Rwanda 国連 2018 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.38 ルワンダ共和国 Republic of Rwanda |
大航海物語 地図編★ |
REPUBLIQUE RWANDAISE 独 立 記 念 ルワンダの1番切手 INDEPENDANCE 1962 ルワンダ 1962/7/1 発行 |
ハタオリドリ Weaver ルワンダ 1967 発行 |
アカゲラ国立公園 Akagera National Park ルワンダ 1969 発行 |
花:ハイビスカス 鳥:オナガカエデチョウ Common Waxbill, Hibiscus ルワンダ 1972 発行 |
ハタオリドリ Weaver (Ploceidae) ルワンダ 1983 発行 |
バナナの一房 ルワンダ 1963 発行 |
大阪万国博覧会記念 ルワンダ 1970 発行 |
ペリカン ルワンダ 1975 発行 |
民 族 衣 装 | |||
ルワンダ 1973 発行 | ルワンダ 1970 発行 |
ルワンダ共和国 Republika y'u Rwanda (ルワンダ語) 英:Republic of Rwanda 仏: Republique du Rwanda 面積:2.63万ku(日本の約倍)、人口:約1,191万人(2016) 首都:キガリ(Kigali)、GDP:30.09億ドル(2015) 民族:フツ族、ツチ族、トゥワ族など 言語:ルワンダ語、英語(2009年公用語に追加、フランス語に代わって教育言語となる) フランス語、スワヒリ語など 宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)、イスラム教など 1番切手:1962/7/1発行。 ・ルワンダ共和国の略史:〜 11世紀頃、ルワンダ王国(Kingdom of Rwanda, 11世紀-1962)建国 牧畜民系ツチ族王が農耕民系のフツ族を支配 1889、ドイツの保護領、ドイツ植民地時代の植民地政府は間接統治方式をとる 1890、ドイツ保護領のドイツ領東アフリカの一部 第一次世界大戦(1914-1918)終結までドイツ領東アフリカ(1885-1918)の一部になる 1916、ベルギー軍による侵攻・占領、ベルギー植民地時代 1918、ルアンダ=ウルンディ(ベルギー委任統治)、少数派ツチが中間支配層になる 1922、ベルギーの委任統治領となる(ルアンダ・ウルンディ(Ruanda-Urundi、1922-1962)の一部) 国際連盟の委任統治:1924-1945、国際連合の信託統治:1945-1962 1946、ベルギーの信託統治領となる(ルアンダ・ウルンディの一部 1959、国王(ムワミ)ムタラ3世がベルギー当局のワクチン接種後に不可解な死を遂げると、弟の ンダヒンドゥルワ(キゲリ5世:Kigeli V Ndahindurwa、1935-2016、ルワンダ王(ムワミ:Mwami、 在位:1959-1961)が即位すると、ツチ人とベルギー当局の関係は急速に悪化 11月にフツ人の大規模な反乱(万聖節の騒乱)が発生、ベルギー軍は軍政を施行 1961、キゲリ5世がキンシャサで開催される国際連合事務総長ハマーショルドとの会談へ外遊中、 ベルギー支援のドミニク・ムボニュムトゥワがクーデターで、王政存廃に関する国民投票実施 その結果、キゲリ5世は廃位され、共和制国家の樹立が決定され ルアンダ=ウルンディ初代大統領にフツのドミニク・ムボニュムトゥワが就任 1962/7/1、ベルギーからルワンダ共和国で独立、政情不安でジェノサイド(大量虐殺)に繋がる ルアンダ=ウルンディ第2代大統領だったフツ族グレゴワール・カイバンダがルアンダ共和国 初代大統領に就任、独立直後のルワンダは最貧国の一つで、財政は大幅赤字状態 1963、亡命ツチ系武装勢力が一時首都キガリから14kmまで迫るなど、深刻な状態となる 1966、経済再建計画を開始後の成果で、ルワンダ紛争勃発までの約20年は アフリカの模範生としてほぼ一貫して発展を続けるも、フツ族のカイバンダ政権には ツチの閣僚もいるものの、政治的にはツチを排除する政策が取られる(フツ至上主義) 1973、7月にクーデターで、フツ族ジュベナール・ハビャリマナが第2代大統領に就任し、開発と 独裁を行う一方、ツチに対しては和解政策を進め、政治分野以外での抑圧は減少 1980年代末、ルワンダは大きな発展を遂げるも、一方で都市化の進展や環境破壊が起こる 1982、所得分配の不平等などの指数のジニ係数(Gini coefficient)が”0.357”となる 1992、ジニ係数が社会騒乱の危険ラインを超える”0.583”に悪化、後の紛争の芽が育まれ始める 1987、コーヒー価格が暴落、貧富の差が拡大 隣国ウガンダに逃れていたツチ系難民主体のルワンダ愛国戦線 (RPF) が結成される 1990、10月にルワンダ愛国戦線(RPF)がウガンダから侵攻、ルワンダ紛争 以降にルワンダ帰還を目指したRPFとルワンダ政府の間で内戦(ルワンダ内戦)勃発 タンザニアやザイールは”RPF”の攻撃をウガンダによる武力侵攻であるとして派兵 経済低迷や政治的混乱の中、さらに”RPF”の侵攻に晒された第2代大統領ハビャリマナは これまでの和解政策を改め、反ツチのイデオロギーを掲げる 1993/8/4、戦況の膠着からルワンダ政府と”RPF”の間でアルーシャ協定(和平合意)が調印される 同協定の遵守を支援するため国連平和維持部隊が展開するも、 急進的なフツ至上主義の台頭による政情悪化が収まらず 1993/10/5、国際連合ルワンダ支援団が活動を開始(〜1996) 1994/4/6、ルワンダとブルンジの大統領搭乗機がキガリ着陸時に地対空ミサイルで撃墜される このルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのンタリャミラ両大統領暗殺事件を発端に、 政府と暴徒化したフツによる、ツチ族と穏健派フツ族に対するルワンダ大虐殺が勃発 この結果、約100日間の内、当時のルワンダの総人口約730万人中、約80万〜100万人が 殺害され、虐殺は、その勃発を受けて侵攻を再開したRPFがルワンダ全土を掌握して終息 フツのビジムングが大統領、RPFのポール・カガメが副大統領とする新政権が樹立される ルワンダ大虐殺で約210万人もの大量難民が周辺国に流出、大湖地域の難民危機が発生 難民はRPFによる報復を恐れたフツの一般人と、旧フツ政権指導層&軍や民兵の組織的な 大量疎開で、このうちの後者は「難民キャンプをルワンダ奪還に向けた軍事拠点にしようとの 旧フツ政権指導部による計画的な疎開として戦争の継続ともいわれる 7月、RPFが全土を完全制圧(ビジムング&カガメ政権)してルワンダ情勢は安定に向かうも、 難民の本国帰還は進まず、周辺諸国が大湖地域の難民危機(1994-2003)となる 同年、ツチ主導のルワンダ新政府の要請を受けて国連安全保障理事会は、ルワンダ領域内 と隣接諸国でジェノサイド(大量虐殺)や非人道行為を行った者を訴追・処罰するための ルワンダ国際戦犯法廷を設置、現在も審理が続いている 1996、大湖地域の難民危機は、第一次コンゴ戦争(1996-1997)で、周辺8ヵ国が介入の事態となる 1996/3/8、国際連合ルワンダ支援団が活動を打ち切りとなる(1993〜) 1997、大湖地域の難民危機は、隣国ザイールでのモブツ政権崩壊へと波及 1998、大湖地域の難民危機は、第二次コンゴ戦争(1998-2003年)の遠因となる 1999、内戦前の水準へと回復、 内戦時代に海外へ脱出(ディアスポラ)したツチのうちの200万人近くが戦後帰国し、海外で 習得した様々なスキルで国の復興に尽力する、21世紀に入り顕著に近代化が進み、 「アフリカのシンガポール」とか「アフリカの奇跡」と呼ばれる 毎年の経済成長率が7%前後と急成長を遂げ、首都のキガリは中国企業などルワンダで 最も高いランドマークのキガリ・シティ・タワー(20階)はじめ近代的建物や道路が建設される 2000、ビジムング大統領が辞任、ツチ族のポール・カガメが第5代大統領に就任(カガメ政権) 内戦によりルワンダの産業・経済は深刻な打撃を受けるも、ICT立国を目指し、ICTの普及・ 整備に力を注ぎ、激しい反体制派への弾圧などで自らの権力基盤を強化(独裁的政治) 2015、憲法第172条が改正され、カガメ大統領が2034年まで大統領職にとどまることが可能となる
2003、9〜10月に上院・下院議員選挙(与党RPFの勝利) 2008、9月に下院議員選挙(与党RPFの勝利) 2009、11月にコモンウェルス加盟 2010、8月に大統領選挙でカガメ大統領が再選 2013、9月に下院議員選挙(与党RPFの勝利) 2015、12月に国民投票で憲法改正 (カガメ大統領が2017年の大統領選挙に立候補することが可能となる) 2017、8月に大統領選挙でカガメ大統領が再選。 ・ルワンダ共和国は2006/1/1に、5州に再編されました。
・2005年以前は11の県と、首都のキガリで構成されていました。
カゲラ川(Kagera River, 400 km)は、ブルンジに源を発し、ルワンダ・タンザニア国境、タンザニア・ウガンダ国境をへて、ヴィクトリア湖へと注ぐ川で、ナイル河源流の一つです。ルワンダ紛争でジェノサイド(大量虐殺)が起きた時、幾つもの遺体がこの川をへてヴィクトリア湖へと流れ着きました。 参考HP:〜公園の地図 2004年7月時点の衛星写真、園内北部の森林地域で密猟者による放火を原因とした火災が発生しており、赤い部分が火災中の箇所、灰色は既に焼失した箇所です。 ・世界遺産:〜(無) ルワンダには世界遺産は無く、世界遺産の条約承認は2000年で、 2012年の暫定リストには ・ルワンダ虐殺に関する 「ジェノサイド追憶の場」(Sites memoriaux du genocide)として、 ・ニャマタ〜東部州ニャマタ教会(Nyamata Church Genocide musium) ・ビセセロ〜西部州ビセセロ虐殺記念センター(Bisesero Genocide Memorial Centre) ・ギソジ〜キガリ州ギソジ虐殺記念センター(Gisozi Genocide Memorial Centre, Kigali, Rwanda) ・ムランビ〜南部州ムランビに「ムランビ虐殺記念館」が有 (参考HP:〜Murambi Genocide Memorial Center) が記載されています。 なお、首都キガリにも「キガリ虐殺記念センター」が有。 また、ルワンダには現在、7ヵ所の中央記念施設と約200ヵ所の地域記念施設が有。 ・ルワンダ内戦 (Rwandan Civil War, 1990/10/1-1994/7/18) 交戦勢力 ・ルワンダ愛国戦線”RPF”:約20,000人、ウガンダ軍 ・”RPF”:フレッド・ルウィゲマ(Fred Rwigyema, 1957-1990/10/2) ・”RPF”:ピーター・バインガナ(Peter Bingana, ?) ・”RPF”:ポール・カガメ(Paul Kagame, 1957-) ・ルワンダ政府軍”R”:約35,000人、フランス軍(1990-94)、ザイール大統領特殊師団 (1990-91) ・”R”:ジュベナール・ハビャリマナ(Juvenal Habyarimana, 1937-1994/4/6) ・”R”:テオネスト・バゴソラ(Colonel Theoneste Bagosora ,1941-) ・”R”:オギュスタン・ビジムング(Augustin Bizimungu、1952-) 1959年のルワンダ革命やその後の騒乱、クーデターなどで国外脱出をしたルワンダ人ツチ族系難民の子弟が、長期にわたってウガンダの難民キャンプでの生活を余儀なくされました。彼らはウガンダでもバニャルワンダと呼ばれて差別されました。かくして、彼らツチ系難民の多くの者が、ウガンダ内戦(1981-1986)で反政府軍側について戦い、その勝利に貢献して、ツチ系難民の指導者のルウィゲマ、カガメらは、ウガンダにおいて重要な地位を占めるようになりました。 1986年にウガンダ内戦が終結すると、ツチ系難民の指導者のルウィゲマ、カガメらは、ルワンダ愛国戦線 (Rwandan Patriotic Front:RPF、仏:FPR) を組織して、ウガンダを拠点にフツ族のハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させました。 (1)ルワンダ紛争 (Rwandan Civil War、1990/10/1-1993/8/4) 1990/10/1にルワンダ愛国戦(RPF)がウガンダからルワンダ北部に侵攻して内戦が勃発。1993/8/4に”RPF”の猛攻と国際世論の高まりで、タンザニアのアルーシャで和平協定(アルーシャ協定:1993/8/4)が締結されて和平合意に至り終結。10/5に国際連合ルワンダ支援団が設立されるも、すぐに和平は崩壊して騒乱が発生しました。 (2)ルワンダ・ジェノサイド (ルワンダ大虐殺:Rwandan Genocide、1994春) 犠牲者:50万人〜100万人 ルワンダ大虐殺(ルワンダ・ジェノサイド)は、1994/4/6に発生したルワンダのハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領(Cyprien Ntaryamira, 1956-1994/4/6)の暗殺で始まり、ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ族系の政府とそれに同調するフツ族過激派によって、多数のツチ族とフツ族穏健派が殺害されました。正確な犠牲者数は不明なるも、約50万〜100万人の間の、ルワンダ全国民の10%〜20%の間が殺害されたと推測されています。 (3)ルワンダ内戦再燃 (Rwandan Civil War, 1994春-1994/7/18) アルーシャ協定(1993)後の大統領の暗殺でルワンダ内戦が再燃(1994/4/6-1994/7/18)、ルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧して終結。 なお、ブルンジでも内戦が勃発。1993/10/21に隣国ブルンジのフツ族系のンダダイエ大統領が暗殺されると、フツ族によるブルンジ虐殺(Burundian Civil War, 1993/10/21-2005/5/1)が発生し、ブルンジ内戦(Burundian Civil War, 1993/10/21-2008)と呼ばれる報復合戦になりました。 ・大湖地域の難民危機 (Great Lakes refugee crisis, 1994-2003) ルワンダ周辺はキブ湖やビクトリア湖など大きな湖が点在して「大湖地域」と称され、ルワンダ情勢は安定に向かうも難民の本国帰還は進まず、周辺諸国の政治・軍事情勢を不安定化させて国際問題となり、大湖地域の難民危機と呼ばれました。
・ホロドモール (Holodomor (Famine Genocide) by Soviet Union, 1932-1933) 犠牲者:330万人〜750万人 ソビエト連邦によるウクライナ人居住の各地域でおきた人工的な大飢饉。 ・ソビエト連邦における人口移動など (Population transfer in the Soviet Union, 1930年代〜1950年代) 犠牲者:約8百万人か? スターリンによる1930年代から1950年代までの様々な集団の強制移動や粛清など。 ・ホロコースト(The Holocaust, 1941-1945) 犠牲者:約6百万人 ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺。 ・スレブレニツァの虐殺(1995/7/13-7/22) 犠牲者:8,000人以上 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件で、セルビア人のスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)が推計8,000人のボシュニャク人を殺害。別名:スレブレニツァ・ジェノサイド(Srebrenici Genocid)。 ・ポル・ポト派による虐殺(1970-1979) 犠牲者:140万人〜220万人 クメール・ルージュ政権の強制労働・処刑・飢饉などて、カンボジア人の大量死。 ・など ・ジェノサイド条約(Genocide Convention, 1948) 国際連合で採択されたジェノサイド条約 (集団抹殺犯罪の防止及び処罰に関する条約) (Convention on the prevention and Punishment of the Crime of Genocide)。 参考HP:〜 ・ルワンダ共和国の地図 ・ルワンダ共和国の地図(日本語) ・ルワンダの地図(現在の5州) ・ルワンダの地図(2005年以前の11県) こちらで ・中央アフリカ ・ニジェール ・コーヒー 世界遺産の ・ヘンダーソン島 (ピトケーン諸島) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/3/20 |