★ロシア |
クリミア戦争 1853〜1856 Crimean War |
大航海物語★ |
古代の戦艦アルゴノート | クリミヤ半島 (セバストポール) |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
corner label |
イ オ ニ ア 海 |
ア ゾ フ 海 黒 海 ←シノープ カルス |
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ギリシャ エーゲ海 ↑スクタリ トルコ(小アジア半島) | |||||
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより |
ロシア帝国の提督 |
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トルストイ ソ連 1935 発行 |
コルニロフ提督(1806-54) ソ連 1989/12/28 発行 |
ナヒモフ提督(1802-55) ソ連 1987/12/22 発行 |
ナイチンゲール 西ドイツ1955/11/15発行 |
イストミン提督(1809-55) ソ連 1989/12/28 発行 |
ブタコフ提督(1820-82) ソ連 1989/12/28 発行 |
ロシア帝国帆船の推移(1) |
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19世紀ロシア帝国の戦列艦 ウクライナ 2001/4/20 発行 |
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クリミア戦争 (1853〜1856) Crimean War ・開戦〜1853/10月=オスマン・トルコがドナウ河(別名:ダニューブ河)を渡過した日:説 ・開戦〜1854/3/28=英仏がロシアに宣戦布告した日:説 ・終戦〜1856/3/30=パリ条約の締結日:説 ナポレオン(Napoleon Bonaparte、1769-1821)戦争(1803(即位:1805)-1815)が終わるとヨーロッパには、しばしの平和が訪れていましたが、欧州東方のオスマン(Ottoman Empire:1299-1923)・トルコ(土耳古)が弱体化してくると欧州列強はその領土を狙って動き出しました。 そうして起こったのがクリミア戦争という大戦争でした。 ◆クリミア戦争は クリミア半島などを舞台として行われた戦争で、ロシア帝国がオスマン・トルコ帝国領内のギリシア正教徒の保護を理由として、1853年オスマンの宗主権下で自治を認められていた現:モルドヴァとルーマニアの一部のモルダヴィア公国(Moldavia:1346-1859)、ワラキア公国(Wallachia 1330-1859)に進駐しました。オスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返しましたが、無視されたので最後通牒を煥発して、それも無視されたので、オスマン軍が1853/10月に宣戦布告なしにドナウ河を渡河して、ルーマニア南部ブカレスト(Bucharest、人口:1859年122,000人、2000年2,300,000人)郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことがきっかけに開戦となりました。
◆英仏が参戦 本格的に参戦するつもりはなかった英仏でしたが、1853/11/30に黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったオスマン艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるだけでなく、街にも艦砲射撃が行われて市民の犠牲者が出るというシノープの海戦が起きたため状況は一変しました。ロシア黒海艦隊の偵察に気づいていながら、イスタンブールに援軍を要請する以外に何も行わなかったオスマン側の明らかな手落ちでしたが、あまりにも一方的な攻撃だったため、各国の新聞などが”シノープの虐殺”と報道しました。それで、1854/1月にダーダネルス海峡以南にいた英仏の地中海艦隊が黒海に進出してロシア艦隊を牽制し、イギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論になり、フランスと共にオスマンと同盟を結んで、1854/3/28にロシアに宣戦布告し、イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成しました。それはナポレオン戦争(1803-1815)から第一次世界大戦(1914-1918)までの99年の間で、この一度だけでした。 当初、英仏土連合軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(Varna、現:ブルガリア東部)に上陸させてオデッサ(Odessa、Ukraine)の攻略を目指しましたが、夏の炎天下とコレラの流行に苦しみ進軍を止めてヴァルナに戻りました。その頃、オーストリアが国境線に部隊を配置してロシアの南下に警告を与えたので、連合軍はバルカン山脈以北への再進軍を止め、攻撃目標を仏サン・タルノー司令官の提案で、ロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポールへ変更しました。しかし、主力のイギリス・フランス軍は共に現地の事情にうとく、クリミア半島に部隊を移動させた直後から、現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の補給物資を満載していた艦隊が嵐に巻き込まれて、戦う前からその大半を失っていました(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになりました)。 ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマ川の戦いでは地の利があるにもかかわらず実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するイギリスのスコットランド連隊の前に敗れてセバストポールへの進軍を許してしまいました。その一方、連合軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能なロシア人士官が化けたニセ指揮官たちによる攪乱工作で、バラクラヴァの戦いやインカーマンの戦いでは辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポールを前にして立ち往生する羽目に陥りました。 ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポールを砲撃されないように、湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて軍艦の大砲を据え付けて街全体を要塞化したため、連合軍は塹壕を掘って包囲する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガス)まで使用したといわれていますが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り(コレラなどの伝染病が発生)、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂ってきました。 1853/11月にイギリスのリー男爵シドニー・ハーバート戦時大臣が、ナイチンゲールにクリミア戦地への従軍を依頼。ナイチンゲールは38人の女性を率いて、トルコの西でイスタンブールの一地区、ボスポラス海峡を経て相対するアジア側にあるスクタリ(Scutari 現:ユスキュダル Uskudar)にあって、クリミア戦争中はイギリス軍後方基地の陸軍野戦病院のスクタリ病院看護師の総責任者としてイギリスを出帆しました。 最終的に、サルデーニャ王国がイタリア北西部のピエモンテ州(Piemonte)に駐屯する15,000人を派遣して連合軍に加わって参戦したことにより、セバストポールの街は3日におよぶ総攻撃の末に、ナヒーモフ提督もコルニーロフ提督も戦死しました。1854/9/28から始まったセバストポールの包囲攻撃戦は、約1年(349日)におよぶ激しい凄惨な戦いの末に、ロシア防衛軍の生き残りが北方へ撤退し、1855/9/11にセバストポールが陥落して決着しました。しかし、この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失いました。政権を支える下院指導役のジョン・ラセッル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職。外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相があとを継ぎました。 ◆パリ講和条約(終戦) また、セバストポール陥落直後にコーカサスの要衝カルス要塞がロシア軍に降伏したことから事実上の戦勝国は無くなりました。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったのでしたが、フランスのナポレオン3世が世論をうけて、これ以上の戦闘を望みませんでした。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えず、結局両陣営は共にこれ以上の戦闘継続は困難と判断しました。時を同じくして、ロシアではニコライ1世が崩御し、新たに即位したアレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権でありロシア軍の総司令官であるアレクサンドル・メンシコフを罷免。こうして連合軍側と和平交渉が進められました。明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴール(イタリアの政治家)のロビー活動によりハプスブルグ批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視されました。こうして1856/3/30にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとで、パリ条約(Treaty of Paris 1856)が成立しました。 この戦争で、産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験してないロシアの、国力の差が歴然と証明されることになりました。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていました。ロシアでは大量生産が未だしで、大砲や小銃の種類が多くて共通する弾丸が少なく、兵站補給面での立ち遅れもあったといわれています。 ◆バルト海での戦闘 クリミアでの戦闘は北欧においても転換期となりました。スウェーデンはロシアからのフィンランド奪回の意図を講じ、参戦を計画しました。これはナポレオン戦争以後のスウェーデンの武装中立主義を覆すものでした。イギリス、フランスもスウェーデンの政策を支持し、バルト海に艦隊を派遣しました。 1854年に英仏艦隊はバルト海に侵攻し、フィンランド沿岸を制圧するも、スウェーデン議会は戦争への介入に消極的で、当初は中立を宣言。しかしこの中立は英仏にとって有益なものとなり、スウェーデン領であるゴットランドの海港を軍事基地として利用しました。英仏艦隊はフィンランド領となっていたオーランド諸島に迫っていたため、フランスよりオーランド諸島の占領をスウェーデンに打診するも、スウェーデン王オスカル1世は、ロシアが機雷を使用したことを憂慮し、慎重な姿勢を取ったため、オーランド諸島奪回の好機は失われました(ボマーサンドの戦い、1854/8/16)。1855年に入るとクリミアでの戦闘がロシアの敗色濃厚となり、スウェーデンは直接参戦の意思をあらわにしましたが、スウェーデンの参戦は時機を逸していました。セバストポールの陥落とスウェーデンの参戦は、ロシアに和平を促すきっかけとなり、英仏艦隊はバルト海から撤退しました。結局スウェーデンは何の利益も得るところも無く戦争は終結。なお、スウェーデン人が主体を占めるオーランド諸島は、この後非武装地帯とすることで合意を得ましたが、フィンランド独立後に帰属問題で揺れ、結局1921年にフィンランドの自治領になることが決定されました。 ◆極東アジアのカムチャッカでの戦闘 太平洋側のロシア極東にも戦争は波及しました。フランス海軍とイギリス海軍の連合艦隊は1854/8月末にカムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論みました。英仏連合艦隊は盛んに艦砲射撃を行い、同年9月に上陸するも、陸戦で大きな犠牲を出して撤退。英仏連合軍は兵力を増援しましたが、ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪中を脱出しました。 この戦いではエフィム・プ-チャーチン総督(Yevfimy Vasilyevich Putyatin、1803-1883)がペトロパブロフスクの防衛を命じられていましたが、プチャーチン総督は日露和親条約を結ぶためアフリカ航路で日本からペトロパブロフスクへ向かう途中、イギリスのプリマス港に寄港。その時に英仏がロシアに宣戦布告していることを知り、すぐさま出帆、セントヘレナ島・ケープタウン港・セイロン島などに寄港後、中立国であるスペイン領マニラ港に到着。そこで折悪しくフランス海軍と遭遇したため、急いで長崎港に行き、日露和親条約を締結しました。クリミア戦争は直接ではなくても日本にも大きな影響を及ぼしました。アメリカだけがこの時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交をできたのは、この戦争によって欧州列強が日本を含めた東アジア地域にまで関心が及ばなかったからといわれています。 なお、この戦争でフランスでは政府の命をうけて、パリの天文台々長のユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier 1811-1877)という天文学者が暴風雨の研究を行い、これが今日の天気予報の起源になりました。
主な国王・政治家・司令官〜 ▼ロシア〜ロシア帝国ロマノフ朝(1613-1917) ・ロマノフ朝第11代ロシア皇帝(在位:1825-1855)ニコライ1世(Nikolai I)、 ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ(Nicholai Aleksandrovich Romanov、1796-1855) ・ロマノフ朝第12代ロシア皇帝(在位:1855-1881)アレクサンドル2世(Aleksandr II)、 アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ( Aleksandr Nikolaevich Romanov、1818-1881) ・初代ロシア軍総司令官(アレクサンドル・メンシコフ提督) 提督アレクサンドル・セルゲイヴィッチ・メンシコフ王子(海軍中将) (Prince Aleksandr Sergeyevich Menschikov 1787-1869 Vice Admiral) 開戦前に特使としてイスタンブールへ行く、後にロシア軍の総司令官 ・ワシリー・ステファノヴィッチ・サヴォイコ提督 (Admiral Vasily Stepanovich Zavoyko 1809-1898) ・ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵 (Count Nikolai Nikolaevich Muraviyov-Amurskii、1809-1881) 極東政策に深く関わり、1858年のアイグン条約によるロシア領土の大幅な拡大を成し遂げた人物で、日本と交渉し樺太の国境線を確定させる、「アムールスキー」は「アムールの」という意味のアダ名。 ・エフィム・ワシリエビッチ・プーチャーチン提督 (Jevfimij Vasil'jevich Putjatin, 1803-1883) ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、文部大臣(在任:1861/6/26-1861/12/25) ・伯爵イェゴール・ペトロヴィッチ・トルストイ中将(タガンログ第9代総督:1854-1856) (Lieutenant-general Count Yegor Petrovich Tolstoy (1802-1874) ・パヴェル・ペトロヴィッチ・リプランディ将軍 (General Pavel Petrovich Liprandi 1796-1864) ・第2代ロシア軍総司令官(アレクサンドル・ゴルチャロフ公爵) アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャロフ砲兵将軍 (Prince Gorchakov:Alexander Mikhailovich Gorchakov 1798-1883) 後の外務大臣、パリ条約特使、セヴァストポールの放棄を決定した人物 ・パーヴェル・ナヒモフ提督 ・ウラジミール・コルニロフ提督 ・ウラジミール・イストミン提督 ・グリゴリー・ブタコフ提督 ▼イギリス〜(ヴィクトリア女王の御代 1837-1901) ・第4代アバディーン伯ジョージ・ハミルトン=ゴードン(首相在任:1852-1855) (George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen KG, KT, FRS, PC 1784-1860) ・サー・ジェームス・ロバート・ジョージ・グラハム内務大臣(Home Secretary) (Sir James Robert George Graham, 2nd Baronet GCB PC 1792-1861) ・リー男爵シドニー・ハーバート戦時大臣 (Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea PC 1810-1861) ・パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル外相(首相在任:1855-1858) (Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC 1784-1865) ・ロード・ラグラン男爵(Lord Raglan)、フィッツロイ・ヘンリー・ジェームス・ヘンリー・サマーセット元帥 (ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット)〜ラグラン袖の考案者 (Field Marshal FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan,GCB, PC 1788-1855) ・第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・トーマス・ブルデネル中将〜カーディガンの考案者 (Lieutenant General James Thomas Brudenell, 7th Earl of Cardigan, KCB 1797-1868) ・サー・ジェームス・シンプソン将軍 (General Sir James Simpson 1792-1868) ・サー・ウィリアム・ジョン・コドリントン将軍 (General Sir William John Codrington GCB 1804-1884) ・ジョン・ラッセル卿(Lord John Russel、1861年まで、初代ラッセル伯ジョン・ラッセル) (John Russell, 1stEarl Russell, KG, GCMG, PC, 1792-1878) ラッセル第一次内閣(1846〜51、1851〜1852)は1840年代後半のジャガイモ飢饉と時を同じくし、アバディーン内閣では外相・下院指導者を歴任。クリミア戦争が勃発してアバディーン首相が国民の支持を失うと政権の禅譲を狙って首相の足を引っ張って下院の指導役を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、パーマストン内相に首相の座を奪われたが、第2次パーマストン政権では外相 ▼フランス〜(第2帝政:1852-1870) ・ナポレオン3世 (Charles Louis-Napoleon Bonaparte, 1808-1873) ・初代フランス軍総司令官(サン・タルノー将軍) タルノー=ジャックス・ルロイ・ドゥ・サン・タルノー元帥 (Armand-Jacques Leroy de Saint-Arnaud 1801-1854/9/29) アルマ川の戦いを指揮中、病に倒れて船上で亡くなり、仏で埋葬される ・第2代フランス軍総司令官(カンロベール将軍) フランシス・セルタン・ドゥ・カンロベール元帥 (Marechal Francois Certain de Canrobert 1809-1895) ・マラコフ公爵エイマブル・ジャン・ジャックス・ペリシェール元帥 (Marechal Aimable Jean Jacques Pelissier, 1st Duc de Malakoff 1794-1864) ・フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥 (Marechal Francois Achille Bazaine 1811-1888) ・マジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン元帥 (Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, 1st Duke of Magenta 1808-1893) フランス第3共和政(1870-1940)の第2代大統領( 1873/5/24-1879/1/30) ・第3代フランス軍総司令官(ペリシール将軍 Aimable Pelissier) マロコフ公爵エイマブル・ジャン・ジャック・ペリシール元帥 (Marshal Aimable Jean Jacques Pelissier, 1st Duc de Malakoff 1794-1864) ▼サルデーニャ王国(Kingdom of Sardinia 1720-1861:イタリア)〜 ・アルフォンソ・フェレロ・カヴァリエール・ラ・マルモラ将軍 (Alfonso Ferrero, Cavaliere La Marmora 1804-1878) ・カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴール伯爵 (Camillo Benso, Conte di Cavour、1810-1861) イタリアの政治家。サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)を歴任。カヴール伯爵はサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス、フランスなど大国の援助が必要であると考え、イギリス、フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。 結果としてカヴールは1856年のパリ講和会議に列席し、イタリアの窮状を各国に訴えるという当初の目的を果たしました。 ▼オスマン・トルコ〜オスマン帝国(Ottoman Empire 1299-1923) ・オスマン帝国第31代皇帝アブデュルメジト1世 (Sultan Abdul Mejid I 1823-在位:1839-1861) ・オマー・パシャ・ラタス将軍 (Omar Pasha Latas 1806-1871) ・マーメト・イスケンドル・パシャ将軍 (Mehmet Iskender Pasha 1814-1861) ▼その他〜 ・アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン、ノーベル賞) (Alfred Bernhard Nobel, 1833-1896) ロシアの機雷設置を請負ったことがダイナマイトの発明につながる ・フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップス(フランス、スエズ運河) (Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps、1805-1894) オスマン帝国側で参戦して混乱したエジプトからスエズ運河の建設権を取得 ・ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(ドイツ、トロイ遺跡の発掘) (Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822-1890) 戦争の補給物資を取り扱って儲かり、その金を元にトロイ遺跡を発掘 ・フローレンス・ナイチンゲール(イギリス、看護婦さん) (Florence Nightingale, 1820-1910) ・レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(ロシアの砲兵少尉で従軍、文豪) (Lev Nikolajevich Tolstoj, 1828-1910) ・カーディガンなど ・参考HP:〜 ・オスマントルコの領土地図(1855年頃有) ・ウクライナの地図 ・モルドヴァの地図 ・ルーマニアの地図(日本語、ワラキア地方有) ・ブルガリアの地図(Varna、Silistra有) ・ギリシャの地図(Thessaroniki有) ・ロシアの地図(区分地図) ・オーストリア帝国の地図(1804-1867) ・オースリア帝国の場所地図(日本語、1848年頃国別地図) ・モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニアの場所地図(1812) |
・クリミヤ戦争の略史年表:〜 | ||
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19世紀スクリュー式蒸気帆船のロシア戦艦 Frigate Varadimir 1848 ソビエト連峰 1971/12/15 発行 |
19世紀のプロペラ式鉄甲帆船の戦艦 ギニア 2001/4/20 発行 |
◆クリミア戦争での主要な戦い:〜 1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げましたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスが、オーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストーポールに変更。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化するも、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒモフ提督、ウラジミール・コルニロフ提督、ウラジミール・イストミン提督やコルニーロフ大佐も戦死し、ロシアは1855/9月に放棄を決定。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えに返還されました。 ・参考HP:〜 ・クリミヤ戦争の関連場所地図(日本語) ・クリミヤ戦争の関連場所地図(日本語) ・クリミヤ半島の地図 ・参考:〜クリミア半島は面積:26,100ku、(日本の九州:36,749ku、四国:18,300ku)
ロシア〜 ・ペテル・アンドレヴィッチ・ダネンブルグ将軍 (Peter Andreivich Dannenberg 1792-1872) オスマン〜 ・オマー・パシャ・ラタス将軍 (Omar Pasha Latas 1806-1871) ・参考HP:〜 ・ルーマニアの詳細地図(Arges River、Oltenita有) ・ドナウ河の流域地図 ・ブルガリアの地図(Ruse有) ・ブルガリアの州区分地図(15=Ruse、17=Silistra) ・ブカレスト付近の地図(Silistra(赤丸)有、黄色線=国境でドナウ河)
ロシア〜 ・AK・バウムガルテン大佐 (Colonel AK Baumgarten) オスマン〜 ・アーマド・パシャ将軍 (Ahmad Pasha) ・参考HP:〜 ・ドルジュ県の地図(ドナウ河沿いの西部に、Cetate、Calafat有) ・ルーマニアの詳細地図(ドナウ河沿いの南西部に、Calafat有)
・ブルガリアの地図(Silistra有) ▼クレクデルの戦い (1854/8/6)〜ロシアの勝利 Battle of Kurekdere〜ロシア対オスマン・トルコ オスマン軍が黒海南岸のカルス(Kars)から、アルメニア北西部の都市ギュムリ(Gyumri, Armenia、人口:168,918人:2008年、標高:1,509m)へと進軍し、ロシア軍と激突して闘われた戦い。オスマン軍が敗退しましたが、オスマン軍は戦術戦略のミスも有って、後世の人に「グルジアの首都トビリシ(Tbilisi)へ撤退すべきだった」と言われています。
・アルメニアの地図(Gyumri有) ・アルメニアの場所地図(日本語) ・グルジアの地図(日本語、トビリシ有)
フランス艦隊〜 ・アレクサンドル・フェルディナンド・パーセヴァウル=デチェネス提督 (Alexandre Ferdinand Parseval-Deschenes1790-1860) ・参考HP:〜 ・オーランド諸島の地図 ・オーランド諸島の場所地図
・イギリス太平洋艦隊〜 司令官:提督デイヴィッド・プライス少将騎下の戦艦3隻 ・フランス太平洋艦隊:〜 司令官:提督オーギュスト・フェヴリエ・デポワント少将騎下の戦艦3隻 ・参考HP:〜 ペトロパブロフスクの場所地図 ▼アルマ川の戦い (1854/9/20)〜連合軍の勝利 Battle of the Alma〜ロシア対英仏土連合軍 セヴァストポール北方のアルマ川の近くで、 イギリス・フランス・オスマン帝国による連合軍がロシア軍に勝利。 ・両軍の司令官〜 ロシア〜 ・アレクサンドル・メンシコフ提督 フランス〜 ・サン・タルノー将軍 イギリス〜 ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット将軍
・参考HP:〜 ・アルマ川の場所地図(Alma River) ▼セヴァストポール包囲攻撃の戦い Siege of Sevastopol (1854/10/17〜1855/9/11)〜連合軍の勝利 (クリミア戦争中のセヴァストポール包囲攻撃戦)
・参考HP:〜 ・セヴァストポールの場所地図 ・セヴァストポールの場所地図(セヴァストポール、オデッサ、ヤルタ、ソチ、コンスタンツァ、有) ・セヴァストポール市街包囲の地図(セヴァストポール市街地外の攻撃線とバラクラヴァの英軍基地有)
・重騎兵旅団の突撃 (Charge of the Heavy Brigade) スカーレット准将率いるイギリス重騎兵旅団600人が、ロシア軍騎兵3,500人に突撃して勝利した戦い ・軽騎兵旅団の突撃 (Charge of the Light Brigade) 命令でカーディガン伯爵ブルデネル中将が率いる軽騎兵旅団673人が、ロシア軍砲兵陣地に正面から突撃して死傷者278人という大損害を被った戦い〜その勇敢さが賞賛される ・両軍の司令官・指揮官〜 ロシア〜 ・パヴェル・ペトロヴィッチ・リプランディ将軍 (General Pavel Petrovich Liprandi 1796-1864) イギリス〜 ・ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット将軍(ラグラン袖) (Lord Raglan) ・クライド男爵コリン・キャンベル将軍〜第93歩兵連隊長 (Field Marshal Colin Campbell, 1st Baron Clyde GCB, KSI 1792-1863) 第93歩兵連隊(93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot) ・スカーレット准将 (General Sir James Yorke Scarlett, GCB 1799-1871) ・第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル中将(カーディガン) (Lieutenant General James Thomas Brudenell, 7th Earl of Cardigan, KCB 1797-1868) フランス〜 ・フランソワ・ドゥ・カンロベール将軍 (Marechal Francois Certain de Canrobert 1809-1895) ・パヴェル・リプランディ将軍 (General Pavel Petrovich Liprandi 1796-1864)
・参考HP:〜 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(1)アルマ川からの、連合軍の進軍地図 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(2)バラクラーバ港への、連合軍の進軍地図 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(3)第93歩兵連隊、重騎兵旅団、軽騎兵旅団の配置図が有 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(4) ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(5)バラクラーバ港の北部での戦闘団の配置図 ▼インカーマンの戦い (1854/11/5)〜連合軍の勝利 Battle of Inkerman、Ukraine〜ロシア対英仏連合軍 セヴァストポール郊外の東5kmのチョルナ川(Chorna River 34.5km)河畔のインカーマン町で、インカーマンの戦いが勃発。ロシア軍がイギリスとフランスの連合軍と激突して、連合軍が勝利しました。
ロシア〜 ・アレクサンドル・メンシコフ提督 イギリス〜 ・ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット将軍 フランス〜 ・フランソワ・ドゥ・カンロベール将軍 ・参考HP:〜 ・インカーマン(Inkerman)場所の地図
連合艦隊:〜 ・英海軍蒸気式戦艦4隻 ・仏海軍蒸気式フリーゲート艦1隻 ・トルコ蒸気式フリーゲート艦1隻
ロシア〜 ・ステパン・クルレフ将軍 (Stepan Khrulev) オスマン〜 ・オマー・パシャ・ラタス将軍 ・メフメト・イスカンダル・パシャ将軍 (Mehmet Iskender Pasha 1814-1861) ・参考HP:〜 ・クリミヤ半島の地図 ・ユーフパトリアの場所地図 ・ユーフパトリアの場所地図(クリミヤ半島の地図)
・伯爵イェゴール・ペトロヴィッチ・トルストイ中将 (タガンログ第9代総督:1854-1856) (Lieutenant-general Count Yegor Petrovich Tolstoy (1802-1874) ・イワン・イワノビッチ・カラスノフ騎兵将軍 (Ivan Ivanovich Krasnov 1802-1871、ドン・コザックの族長) ・男爵オットー・ウィルヘルム・ヘルマノヴィッチ・プフェリサール=フランク将軍 (タガンログ第6代総督:1832-1843) (Baron Otto Wilhelm Hermanovich Pfeilizer-Frank 1788-没年不詳) イギリス艦隊旗艦:〜 ・木造蒸気式スループ艦ミランダ号 (HMS Miranda 14-gun(32pdr) wooden screw sloop 1,523tns) 撃沈〜 ・イギリス砲船ジャスパー号(gunship HMS Jasper)、第2次 ・参考HP:〜 ・アゾフ海の地図(Taganrog Bay有) ・ドン河の流域地図 ・レディ・ナンシー号(Lady nancy )の勇姿(絵画)
・スオメンリンナの要塞の地図 ・ヘルシンキの地図(37=Suomenlinna) ・フィンランドの地図(日本語) ▼チェルナヤ川の戦い (1855/8/16)〜連合軍の勝利 Battle of Chernaya River〜ロシア対英仏サルディニア連合軍 ロシア皇帝ツァーの命により、ためらっていた王子ゴルチャログ将軍に「8/15の聖母の被昇天日(Assumption of Mary)を祝っている包囲の連合軍を撃破せよ!」との命を受け、セバストポールを包囲するしている連合軍を街から打って出て攻撃をかけて戦端が開かれました。支援のセヴァストポール要塞北東のロシア野戦軍は、要塞から南に向って左翼前面に布陣する仏・サルディニア連合軍に総攻撃をかけ、リブランジ将軍のロシア軍が濃霧に紛れて攻撃し、激戦の末に死傷者を残して敗走しました。 ・両軍の司令官〜 ロシア〜 ・砲兵将軍ミハイル・デミトリヴィッチ・ゴルチャコフ王子 (Prince Mikhail Dmitrievich Gorchakov 1790-1861, Warsaw没) フランス〜 ・マロコフ公爵エイマブル・ジャン・ジャック・ペリシール将軍 (Marshal Aimable Jean Jacques Pelissier, 1st Duc de Malakoff 1794-1864) サルディニア〜 ・アルフォンソ・フェレロ、カヴァリエル・マルモラ将軍 (Alfonso Ferrero La Marmora 1804-1878) オスマン〜 ・オスマン・ヌリ・パシャ将軍 (Osman Nuri Pasha (Gazi Osman Pasha) 1832-1900)
・参考HP:〜 ・チェルナヤ川の場所地図(日本語、アルマ川、カッチャ川、ベルベック川、チェルナヤ川有) ・連合軍の進撃地図(River Alma、Katha、Belbeck、Chernaya有)
・セヴァストポール(SEVASTPOL)の地図(Malakof有) ・セヴァストポール(SEVASTPOL)攻撃の配置地図(The Malakof有)
(General Francois Achille Bazaine 1811-1888) バゼーヌ将軍は外人部隊の連隊長としてセヴァストポール包囲攻撃戦で戦功を挙げ、ナポレオン3世の信任厚く2等兵から元帥へと異例の昇進を果しました。 ・参考HP:〜 ・キンブルン半島の場所地図 ・ドニエプル川の場所地図 ・ウクライナの地図 ・ウクライナのドニエプル川流域地図
・両軍の司令官〜 ロシア〜 ・ミハイル・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵 イギリス〜 ・男爵サー・ウィリアム・フェンウィック・ウィリアムス将軍 (General Sir William Fenwick Williams, 1st Baronet GCB 1800-1883) オスマン〜 ・モハメッド・ヴァシフ・パサ・グルク将軍 (Field-Marshal Mehmet Vasif Pasa Gurcu (生年不詳-1865没) ・オマー・パシャ・ラタス将軍
・参考HP:〜 ・トルコの地図(Kars有) ・カルスの場所地図 ・コーカサス地方の区分地図(日本語) ◆その後 パリ条約(1856/3/30)の結果、ロシアは黒海での艦隊保有を禁止され、トルコ領内のギリシア正教徒の保護権も奪われる。この戦争でロシアの威信は失墜し、国内では農奴解放や軍政改革など一連の改革が始まりました。オスマン・トルコは戦勝国となるも、莫大な戦費が国家財政を苦しめ、ロシアと同様に黒海艦隊の保有が禁止されました。途中から参戦したサルデーニャ (Sardegna)は、1861年にイタリアを統一。フランスのナポレオン3世は、この戦争で国の威信を高め、その後外征を繰り返し、最後はプロイセンとの普仏戦争(1870〜1871年)で惨敗となりました。 ・黒海の地図 ・黒海付近の地図 ・クリミヤ半島の地図 ・バルカン半島の国別地図(日本語、クリミア戦争当時) 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/6/26 |