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★ダンピール物語 | 第1回 | ローバック号私掠船(海賊)遠征隊 1699〜1701 1699、西オーストラリア・シャーク湾に到達 |
大航海物語 イギリス★ |
第2回 | |||
第3回 | |||
第4回 | |||
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AUSTRALIA ダンピール船長 Terra Australias オーストラリア 1985/4/10 発行 |
Papua New Guinea 在りし日のローバック号の勇姿 Roubuck 1700 パプアニューギニア 1987 発行 |
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オーストラリア | ||||||||||||||||||||||
シャーク湾→ パース→ キングジョージサウンド→ グレートオーストラリア湾→ |
←ポートダグラス ←シドニー ←キャンベラ ←メルボルン ←ホバート |
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スペンサー湾、アデレード ココス諸島1986/4/1発行 (200%) |
・第2回世界一周:〜 ローバック号遠征隊 (1699〜1701) Roebuck Expedition 1698年初頭にダンピール船長はモンターギュの推挙で海軍大臣オーフォード伯爵に謁見。探検航海の提案書を要求され、金の産出が期待できる豪州海岸の探検こそ必要と答申しました。1698/3にフォリー・プライズ号の船長に任命されるも、外洋航海には不向きの小型船であったので、5等戦列艦(Fifth rate ship)299屯の備砲12門船ローバック号(HMS Roebuck)の船長に任命されました。 1699/1/14(46才)にイギリス海軍がダンピール船長に海軍大佐の地位を与え、オーストラリア沿岸探検調査の指揮をゆだねましたので、同年8月に軍艦ローバック号に乗船しイギリスを出帆しました。そして喜望峰周りで、1699/7/26にオーストラリア西部のシャーク湾ダーク・ハートグ島に到達しました。タスマンの海図をもとに1ヵ月間にわたり、水の補給できる入り江を求めて探検航海しました。 その後、チモール島で補給した後、東へと航海、1699/12/3にニューギニアを望見、その北部海岸沿いに航行して北東に進み、ニューブリテン島、ダンピア諸島ローバック湾に達しましたが、水は得られず、ティモール島に向けて北上することになりました。ダンピール船長は東に進路をとり、1699/12/3にニューギニアを発見しましたが、北に通過しただけで、東進してニュー・ハノーヴァー島、ニュー・アイルランド島、ニュー・ブリテン島とたどり、それらビスマルク諸島とニューギニアの間に横たわるダンピール海峡を発見し命名しました。そして乗船の不調でオーストラリア東海岸の探検は断念し、オーストラリア大陸の周航は果たませんでしたので、喜望峰回りで帰路につきました。
参考HP〜 ・ダンピールの航海地図(オーストラリア西岸方面) ・ダンピールのニューホランド場所地図 ・ダンピールのニューギニア地図 2007/3/25 ダンピール船長は1699年〜1701年の遠征の記録(A Voyage to New Holland)を書いた後、私掠活動に戻って、セント・ジョージ号私掠船(海賊)遠征隊を率いて世界一周航海へと出帆しました。 ローバック号の装備:〜: HMS Roebuck、1690
参考HP〜 ・1697年に製作された「ダンピールの航海図」(古地図)。 ・1736年にハーマン・モル製作の(Herman Moll)新世界図(古地図)。 |
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★ダンピール物語 | 第1回 | セント・ジョージ号私掠船(海賊)遠征隊 1703〜1707 第3回世界一周大航海 |
大航海物語 イギリス★ |
第2回 | |||
第3回 | |||
第4回 | |||
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ダンピール船長 |
Saint LUCIA 海賊船の旗印 セント・ルシア 2007 発行 |
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Turks & Caicos Islands 商船を襲うカリブの海賊船 タークスカイコス 1971/7/17 発行 |
PITCANE ISLAND
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・第3回世界一周:〜 セント・ジョージ号私掠船(海賊)遠征隊 (1703〜1707) Saint George Expedition 1701年に勃発したスペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1714)に際して、イギリスの私掠船長たちはフランスとスペインの利権を叩く用意を進めていました。ダンピール船長は、1702/6/8の軍法会議で「部下に対して過酷」だったとの理由で有罪となり、給料の全部を国庫返納という罰金刑となりました。その後、間もなく、ダンピール船長は、250屯26備砲の政府私掠船セント・ジョージ号(St. George)の船長に任命されました。98屯のガレオン型奴隷船シンク・ポーツ号(Cinque Ports)船長ピッカリング(Captain Pickering)、操舵手ウィリアム・ファンネルを随伴して、1703/4/30にイギリスを出帆。 セント・ジョージ号遠征船隊の編制:〜(1703〜1707) ・セント・ジョージ号:〜ダンピール船長 250屯26備砲の政府私掠船セント・ジョージ号 (royal St. George 26gun, 120men、砲26門、乗組員120人) ・シンク・ポーツ号:〜ピッカリング船長 98屯16備砲のガレオン型奴隷船シンク・ポーツ号 (Galleon Cinque Ports 98t 16gun 63人、砲16門、乗組員63人) 1703/9/11にアイルランドのキンセール港(port Kinsale, Ireland)をブラジルのブエノス・アイレス(Buenos Aires)帰りのスペイン船狩りに向けて出帆しました。ポート・プレア、セント・アンズに寄港。シンク・ポーツ号に壊血病が発生し、ブラジルのリオデジャネイロ沖(Rio de Janeiro)グランデ島(Ilha Grande)でピッカリング船長と47人が亡くなりましたので、若干21才の副官トーマス・ストラドリング(Thomas Stradling 1682-1704)が船長になりました。グランデ島を出帆後、ホーン岬を回航して南アメリアカの太平洋岸沖に入りました。 ・セルカークの孤島置去り:〜
その後に船隊は追跡に移り、接近戦を挑み数時間もの激戦の末に、ダンピール船長は部下7人を失い、負傷一人をだしましたが、フランス船は逃走しました。船隊は諸島に戻りましたが、フランス船2隻を発見したので、交戦を避けてペルー方面へと遁走しました。1704/4/28に鉱山町サンタ・マリア市(Santa Maria)を襲撃に向かいましたが、失敗。というのはカヌーを狙って発砲して発見されて、スペイン兵の待ち伏せにあい、死者1人、負傷数名を出しながら上陸して、追い散らし、船に戻りました。そしてスペインの小型船を3隻とスペインの550屯大型食料船を分捕りました。小型船はストラッドリング船長が私用に使用しました。パナマ湾のタボガ島(Taboga Island)泊地に停泊中にダンピール船長がストラッドリング船長を出し抜いて一人で出かけて獲物を独り占めにしたとして喧嘩をしたといわれています。その後に両船は別れて、別行動をとりました。 1704/7/22にセント・ジョージ号が32備砲スペイン船に遭遇、優位な位置に回り込もうとした時にセント・ジョージ号の前檣マストが相手船に衝突して壊れたので、やむなく帆を下して離脱を図るも、スペイン船の追跡と攻撃が夕暮れまで続行しました。夜間に前檣を取り換え、浸水を組みだして、翌朝の交戦に備えましたが、夜が明けるとスペイン船の姿は有りませんでした。その後にコスタリカのニコヤ湾(Golfo de Nicoya)で船底の多数の穴や、薄くなった低板、船倉の親指大の穴を修繕しました。 1704/9/2にダンピール船長は、大胆ではあるが手の付けられない荒くれ男の乗組員ジョン・クリッパートン船長(John Clipperton 生年不詳-1722)と衝突。するとクリッパートンは26人の仲間を誘って分捕り船で逃亡して船団を離れ単独航海の後、1705年にメキシコ西方海上で島を発見してクリッパートン島(Clipperton Island)と名付けたとされています。その3週間後(1704/9/23)にダンピール船長は乗組員64人(ボーイ含)でセント・ジョージ号に乗船して、ニコヤ湾をマニラ・ガレオン船の襲撃に出帆しました。1704/12/6にガレオン船を発見、襲撃するも撃退され、船は大破しましたが、乗組員に犠牲者はでませんでした。ところがそのせいで、1705/2/1にファンネル操舵手が仲間34人と別の分捕り船でインドに向けて逃亡。ファンネル達は苦難の後にバタヴィアに到着後、1706/8月に18人でイギリスに帰国しました。ファンネル操舵手は帰国後の1707年に体験談をダンピール船長に先立って体験談(Funnell's Narrative of the Voyage of 1703-07)を出版しました。 ダンピール船長はセント・ジョージ号をロボス島で乗捨てて、捕獲スペイン小型バーク船で25人と東インディーズへと出帆。1704年にグアヤス川河口のブナ島で略奪した時に、その付近で給水して正式な私掠委任状をブバ島で紛失してしまい、そのせいで後にオランダに拘禁され、積荷を全部没収されるという事態にたちいたっています。 ダンピール船長は29人で東インドへ行き、ニューギイアのブナを襲撃・略奪、セント・ジョージ号を破棄して、スペインの小型ブリガンティン船で東インドへと出帆。バタヴィアに到着すると、正式な私掠委任状を所持していないとの理由でオランダ当局に、船を拿捕されて積荷を全部没収され、バタヴィアで逮捕され、数ヵ月間も投獄されました。 1707年の末に帰国すると、ファンネル操舵手の体験談が出版されていて、ダンピールの評判がガタ落ちになっていました。1707年の暮れが迫る頃にダンピールも対抗上の弁護本(Capt. Dampier's Vindication of his Voyage to the South Seas in the Ship St George. London, 1707)を出版しました。 参考HP〜 ・キンセール港の場所地図(アイルランド) ・ブラジルの地図(リオデジャネイロ有) ・リオデジャネイロ市の地図(グランデ島有) ・グランデ島の地図 ・サンタ・マリア市の場所地図 ・タボガの場所地図 ・ニコヤ湾の場所地図 ・ブナの場所地図 ・ブナの場所地図(日本語) 11/11/11追記 |
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/12/12追記、10/1/23、11/11/11 |
★ダンピール物語:第1回、第2回、第3回、第4回、海峡
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