乗せて東へ進路を取り、フィジー,トンガ、クック諸島などを経て、1790/1/15に、イギリスの海図に載っていない絶海の孤島・無人島のピトケーン島にたどり着きました。現在バウンティ湾と名づけられた場所でバウンティ号は処分・燃やされ現在でもその残骸が残っていますが、ここで自給自足の定住生活を始めました。彼らこそが現在のピトケーン島の住民の祖先となりました。彼らがこうした行動を取ったのは、イギリスに逮捕されて処刑されるのを防ぐためでした。実際タヒチ島に残ったグループの中には処刑された者もいたので、この目的は達成されたわけです。その後、フレチャー副長と4人の乗組員がタヒチ人に殺され(1794)、1人が気が狂い崖から投身自殺(1798)、仲間同士の争いで1人が死亡(1799)、1人が喘息で死亡(1800)、そしてジョン・アダムズだけ生き残りました。 クリスチャン副長のグループに加わらずタヒチに残留したグループはタヒチの統一運動に加わり、タヒチ統一に貢献しました。しかしその後、1791年にイギリス海軍のパンドラ号がタヒチにやってきて彼らを捕縛、イギリス本国に送還し、うち3人が処刑されました。 |
パンの木の苗木と実 英領ピトケ−ン諸島 1969 発行 バウンテイ号の残骸船体構造 Baunty, 19 Novenber 1787 懐中時計(クロノメーター) ピトケーン 1969/9/17 発行 |
1808年にアメリカの捕鯨船トパーズ号(sealer Topaz、Capt Mayhew Folger)がたまたまピトケーン島の近海を通りピトケーン島に上陸し、そこで男性1人、後は女性が10人、子供が20数人の集団と出会いました。男性の名前はジョン・アダムスと言い、彼の他にこの島には成人した男性は住んでいませんでした。このようにして、絶海の孤島ピトケ−ンで唯一の生存者ジョン・アダムスが発見されましたが、クリスチャン副長はその生死が分からず不明でした。 さらに1814年にピトケーン島にたどり着いたイギリス船によって、この島がバウンティ号の反乱に加わった水兵達が落ち延びてきた島である事が判明しました。そこでアダムスに対する尋問が始まり、判明したことは、この島に辿り着いた水兵とタヒチから連れてきた男性達が互いに殺し合い、その他の者は病気、自殺、事故、喧嘩により既に死亡していました。アダムスただ一人が生き残ったと言う事でした。クリスチャン副長は殺されたと言われています。この事件はバウンティ号の反乱の後日談として、本国イギリスでは非常にセンセーショナルに伝えられました。アダムスは後(1825)に反乱に対する恩赦を与えられ、ピトケーン島で亡くなりました。彼の名前は町の名前「アダムスタウン」として残っています。クリスチャンの子孫は現在も残っています。1838年ピトケーン諸島はイギリス領となって、現在まで続いています。 ・ピトケーン島その後:大百科事典より。 ピトケーン島は1829年にイギリスの領土であると宣言され、正式にイギリスの植民地となっている。1831年に島民はイギリスにより、タヒチに移住させられたが、その後再びピトケアン島に戻った。しかしその後、島民はジョシュア・ヒルという成り上がり者の圧政に苦しまれる事になる。この男は支配者気取りで、専制政治にあえて異を唱えた3人の島民に対して鞭打ちの刑を科したりした。島民が、通りすがりのイギリス船の船長に、自分達をヒルから解放してほしいと訴えた1838年までの6年間、ヒルはピトケアン島に居続けた。その時以来、島民は自分達がイギリスの正式な構成員であると言う事を自覚したのである。 ピトケアン島は絶海の孤島という事で交通の便も良くなく、生活の上で色々不便であったため、その後ピトケアン島の住民たちはタヒチや西クリスマス島などへ移住を試みたが、環境に適応できないなどの理由によって、結局その多くがピトケアン島に住みつづける事になった。しかし現在ではノーフォーク島、ニュージーランドに移住する者が多くなって、人口は減少傾向にあった。1937年にはバウンティ号の船員とタヒチ人の子孫233人が住んでいたが、その後、多くがノーフォーク島やニュージーランド等に移民し、現在は47人しか残っていない。現在の島の村長、スティーブ・クリスチャンはフレッチャー・クリスチャンの子孫である。 参考HP:〜ピトケーン島 |
バウンティ号(2)、反乱結果 乗組員リスト(2):総員46人:〜:リスト(1)。 |
区 分 | 氏 名 | 才 | 階 級 | 結 果 | |
艦長 | ウィリアム・ブライ | 33 | 海軍大尉 | 無罪放免 | |
海 軍 士 官 |
上級士官 (3) |
ジョン・フライア | 33 | 航海長(副長) | .恩赦で命拾い |
フレッチャー・クリスチャン | 23 | 航海士、副長になる | 行方不明 | ||
ウィリアム・エルヒンストーン | 36 | 航海士 | 帰路病死 | ||
士官 (2) |
ジョン・ハレット | 15 | 少尉候補生 | 帰国後パンドラ号でバウンティ号を追跡 | |
トーマス・ヘイワード | 20 | 少尉候補生 | 帰国後パンドラ号でバウンティ号を追跡 | ||
下級士官 (4) |
ピーター・ヘイウッド | 15 | 特務少尉候補生 | 恩赦で処刑を免れる | |
ジョージ・ステワード | 21 | 特務少尉候補生 | パンドラ号で遭難死 | ||
ロバート・ティンクラー | 15 | 特務少尉候補生 | お咎めなし | ||
エドワード・ネッド・ヤング | 21 | 特務少尉候補生 | 喘息で病死 | ||
下 士 官 |
准士官 (11) |
トーマス・ヒューガン | 亡 | 軍医(外科医) | 事件前死亡 |
ウィリアム・コール | . | 掌帆兵曹長(甲板長) | 10年の軍艦服役 | ||
チャールス・チャーチル | 28 | 衛生兵伍長 | トンプソンに殺される | ||
ウィリアム・ペッコヴァー | 40 | 砲術兵曹長 | お咎めなし | ||
ジョセフ・コールマン | 36 | 武器兵曹長 | 放免 | ||
トーマス・リンクルッター | 30 | 操舵兵曹長 | 帰路病死 | ||
ジョン・ノートン | 34 | 操舵兵曹長 | トフォア島で現地人に殺される | ||
ローレンス・ルボージュ | 39 | 帆布屋 | お咎めなし | ||
ヘンリー・ヒルブランド | 24 | 桶屋 | パンドラ号で遭難死 | ||
ウィリアム・パーセル | . | 船大工長 | お咎めなし | ||
デイヴィッド・ネルソン | . | 植物学者 | お咎めなし | ||
下士官 (14) |
ジェームス・モリソン | 27 | 掌帆兵曹 | 恩赦で処刑を免れる | |
トーマス・レッドワード | . | 衛生兵曹 | お咎めなし | ||
ジョージ・シンプソン | 27 | 操舵兵曹 | お咎めなし | ||
ジョン・ウィリアムス | 26 | 武器兵曹 | タヒチ人に殺される | ||
トーマス・マッキントッシュ | 28 | 船大工 | 放免 | ||
チャールス・ノーマン | 26 | 船大工 | 放免 | ||
ジョン・ミルス | 38 | 砲術兵曹(砲手) | ピトケーンでタヒチ人に殺される | ||
ウィリアム・マスプラット | 27 | 仕立屋 | 恩赦で処刑を免れる | ||
ジョン・スミス | 36 | 執事(スチュワード) | お咎めなし | ||
トーマス・ホール | 38 | 主計長 | 帰路病死 | ||
リチャード・スキナー | 22 | 散髪屋 | パンドラ号で遭難死 | ||
ジョン・サムエル | 26 | 書記 | お咎めなし | ||
ウィリアム・ブラウン | 27 | 植木屋(庭師) | タヒチ人に殺される | ||
ロバート・ラム | 21 | 肉屋 | お咎めなし | ||
水 兵 |
水兵 (11) |
ジョン・アダムズ | 20 | 上等水兵 | ピトケーンに住み、1829亡くなる |
トーマス・バーキット | 25 | 上等水兵 | 絞首刑 | ||
マイケル・バーン | 28 | ヴァイオリン弾き | 放免 | ||
トーマス・エリソン | 17 | 上等水兵 | 絞首刑 | ||
アイザック・マーティン | 30 | 上等水兵 | タヒチ人に殺される | ||
ウィリアム・マッコイ | 25 | 上等水兵 | 崖から投身自殺 | ||
ジョン・ミルワード | 21 | 上等水兵 | 絞首刑 | ||
マシュー・クインタル | 21 | 上等水兵 | ヤングとアダムスに殺される | ||
ジョン・サムナー | 22 | 上等水兵 | パンドラ号で遭難死 | ||
マシュー・トンプソン | 37 | 上等水兵 | チャーティルを殺害した後殺される | ||
ジャムス・ヴァレンタイン | 39 | 上等水兵 | 事件前に死亡 | ||
・ | 艦長の一行19人、反乱者25人、事件前死亡2人、計46人 赤字はピトケーン移住者、タヒチで別行動の3人 |
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0114 令和 R.3/2/5 (2021)追記 |