Pirates of Caribbian
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Jolly Roger |
ヘンリー・モーガン船長 1674 バッカニーア海賊が総督になる |
大航海物語 ★カリブ海 |
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St. Christopher Nevis Anguila カリブ海を航行する私掠船 17世紀の密輸(海賊)船 Smuggling Galleon 17th century セントキッツネヴィスアンギラ 1970 発行 |
Jamaica ジャマイカ旗とジャマイカ島 ジャマイカ 1964/5/4 発行 |
Turks & Caicos Islands ディズニーが描く海賊モーガン船長 スパニッシュ・メーン(カリブ海)で億万長者になる Sir Henry Morgan Millionaire of Spanish Main ディズニー・アニメの一場面 1955 ディズニーランド30年記念 1985 タークス・カイコス諸島 1985/10/4 発行 |
ヘンリー・モーガンは17世紀にカリブ海で活躍したイギリス出身の海賊のヒーローで、海賊を引退した後、ジャマイカ島総督などの国家の役職につき海賊を取り締まる立場になりました。 |
ヘンリー・モーガン船長 (1635〜(総督在位ー下表参照)〜1688/8/25) Captein Sir Henry Morgan ヘンリー・モーガンはイギリスのウェールス(Wales)モンマスシャー州(Monmouthshire)のルランムニー(Llanrhymny)という寒村で生まれました。モーガンの家は代々裕福な卿士(ヨーマン、独立自営農民)の家系でした。ノルマン・コンケスト以来各地に封ぜられたノルマン貴族の封建君主のもとで、独立自営農民が農業に従事していましたが、15世紀になるとヨーマンが多数を占めた(特にイングランド)ことにより、封建貴族の勢力が衰退し始めました。しかし、農村内部が上層農民(後にジェントリ階級を形成)と没落農民とに区分されるようになり、農村共同体内部に利害の対立が起こりました。ジェントリは男爵の下の階級で貴族ではないが上層階級となって、俗にジェントルマンと呼ばれるようになり、一方没落農民は貧民へとなって都市へ流入してゆきました。貧民層は年季奉公で海外植民地や当時隆盛を極めてきた海運業の船舶水夫となってゆきました。このような世相の中でヘンリーは年季奉公のため、1650年に15才で西インド諸島のバルバドス島に渡りました。 ・参考HP〜 ・ウェールスの地図 ・ウェールス州の場所地図 ・モンマスシャー州の場所地図 ・ルランムニーの場所地図 |
Pirate of Caribian
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★モーガン物語 | モーガン船長の大航海 1650〜1674 バッカニーア海賊 |
大航海物語 ★カリブ海 |
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Jamica モーガン船長 1669年の火船 セントキッツネヴィスアンギラ 1970 発行 |
Saint LUCIA ジョリーロジャー旗と海賊船の襲撃 セント・ルシア 2007 発行 |
キューバ島→ ジャマイカ島→ メキシコ→ グァテマラ→ エルサルバドル→ ホンジュラス→ ニカラガ・グラナダ→ コスタリカ→ パナマ・ポルトベロ→ (赤丸) |
カリブ海沿岸の地図 ジャマイカ 1992 発行 |
←イスパニョーラ島 ←プエルトリコ島 ←バルバドス島 ←カルタヘナ(赤丸) ←南米大陸 |
モーガン船長の海賊大航海:〜: モーガンはその出生や結婚など多くがハッキリせず謎に包まれていますが、海賊から身を起こして爵位(ナイト)を授与(サーの称号)されて総督にまでなった庶民の英雄(パイレーツ・ヒーロー、Pirate Hero)として語り伝えられてきました。解っているだけでも、
ヘンリー・モーガンはバルバドス島で5年間の農園での年季奉公を強いられましたが、モーガンは生まれつき体が大きく、厳しい労働に耐えることができたので、20才前にもかかわらず、奴隷や奉公人を監督する立場になりました。農園主もモーガンのことを気に入り、モーガンに自由に読書をすることを許しました。そして、1655年に年季奉公があける(期限満了)と、モーガンはバルバドス島からジャマイカ島に渡り、海賊水夫を募集していた海賊船(私掠船)隊に乗組み、海賊の世界に足を踏み入れました。モーガンは直ぐに頭角を現し”海賊モーガン船長”として仲間に慕われました。 ・グラナダ遠征:〜 1655年にモーガンはスペインの開拓・定住地への襲撃をするために、ミングス海賊提督(Sir Christopher Myngs 1625-1666)がイギリスから派遣されてくると、評判が悪いオランダ私掠船の海賊船長のブローヴェルト(Abraham Blauvelt 16??-1663)と共に大艦隊を編成して、メキシコのカンペチェ湾(San Francisco de Campeche)への襲撃航海に出帆して荒らしまわりました。また、海賊遠征隊長のモリス(John Morris)やジャックマン(Jackman)と共に、その他のスペイン領地域、ヴィルデモス(Vildemos,)、ホンデュラスのツジロ(Honduras、Trujillo)、ニカラガのグラナダ(Nicaragua、Granada)などを襲撃して掠奪の限りを尽くしました。1665年の秋頃にはモディフォード・ジャマイカ総督(1664-70、Colonel Sir Thomas Modyford, first Baronet.1620-1679)の要請で、老海賊船長マンスフィールド(Edward Mansfield's)海賊遠征隊と共にプロヴィデンス島とサンタ・カタリナ島(Providence、Santa Catalina)を襲撃しました。モーガン船長はマンスフィールド船長がスペインに捕らえられて処刑されると、間もなくバッカニーア海賊の提督(admiral)に選ばれました。その後モーガン船長は、叔父で後にジャマイカ島総督に就任したトーマス・モディフォードから、海賊のなかでも傑出した指導者であったマンスヴェルトを紹介されました。モディフォードはサンタ・カタリナ島の占領を計画しておりモーガンは説得されて、その遠征の副指令官となりました。しかし、マンスヴェルトの急死やスペインが島の防備を固めたため、この遠征航海は失敗しました。 ・参考HP〜 ・カンペチェ湾の地図 ・ツジロの地図 ・ニカラガのグラナダの地図 ・プロヴィデンス島とサンタ・カタリナ島の地図 ・プロヴィデンス島とサンタ・カタリナ島の地図の場所地図 ・キューバ遠征:〜 モーガン船長が次の遠征の目的地としたのがキューバ島でした。モーガン船長は仲間と相談してこの遠征を決めたのですが、船の中にいたスペイン人捕虜にこの会議を聞かれ、その捕虜が逃げ出して、キューバ中央の町プエトル・デル・プリンシペル(Santa Maria del Puerto del Principe、現カマグエイ(Camaguey Province)の町に海賊襲撃が伝わってしまいました。このため町へと続く道は塞がれましたが、海賊達は森の中を通り、守備兵に気付かれずに町に到着することができました。町を占拠した海賊は住民を脅し、8レアル銀貨5万枚を奪ってジャマイカ島に帰りました。このとき、イギリス人海賊とフランス人海賊が争いを起こし、イギリス人がフランス人を殺しました。モーガン船長は加害者を裁判にかけると約束しましたが、フランス人海賊達はモーガン船長から離れいきました。1667年には再びキューバのプリンシペを襲撃しました。1667年にはバルバドスの農場主(plante)のモディフォード総督の要請でキューバ襲撃の契約を締結しました。モーガン船長は10隻に500人の荒くれ男達を集めて乗組ませ、またもやキューバのプリンシペを襲撃しました。 ・参考HP〜 ・カマグエイの場所地図 ・ポルト・ベロ遠征:〜 次に1667年にはパナマのポルトベロ(Portobelo)を襲撃しょうともくろみましたが、堅固な守りに阻まれて、ようとして落ち地ませんでした。パナマの堅固な城壁都市ポルトベロ(Portobelo)攻撃では、その猛攻の前にスペインのパナマ総督が多額の賠償金を支払ったので、モーガン船長達は引き上げました。その時に原住民インディオからグラダナが近隣の産物の集積地として繁栄していることを聞きました。そこでモーガンは部下を連れて、全長190キロのサン・ホアン川を1週間以上かけて渡り、ニカラグア湖を5日かけて北上した後、月明かりを利用してグラダナを奇襲しました。モーガンは逃げ遅れたスペイン人を教会の中に押し込め、海賊襲撃に便乗してスペイン人を襲った奴隷のインディオとともに略奪しました。カヌーで川を上ってきたため財宝はあまり積み込めなかったのですが、ジャマイカに戻ってくると、モーガン船長の名は一躍く大評判となりました。 ・結婚:〜 その後、グラナダやキューバ遠征で得た富で、モーガンはジャマイカ島に農場を買って結婚しました。この時期は不明ですが、1688年に名誉革命(Glorious Revolution)によりイングラン国王ジェームズ2世が追放され、翌年「権利の章典」(Bill of Rights)が制定された後に30才でジャマイカ副総督になった叔父エドワード(Edward Morgan)大佐の娘で従姉妹のメアリー(Mary)と結婚し、ジャマイカ島のポート・ロイアル(Port Royal, Jamaica)を基地として活躍したとされています。
・参考HP〜 ・マラカイポの場所地図 ・パナマ遠征:〜 遠征が決まると、モーガンは参加する海賊を集めて”規律”や”怪我をしたときの保障”を発表しました。そして、出発する際には私掠許可状を持っていたのですが、ジャマイカ島総督から渡された許可状は5ヶ月以上も前に期限が切れたものでした。この時、スペインとイギリスの間でマドリード条約(Treaty of Madrid 、1670年にジャマイカ島が英領となる)が交わされ、両国は友好国となりました。モーガン船長は知ってか知らずか、この許可状を使い続けました。1670/12/20にモーガン船長達はサン・カタリーナ島に到着しました。小船に白旗を掲げさせて様子を見にいかせたモーガン船長ですが、返事は「島は明け渡すから、総督の名誉のために模擬戦争をしてくれないか」というものでした。策略だと疑ったモーガン船長は「もし約束を破ったら本当に攻撃する」と釘をさして承諾しました。実際にスペイン兵は空砲しか撃ってこず、モーガンに降伏しました。1671年にはモーガン船長達はチャグレス川に到着しました。出発する時に食料は途中の村から奪ってくることを想定していたため、ほとんど持っていませんでした。しかし、どの村も住民は食料をもって逃げており、海賊達は皮袋を食べてしのぎました。しかも6日目にスペイン兵が現れ、インディオの妨害にもあって、海賊にも死傷者がでましたが、幸運にも得られた食料で命をつなぎ、パナマに進撃し、2時間ほどの戦闘で海賊が勝利しました。パナマ市は総督の命令で火に包まれ、モーガンはダゴバ島に逃げた住民を追って、莫大な財宝を手に入れました。この遠征は海賊史上最大の遠征といわれました。財宝の分配の時に、部下が分け前が少ないと文句を言い始めました。やがてそれは、モーガンが財宝を横領しているのではないかという疑惑が広がり、命の危機を感じたモーガン船長は、少数の部下をつれてジャマイカ島に帰りました。1670/12/15にはサンタカタリナ(Santa Catalina)を襲撃しました。
モーガン船長後のカリブの海賊は、イギリスの海賊はスペイン領に対する略奪行為、侵略を一切禁止されました。そのためカリブの海賊の主役はフランスの海賊に移ってゆきました。しかしそれも1697年にイギリス、スペイン、フランス、オランダの間にライスワイク条約(Treaty of Ryswick、1697/9/20)が交わされると、カリブの海賊は急速になりをひそめてゆきました。海賊が返り咲くのは18世紀になってからのことでした。 なお、モーガンの生涯は作家ジョン・スタインベックが「黄金の盃」に、ジョン・エスケメリングが「カリブの海賊」に書いて発表しています。
・参考HP〜 ・中央アメリカの地図 ・キューバの地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/3/15、12/8/3、12/8/7 |