大航海物語 | オーストラリアの探検
ゴールド・ラッシュ (U)
|
参考資料 |
AUSTRALIA オーストラリアのゴールドラッシュ |
|
金の露天掘り |
金鉱監督官のテント |
オーストラリア 1990/5/16 発行
|
NEDERLAND ノーザンテリトリー(北部準州) |
EIRE オーストラリアの地図 アイルランド 1988/3/1 発行 (200%) |
||
ウェストオーストラリア→ パ−ス→ |
サウスオーストラリア |
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←ヴィクトリア ←タスマニア |
|
オランダ 1988/8/30 発行 |
オーストラリアのゴールド・ラッシュ(1851〜) Gold Rush in Australia 新大陸カリフォルニアのゴールド・ラッシュでアメリカに渡り失敗して、「オーストラリアにも金脈があるのでは?」という”噂”が広まったのを聞いて、1851/1月にオーストラリアに渡ってきたイギリスのエドワード・ハーグレーヴスがカリフォルニアに似た地形のニューサウスウェールス(NSW)のマックワイアー川渓谷には無尽蔵に金が埋まっているだろうと吹聴していたところ、シドニー北西部のバサースト近郷マックワイアー川渓谷で、本当に砂金(Gold nugget)を発見しました。それがオーストラリアのゴールドラッシュのきっかけになったといわれています。 オーストラリアの金は、1839年にストルゼレスキ伯爵がバサースト・ウェリントン地区でオーストラリア最初の発見をしていましたが、植民地総督が秘密にしていたので、ゴールドラッシュを引き起こしませんでした。1851年にNSWのシドニー西北西約260kmのバサースト近郷ルイス・ポンズ・クリークでハーグレーヴスとリスター兄弟が採算のとれる砂金を発見しました。それをハーグレイヴズがNSW政府に買い上げてもらい、広く宣伝(新聞にも載る)されました。これを聞きつけた人々が大挙して押し寄せたのを切っかけに、アメリカに次ぐゴールド・ラッシュが起こりました。多くの人が自分の仕事を投げ出して金を採掘しに行きましたので、メルボルンでは大勢の労働者が金鉱地へ流出した市の機能が麻痺し、対策として「市の周辺で金鉱を発見した者に賞金を与える」と布告したほどでした。その後、1851年にビクトリアのバララットやベンディゴやビーチワースの周辺で大規模な金鉱が次々と発見され、人々の金鉱探しはさらに高まり、それに刺激を受けたビクトリア植民地政府は金発見委員会を作り、採算にあうような金鉱を見つけたものには報奨金を支払うと発表しましたので、事態にますます拍車がかかることになり、この報奨金を目当てに一攫千金を狙う「金鉱堀り」が大量に集まって、ビクトリアも大々的なゴールド・ラッシュへと突入していき、多くの採金者たちがNSWからビクトリアへと流れて行き、サウスオーストラリアの州都アデレードからもビクトリアへと激しい労働者の流出が起りました。その上に他国や他の植民地から多くの移民が流入して、ビクトリアの人口は10年で9万7千人から53万9千人に増加しました。人口が急激に増加したため、同年NSWから「ビクトリア植民地政府」が分離して成立しました(1901年オーストラリア連邦成立に伴い州となる)。 ゴールドラッシュは、10年で100万人もの人々をオーストラリア大陸に流入させることになりました。1850年から1860年の間にNSWの人口は、187,000人から350,000人に、ヴィクトリアの人口は77,000人から540,000人に激増しました。1860年代のヴィクトリアは世界の金の3分の1を産出していました。その後もオーストラリア各地でより小規模のゴールドラッシュが、起こりました。クィーンズランド州では1860年代にギンピーなどで金が発見され始め、1870年代にはチャータズ・タワーズやパーマ・リヴァーへのラッシュが起こりました。ノーザンテリトリーや西オーストラリアでは1880年代に金が発見され始め、このうち西オーストラリアでの金の発見は大規模なものへとつながりました。1890年代は金鉱熱が冷めた東部植民地が不況に苦しむ中で、1892年にカルグーリー、1893年にはクールガーディーで金が発見され、ウェスト(西)オーストラリアはゴールドラッシュにより急速に発展して自治植民地となりました。 国家体制の未成熟なオーストラリアで起こったゴールド・ラッシュが与えた影響は、アメリカに比べて遥かに大きく、ゴールドラッシュの終焉とともに、過酷な自然状態の内陸部アウトバックから、労働者層が都市に舞い戻り、東海岸の都市部への人口集中が進みました。その中には、英国人だけでなく、その他の国のヨーロッパ人、アメリカ人、中国人などの外国人も多く含まれていました。中でも中国人は4万人もの人が渡豪し、最大の外国人集団を形成しました。最大級の外国人集団となった中国人の存在は欧米出身者には脅威に映って排斥運動が起こり、白豪主義へと繋がっていきました。鉱夫やその家族の生活は厳しく、非衛生であったため病気になる人が多く、さらに泥棒や夜盗が存在し危険な地域になりました。しかし、金鉱町は植民地内の産物や製造品の市場となり、商人は多大な利益を得ました。地表面付近の金が急速になくなると、金の採掘は大型機械を必要とし、個人や集団の採掘は減少し、それにつれて倒産や失業も増加して、鉱夫は都市に戻り定住しました。メルボルン市内には「チャイナタウン」があります。 1852年には採掘許可料の値上げなどに反対した抗議活動が起るようになりました。1850年代から1860年代にかけてのゴールドラッシュの最中に、オーストラリア独立のきっかけになる最大の反乱「ユーリカ砦の反乱」(ビクトリア植民地の鉱夫達が重税に怒って起こした反乱)が起き、その後も多くの採金者間で、採掘権を巡る争いや金の強奪事件が相次ぎ、オーストラリアの治安と経済は大きく揺れ動き、大量に流れ込んできた中国人移民に対する移民制限が行われ、その枠は徐々に他の有色人種へと広がっていき、やがて中国人に対する移民制限が行われ、アジア系移住者を排除する白人優位の白豪主義が推進されました。そして選挙権をも求めるようにもなりました。1850年代後半にはヴィクトリアでは全ての成人男性に選挙権が与えられ、また各植民地で自治政府樹立の動きが起こりました。また肉や小麦などの需要から、農業も発達し耕作地が急増しました。内陸地には新たな道路、鉄道、電信線が建設され、海岸部の都市と結ばれるようになり、その建設に必要な橋や電信線を地元の会社が始めたため産業も発達しました。なお、サウスオーストラリアでは1842年に銅鉱山が発見されていました。
参考HP:〜 ・ゴールドフィールドの場所地図(バララット〜ベンディゴ) ・オーストラリアのゴールドフィールド、ゴールドラッシュの起った場所(最寄りの町) Goldfield in Australia、NSW、VIQ、NT、WA
・キャッスルメイン:Castlemaine, Victoria ・ギンピー:Gimpi、Queensland ・チャータズ・タワーズ:Charters Towers、Queensland ・パーマー・リヴァー:Palmer River、Queensland ・テナント・クリーク:Tennant Creek、Northern Territory ・クールガーディー:Coolgardie、Western Australia ・カルグーリー:Kalgoorlie、Western Australia ・ゴールドラッシュによる人口の推移表 ゴールドラッシュの起った場所(最寄りの町) ・バサースト Bathurst、NSW、(28,992人、2006) バサーストは1813年のブラックスランド探検隊がブルーマウンテンを越えて「大きい沃野が広がっている」のを発見した時から歴史が始まりました。オーストラリア大陸の東部を南北に走る大分水嶺(グレートデバイディング)山脈の中にあり、シドニーから西に200kmほどの所で、景勝地で有名なブルーマウンテン(2000年世界遺産)の西側にあります。町はマッコーリー川に沿って広がり、町並みは整然と区画され、開発が早かった市街部の通りには街路樹が美しい風景をつくっています。バサーストへはシドニーから車で約3時間、日本との時差は1時間(夏は2時間)早めとなります。オーストラリアには先住民アボリジニが住んでいましたが、開発が進められたのは、17世紀以降のヨーロッパからの移民によるものです。この歴史の中で、バサーストはオーストラリア中部開発の基地となった所なので、長い歴史をもっています。今でも当時の面影を残す良きヨーロッパ時代の伝統的な美しい建物がたくさんあります。その近辺から1851年に「金」が産出されたことからゴールドラッシュが始まったといわれ、そのことから町のキャッチフレーズには、”BATHURST AND GOLD COUNTRY”とあります。現在、バサーストの名前はマウント・パノラマ・サーキットで国際自動車レースが開催されるので、レース場のある町として世界的に知られています。 バサーストの産業基盤は農業で、その農業の中心は畜産で、放牧による牛(食肉、皮革)や羊(食肉、毛糸、皮革)、馬、豚の大規模経営です。羊は観光資源としても利用され、羊を管理する犬とを組み合わせた観光ショーも行われています。また、果樹や野菜、林業も盛んです。市内には食料の加工工場などもたくさんあります。市と周辺の観光としては、マウントパノラマサーキットの自動車レース、羊のショー、ブルーマウンテン、鍾乳洞などがありますが、バサーストはオーストラリア内部観光への経由地であることから、たくさんの外国の人が訪れます。この人々のために市民がホームステイを引き受け好評を得ています。バサーストにはシドニーからの鉄道もありますが、多くの人は自動車で訪れます。また、市内には飛行場もあり、国内近距離用の飛行機を利用しています。オーストラリアの教育制度は小学校(6年の義務教育)、高校(4年の義務教育と2年間の選択)、短大又は大学となり、高校は9時から3時半頃までで、公立の学校は土曜日は休みです。日本のような自分たちの教室は無く、生徒は授業毎に教室が変わります。私立の学校では給食がありますが、公立の学校では給食がないので、生徒は家からサンドイッチをもってくるか学校の中のお店(カンティーン)で買って昼食をとります。バサースト地区には小学校が12、高校が6つ、工業高校が1つ、大学が1つあります。なお、バサーストは福島県大熊町と海外派遣事業の縁で姉妹提携しています。 参考HP:〜 ・バサーストの場所地図(道路地図) ・大熊町HP(in 福島県) ・ルイス・ポンズ・クリーク Lewis Ponds Creek、(Ophir)、NSW、(31,544人、2006) イギリスのエドワード・ハーグレーヴスがシドニーの西北西約260kmのバサースト近郷ルイス・ポンズ・クリークで金鉱を発見しました。それはオレンジ町(Town of Orange)の北東のマックワイアー川渓谷(Macquarie Rever Valley)で、ハーグレーヴスがオゥフィァ(Ophir)と名付けた金鉱でした。1851/2/12にハーグレーヴスとリスター兄弟(Lister Brothers, James Tom & William Tom)が採算のとれる砂金を、サマーヒル・クリーク(Summer Hill Creek)とルイス・ポンズ・クリーク(Lewis Ponds Creek)が合流している所で掘り当て、ハーグレーヴスがNSW政府に£10,500ポンド($1,125,434、2004年換算)で買い上げてもらいました。それが地元新聞に掲載され、それを聞きつけた人々が大挙して押し寄せたのを切っかけに、アメリカに次ぐゴールドラッシュが起こりました。 参考HP:〜 ・NSWの道路地図(Orange、Bathurst有) ・クルーンズ Clunes、Victoria、(1605人、2006) クルーンズはヴィクトリア中央部の町で、メルボルンの北西約150kmに有。 人口:846(1896)、1,830(1811)、3,486(1891)、6,068(1871)、1,909(1861)。 地名は、1839年に設立された牧場名に由来。牧場名はその創設者ドナルド・キャメロンが経営していたスコットランドのインバーネス州にあった農場に因む。1851年のこの土地における「金」の発見がヴィクトリア最初のゴールドラッシュへと繋がりましたが、それ以前にも発見されていました。鉱山経営者がスト破りとして中国人を雇おうとしたため、1873年に暴動が起こりました。主にコーンウォール人によって、近代的な技術で能率的に深い鉱脈が採掘され、1857〜1881年間がその絶頂期でした。1900年までには事実上、金の採掘は終了しました。1965年にはタルボット・クルーンズ郡の一部となり、現在は、周辺地域のサーヴィス・センターとなっています。 参考HP:〜 ・クルーンズの場所地図 ・バララット Ballarat、Victoria、(78,221人、2006) オーストラリアのゴールド・ラッシュのきっかけとなったのは、ビクトリア州の州都メルボルンから約120km程のところにあるバララット。そして、やはりメルボルン北西部の町ベンディゴでも金鉱が発見され、ビクトリア州こそがオーストラリアにおけるゴールドラッシュ本拠地と、世界中から一攫千金を夢見る人々が殺到しました。そうしてヴィクトリア州の人口は、当時オーストラリア最大の540,000人へと膨れ上がり、バララット近郊で採掘された金は約630トン。1860年代には世界の金の3分の1を産出するまでになりました。その金によって発展したバララットの町のメイン通りの真ん中には植えこみがあり、その両側にはテラスハウスなどのコロニアル・スタイルの建物が建ち並んでいい雰囲気の町。昔風ですが必要なものは全て揃っており、都会的で大きな町で、、ゴールド・ラッシュ当時の様子を今に伝えるソブリン・ヒルやユーリカ砦の反乱のあった所です。バララットへは、車でメルボルンから115km、約1時間15分。 電車で、スペンサーストリート駅からバララットまで約1時間50分。 ベンディゴへの行き方: 車でメルボルンからCalderハイウェイ経由で約2時間。 電車では、スペンサーストリートからベンディゴまで2時間半程。オプショナルツアー: バララットへは、メルボルン発のオプショナルツアーが催行されています。 参考HP:〜 ・バララットの場所地図(道路地図) ・ユーリカ砦の反乱 Eureka Stockade Riot、1854、Ballarat 1854年に起きたオーストラリアで唯一といわれる市民蜂起。英国当局の金採掘に関する不当な待遇に対して、金鉱夫たちが武装蜂起したもので、1854年に採掘者に対して重い採掘料を課すなどの規制に反発した鉱夫約150人が、ユーリカ砦(Eureka Stockade)に籠城しました。12月に警察や兵が砦を攻撃し、直ぐに反乱は鎮圧されましたが、首謀者のほとんどは放免され、彼らの要求(普通選挙権の付与など)はほぼ全面的に認められました。観光用に、ユーリカ記念公園(Eureka Memorial Park)にはユーリカ砦(Eureka Stockade)の記念碑が残されています。ユーリカ砦センター(Eureka Stockade Centre)ではその反乱の歴史をわかりやすく展示しています。 参考HP:〜 ・バララットの地図(Eureka有) ・ユーリカ砦の反乱(豪日交流基金HP) ・バララット ・ソブリンヒル(Ballarat Sovereign Hill、Ballarat) 1851〜61年の金鉱地での生活を再現した野外ミュージアムで、観光名所のソブリン・ヒル、その敷地面積は25ヘクタール(65エーカー)にも及び、ソブリン・ヒルは金採掘所があった場所に建てられた観光用のアトラクション。1850年代の金鉱地での生活の様子を再現した野外歴史パークです。ソブリンヒルに一歩足を踏み入れると、19世紀にタイムスリップしたかのようで、通りを歩く人も当時の服装という凝りようで中に入るとチケット売り場のお姉さんから掃除の人まで全員が当時の衣装を着ていて雰囲気を盛り上げています。”Red Hill”金鉱と”Quartz”金鉱では砂金採りにもチャレンジできます。 参考HP:〜 ・ソブリン・ヒルの地図 ・ベンディゴ Bendigo、Victoria、(76,051人2006、1851〜1860の10年で人口が3倍となる) ベンディゴはヴィクトリア州都メルボルンから131km北西にある町で、その名は当初ベンディゴ・クリーク(Bendigo Creek)と名付けられていて、それはイギリスのボクサー、ウィリアム・トンプソン(William Abednego Thompson 1811-1880)の様に強い拳を持った元船乗りの御者アレクサンダー・ラン(Alexander Run)のあだ名に因んでいます。1850年代にヨーロッパからの移民が開拓を始め、ミッチェル少佐、バーク・ウィルズ探検隊もここに立ち寄っています。ゴールドラッシュの時代、中国人移民もここで働いていました。現在でも中国仏教の寺や博物館(Golden Dragon Museum)があります。セントラル・デボラ・ゴールドマインは1954年に閉鎖され、今では博物館となっています。昔はメルボルンから採金者たちが「Bendigo」に行くには馬車でした。馬車での一日の行程の長さは約20Km程度。そこで、「Melbourne」→「Bendigo」までにおいて約20Km毎に宿場町ができ、現在は「Sunbury」から「Bendigo」へ行け、車で1時間程度で、メルボルンからでもその日の内に行けます。ベンディゴの金鉱は今でも採掘されていて、観光地になっています。昔はメルボルンから採金者たちがベンディゴに行くには馬車でした。馬車での一日の行程の長さは約20Km程度。そこで、メルボルンからベンディゴまで、約20Km毎に宿場町ができました。現在はサンベリー(Sunbury)からもベンディゴへ行け、車で1時間程度で、メルボルンからでもその日の内に行けます。 参考HP:〜 ・ベンディゴの場所地図(道路地図) ・ヴィクトリア州の道路地図(Ararat、Ballarat、Bendigo、Melbourne有) ・アララット Ararat、Victoria (8215人、2006) アララット金鉱はメルボルンから西へ205kmで、 グランピアンズ(Grampians)に行く途中にあって、1836年にミッチェル少佐にがグランピアンズ山脈を発見した時に立寄っています。トルコのアララット山に因んで名付けられました。 最寄りの町モートレイク(Mortlake)は、1836年にミッチェル少佐がこの地域を入植者に紹介し、入植は1839年に始まりました。町は1853年に測量され、モートレイクと名づけられ、ゴールドラッシュの時代には、アララット金鉱とウォナンブールの中間地点で栄えました。1856年には製粉所が建てられ、当初は風力を用い、1857年には蒸気機関に転換。教会や郵便局、裁判所などが建築され、1864年には郡となり、1890年代に鉄道が開通。1960年代に廃線になりました。20世紀に入ると町は発展しなくなり、静かな地域のサーヴィス・センターになり、19世紀の建物が多く町の中に残されています。現在この地域では、主に牧畜が行われています。 参考HP:〜 ・メルボルン〜アデレドの道路地図(メルボルン西方に”Ararat”有) ・モートレイク〜アララットの道路地図 ・ビーチワース Beechworth, Victoria (3,227人、2006)、2,317(1861)、3,040(1857)、1,275(1854) ビーチワースはメルボルンの北東271kmにあって、1854/1/1にスプリング・クリーク(Spring Creek)を改名。1850年代中頃にゴールドラッシュを迎え、1852〜1857年が最盛期になり、ロバート・バーク署長が1854〜1857年の3年間を過したバーク博物館(Burke Museum)が有ります。 ビーチワースは1839/5月にデイヴィド・リードがエルドラド・クリークを探検した時に、この地域をメイ・デイ・ヒルズと名づけていましたが、1852年にスプリング・クリーク(Spring Creek)で「金」が発見されたことから改名。その後に周辺部も含めて金の発見が相次いだため、ゴールドラッシュが起りこの地域の人口は8,000人以上にまで急増し、オヴンズ(Ovens)金鉱の中心地として発展。1853年にメイ・デイ・ヒルズの商店主たちの要請に基づいて町の測量が行われ、1854/1/1に、1853年に当地を訪れた政府測量官の生地イングランド・レスタシアに因んでビーチワースと改名されました。1857年に近隣地域を含めた人口は22,500人に急増。ビーチワースは、1853年からの14年間で85トンの金を産出するとともに、20世紀初めまでメルボルン以外のヴィクトリアで、最も多くの中国人が居住していました。現在でも中国寺院や墓地が残っています。他方、ヴィクトリアで最も有名な反中国人暴動がオヴンズ金鉱に属するバックランド・リヴァーで起こったことでも知られています。1857年頃からは、地域の行政的な中心地としても発展し、電信局、財務局、金管理事務所等が設置されました。1861年に郡、1863年には自治体となり、1871年には郡とバラが合併。この地域では農業が発展しなかったために、金などの採掘が減少したことにともない、町は1873年から1900年にかけて衰退。金の生産は1921年に終わり、20世紀に入ってからも町は停滞を続けました。民間部門における主要な雇用先は、1858年に開業した皮なめし工場でしたが、1961年に閉鎖。そのため政府は、精神病院や教化刑務所を改修したり、森林国土委員会における雇用促進等の対策を講じました。1960年代からは、歴史的建造物を活用した観光業を重視して、ゴールドラッシュ時代の街並みが保存されました。ヴィクトリアではメルボルンに次いで多くの歴史的建造物や記念物があり、ナショナル・トラストが指定する建物だけでも30を越えています。歴史的な逸話も多く、ゴールドラッシュのエピソードとして、1855年の初めての選挙で当選した議員の馬の蹄鉄を、地元の人々がお祝いに金で作ったという話が残っており、裁判所博物館はケリー・ギャングと関係が深い場所で、毎年多くのオーストラリア人が訪れています。 参考HP:〜 ・ビーチワースの場所地図(Beechworth〜Brightの地図) ・ブライト Bright、Victoria、(2684人、2006) ブライトは当初ムーアズ・クリーク(Morse's Creek)と呼ばれていましたが、1866年にブライトと改名され、人口は2684人((2006)。ヴィクトリア州ゴールドラッシュ(Victorian gold rush)時の1857年にアイルランド人(Anglo-Irish)と中国人の金鉱探しによる「バックランド・ヴァレー暴動」(Buckland Valley Riot)が発生して、中国人金鉱探しの死者行方不明者2000人が出ましたが、80km離れたビーチワース警察からロバート・バーク署長が駆けつけて鎮圧しました。 ブライトはメルボルンの北東312kmの所でオヴンズ川上流にあって、1862年にイギリスの政治家ジョン・ブライトにちなんで名づけられました。それ以前はムーアズ・クリークの金鉱と呼ばれていました。1824年のヒュームとホヴェルの探検の後、1830年代に入植が始まり、アボリジニとの衝突で入植は中断。1853年に最初の砂金がポーレパンカ(Porepunkah)の北にあるバックランド・リヴァー・ヴァレーで発見されました。1856年からモーセズ・クリーク金鉱が採掘されました。1857年にはバックランド・リヴァーの反中国人暴動が起こりました。1859年から測量が始まり、町の土地売却が翌年から行われ、鉱山用の火薬庫(1861年)や裁判所(1861年)の建設、ワンガラタからの鉄道の開設(1890年)などの整備が進み、砂金の枯渇にともない、1899年から金の浚渫が行われました。金の生産量が減少すると、林業が経済的に重要となって、植林が1916年頃から始まり、大恐慌以後には森林管理委員会が林業の基礎として大規模なマツの植林を行いました。第2次世界大戦後、観光が町の主要な収入源となり、スノーウィー・マウンテンズへのスキー客の滞在地として、またリゾート地として多くの観光客が訪れています。町には古い建物が保存されており、裁判所や1884年築の旧メソジスト教会など美しい建物があります。 参考HP:〜 ・ブライトの場所地図(Bright〜Beechworthの地図) ・バックランド・ヴァレー暴動 Buckland Valley Riot、1857、Bright 1857年ブライト(Bright, Victoria)近郷で発生したアイルランド人(Anglo-Irish)と中国人の金鉱探しによる「バックランド・ヴァレー暴動」で、中国人金鉱探しの死者行方不明者2000人が出ましたが、80km離れたビーチワース警察からロバート・バーク署長が駆けつけて鎮圧しました。バックランド・ヴァレーはバッファロー山国立公園(Mount Buffalo National Park)とアルプス国立公園(Alpine National Park)の中間にあり、ワンガラッタ(Wangaratta)とブライト間を結ぶオヴァンズ・ハイウェイ(Ovens Highway)からバックランド川(Buckland River)を越えて行けます。現在はワインの産地です。 参考HP:〜 ・ビーチワースの場所地図(BRIGHTの左下に青字Buckland川有) ・キャッスルメイン Castlemaine, Victoria (6,797人、2006) キャッスルメインはメルボルンの北西119kmで、ベンディゴの南39kmに有。金鉱監督官のライトの叔父カースルメイン子爵にちなんで、ラ・トローブ総督が命名。この地域はウェンバウェンバのアボリジナルが居住していましたが、1836年のミッチェル少佐の探検に続いて、スクオッターによる入植が始まり、マウント・アレキサンダー(Mount Alexander)牧場が1841年に開かれ、この牧場の一角で1851年に金が発見されてゴールドラッシュが始まり、町は急速に発展しました。金鉱には監督官が派遣され、そのキャンプのあった所に町ができました。1852年には金鉱監督官のスタッフだけでも300人に達しました。最初はマウント・アレキサンダーとか、フォレスト・クリーク(Forest Creek)と呼ばれていました。その年には金鉱の人口が約25,000人になり、学校や銀行が設置されました。1854年までには5つの教会が建設され、地方自治体となりました。多くの中国人金鉱夫も集まり、1857年には1,300人の中国人がメカニックス・ヒルに集まり、中国人に対する新たな課税と規制に抗議しました。1861年には中国人が約5,000人になりました。最も豊かな砂金の産地として栄え、1857年には小麦の製粉所(後の鉄道の鋳物工場)や醸造工場が建設されました。キャッスルメイン(Castlemain)はビールのブランドとしても有名です。また、監獄やマーケット、裁判所などの公共建築物が立てられ、1862年には鉄道が開通。金の生産の停滞とともに人口は減少し、紡績工場や工作機械工場が開業したにもかかわらず、人口は減少しました。1905年にはキャッスルメイン・ベーコン・カンパニーが開業し、現在もこの会社を継承した企業が750人を雇用しています。20世紀には少し人口も回復し、1965年にはシティになり、現在の主な産業は工業で周辺は果樹栽培と酪農が盛んです。 参考HP:〜 ・キャッスルメインの場所地図(道路地図) ・ギンピー Gimpi、Queensland、(16,454人、2006) ギンピーはブリスベンの北166kmにあって、この地域に生えるとげのある木を意味するガビガビ(Gabi-Gabi)のアボリジニ言葉(gimpi-gimpi)に由来しています。1867年にここで金を発見したジェームズ・ナッシュ(James Nash)にちなんで、ナッシュヴィル(Nashville)と呼ばれていましたが、1868年に現在の名前に改名。町の人口はゴールドラッシュで数ヵ月のうちに2万5千人を超え、クィーンズランドで最も重要な金鉱となり、1868年に最初の掘削機が建造され、その年の前後に砂金は掘り尽くされました。1880年により深い層の採掘が行われ、1925年頃まで続けられました。総計約114トンの金がここで産出され、 その中には30,326グラムのカーティス・ナゲットも発見されました。1903年に生産は最盛期を迎え、1909年までには51の金鉱会社ができました。金が発見される前は林業が行われていました。1925年頃に採掘が終了してからは停滞期に入りましたが、現在は周辺地域のサーヴィス・センターとなっています。1890年代からの多くの建物が保存されて、中心部に特徴的な美しい町並があります。 参考HP:〜 ・ギンピーの場所地図(道路地図) ・チャータズ・タワーズ Charters Towers、Queensland、(7,979人2006) チャーターズ・タワーズはクィーンズランド中東部、ブリスベンの北1,386kmにあって、金鉱監督官の名”Charters”と岩山という意味の”tors”を結合したものと言われています。「ザ・ワールド」という異名もありました。白人の入植以前はアボリジニのググバドゥーン(Gugu-Badhun)が住んでいました。1871/12月に初めて「金」が発見されてゴールドラッシュを引き起こし、クィーンズランド第2の町になりました。金鉱周辺の人口は4,300人(1873)から26,780人(1899)と激増しました。1880年代半ばには150以上の鉱山が採掘され、立抗は地下900mまで掘られました。1870年代に地元向けの肉牛の生産が盛んになり、1882年に鉄道が開通。1890年には100以上の鉱山会社ができ、1891年から1896年にかけてクィーンズランドで最大の金鉱地域になりました。1886年に鉱山労働者組合が設立され、町は労働運動の中心地となり、1899年に世界で初めて労働党から首相となったアンドリュー・ドーソンが1893年にこの地域で初当選しました。裁判所や政府庁舎など、多くの後期ヴィクトリア様式の建物が残っています。1899年から金の産出量と人口が減少し始めました。40年間に金額で2,500万ポンド、重量で218トン以上の金が産出されました。第2次世界大戦時には、町の周辺に米豪の空軍基地が建設されました。1970〜80年代には、歴史的建築物の修復と観光業の成長が重要視され、ニューサウスウェールズ銀行(1880)、シティー・ホール(1891)、旧オーストラリア・ジョイント・ストック銀行(1891)、郵便局(1892)などが代表的な建物として保存されています。 参考HP:〜 ・チャーターズ・タワーズの場所地図(道路地図) ・パーマー・リヴァー、(メイタウン) Palmer River、Queensland、(Maytown) 、(0人 2006) パーマー・リヴァー(川)はクィーンズランド北東部のヨーク岬半島南部にあって、ミッチェル川(Mitchell River)支流。1872年にウィリアム・ハン(William Hann 1837-1889)が発見し、当時のクィーンズランド首相アーサー・パーマー(Arthur Palmer 1819-1898)に因んで命名。1872年にパーマー地区で「金」が発見され、ゴールドラッシュが起りケアンズから280kmのメイタウン(Maytown)が主要な居住地として建設されました。1873年から1874年にかけてクックタウンへの陸上路が建設されましたが、アボリジニによる鉱夫や旅行者への襲撃が相次ぎました。1875年に中国人労働者に対し7,000人分の採掘権が発行され、1878年に新しい金鉱地のルーキンヴィル(Lukinville)で広東出身者とマカオ出身者の間で暴動が起こりました。 参考HP:〜 ・パーマーの場所地図 ・テナント・クリーク Tennant Creek、Northern Territory 、(3,500人 2005) テナント・クリークはノーザンテリトリー中央部の町で、ダーウィンの南964kmにあり、その名は近くを流れる小川のテナント川に由来していて、それはジョン・スチュアートが第4回探検中の1860/6/6に、南オーストラリアのポート・リンカーンの自由開拓移民のジョン・テナント(John Tennant 1794-1836)に因んで名付けました。スチュアート・ハイウェイに接しており、ウォラマングのアボリジニの土地で、現在は主にアボリジにが住んでいます。年平均降水量は362mm。金や銅が主要な産出鉱物で、ノーザンテリトリーの牛肉生産の中心地になっています。 1879年に少量の「金」が発見されましたが、1930年に主要な産出地帯が見つかり、オーストラリア最後と言われたゴールドラッシュが1932年に起こりました。居住は1933年に始まりましたが、1935年には数百人の鉱夫がいただけでした。1906年にパイン・クリークに設立されたローマ・カトリック教会が、1936年にこの町に移転。1949年には豊富な金の鉱床がノウブルズ・ノブ鉱山で発見され、露天掘りで34トンを超える金が産出されました。現在は操業を停止し、観光客に開放されています。年間3万トンの鉱石がポート・オーガスタから、日本へ輸出されていたこともあります。現在も周辺では金の生産が行われており、観光客も自分で金捜しができす。 ・クールガーディー Coolgardie、Western Australia、(803人 2006)、963(1947)、650(1933)、4,920(1901) クールガーディーは西オーストラリア南部内陸部、パースの東558kmにあって、名前はアボリジニの言葉クールグールビディ(koolgoor-biddie)「谷間のマルガの木」に由来しているとされていて、かつては先住民アボリジニのマルパ(Malpa)やワンガッタ(Wangkathaa)が住んでいました。フライ・フラット(Fly Flat)、オールド・ディッギンズ(Old Diggings)などとも呼ばれました。1863年レフロイ(H.M.Lefroy)がこの地域を通過し、ハント(C.C.Hunt)が翌年から探検を始め、井戸などを設置し、1880年代までに水の供給設備を整えるのに貢献。1892年にアーサー・ベイリー(Arthur Bayley 1865-1896)とウィリアム・フォードがフライ・フラットで「金」を発見し、ゴールドラッシュが始まり、1893年にクールガーディーの名がつけられました。1893年に自治体が設立され、1921年に解散しました。1893年にはテントのみの町でしたが、1895年に郵便局が設置され、1896年には鉄道が開通し、電気の供給が始まりました。1898年までに人口は1万5,000人に達し、23のホテル、7つの新聞、2つの証券取引所ができました。1897年までにロンドンで、この付近の金採掘のために700の会社が設立されました。1902〜4年に州立金鉱石破砕機が設置されましたが、すでに衰退は始まっていました。水の供給の大部分は蒸留装置に依存し、最大プラント日量45万リットル供給。1903年からマンダーリング(Mundaring)から水を引く、金鉱水供給計画が開始されました。1930年代に再度ブームを迎え、第2次世界大戦中に停滞しました。大きな鉱山は閉山され、1983年にもまだ小規模な採掘が続いていました。1897年にここで死亡した探検家アーネスト・ジャイルズの墓地があります。一時期人口が200人近くまで減少したことがあり、町はゴーストタウンのようにいわれていすが、2006年に803人にまで回復しています。ベイリー・ストリートの幅の広さは、町がラクダ輸送をしていた頃の名残りです。 参考HP:〜 ・クールガーディーの場所地図(道路地図) ・クールガーディーとカルグーリーの地図 ・カルグーリー Kalgoorlie、Western Australia、(28,242人2006)、9,083(1933)、13,488(1911)、9,643(1901) カルグーリーは西オーストラリア南西部、パースの東597kmにあって、西オーストラリアのワイルドな西部の中心で金鉱地やゴースト・タウン、歴史、アドベンチャーを体験出来る所です。カルグーリーとはアボリジニの言葉で「やわらかな西洋ナシ」を意味するとされていて、白人の入植以前はワンガッタ(Wangkatha)が住んでいました。オーストラリア最大の金鉱都市で、歴史的建物とカラフルなパブ、また売春宿でさえ百年以上も昔のゴールド・ラッシュの歴史を今日に伝えています。 カルグーリーは一攫千金を狙う人々が国中から大勢やってきた1880年代のゴールドラッシュ時代にできました。無法状態で病気が蔓延したので、初期の採鉱者にとっては刺激的でしたが大変な時代でもありました。1893年にパディ・ハナン(Paddy Hannan)、トム・フラナガン(Tom Flanagan)、ダニエル・シェイ(Daniel Shea)が「金」を発見して町が建設されました。1893/6/17にハナンが登記を済ませると、数日のうちに約700人が金の試掘を始めました。 現在のカルグーリーの町の近くで、南オーストラリアのグループがゴールデン・マイルとして知られる金鉱脈を発見し、彼らが最初にいた採金地の名前を取ってボウルダー(Boulder)と名づけ、1897年に人口の急激な増加に伴いカルグーリーに続きボウルダの町が建設されました。強盗や売春の横行により、ワイルド・ウエストとして有名になりました。1910年まで、この2つの町は繁栄を続け、1896年に鉄道が開通。町は20世紀の初期にピークに達し、約3万人が住むようになり、ダーリング山地から新鮮な水が供給されるようになりました。この当時作られた建物の多くが今も現存し、ゴールド・フィーバーを体験できます。1920年代に入ると産金量が減少し町は衰退しはじめましたが、金価格の上昇にともない、再び活況を呈するようになり、その後も金価格の変動により、町の経済状況は大きく変わりました。 この地域は自然の宝庫で、トレッキングしたり四輪駆動車に乗って、静かなユーカリ森林、広大な平原、乾燥した湖底、低く横たわる森林地、スピニフェックスの平原などを探検でき、壮大な景観に加え、絶滅を危惧されるビルビー、オグロフクロネコ、クサムラ・ツカツクリ、マウススミントプシスなど、豊かな野鳥の生態も見学できます。有名な競馬「ボルダー・ツー・カルグーリー・カップ」(The Boulder to Kalgoorlie Cup)祭があります。現在も金の生産は続いており、年間約22.7トンの金を生産している巨大なスーパー・ピット・マイン(Super Pit Mine)があり、縦3.5km x 横1.5kmで、深さはウルルのエアーズロック(Uluru)の高さと同じくらいで、外周も同じくらいあります。70年代からはニッケル、80年代からはウラニウムも生産されています。1989年にカルグーリー・ボウルダー市(Boulder- Kalgoorlie)ができて、最近は鉱山業に加えて観光業も町の重要な産業になっています。 参考HP:〜 ・カルグーリーの場所地図(道路地図) 参考:〜 ・ゴールドラッシュによる人口の推移 |
発生年 | 地名 | 州 | 2006年 | 人口の推移(年) |
1851 | バサースト | NSW | 28,992人 | 26,029(1996)、10,413(1933)、5,030(1871)、2,252(1825) |
1851 | オレンジ(オゥフィァ) | NSW | 31,544人 | 30,705(1996)、13,780(1947)、1,456(1871)、28(1851) |
1851 | バララット | VIC | 78,221人 | 64,832(1996)、37,411(1933)、22,104(1861) |
1851 | クルーンズ | VIC | 1605人 | 846(1996)、3,486(1891)、6,068(1871)、1,809(1861) |
1851 | ベンディゴ | VIC | 76,051人 | 59,936(1996)、17,883(1911)、28,153(1881)、13,020(1861) |
1851 | モートレイク (アララット) | VIC | 996人 | 989(1996)、1,056(1981)、1,332(1911)、126(1861) |
1851 | キャッスルメイン | VIC | 6,797人 | 6,810(1991)、7,741(1971)、4,770(1891)、9,683(1861) |
1852 | ビーチワース | VIC | 3,227人 | 3,554(1966)、2,852(1933)、3,040(1857)、1,275(1854) |
1853 | ブライト | VIC | 2684人 | 1,545(1981)、595(1933)、972(1911)、551(1871) |
1867 | ギンピー | QLD | 16,454人 | 7,749(1933)、11,959(1901)、8,419(1891)、4,460(1871) |
1871 | チャーターズ・タワーズ | QLD | 7,979人 | 6,978(1933)、15,037(1911)、4,597(1891)、943(1876) |
1872 | パーマー・リヴァー(メイタウン) | QLD | 0人 | 674(1900)、7,000(1875) |
1892 | クールガーディー | WA | 803人 | 891(1981)、963(1947)、650(1933)、4,920(1901) |
1893 | カルグーリー(ボウルダー) | WA | 28,242人 | 9,083(1933)、13,488(1911)、9,643(1901) |
1932 | テナント・クリーク | NT | 3,500人 | 3,856(1996)、3,118(1981)、567(1947)、21(1933) |
参考HP:〜 ・オーストラリアの地図(日本語) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/4/28 |