切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
United Kingdom

国連 1983 発行
バウンティ号の反乱(1)
バウンティ号の反乱
Munity on the Bounty
28th April, 1789

大航海物語
  ブライ編
バウンティ号・装備乗員リスト艦長気質・ バウンティ号の反乱(2)ブライ物語

@バウンティ号、英国スピットヘッド泊地を出帆
1787/12/23

PITCAIRN ISLANDS
スピットヘッド泊地を出帆

1ヵ月後、荒れ狂うホーン岬の回航を断念

ピトケーン 1989/4/28 発行
在りし日のバウンティ号の勇姿

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1988 発行・小型シート

喜望峰からタスマニア島アドヴェンチャー湾に到着、停泊

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行




Aバウンティ号、タヒチ島に到着
1788/10/26

POLYNESIE FRANCAISE RF
タヒチ島


パペーテ湾           ポリネシア 1998/11/5 発行           パペーテ海岸

PITCAIRN ISLANDS
タヒチ島で「パンの木の苗木」を採集
船内で「パンの木の苗木」を栽培
1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行

パンの木の苗木と実

英領ピトケ−ン諸島 1969  発行




B反乱、艦長たちをボートに追放
1789/4/28


バウンティ号の航海地図
  タヒチ島、↓トンガ島
NZ島 ピトケーン島

バウンティ号の反乱200年記念
マン島 1989 発行

艦長たちをボートに追放

パンの木の苗木」を船外に投棄

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行
TONGA

バウンティ号の反乱200年記念 小型組合せシート
トンガ 1989 発行





Cボートで漂流する艦長たち
ISLE of MAN fiji
ボートで漂流するブライ艦長たち

マン島 1989/8/28 発行
フィジー水道を抜けるブライ艦長たちのボート

バウンティ号の反乱200年記念
英領フィジー 1989/4/28 発行
Bounty's longboat
being chased
in Fiji waters

ブライ艦長一行が乗せられたバウンティ号の
ボートがフィージー水道を通過




Dバウンティ号と反乱者達は、タヒチ島に戻る
PITCAIRN ISLANDS
バウンティ号


英領ピトケーン 1988 発行
POLYNESIE FRANCAISE
タヒチ島


仏領ポリネシア 1986/8/28 発行 (200%)




E反乱者のバウンティ号、ピトケーン島へ出帆
タヒチ島、マタヴァイ湾を出帆するバウンティ号

1789 バウンティ号の反乱200年記念 1989
ピトケーン 1989/4/28 発行




Fピトケーン島、1790/1/15 到着
ピトケ−ン島

ピトケーン 1969/9/17 発行
太平洋でのタヒチ島ピトケーン島の位置(中央付近)
ノーオーク、フィジー、トンガ、サモアタヒチピトケーンイースターの島々

英領(ジョージ6世)ピトケーン 1940-51 発行(200%)

バウンティ号の反乱
  (Munity on the Bounty, 1789/4/28)
18世紀の終わり頃、イギリスは西インド諸島で砂糖栽培のプランテーションを経営していました。プランテーションというのは商品作物の栽培のみに特化していて、食料となる作物は他からの輸入に頼るのですが、西インド諸島の場合も同じで、その食料は北アメリカのイギリス植民地からの輸入に頼っていました。1775年にアメリカ独立戦争がはじまると、西インド諸島植民地の生命線とも言える食糧補給路が絶たれてしまったため、困ったイギリスは、ジェイムス・クック船長が南太平洋のタヒチ島で見たというパンの木をタヒチから持ってきて西インドの植民地に植えようと考えました。気候が似ているから環境に適応できると考えたのです。 かくして、この重要な”パンの木”捕獲輸送作戦の任を与えられたのが、ウィリアム・ブライ艦長率いる英国海軍の軍艦バウンティ号でした。

バウンティ号(His Majesty's Armed Vessel (HMAV) Bounty)はイギリスの軍艦(Vessel)ですが、当時の1000トンクラスの戦艦(ship)には、くらぶべくもない、わずか215トンの、1787/5/26に£2,600ポンドで英国海軍が購入した中古輸送帆船を改造した乗組員は46人の小規模な船でした。タヒチから、人手無用で育つ食料の木と思われていた”パンの木”の苗木を、西インド諸島に運び、そこのプランテーションで働く奴隷達の食料とするため、植林することを使命として専門の植木職人も乗り組んで、 1787年12月23日にイギリス・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港を出帆しました。

バウンティ号の装備:〜:
  HMAV Bounty

総トン数 : 215屯
マスト数 : 3本マスト、横帆式帆船
全  長 : 27.7m
全  幅 : 7.3m
備  砲 : 6門?
乗組員数: 46人
植木鉢  :1200鉢(推定)の置き台設置
バウンティ号

船内で「パンの木の苗木」を栽培
乗組んでいたのはブライ艦長、上級士官3人、士官6人、下士官25人、水兵11人の計46人でした。ブライ艦長は33才で、以前にクック船長第3回(1776-1779)航海のレゾリューション号の航海長を勤め、その後、商船の乗務員として航海しており、この海域に関して経験豊かでしたが、艦長になるのは初めてでした。1787年にイギリスを出帆し、1ヵ月後にブライ艦長の命令でマゼラン海峡ではなく、南アメリカ最南端で「吠える60度」といって南極海からの強風で年中荒れ狂っていて、船乗りに恐れられていた難所中の難所のホーン岬Cape Horn)を回航してドレーク海峡を抜けて、太平洋へ出てることになりました。フライヤー航海長の冷静な指導のもとで嵐の中にホーン岬を望見できましたが、おりしもさらなる大嵐が襲いかかりました。ブライ艦長は「進路を見失った」としてドレーク海峡の突破を断念して、喜望峰への転舵を命令しました。喜望峰周りで無事にインド洋へ出ましたが、そのために2ヶ月もの遅れを出したとして、航海中であるにもかかわらず、艦長は航海長のフライヤーを降格し、上級士官の1人クリスチャン航海士を副艦長に抜擢しました。 パンの木

英領ドミニカ 発行
1788/3/10にはクィンタルがその横柄で反抗的な態度に、ブライ艦長から24回の鞭打ち刑を受けました。その後の航海中もブライ艦長の厳しい態度に、乗組員の多くが不満を抱いていきました。バウンティ号はさらに西へ帆走して、出帆から10ヵ月以上の航海の後、1788/10/26にタヒチ島に到着しました。1789年4月までの約半年間を”パンの木”の苗木やその他の植物を搭載するためにタヒチ島に滞在しました。その期間中、クリスチャン副長はタヒチの女性と結婚し、多くの船員も現地生活を楽しみました。3人の船員が脱走の罪で逮捕され、鞭打ち刑を受けました。そして”パンの木”の苗木を積み込んだバウンティ号は、1789/4/4にタヒチ島を出帆しました。

1789/4/28にフレンドリー諸島(トンガ)近海に差しかかった時に反乱が起きました。イギリス出帆時から艦長の厳しさに不満を抱いていた乗組員達は、”パンの木”の苗木を積み込んでからの、水の制限により、不満が一気につのりました。クリスチャン副長をそそのかして味方につけ、1789年4月28日早朝に副長と反乱者達が船を乗っ取り、ブライ艦長達を1隻のボート(longboat、ランチ・救命艇)に押し込めて船から追放しました。当時乗組んでいた46人の内、途中で死亡していた2人を除き、反乱者はクリスチャン副長以下12人でした。ブライ艦長以下19人はボートに乗せられて追放され、反乱に加わらなかった者のうち艦長と行を共にしなかった(ボートに乗れなかった、また、直接手は下さなかったが反乱に同調した、という説も有)13人は船に残されました。

1789/6/12、ブライ艦長が指揮するボートは海図無しで、艦長が持っていた六分儀と時計のみで航行して、トンガのトフォア島(現地人と争い、乗組員1人死亡)を経て、45日かけて、ニューギニアとオーストラリアの間の早い潮流の難所トレス海峡を通り、オランダ領チモール島にたどり着きました。約1年後の1790/3/4ブライ艦長以下15名が英国に生還できました(途中2名病死)。同年3/15にブライ艦長たちはイギリスで反乱を報告しました。ブライ艦長も軍法会議にかけられましたが無罪になりました。

ブライ艦長たちの報告を聞いたイギリス海軍は反乱軍を探すためエドワード・エドワーズ艦長が指揮する軍艦パンドラ号を派遣することを決定しました。1790年11月にパンドラ号はバウンティ号の捜索のためにイギリスを出帆しました。タヒチ島にいた叛徒を逮捕し、3ヵ月も副長たちを探しましたが、ようとして、行方が解らず、オーストラリア近海のグレートバリアリーフに乗り上げて座礁沈没してしまいました。この時に叛徒3人が水死しました。他の叛徒は別の軍艦で本国送還となり、1792年に軍法会議で10人の内3人が絞首刑となりました。1809年には絶海の孤島のピトケ−ン島で唯一の生存者ジョン・アダムスが発見されましたが、副長はその生死が不明でした。
バウンテイ号の残骸を発見

ピトケーン 1969 発行

以上が有名な「バウンティ号の反乱」で、イギリスでは、日本の「赤穂浪士」のごとく、誰知らぬ者も無い反乱事件だそうです。何度も映画化されていますが、1962年の米国映画”Munity on the Bounty”では、マーロン・ブランドがクリスチャン副長役で主演し、トレバー・ハワードがブライ艦長役で出演しています。この映画では艦長の非道ぶりと、副長の悲劇的な死が描かれています。

参考HP:〜
 ・バウンティ号の反乱の図
 ・ハンプシャー(スピットヘッド)の地図
 ・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港
 ・反乱前後のバウンティ号の航海地図   2007/4/2009/6/16追記


バウンティ号
乗組員リスト(1):総員46人:〜:リスト(2)
Pitcairn Islands
バウンティ号


英領ピトケーン 1976/7/4 発行
階級区分   氏  名   階  級  メ モ
艦長 Captain ウィリアム・ブライ
William Bligh
33 Lieutenant 海軍大尉 ボートに追放



Wardroom
Officers
(3)
ジョン・フライア
John Frye
33 Sailing Master 航海長(副長) ボートに追放
フレッチャー・クリスチャン
Fletcher Christian
23 Master's Mate M 航海士 ピトケーン島移住
ウィリアム・エルヒンストン
William Elphinstone
36 Master's Mate 航海士 ボートに追放
Midshipmen
(2)
ジョン・ハレット
John Hallett
15 Midshipman 少尉候補生 ボートに追放
トーマス・ヘイワード
Thomas Hayward
20 Midshipman 少尉候補生 ボートに追放
Midshipmen
Mustered
as Able Seamen
(4)
ピーター・ヘイウッド
Peter Heywood
15 Midshipman M P 特務少尉候補生 タヒチに置き去り
ジョージ・ステワード
George Steward
21 Midshipman 特務少尉候補生 タヒチに置き去り
ロバート・ティンクラー
Robert Tinkler
15 Midshipman 特務少尉候補生 ボートに追放
エドワード・ネッド・ヤング
Edward Ned Young
21 Midshipman M 特務少尉候補生 ピトケーン島移住


Warrant
Officers
(11)
トーマス・ヒューガン
Thomas Huggan
Surgeon 軍医(外科医) 事件前に死亡
ウィリアム・コール
D William Cole
. Boatswain 掌帆兵曹長 ボートに追放
チャールス・チャーチル
Charles Churchill
28 Ship's Corporal M 衛生兵伍長 タヒチに置き去り
ウィリアム・ペッコヴァー
William Peckover
40 Gunner 砲術兵曹長 ボートに追放
ジョセフ・コールマン
Joseph Coleman
36 Armourer A 武器兵曹長 タヒチに置き去り
トーマス・リンクルッター
Peter Linkletter
30 Quartermaster 操舵兵曹長 ボートに追放
ジョン・ノートン
John Norton
34 Quartermaster 操舵兵曹長 ボートに追放
ローレンス・ルボージュ
Lawrence LeBogue
39 Sailmaker 帆布屋 ボートに追放
ヘンリー・ヒルブランド
Henry Hillbrandt
24 Cooper M 桶屋 タヒチに置き去り
ウィリアム・パーセル
William Purcell,
. Carpenter 船大工長 ボートに追放
デイヴィッド・ネルソン
David Nelson
. Botanist 植物学者 ボートに追放


Petty
Officers
(14)
ジェームス・モリソン
James Morrison
27 Boatswain's Mate M P 掌帆兵曹 タヒチに置き去り
トーマス・レッドワード
Thomas Ledward
. Surgeon's Mate 衛生兵曹 ボートに追放
ジョージ・シンプソン
George Simpson
27 Quartermaster's Mate 操舵兵曹 ボートに追放
ジョン・ウィリアムス
John Williams
26 Armourer's Mate M 武器兵曹 ピトケーン島移住
トーマス・マッキントッシュ
Thomas McIntosh
28 Carpenter's Mate A 船大工 タヒチに置き去り
チャールス・ノーマン
Charles Norman
26 Carpenter's Mate A 船大工 タヒチに置き去り
ジョン・ミルス
John Mills
38 Gunner's Mate M 砲術兵曹(砲手) ピトケーン島移住
ウィリアム・マスプラット
William Muspratt
27 Tailor M P 仕立屋 タヒチに置き去り
ジョン・スミス
John Smith
36 Steward 執事(スチュワード) ボートに追放
トーマス・ホール
Thomas Hall
38 Cook 主計長 ボートに追放
リチャード・スキナー
Richard Skinner
22 Barber M 散髪屋 タヒチに置き去り
ジョン・サムエル
John Samuel
26 Clerk 書記 ボートに追放
ウィリアム・ブラウン
William Brown
27 Gardener's Assistant 植木屋(庭師) ピトケーン島移住
ロバート・ラム
Robert Lamb
21 Butcher 肉屋 ボートに追放

Able
Seamen
(11)
ジョン・アダムズ
John Adams
20 Able Seaman M 上等水兵 ピトケーン島へ移住
トーマス・バーキット
Thomas Burkitt
25 Able Seaman M E 上等水兵 タヒチに置き去り
マイケル・バーン
Michael Byrne
28 Able Seaman A ヴァイオリン弾き タヒチに置き去り
トーマス・エリソン
Thomas Ellison
17 Able Seaman M E 上等水兵 タヒチに置き去り
アイザック・マーティン
Isaac Martin
30 Able Seaman M 上等水兵 ピトケーン島移住
ウィリアム・マッコイ
William McCoy
25 Able Seaman M 上等水兵 ピトケーン島移住
ジョン・ミルワード
John Millward
21 Able Seaman M E 上等水兵 タヒチに置き去り
マシュー・クインタル
Matthew Quintal
21 Able Seaman M 上等水兵 ピトケーン島移住
ジョン・サムナー
John Sumner
22 Able Seaman M 上等水兵 タヒチに置き去り
マシュー・トンプソン
Matthew Thompson
37 Able Seaman M 上等水兵 タヒチに置き去り
ジャムス・ヴァレンタイン
James Valentine
39 Able Seaman D 上等水兵 事件前に死亡
艦長の一行19人、反乱者25人、事件前死亡2人、計46人 赤字はピトケーン移住者タヒチで別行動の3人





艦長の気質(かんちょうかたぎ)
1853

艦長の資質と尉官制度の採用
TURKS & CAICOS ISLANDS
たたき上げ(水夫上がり)の艦長
Tarpoulin Captain

(画像は砲兵士官)
タークスカイコス 1975/3/26 発行
PITCAIRN ISLNDS
良家出身の艦長
gentleman captain

(画像はクリスチャン副長)
ピトケーン 1989/4/28 発行

▼艦長の資質と尉官制度の採用
・出来の悪い良家出身の艦長:〜当時のイギリスでは、
水夫上がりの艦長(tarpoulin captain)は、通常、多くの船員にくらべれば長い訓練を受 け、航海に責任を持つ帆走長を経由して昇進した艦長であるが、その時代の終わり頃には、 後甲板の地位に登れるのはごくまれな例になってしまった。18世紀中頃のビクトリア海軍の特徴となった硬直した状態にはなっていなかったとはいうものの、階級の区別は固まりつつあっ た。
水夫上がり艦長よりも、良家出身艦長(gentleman captain)が多くなったことで、艦内は どうなったか。。。。。王政復古の教訓が受けとめられていないところから、規律問題について一般乗組員よりも士官の方に苦労させられていた。共和政の民主的な雰囲気のなかで指揮官に昇進した水夫上がりの艦長にくらべ、良家出身艦長の気質のあり方が、事件の原因となっ ていた。士官になった廷臣や素人のなかには、常習欠勤、泥酔、出帆遅滞、不必要な従者の乗艦などで告発されている。そうした艦長は、「自分の気まぐれ」でもって、自分の乗組員を「ダメ」にしていた。それを是正するため、尉官試験を導入した。
それでも、18世紀末におけるフランスとの戦争は、水夫たちが士官に昇進できる絶好の機会となった。しかし、ルイス教授が、ネルソン時代の士官の構成を分析したところでは、下甲板 の船員が後甲板の士官に任命される機会は、2500人に1人であったと評価している。そうした士官になれたものでも、その70%は尉官以上には昇進できず、2.5%が将官(flag rank)に なれたにすぎない。
戦後、海軍がその要員規模を急激に削減したため、士官でさえ昇浄困難になり、水夫の 昇進機会はまったく閉ざされてしまった。士官とその他乗組員の階級区別が明確となり、また 強制徴発にたよらずに乗組員の定着をはかるため、1853年に一般水夫(ordinary seaman)、上等(有能)水夫(able seaman)の上に先任水夫(leading seaman)という等級と、下士官 (petty officer)という階級を新しく設け、下甲板の船員の昇進機会を用意せざるをえなくなっ た。

水夫上がりの艦長(tarpoulin captain)〜通常は多くの船員にくらべれば長い訓練を受 け、航海に責任を持つ帆走長(Sailing Master)を経由して昇進した艦長
良家出身艦長(gentleman captain)〜廷臣や素人で良家出身というだけで士官から艦長になった者の中には、「常習欠勤」、「泥酔」、「出帆遅滞」、「不必要な従者の乗艦」などで告発されている。そうした艦長は、「自分の気まぐれ」でもって、自分の乗組員を「ダメ」にしていた。
・1853年に、強制徴発にたよらずに乗組員の定着をはかるため、
尉官試験を導入し、士官とその他乗組員の階級区別が明確となる:〜
・水兵(ordinary seaman)、
・上等水兵(able seaman)の上に
・先任水兵(leading seaman)という等級と、
・下士官(petty officer)という階級を新しく設け、
下甲板の船員の昇進機会を用意しました。
参考HP:〜
 ・バウンティ号の反乱の図
 ・ハンプシャー(スピットヘッド)の地図
 ・スピツヘッド海峡近くのポーツマス港

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0113  2007/4/20、 09/12/30、令和 R.3/2/4 (2021)
スタンプ・メイツ
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