Botswana 国連 1986 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.41
ボツワナ共和国 Republic of Botswana |
大航海物語 地図編★ |
BOTSWANA ボツワナの場所地図 (赤色) |
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コンゴ民主国 ザンビア . | ||
ナミビア→ | ←タンザニア ←モザンビーグ ←ジンバブエ(青色) ←モザンビーグ ←レソト ←南アフリカ |
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ベチュアナランド(赤色:現ボツワナ)のイギリス保護領宣言(1885/9/30)90周年記念小型シートより ボツワナ 1975 発行 |
Botswan ボツワナの地図 ボツワナ 1996 発行 |
アンゴラ→ ←ボツワナ→ |
MALAWI ボツワナの場所地図 マラウイ 1985 発行 |
ボツワナの地図 (旧区分地図) |
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ンガミランド→ ベチュアナランド保護区→ 英領ベチュアナランド(黄)→ 南アのケープ州(茶)→ |
←マタベレランド ←オカバンゴ(青色) ←トランスバール ←オレンジ自由国(茶) |
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1885 イギリス保護領宣言100年記念 1985 ボツワナ 1985 発行 |
SWA オカバンゴ大湿原の場所地図(青) カプリビ回廊の場所地図 SWA 1986 発行 |
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マガディカディ塩湖のスア湖の フラミンゴ Flamingos、Sua Pan |
ブラワヨ〜マフィケングの地図 ジンバブエ南西ブラワヨ〜南アフリカ北西州セントラル郡マフィケング間ルート地図 ボツワナ 1972 発行 |
マガディカディ塩湖の サバンナの木”バオバブ” Makgadikgadi Pan tree |
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マガディカディ塩湖のヤシの木と アフリカ最大のシマウマ Zebra、Makgadikgadi Pan Palm tree 環境保護(Environmental Protection)記念 ボツワナ 1994/8/30 発行 |
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イギリス保護領宣言 1895 ボツワナ 1995 発行 |
ボツワナ鉄道 ボツワナ 1992 発行 |
ツォディロ丘の岩絵 ボツワナ 1975 発行 |
ボツワナの河川 (チョベ川) ボツワナ 2001 発行 |
ボツワナ共和国 Republic of Botswana 旧名:イギリス保護領ベチュアナランド (British Bechuanaland Protectorate、1885/3/31-1966/9/30) ・面積:58.2万u(日本378千kuの約1.5倍) ・人口:約188万人(2007)、人口増加率:1.2%(2007)、約203万人(2011) ・首都:ハボローネ(Gaborone)、人口:231,626人 (2011)、標高1,014mの高地に有 ・民族:ツワナ族、カランダ族、ムブクシュ族など ・言語:英語、ツワナ語(国語)、宗教:キリスト教、伝統宗教 ・通貨:プラ(BWP)、1BWP=12円(2009/4月) ・独立:1966/9/30(イギリスから独立)、国連:1966/10/17加入、1番切手:1966/9/30発行 ・GDP(国内総生産)約390億ドル(2017)PPP:購買力平価説(118位)、1人当 17,021ドル 国際比較はこちらを参照。 ボツワナの気候は国土の2/3が南回帰線内の熱帯に属する亜熱帯の乾燥気候だが、全体的に平均標高1,0/00mの高原地帯のため比較的穏やかで、南部と西部はカラハリ砂漠の影響で砂漠気候。日本の四季とは逆で、ボツワナの冬は暖かいが、夕方から夜にかけては冷たい風が吹き、夏は非常に暑くなる。雨季は11〜3月、乾季(4〜10月)にはカラハリ砂漠から熱風が吹いてくる。1月、2月が最も雨の多い月とされている。10月と4月は乾期と雨期の変わり目で、雨はだいたい夏の雨季に降り、冬(5〜7月)には5℃を下回ることも有り、年間降水量(250〜700mm)の10パーセントしか降らない。 ボツワナには3つの‘世界一’がある。 (1)「世界で一番大きな内陸デルタ」〜 オカバンゴデルタ(オカバンゴ大湿地帯)で、面積15,000ku、世界一大きな内陸デルタ。周辺が砂漠なので、満々と水を湛えた風景は奇跡と言っても過言でない。モコロ(Mokoro)と言われる木をくりぬいた小さな丸木舟(船頭付き)で、パピルスや葦の群生する水路の中を回遊する。 (2)「世界一大きな塩湖」〜(乾季のオカバンゴ湿地帯) マガディカディ・パン(Makgadikgadi Pan、塩類平原、マカリカリ低地)で、セントラル・カラハリの北東部にあるマガディカディ&ナイ・パン国立公園には、世界一大きな塩湖が広がっている。雨のあとの12〜4月の間には、無数のヌーやフラミンゴなどを観察できるオカバンゴデルタになる。 なお、南米のボリビアにはウユニ塩湖が、ナミビアにもエトーシャ塩湖が有。 (3)「世界一短い国境」〜 ボツワナとザンビアとはチョベ川とザンベジ河の合流点”シングル・ポイント”カズングラ(kazungula)で区画される。なお、2番目に短い国境線はバチカン市国とイタリアの間で、約4km。 ボツワナに最初に定住したのは、他の南部アフリカの国同様サン族(ブッシュマン) 1400〜1800、現在ボツワナの最大の民族、バントゥー系のツワナ族が定住を始める 1820〜1830にシャカ王(Shaka 1787-1828)が率いるズールー族(Zulu)の侵攻を受ける 1835年、ボーア人の「グレート・トレック」が始まる 1854年、リヴィングストンがルワンダからボツワナへの道を初めて踏破 1866年、南アのハウテン州ウィットウォーターズランド(Witwatersrand)で金が発見され、 ゴールドラッシュが起こってヨハネスブルグが建設され、ボツワナでも金鉱探しが発生 1870年頃からボーア人の侵攻を受け、カーマ3世はイギリスに保護を求める 1885/9/30、イギリスの保護領ベチュアナランドとなる 1895年、イギリスの保護領ベチュアナランドが再宣言される 1891年、駐南ア英高等弁務官の管轄となる 1893年、ベチュアナランド鉄道会社が設立され、 フライバーグから現南ア国のマフェキングにまで鉄道が建設される 1897年、近くで金が発見されてゴールドラッシュが起こりフランシスタウンが建設される 鉄道が現ジンバブエのブラワヨと結ばれる 1899年、ローデシア鉄道会社に運営が移管される 1902年、鉄道がジンバブエの首都ハラレ(旧ソールズベリ)と結ばれる 1962年、後に初代大統領となるツワナ族のセレツェ・カーマが ベチュアランド民主党(後にボツワナ民主党BDPに改称)を結成 1965年、総選挙 1966年、ボツワナ共和国として独立、初代大統領にカーマ大統領就任 独立当初は反南アフリカ政策をとっていたが、アパルトヘイト撤廃以来、 南アフリカとの関係も改善され、欧米との関係もよく、政治的にも安定 1980年、マシーレ大統領就任 1998/3/31、マシーレ大統領引退 1998/04/01、モハエ大統領就任 1999/10/20、モハエ大統領再任 2004/11/02、モハエ大統領再任 2008/03/31、モハエ大統領引退 2008/04/01、カーマ大統領就任。 ボツワナは10のディストリクト(District, 2006)に区分され、 さらに28のサブ・ディストリクト(Sub-District)に分けられる。
1.中央(セントラル)地区(Central)〜地区都:セロワ(Serowe) 主要都市はパラペ、セロウェガで、 南アフリカ共和国との国境を流れるリンポポ河は時おり鉄砲水をもたらし、ボテティ川、 レパシェ川などの季節河川がマガディカディ・パン塩湖へ流れる込む。 サブ・ディストリクトは:〜 ・ボボノン (Bobonong) ・ボテティ (Boteti) ・マハラピェ (Mahalapye) ・オラパ (Orapa) ・セレビ=ピクウェ (Selebi-Phikwe) ・セロウェ/パラペ (Serowe/Palapye) ・ソワタウン ( Sowa Town) ・トゥトゥメ (Tutume)。 2.ハンツィ地区(或はハンシー県、Ghanzi District)〜ハンツィ(Ghanzi)、カラハリ砂漠の中部に あり、保護区ではサンのうちのガナ、グイ(グウィ)と呼ばれる人々が先住し、バントゥ系のカ ラハリ人などが居住していたが、カデなどに定住化が進められ、1997年には観光のために 西部のニューカデなどに移住を強いられ、裁判闘争などの結果一部が保護区内に戻った。 中央カラハリ動物保護区が有。 ・ハンツィ (Ghanzi)。 3.カラハリ地区(Kgalagadi District)〜チャンボン(Tshabong) ・北カラハリ (Kgalagadi North)Hukuntsi Kang Tshabong ・南カラハリ (Kgalagadi South)。 4.カトレング地区(Kgatleng District)〜モチュディ(Mochudi)、ボツワナ南東部の行政区 ツワナ系のカトラ族の根拠地 ・カトレン (Mochudi)。 5.クウェネン地区〜モレポロレ(Molepolole)、主要都市はモホディツァネ (Mogoditshane) タマハ (Thamaga)、ハバネ (Gabane)、コポン (Kopong) ・西クウェネン(Kweneng East) ・東クウェネン(Kweneng West)。 6.北西(ノースウェスタン)地区〜マウン(Maun)、オカバンゴ大湿原、ンガミ湖(Lake Ngami) ・チョベ (Chobe)-----→No.10(2006)へ分離 ・デルタ (Delta) ・東ンガミランド (Ngamiland East) ・西ンガミランド (Ngamiland West)。 7.北東(ノースイースタン)地区〜マサンガ(Masunga) ・フランシスタウン (Francistown) ・ノースイースト (North East)。 8.南東(サウスイースタン)地区〜ボツワナの首都:ハボローネ(Gaborone) ・ハボローネ (Gaborone) ・ロバツェ (Lobatse) ・南東(サウスイースト) (South East)。 9.南部(サザン)地区〜カニェ(Kanye) ・バロロン (Barolong) ・ジュワネン (Jwaneng) ・ングワケツェ (Ngwaketse) ・西ングワケツェ (Ngwaketse West)。 10. チョベ地区〜カサネ (Kasane) チョベ地区自体はイギリス保護領時代のベチュアナランドからあり、2001年まで存続。2001年にチョベ地区とンガミランド地区(Ngamiland)が合併して現在のノースウェスト地区(北西地区)となるも、2006年に旧チョベ地区が分離。 <ボツワナの世界遺産>〜2件 ・ツォディロ(サン)の岩絵(砂漠のルーヴル)、文化遺産 (2001) ・オカヴァンゴ・デルタ、自然遺産 (2014)。
・ツォディロの世界遺産:〜(サンの岩絵) ツォディロは、ボツワナの北西部にある地域。カラハリ砂漠の15キロ四方に広がる鮮やかな4500以上の岩絵群は、「砂漠のルーブル」の異名をとり、主に岩絵を描いたのはサン人で、彼らの世界観や美術様式を理解する上で、重要な拠点となっている。ボツワナ唯一の世界遺産。
・ボツワナの感染症(病気):〜 病気はエイズ(HIV)、マラリア、狂犬病などがあり、ここでは性交渉はしない方がよいと旅行案内なんかに書いてある。また、平原とかにキャンプしていると、二人組の自転車の男が「辺境の管理人」として登場、巡回をかねキャンプ料を徴収してくる。何処へ行っても金を取られるそうだ。この施設と管理で公園入場料が一人一日約3,200円、車持ち込み代が一台一日約1,300円、くわえてキャンプ場使用料が一人一日約800円、つまり一日5,300円という金額が何んの安全保障もなく徴収される。「金持ちだけを相手にしよう」、「高価格で自然を守ろう」との考えだそうな(2003)。 <ボツワナの主な河川:>:〜
・オレンジ河水系:〜 ・モロポ川水系 ・ノッソブ川 (Nossob River, 790km) 南アとボツワナのクガラガディ・トランスフロンティア・パーク(Kgalagadi Transfrontier Park)へ注ぐ。 ・モゼルベ川 (Moselebe River, ?) ボツワナのカラハリ砂漠へ注ぐ。 参考HP〜 クガラガディ・トランスフロンティア・パークの場所地図 ◆河口がインド洋:〜 ・ザンベジ河水系 の支流:〜 ・チョベ川(クワンド川:Cuando River, 731km) クワンド川はナミビア北東部のカプリビ回廊からチョベ川をへてザンベジ河へ合流 ・リニャンティ川(Linyanti River)、クワンド川の東部での呼称 ・マクウェガナ川(Makwegana River)、オカバンゴ・デルタが洪水時の川 ・セリンダ・スピルウェイ (Selinda Spillway)、マクウェガナ川洪水時の余水吐。 ・リンポポ河の支流:〜 ・シャシェ川(Shashe River,) ・ラモクウェベナ川(Ramokgwebana River)、タチ黄金郷(Tati Goldfields)へ注ぐ シャシェ川の手前で、ボツワナとジンバブエの境界の一部になる ・タチ川(Tati River)、フランシスタウン近郷 1886年に金が発見された川 ・モトラウト川(Motloutse River)、レツィボゴ・ダム(Letsibogo Dam)とニッケル鉱山有 ・ロッツァーネ川(Lotsane River)、カラハリ砂漠東部へ注ぐ ・セロローム川(Serorome River)、ボツワナ中央地区を流れリンポポ川と合流 ・ノトワネ川(Notwane River)、ボツワナ南東部の南ア国境を流れリンポポ川と合流 ・メッツィモトラベ川(Metsimotlhabe River)、ボツワナクウェネン地区からノトワネ川と合流 ・マリコ川(Marico River)、ボツワナ南部の南ア国境を流れリンポポ川と合流 南アの南西州グルート・マリコ町(Groot Marico Town)の名はこの川に由来。 ◆河口がオカバンゴ・デルタ:〜 ・オカバンゴ河(Okavango River)、 ・ンガマセリ川(Ngamaseri River)、オカヴァンゴデルタへ染み込む川 ・クワイ川(Khwai River) オカヴァンゴデルタでモレミ狩猟保護区(Moremi Game Reserve)の北境界を形成 ・エイセブ川(Eiseb River)、オカヴァンゴデルタへ染み込む川 ・クオーダム川(Xaudum River)、オカヴァンゴデルタへ染み込む川。 ◆河口がマガディカディ塩湖:〜 ・ボテティ河(Boteti River, 1,700km)、雨季のオカヴァンゴデルタで流れタマラカン川へ
・オリファント川 (Olifants River, 560km) オリファント(レタバ)川はリンポポ河の支流で、河口があるモザンビークのシャイシャイ近くで合流する。オリファント川は船による航行が可能であるも、砂州があるので大きい船は満潮時以外航行できない。 ・ナタ川 (ボツワナでの呼称:Nata River, 330km) 別名:アマンザニャマ川(ジンバブエでの呼称:Amanzanyama River) ナタ川は、アフリカ南部の川で、ボツワナ国内では、限られた雨季の間だけマカディカディ塩湖に現れる湿地の水源となっており、同塩湖では数多くの生息地域限定種が繁殖している。ナタ川はマカディカディ塩湖のスアパン低地へ向かって流れ注ぎ、そこからボツワナ東部とジンバブエ南西部の地域へと流れ着く。 ・レパシェ川 (Lepashe River) レパシェ川は、ボツワナ中央地区レパスヘ村(Lepashe village, 2001年347人)を流れている。レパシェ川はスアパン低地へと流れ着く。レパシェ川の周辺には、重要な砂利資源がある。
<旧イギリス植民地と切手の地名>
ンガミランドは、現ボツワナ北部行政区の北西地区(ノースウェスト地区)で、2001年にそれまでのチョベ地区とンガミランド地区が統合され設置。 ・英領ベチュアナランド (British Bechuanaland、1885-1895) ベチュアナランドはチュアナ族の国という意味で、広義のベチュアナランドは2つの地域から構成され、南部はイギリス領ベチュアナランドという植民地、北部はイギリス保護領ベチュアナランドとして、それぞれ別個の行政体として統治されていた。南部はその後南アフリカのケープ植民地に組み込まれて南アフリカ共和国の一部となる。 ・ベチュアナランド保護区 (British Bechuanaland Protectorate、1885/3/31-1966/9/30) ベチュアナランド保護区は、南部アフリカの現ボツワナにあったイギリスの植民地保護領。 ・南アのケープ州 英領ケープ植民地(Cape Colony、1795-1910)は現南アフリカ共和国のケープ州。 ・オレンジ自由共和国 (Orange Free State, 1854-1902) オレンジ自由国はオレンジ河とその支流ヴァール河(Vaal River, 1,120 km)に挟まれた地域にオランダ系移民ボーア人が建国。なお、ヴァール河の対岸(北側)には、「ヴァール河の向こう」を意味するトランスヴァール共和国(Transvaal Republic (南アフリカ共和国:South African Republic), 1852-1902)をボーア人が建国。 ・トランスバール ・英領トランスバール(Transvaal Colony, 1877-1881, 1902-1910) ・トランスヴァール共和国(Transvaal Republic, 1852-1902) 別名: 南アフリカ共和国(South African Republic) 1886年にトランスヴァール共和国内のヨハネスブルグ(現南ア国のハウテン州)近郊で豊富な金の鉱脈が発見されてゴールドラッシュ (ボツアナでは1897年北東地区フランシスタウン) が起こったことが、トランスヴァール共和国にとって大きな転機となった。財政難のため開発は外資の都合に左右され、1891年にはセシル・ローズ(Cecil John Rhodes、1853-1902)の要求で保有する鉄道の終点をオランダ東インド会社が設立したケープ植民地(Cape Colony、1803-1806、英領 1795-1910)に移した。翌年からはロスチャイルド(Rothschild family)が起債交渉を始め、1894年にはポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)の港湾都市ロレンソ・マルケス(現マプート)に至る鉄道が開通した。また、翌年には南ア国ナタールのダーバンとも鉄道で結ばれた。結局、ヨハネスブルグはボーア戦争(Boer Wars、第1次:1880-1881, 第2次:1899-1902)に勝利したイギリス領となる。 こちらで、 ・アメリカ ・オーストラリア のゴールドラッシュをお楽しみください。 ・マタベレランド (Matabeleland) マタベレランドは旧イギリス領で、現在ジンバブエの3つの州、北マタベレランド・ブラワヨ・南マタベレランド(Matabeleland North、Bulawayo、Matabeleland South)に分けられている。これらの州はリンポポ川とザンベジ河の間、ジンバブエの西と南西にある。この地域の名前は、その住民のンデベレ人にちなんでいる。 参考HP〜 ボツワナの州区分地図 ボツワナの地図 ボツワナの細部地図 ボツワナの鉄道地図(場所地図) ボツワナの鉄道地図(駅名入り) ツォディロの世界遺産の場所地図 ボツワナ大使館の公式HP(日本語) 09/9/10 |
参考:〜 ・リビングストンの探検と布教:〜 ボツワナを訪れた最初の宣教師はプロテスタント系のロンドン伝道協会に属していたロバート・モフェットで、1820年のことでした。しかしツワナ人への布教は失敗に終わりました。ヨーロッパ人はイスラム以外のアフリカ人は抽象的な思考をもたず、キリスト教の福音をすぐさま受け入れると考えていましたが、ツワナ人は生命力概念を中核とした人間(ムンツー)中心のバンツー哲学に通暁しており、生活習慣、文化と密接な関係をもっており、これを退けることは難しかったのです。20世紀末の現在においても統計上は国民の60%がキリスト教徒となってはいるものの、定期的に教会に顔を出すものは20%以下であり、どのような宗教的な助言を受け入れるかという視点では、大部分が伝統的宗教に属しています。ルワンダからボツワナへの道は交通路、交易路として全く用いられておらず、交通条件は劣悪だったのを、1854年にデイヴィッド・リヴィングストンが初めて踏破しました。
・ボツワナのポルトガル人との接触:〜 ポルトガル人はインド洋航路の補給基地として、アフリカ大陸の東に浮かぶモザンビーク島と、ンドンゴ王国(Kingdom of Ndongo)が栄えていた現在のアンゴラの中心に商館を設置しました。ポルトガル人はアンゴラ内陸部を探検し、アンゴラ植民の5年後に奴隷貿易を開始。1580年に始まった奴隷貿易はポルトガル領のブラジルの農園へ大量の奴隷を送り込む必要があったため、1863年に廃止されるまで継続。アンゴラとボツワナは「隣国」同士であり、ポルトガル人の探検隊も南西に向かってボツワナへと進んで行きましたが、ルワンダからボツワナへは達しなかったので、奴隷貿易の中心地はナミビア北部となり、ボツワナは奴隷貿易の対象とはなりませんでした。 ・オランダ人との接触:〜 最初にアフリカ南部に定住したヨーロッパ人のオランダ人は、1602年にオランダ東インド会社を設立すると、1652年には現在のケープタウンに近いテーブル湾に中継点を設置。このときオランダ人は現地人のコイ族に出会いました。1657年には農業を開始、その後、移民費用をオランダ東インド会社が負担することになると、移民の数は急増、1708年には1441人になりました。移民の中核はオランダ本国の農民(ブーア)でした。ケープ植民地はドラケンスバーグ山脈の支脈の一つボッシュベルグ山脈の南方の幅1000kmの範囲に広がっていました。ここでボーア人と現地人のサン族が出会いました。3次に亘る英蘭戦争の結果、オランダ人の植民地は永続せず、オランダの海上貿易が衰退、1794年にはオランダ東インド会社自体が倒産。本国からの支援が得られないケープ植民地は1795年、反乱を起こすも、オランダは反乱を鎮圧することもできませんでした。ナポレオン(戦争)と戦っていたイギリスは、ケープ植民地の支配権がフランスに渡ることを恐れ、同年にケープタウンを占領。その後、1803年から3年間、一時的にオランダ支配が戻るも、1803年に始まったイギリスとフランスの戦闘により、1806年にケープタウンを再占領し、1814年にはウィーン会議の議決によりケープ植民地がイギリスに譲渡されました。 ・ボーア人との接触:〜 ボーア人はボツワナにこそ到達しませんでしたが、甚大な影響を与えました。まずボーア人のつれて来た家畜が問題で、当初コイ族やサン族は、ボーア人の家畜を野生動物と見なし、狩猟の対象としました。サン族は使役できないため抹殺の対象となり、ボツワナ西部のカラハリ砂漠に逃れて隠れることになりました。コイ族は自らも家畜を所有していたため、サン族のように移動はできず、サン族とは異なり、ボーア人の土地所有も認めなかったため、虐殺の対象となり、わずかに残ったものはボーア人の奴隷となりました。ケープ植民地に暮らしていたンデベレ人などバンツー系民族は1820年頃からしだいに北に追いやられていき、ボツワナとの境界となっていたリンポポ川を越えてさらに北に移住せざるを得ませんでした。しだいにボツワナの人口は過剰となり、バンツー系民族同士の抗争が激しくなっていきました。 ・ズールー王国の拡大:〜 ケープ植民地の最前線、現在の南アフリカ共和国東部のダーバン周辺を国土としていたズールー王国では、1816年にシャカ王が即位。シャカは王となる以前から国土を拡張する計画を持ち、独身の青年からなる軍隊を組織し、最初の標的となったのはケープ植民地ではなく、ズールー王国の西や北に隣接する他のアフリカ人でした。1820年から1830年にかけてズールー戦争が拡大し、現在の南アフリカ共和国に居住していたツワナ人のほぼすべてがボツワナ及び隣接地域に逃れることとなりました。ツワナ人はこの時期をディファカネ(受難)と呼んでいます。 こちらで ・オカヴァンゴ大湿原 ・マガディカディ塩湖 ・ボツワナの鉄道 ・タンザニア鉄道 ・スパイス (香辛料) 世界遺産の ・サンの岩絵 (ボツワナ) ・ドラケンスバーグの岩絵 (南アフリカ) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/8/9、令和元年 1/11/11 追記 |