★ロシア
クリミア戦争
1853〜1856
Crimean War

大航海物語★
古代の戦艦アルゴノート クリミヤ半島
(セバストポール)
ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

corner label















←シノープ


カルス
      ギリシャ  エーゲ海     ↑スクタリ     トルコ(小アジア半島)
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより
 
ロシア帝国の提督
トルストイ

ソ連 1935 発行
コルニロフ提督(1806-54)

ソ連 1989/12/28 発行
ナヒモフ提督(1802-55)

ソ連 1987/12/22 発行
ナイチンゲール

西ドイツ1955/11/15発行

イストミン提督(1809-55)

ソ連 1989/12/28 発行
ブタコフ提督(1820-82)

ソ連 1989/12/28 発行

ロシア帝国帆船の推移(1)
19世紀ロシア帝国の戦列艦

ウクライナ 2001/4/20 発行
19世紀の海戦



炎上
ギリシャ 1971 発行

クリミア戦争 (1853〜1856)
 Crimean War

  ・開戦〜1853/10月=オスマン・トルコがドナウ河(別名:ダニューブ河)を渡過した日:説
  ・開戦〜1854/3/28=英仏がロシアに宣戦布告した日:説
  ・終戦〜1856/3/30=パリ条約の締結日:説
ナポレオン(Napoleon Bonaparte、1769-1821)戦争(1803(即位:1805)-1815)が終わるとヨーロッパには、しばしの平和が訪れていましたが、欧州東方のオスマン(Ottoman Empire:1299-1923)・トルコ(土耳古)が弱体化してくると欧州列強はその領土を狙って動き出しました。
そうして起こったのがクリミア戦争という大戦争でした。

◆クリミア戦争は
クリミア半島などを舞台として行われた戦争で、ロシア帝国がオスマン・トルコ帝国領内のギリシア正教徒の保護を理由として、1853年オスマンの宗主権下で自治を認められていた現:モルドヴァとルーマニアの一部のモルダヴィア公国(Moldavia:1346-1859)、ワラキア公国(Wallachia 1330-1859)に進駐しました。オスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返しましたが、無視されたので最後通牒を煥発して、それも無視されたので、オスマン軍が1853/10月に宣戦布告なしにドナウ河を渡河して、ルーマニア南部ブカレスト(Bucharest、人口:1859年122,000人、2000年2,300,000人)郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことがきっかけに開戦となりました。

装備の上で勝っていたロシア軍は砲兵部隊をドナウ河岸に集中させてオスマン軍の河川船隊を撃破しました。そして勢力を盛り返してドナウ河を越えて南下。そこへギリシャの義勇兵が北上して、手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けた反トルコ組織が叛乱を煽動したため、オスマン軍はバルカン半島で挟撃されるかたちに追い込まれました。ロシアの南下を恐れていたイギリス(ヴィクトリア朝)とフランス(第2帝政:1852-1870)は、ギリシャに撤退を求めるも、中央政府の権威が弱いギリシャでは戦線に身を投じる義勇兵が後を絶ちませんでしたので、フランスは巡洋艦を派遣してギリシャ義勇兵への武器を積んだ輸送船をテッサロニキ港で撃沈しました。イギリスもアテネの港湾都市ピレウス港を封鎖    ギリシャ兵の戦い

ギリシャ 1971 発行
して圧力をかけたため、ギリシャは義勇兵の援助を打ち切らざるをえなくなりました。これにより反オスマンを掲げた叛乱は各地で鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリアの反対派組織は徹底的な弾圧を受けて壊滅に至り、再び盛り返したオスマン軍がロシア軍をドナウ河以北にまで押し戻すも、両軍ともに決定力に欠いたため戦線は膠着状態になりました。

◆英仏が参戦
本格的に参戦するつもりはなかった英仏でしたが、1853/11/30に黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったオスマン艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるだけでなく、街にも艦砲射撃が行われて市民の犠牲者が出るというシノープの海戦が起きたため状況は一変しました。ロシア黒海艦隊の偵察に気づいていながら、イスタンブールに援軍を要請する以外に何も行わなかったオスマン側の明らかな手落ちでしたが、あまりにも一方的な攻撃だったため、各国の新聞などが”シノープの虐殺”と報道しました。それで、1854/1月にダーダネルス海峡以南にいた英仏の地中海艦隊が黒海に進出してロシア艦隊を牽制し、イギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論になり、フランスと共にオスマンと同盟を結んで、1854/3/28にロシアに宣戦布告し、イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成しました。それはナポレオン戦争(1803-1815)から第一次世界大戦(1914-1918)までの99年の間で、この一度だけでした。

当初、英仏土連合軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(Varna、現:ブルガリア東部)に上陸させてオデッサ(Odessa、Ukraine)の攻略を目指しましたが、夏の炎天下とコレラの流行に苦しみ進軍を止めてヴァルナに戻りました。その頃、オーストリアが国境線に部隊を配置してロシアの南下に警告を与えたので、連合軍はバルカン山脈以北への再進軍を止め、攻撃目標を仏サン・タルノー司令官の提案で、ロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポールへ変更しました。しかし、主力のイギリス・フランス軍は共に現地の事情にうとく、クリミア半島に部隊を移動させた直後から、現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の補給物資を満載していた艦隊が嵐に巻き込まれて、戦う前からその大半を失っていました(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになりました)。

ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマ川の戦いでは地の利があるにもかかわらず実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するイギリスのスコットランド連隊の前に敗れてセバストポールへの進軍を許してしまいました。その一方、連合軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能なロシア人士官が化けたニセ指揮官たちによる攪乱工作で、バラクラヴァの戦いインカーマンの戦いでは辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポールを前にして立ち往生する羽目に陥りました。

ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポールを砲撃されないように、湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて軍艦の大砲を据え付けて街全体を要塞化したため、連合軍は塹壕を掘って包囲する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガス)まで使用したといわれていますが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り(コレラなどの伝染病が発生)、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂ってきました。

1853/11月にイギリスのリー男爵シドニー・ハーバート戦時大臣が、ナイチンゲールにクリミア戦地への従軍を依頼。ナイチンゲールは38人の女性を率いて、トルコの西でイスタンブールの一地区、ボスポラス海峡を経て相対するアジア側にあるスクタリ(Scutari 現:ユスキュダル Uskudar)にあって、クリミア戦争中はイギリス軍後方基地の陸軍野戦病院のスクタリ病院看護師の総責任者としてイギリスを出帆しました。

最終的に、サルデーニャ王国がイタリア北西部のピエモンテ州(Piemonte)に駐屯する15,000人を派遣して連合軍に加わって参戦したことにより、セバストポールの街は3日におよぶ総攻撃の末に、ナヒーモフ提督もコルニーロフ提督も戦死しました。1854/9/28から始まったセバストポールの包囲攻撃戦は、約1年(349日)におよぶ激しい凄惨な戦いの末に、ロシア防衛軍の生き残りが北方へ撤退し、1855/9/11にセバストポールが陥落して決着しました。しかし、この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失いました。政権を支える下院指導役のジョン・ラセッル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職。外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相があとを継ぎました。

◆パリ講和条約(終戦)
また、セバストポール陥落直後にコーカサスの要衝カルス要塞がロシア軍に降伏したことから事実上の戦勝国は無くなりました。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったのでしたが、フランスのナポレオン3世が世論をうけて、これ以上の戦闘を望みませんでした。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えず、結局両陣営は共にこれ以上の戦闘継続は困難と判断しました。時を同じくして、ロシアではニコライ1世が崩御し、新たに即位したアレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権でありロシア軍の総司令官であるアレクサンドル・メンシコフを罷免。こうして連合軍側と和平交渉が進められました。明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴール(イタリアの政治家)のロビー活動によりハプスブルグ批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視されました。こうして1856/3/30にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いのもとで、パリ条約(Treaty of Paris 1856)が成立しました。

この戦争で、産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験してないロシアの、国力の差が歴然と証明されることになりました。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていました。ロシアでは大量生産が未だしで、大砲や小銃の種類が多くて共通する弾丸が少なく、兵站補給面での立ち遅れもあったといわれています。

◆バルト海での戦闘
クリミアでの戦闘は北欧においても転換期となりました。スウェーデンはロシアからのフィンランド奪回の意図を講じ、参戦を計画しました。これはナポレオン戦争以後のスウェーデンの武装中立主義を覆すものでした。イギリス、フランスもスウェーデンの政策を支持し、バルト海に艦隊を派遣しました。

1854年に英仏艦隊はバルト海に侵攻し、フィンランド沿岸を制圧するも、スウェーデン議会は戦争への介入に消極的で、当初は中立を宣言。しかしこの中立は英仏にとって有益なものとなり、スウェーデン領であるゴットランドの海港を軍事基地として利用しました。英仏艦隊はフィンランド領となっていたオーランド諸島に迫っていたため、フランスよりオーランド諸島の占領をスウェーデンに打診するも、スウェーデン王オスカル1世は、ロシアが機雷を使用したことを憂慮し、慎重な姿勢を取ったため、オーランド諸島奪回の好機は失われました(ボマーサンドの戦い、1854/8/16)。1855年に入るとクリミアでの戦闘がロシアの敗色濃厚となり、スウェーデンは直接参戦の意思をあらわにしましたが、スウェーデンの参戦は時機を逸していました。セバストポールの陥落とスウェーデンの参戦は、ロシアに和平を促すきっかけとなり、英仏艦隊はバルト海から撤退しました。結局スウェーデンは何の利益も得るところも無く戦争は終結。なお、スウェーデン人が主体を占めるオーランド諸島は、この後非武装地帯とすることで合意を得ましたが、フィンランド独立後に帰属問題で揺れ、結局1921年にフィンランドの自治領になることが決定されました。

◆極東アジアのカムチャッカでの戦闘
太平洋側のロシア極東にも戦争は波及しました。フランス海軍とイギリス海軍の連合艦隊は1854/8月末にカムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論みました。英仏連合艦隊は盛んに艦砲射撃を行い、同年9月に上陸するも、陸戦で大きな犠牲を出して撤退。英仏連合軍は兵力を増援しましたが、ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪中を脱出しました。

この戦いではエフィム・プ-チャーチン総督(Yevfimy Vasilyevich Putyatin、1803-1883)がペトロパブロフスクの防衛を命じられていましたが、プチャーチン総督は日露和親条約を結ぶためアフリカ航路で日本からペトロパブロフスクへ向かう途中、イギリスのプリマス港に寄港。その時に英仏がロシアに宣戦布告していることを知り、すぐさま出帆、セントヘレナ島ケープタウン港セイロン島などに寄港後、中立国であるスペイン領マニラ港に到着。そこで折悪しくフランス海軍と遭遇したため、急いで長崎港に行き、日露和親条約を締結しました。クリミア戦争は直接ではなくても日本にも大きな影響を及ぼしました。アメリカだけがこの時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交をできたのは、この戦争によって欧州列強が日本を含めた東アジア地域にまで関心が及ばなかったからといわれています。

なお、この戦争でフランスでは政府の命をうけて、パリの天文台々長のユルバン・ジャン・ジョセフ・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier 1811-1877)という天文学者が暴風雨の研究を行い、これが今日の天気予報の起源になりました。

・クリミア戦争(Crimean War)
戦 場 クリミア半島、バルカン半島、黒海、バルト海、カムチャッカなど
期 間 1853/10月(1854/3/28:英仏の宣戦布告日)〜1856/3/30
対戦国 ロシア帝国 同盟国連合軍
ロシア帝国700,000人
ブルガリア義勇兵4,000人
イギリス250,000人
フランス第2帝国400,000人
オスマン帝国300,000人
サルデーニャ王国18,000人
指揮官 コルニロフ提督
ナヒモフ提督
イストミン提督
仏:フランソワ・カンロベール
英:ラグラン男爵
フィッツロイ・サマセット
戦 力 700,000人以上 960,000人以上
損 害 死傷者 522,000人 仏:100,000人
英:21,097人
土:200,000人
サルデーニャ:2050人、他
合計死傷者:374,600人
結 果 ロシアの敗戦 英仏土連合国の勝利
・黒海の戦いでは、英仏連合軍がブルガリアのヴァルナ港に上陸して北上を開始し、オデッサ攻撃に向かうも、疫病の発生で進軍を中止してヴァルナに戻りました。その後、クリミヤ半島のユーパトリア港に連合軍の大部隊が上陸して、セバストポールへと進撃を開始し、黒海の海上からは連合軍の大艦隊がセバストポール港を包囲封鎖するも、長期戦となりました。

主な国王・政治家・司令官〜
▼ロシア〜ロシア帝国ロマノフ朝(1613-1917)
・ロマノフ朝第11代ロシア皇帝(在位:1825-1855)ニコライ1世(Nikolai I)、
 ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ(Nicholai Aleksandrovich Romanov、1796-1855)
・ロマノフ朝第12代ロシア皇帝(在位:1855-1881)アレクサンドル2世(Aleksandr II)、
 アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ( Aleksandr Nikolaevich Romanov、1818-1881)
・初代ロシア軍総司令官(アレクサンドル・メンシコフ提督)
 提督アレクサンドル・セルゲイヴィッチ・メンシコフ王子(海軍中将)
  (Prince Aleksandr Sergeyevich Menschikov 1787-1869 Vice Admiral)
  開戦前に特使としてイスタンブールへ行く、後にロシア軍の総司令官
・ワシリー・ステファノヴィッチ・サヴォイコ提督
  (Admiral Vasily Stepanovich Zavoyko 1809-1898)
・ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
  (Count Nikolai Nikolaevich Muraviyov-Amurskii、1809-1881)
  極東政策に深く関わり、1858年のアイグン条約によるロシア領土の大幅な拡大を成し遂げた人物で、日本と交渉し樺太の国境線を確定させる、「アムールスキー」は「アムールの」という意味のアダ名。
エフィム・ワシリエビッチ・プーチャーチン提督
  (Jevfimij Vasil'jevich Putjatin, 1803-1883)
  ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、文部大臣(在任:1861/6/26-1861/12/25)
・伯爵イェゴール・ペトロヴィッチ・トルストイ中将(タガンログ第9代総督:1854-1856)
  (Lieutenant-general Count Yegor Petrovich Tolstoy (1802-1874)
・パヴェル・ペトロヴィッチ・リプランディ将軍
  (General Pavel Petrovich Liprandi 1796-1864)
・第2代ロシア軍総司令官(アレクサンドル・ゴルチャロフ公爵)
 アレクサンドル・ミハイロヴィッチ・ゴルチャロフ砲兵将軍
  (Prince Gorchakov:Alexander Mikhailovich Gorchakov 1798-1883)
  後の外務大臣、パリ条約特使、セヴァストポールの放棄を決定した人物
パーヴェル・ナヒモフ提督
ウラジミール・コルニロフ提督
ウラジミール・イストミン提督
グリゴリー・ブタコフ提督

▼イギリス〜(ヴィクトリア女王の御代 1837-1901)
・第4代アバディーン伯ジョージ・ハミルトン=ゴードン(首相在任:1852-1855)
  (George Hamilton-Gordon, 4th Earl of Aberdeen KG, KT, FRS, PC 1784-1860)
・サー・ジェームス・ロバート・ジョージ・グラハム内務大臣(Home Secretary)
  (Sir James Robert George Graham, 2nd Baronet GCB PC 1792-1861)
・リー男爵シドニー・ハーバート戦時大臣
  (Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea PC 1810-1861)
・パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル外相(首相在任:1855-1858)
  (Henry John Temple, 3rd Viscount Palmerston, KG, GCB, PC 1784-1865)
・ロード・ラグラン男爵(Lord Raglan)、フィッツロイ・ヘンリー・ジェームス・ヘンリー・サマーセット元帥
  (ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット)〜ラグラン袖の考案者
  (Field Marshal FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan,GCB, PC 1788-1855)
・第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・トーマス・ブルデネル中将〜カーディガンの考案者
  (Lieutenant General James Thomas Brudenell, 7th Earl of Cardigan, KCB 1797-1868)
・サー・ジェームス・シンプソン将軍
  (General Sir James Simpson 1792-1868)
・サー・ウィリアム・ジョン・コドリントン将軍
  (General Sir William John Codrington GCB 1804-1884)
・ジョン・ラッセル卿(Lord John Russel、1861年まで、初代ラッセル伯ジョン・ラッセル)
  (John Russell, 1stEarl Russell, KG, GCMG, PC, 1792-1878)
ラッセル第一次内閣(1846〜51、1851〜1852)は1840年代後半のジャガイモ飢饉と時を同じくし、アバディーン内閣では外相・下院指導者を歴任。クリミア戦争が勃発してアバディーン首相が国民の支持を失うと政権の禅譲を狙って首相の足を引っ張って下院の指導役を辞任して政権崩壊の発端を作った。このことで党内の支持を失い、パーマストン内相に首相の座を奪われたが、第2次パーマストン政権では外相

▼フランス〜(第2帝政:1852-1870)
・ナポレオン3世
  (Charles Louis-Napoleon Bonaparte, 1808-1873)
・初代フランス軍総司令官(サン・タルノー将軍)
 タルノー=ジャックス・ルロイ・ドゥ・サン・タルノー元帥
  (Armand-Jacques Leroy de Saint-Arnaud 1801-1854/9/29)
  アルマ川の戦いを指揮中、病に倒れて船上で亡くなり、仏で埋葬される
・第2代フランス軍総司令官(カンロベール将軍)
 フランシス・セルタン・ドゥ・カンロベール元帥
  (Marechal Francois Certain de Canrobert 1809-1895)
・マラコフ公爵エイマブル・ジャン・ジャックス・ペリシェール元帥
  (Marechal Aimable Jean Jacques Pelissier, 1st Duc de Malakoff 1794-1864)
・フランソワ・アシル・バゼーヌ元帥
  (Marechal Francois Achille Bazaine 1811-1888)
・マジェンタ公爵マリー・エドム・パトリス・モーリス・ド・マクマオン元帥
  (Marie Edme Patrice Maurice de Mac-Mahon, 1st Duke of Magenta 1808-1893)
  フランス第3共和政(1870-1940)の第2代大統領( 1873/5/24-1879/1/30)
・第3代フランス軍総司令官(ペリシール将軍 Aimable Pelissier)
 マロコフ公爵エイマブル・ジャン・ジャック・ペリシール元帥
  (Marshal Aimable Jean Jacques Pelissier, 1st Duc de Malakoff 1794-1864)

▼サルデーニャ王国(Kingdom of Sardinia 1720-1861:イタリア)〜
・アルフォンソ・フェレロ・カヴァリエール・ラ・マルモラ将軍
  (Alfonso Ferrero, Cavaliere La Marmora 1804-1878)
・カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴール伯爵
  (Camillo Benso, Conte di Cavour、1810-1861)
イタリアの政治家。サルデーニャ王国首相、イタリア王国首相(閣僚評議会議長・初代)、外務大臣(初代)を歴任。カヴール伯爵はサルデーニャ単独ではオーストリアを破って統一を達成することは不可能と考え、イギリス、フランスなど大国の援助が必要であると考え、イギリス、フランスと同盟を結んで1855年にクリミア戦争に参戦し、1万5千の将兵をクリミア半島に送り、サルデーニャの国際的地位の向上に努めた。 結果としてカヴールは1856年のパリ講和会議に列席し、イタリアの窮状を各国に訴えるという当初の目的を果たしました。

▼オスマン・トルコ〜オスマン帝国(Ottoman Empire 1299-1923)
・オスマン帝国第31代皇帝アブデュルメジト1世
  (Sultan Abdul Mejid I 1823-在位:1839-1861)
・オマー・パシャ・ラタス将軍
  (Omar Pasha Latas 1806-1871)
・マーメト・イスケンドル・パシャ将軍
  (Mehmet Iskender Pasha 1814-1861)

▼その他〜
・アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(スウェーデン、ノーベル賞)
  (Alfred Bernhard Nobel, 1833-1896)
  ロシアの機雷設置を請負ったことがダイナマイトの発明につながる
フェルディナン・マリ・ヴィコント・ド・レセップス(フランス、スエズ運河)
  (Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps、1805-1894)
  オスマン帝国側で参戦して混乱したエジプトからスエズ運河の建設権を取得
・ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(ドイツ、トロイ遺跡の発掘)
  (Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822-1890)
  戦争の補給物資を取り扱って儲かり、その金を元にトロイ遺跡を発掘
フローレンス・ナイチンゲール(イギリス、看護婦さん)
  (Florence Nightingale, 1820-1910)
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(ロシアの砲兵少尉で従軍、文豪)
  (Lev Nikolajevich Tolstoj, 1828-1910)
カーディガンなど

・参考HP:〜
 ・オスマントルコの領土地図(1855年頃有)
 ・ウクライナの地図
 ・モルドヴァの地図
 ・ルーマニアの地図(日本語、ワラキア地方有)
 ・ブルガリアの地図(Varna、Silistra有)
 ・ギリシャの地図(Thessaroniki有)
 ・ロシアの地図(区分地図)
 ・オーストリア帝国の地図(1804-1867)
 ・オースリア帝国の場所地図(日本語、1848年頃国別地図)
 ・モルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニアの場所地図(1812)

・クリミヤ戦争の略史年表:〜

ロシア帝国帆船の推移(2)
19世紀スクリュー式蒸気帆船のロシア戦艦

Frigate Varadimir 1848
ソビエト連峰 1971/12/15 発行
19世紀のプロペラ式鉄甲帆船の戦艦

ギニア 2001/4/20 発行
月/日    記 事
1851 5/1 ロンドンで第1回万国博覧会開催(5/1〜10/15)
1852 10月 露太平洋艦隊司令官プ-チャーチン中将が極東に向けてクロンシュタット軍港を出帆
11/24 米東インド艦隊司令官ペリー提督が日本に向けて米国東部ノーフォーク港を出帆
12/2 ルイ・ナポレオン・ボナパルトが国民投票により皇帝に即位してナポレオン3世となり、
フランス第2帝政が始まる(〜1870)
1853    2月末 ロシアがオスマン嫌いの提督メンシコフ王子を特使としてイスタンブールに派遣
3月 メンシコフ提督はオスマン最大の債権国だった仏の干渉を退けようと、交渉相手が仏寄りの相手とは交渉に応じられないとしたことから、オスマン帝国側は何度も交渉役を変更
4月 オスマン帝国が領内の正教会信者(スラヴ系民族)の生命と財産を保証するのであれば、ロシアは国際的な危機からの安全を保障するという合意が成立
6月 4ヵ月に及ぶ交渉は失敗に終わり、メンシコフが帰国する、
同時にロシアとオスマン帝国は国交を断絶
英仏の地中海艦隊がダーダーネルス海峡に進出
6/23 コーカサス方面のカルスをロシア軍が占領してカルスの包囲攻撃戦(〜1855/11/26)勃発
7月 ロシア軍8万がオスマンとの国境をこえ、モルダヴィア公国とワラキア公国に進駐、それに呼応してギリシャの義勇兵や反オスマン勢力が、マケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃。苦境にたったオスマン軍を英仏艦隊が支援、フランス海軍はギリシャ向けの武器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖、その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧されて、オスマン軍とロシア軍はドナウ河を挟んで睨み合いとなる
9月 オスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進め、再三にわたって撤退勧告を繰り返すも、
無視されたので最後通牒を煥発
10月 最後通牒も無視されたので、オスマン帝国軍は宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数ヵ所の前哨拠点を攻撃、それをきっかけに開戦となる
10/4 オスマン帝国がロシアに宣戦布告するも、ロシア軍は砲兵部隊をドナウ河岸に集中してオスマン帝国軍の河川船隊を撃破、ドナウ河を越えて進軍、南下を開始
11/4 ルーマニアのブカレスト南東方面で、オルテニッツァーの戦い
11/30 シノープの海戦勃発、セバストポールを出帆したロシア黒海艦隊は、黒海南岸のシノープ港を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させ、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民が犠牲になり、各国はこの攻撃を「シノープの虐殺」と非難し、一気に戦争の気運が高まる
12/31 ルーマニア南西部で、セテイトの戦い(〜1854/1/6)
1854   3/28 イギリスとフランスがトルコと同盟を結び、ロシア帝国に宣戦布告
4/5 ブルガリアで、シリストラの包囲攻撃戦(〜6/24)勃発
7月 英仏連合軍は黒海西岸ブルガリアのヴァルナ港に上陸、北上を開始してオデッサ攻撃に向かうも、夏の炎天下の行軍の上に、コレラなどの伝染病が発生、戦病死2000人以上で進軍を中止してヴァルナに停滞
8月 モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退
8/6 アルメニア北西部のギュムリで、クレクデルの戦い(〜8/9)勃発
8/16 バルチック海(フィンランド湾)オーランド諸島で、ボマーサンドの戦い
8/28 カムチャッカのアバチャ湾で、ペトロパブロフスクの戦い(〜9/7)勃発
9/1 ヴァルナの英仏軍は仏のサン・タルノー司令官提案で
攻撃目標をセヴァストポールに変更、輸送船団への乗船を開始
9/8 ドナウ河口近くからセヴァストポールへ東航を開始、
ロシア黒海艦隊は英仏艦隊に対して迎撃には出動せず
9/14 連合軍の大艦隊がクリミア半島西岸ユーパトリアに到着、朝から順次上陸(〜9/18)
9/18 丸4日かけてユーパトリアに連合軍が上陸を完了
9/19 英仏土連合軍6万が南のセバストポールへ進撃を開始、上陸軍の戦力は仏軍32,000、英軍26,000、土軍7,000(計65,000)、対する露クリミア防衛軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防いで街の要塞化を進め約5万人で防衛
9/20 セヴァストポール北方で、アルマ川の戦い勃発、連合軍がアルマ河畔でロシア軍3万を撃破、さらなる南下をはかるも、セヴァストーポール港北側の防御きわめて堅固で、港の東側を迂回してその南側に拠点を築いての総攻撃を企図する
9/25 連合軍はセヴァストーポールの南にあるバラクラバを攻め、イギリス軍はバラクラバに、フランス軍はさらに西のカミーシュに布陣して恒久的な陣地を建設
9/26 フランス軍総司令官サン・タルノー将軍が重病の床に伏す、
その職をカンロベール中将に譲り、3日後(9/29)に亡くなる
10/17 準備なった連合軍が攻撃を開始、セヴァストポール包囲攻撃戦が勃発(〜1855/9/11)
10/25 セヴァストポール南東で、バラクラーヴァの戦い
11/5 セヴァストポール郊外の東で、インカーマンの戦い
年末 ナイチンゲールがスクタリの野戦病院に到着
1855 2/17 セヴァストポール北西の町で、ユーパトリアの戦い
3月 サルデーニャ王国(イタリア)が連合軍に加わって参戦
3/2 インフルエンザと心労(自殺説有)でロシア皇帝ニコライ1世が崩御、
後継者アレクサンドル2世がオーストリアの仲介で和平交渉を進めるも、
ウィーン国際会議は決裂、春の到来による再度の決戦は避けられない情勢となり、
クリミア総督で総司令官メンシコフ王子を解任、ゴルチャコフ王子が新任
4/9 本国の増援を受けた連合軍17万が第2次セヴァストポール総攻撃の前哨戦で大砲444門と艦砲射撃との一斉砲撃を開始、ロシア軍は大砲466門で反撃して砲戦となる
4/22 2週間の砲撃戦を実施するも連合軍の被害甚大で、予定の歩兵突撃を中止
5月 フランスが総司令官カンロベール将軍を更迭、
新任のアルジェリア植民地戦争の英雄ペリシール将軍が着任
5/12 アゾフ海タガンログ湾の最奥部で、タガンログ包囲攻撃戦
6月 トルストイの短編小説「1854年12月のセヴァストーポール」が
ペテルブルグで雑誌「現代人」に掲載される
6/6 セヴァストポール総攻撃を再開、イギリス軍が中央の「大レダン砲台」前面の塹壕を奪取、フランス軍がその東の「マメロン砲台」を奪取、「マラコフ砲台」へ突撃するも敗退
6/28 イギリス軍司令官ラグラン卿が戦病死
疫病(コレラなど)が蔓延、病兵の数は戦闘による死傷者の30倍に達す
8/7 フィンランド湾で、スオメンリンナ要塞の戦い勃発(〜8/9)
8/16 セヴァストポールへ流入する川で、チェルナヤ川の戦い
9/7 セヴァストポール東の郊外で、マラコフの戦い
9/11 クリミヤ半島のセヴァストポールが陥落(1854/10/17〜)して包囲攻撃戦が終結
10/17 ウクライナのキンブルン半島(ドニエプル河々口で、キンバーンの戦い
11/26 トルコ軍が降伏して、カルスの包囲攻撃戦(1853/6/23〜)が終結
1856 3/30 オーストリア帝国とプロイセン王国の立会い(調停)の下で、
パリ条約が締結され、クリミヤ戦争が完全に終結
付記
1853 7/8 アメリカのペリー提督が浦賀に来港
8/22 ロシアのプーチャーチン提督日本の長崎に来港
1854 3/31 ペリーとの日米和親条約が締結される
12/3 プーチャーチンが再来航し下田に入港、幕府と会談したが交渉はまとまらず
12/23 プーチャーチンが下田で安政の大地震による津波で旗艦ディアナ号が大破、
ディアナ号は修理のため戸田(へだ、沼津)に回航中に、高波を受けて沈没
1855 2/7 プーチャーチンの交渉は再開され、日露和親条約が締結され、その条約で北方4島を日本領とし、樺太は国境を決めず両国民混住の地とすると定められる
4/26 プーチャーチンが日本の船大工の手をかりて造った舟「ヘダ号」が完成
5/8 プーチャーチンが極東ロシアに向けて出帆

◆クリミア戦争での主要な戦い:〜
1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げましたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスが、オーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストーポールに変更。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化するも、長期にわたる包囲戦の末にパーヴェル・ナヒモフ提督ウラジミール・コルニロフ提督ウラジミール・イストミン提督やコルニーロフ大佐も戦死し、ロシアは1855/9月に放棄を決定。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えに返還されました。

・参考HP:〜
 ・クリミヤ戦争の関連場所地図(日本語)
 ・クリミヤ戦争の関連場所地図(日本語)
 ・クリミヤ半島の地図

・参考:〜クリミア半島は面積:26,100ku、(日本の九州:36,749ku、四国:18,300ku)

オルテニッツァーの戦い (1853/11/4)〜オスマンの勝利
  Battle of Oltenitza
〜ロシア対オスマン・トルコ
ルーマニアのブカレスト(Bucharest)南東のオルテニッツァー町(Town of Oltenitza、人口:5,801人:1900年、31,434人:2000年)の近くで闘われた戦闘。ドナウ川地域におけるオスマン帝国の重要な拠点でオスマン帝国のドナウ州の州都で、ブルガリア北部の都市でブルガリアの北の国境であるドナウ河(Danube 2,860km、別名:ダニューブ河)に面するルセ(Ruse)州ルーセ(Rousse)街のルスチュク要塞(Rustchuk)とシリストラ州シリストラ要塞(Silistra)から、オマー・パシャ将軍が率いるオスマン軍がドナウ河を渡河。オルテニッツァー町を占領後、11/3にブカレスト(Bucharest)へと進軍。それを
野戦砲

アセンション 1985/7/21 発行
迎え撃つべくダネンブルグ将軍率いるロシア軍が11/4に町に到着後、近くのアルジェス川(Arges River 350km、ドナウ河に注ぐ支流)を渡河中にオスマン軍に攻撃され、大損害を出して敗退。オスマン軍も損害を出したので、越冬を前にしてブカレストへの進軍を中止し、再度ドナウ河を渡河して引き上げ、戦闘は11/15で完全に終結しました。
戦場 オルテニッツァー町近くのアルジェス川
ロシア軍 オスマン軍
歩兵 15,000人 10,000人
死傷 6,000人 1,200人
結果 敗戦 勝利
・両軍の司令官〜
ロシア〜
 ・ペテル・アンドレヴィッチ・ダネンブルグ将軍
  (Peter Andreivich Dannenberg 1792-1872)
オスマン〜
 ・オマー・パシャ・ラタス将軍
  (Omar Pasha Latas 1806-1871)
・参考HP:〜
 ・ルーマニアの詳細地図(Arges River、Oltenita有)
 ・ドナウ河の流域地図
 ・ブルガリアの地図(Ruse有)
 ・ブルガリアの州区分地図(15=Ruse、17=Silistra)
 ・ブカレスト付近の地図(Silistra(赤丸)有、黄色線=国境でドナウ河)

シノープの海戦
  Battle of Sinop
  (1853/11/30)
ロシア海軍艦隊が黒海南岸のシノープ港に停泊中の
トルコ海軍艦隊を奇襲攻撃、
街にも艦砲射撃を浴びせて破壊。
ロシアの一方的な勝利となる。
・参考HP:〜
 ・シノープの場所地図

セテイトの戦い (1853/12/31〜1854/1/6)
  Battle of Cetate
〜ロシア対オスマン・トルコ
ナヒモフ提督

Battle of Sinop
ソ連 1987/12/22 発行
クリミア戦争の間ロシアによるワラキア占領が事実上再開され、戦後にワラキアとモルダヴィアは中立国オーストリア帝国管理(1854-1856)におかれ、パリ条約に基づいて新たな地位を与えられることになりましたが、ルーマニアの南部の地方名でルーマニアの首都ブカレストがある地域のワラキア(Wallachia)のドルジュ県(Dolj County)セテイト(Cetate)をオスマン軍が占領するべく、ルーマニアのドナウ河々畔カラファト(Calafat)から軍を進めて攻撃してきましたが、ロシア守備隊が反撃して、休戦後に両軍共に開始点まで撤退しました。
戦 場 ドナウ河近くの町セテイト攻防戦
ロシア軍 オスマン軍
主力軍 守備隊 18,000人
結果 決着つかず
損害 戦死者 831人 -
負傷者 1190人 -
・両軍の司令官〜
ロシア〜
 ・AK・バウムガルテン大佐
  (Colonel AK Baumgarten)
オスマン〜
 ・アーマド・パシャ将軍
  (Ahmad Pasha)
・参考HP:〜
 ・ドルジュ県の地図(ドナウ河沿いの西部に、Cetate、Calafat有)
 ・ルーマニアの詳細地図(ドナウ河沿いの南西部に、Calafat有)

シリストラ包囲攻撃の戦い (1854/4/5〜6/24)〜オスマンの勝利
  Siege of Silistra
〜ロシア対オスマン・トルコ
ドナウ河の河畔、ブルガリアの町シリストラをロシア軍が包囲して攻撃し、オスマン軍が激しく抵抗して町を防衛した上に、英仏軍きたるの報をうけて同要塞の攻略を断念、北方へと退却しました。
・両軍の司令官〜
ロシア〜
 ・イフ・パスカヴィッチ将軍
  (Field Marshal IF Paskevitch, MD Gorchakov)
オスマン〜
攻城砲

アセンション 1985/7/21 発行
 ・オマー・パシャ・ラタス将軍
戦 場 ドナウ河畔の町シリストラ包囲攻撃
ロシア軍 オスマン軍
主力軍 80,000人 12.000人
支援軍 - 20,000人
結果 敗戦 勝利
損害 戦死者 419人 28人
負傷者 1,783人 74人
・参考HP:〜
 ・ブルガリアの地図(Silistra有)

クレクデルの戦い (1854/8/6)〜ロシアの勝利
  Battle of Kurekdere
〜ロシア対オスマン・トルコ
オスマン軍が黒海南岸のカルス(Kars)から、アルメニア北西部の都市ギュムリ(Gyumri, Armenia、人口:168,918人:2008年、標高:1,509m)へと進軍し、ロシア軍と激突して闘われた戦い。オスマン軍が敗退しましたが、オスマン軍は戦術戦略のミスも有って、後世の人に「グルジアの首都トビリシ(Tbilisi)へ撤退すべきだった」と言われています。
戦 場 アルメニア北西部のギュムリ
ロシア軍 オスマン軍
歩兵 約2万5千人 約4万人
主力軍 21,000人 25,000人
支援軍 4,000人 8千〜10,000人
64門 78門
結果 勝利 敗戦
損害 死傷者 3,000人 3,500人
捕虜 - 2,000人
・参考HP:〜
 ・アルメニアの地図(Gyumri有)
 ・アルメニアの場所地図(日本語)
 ・グルジアの地図(日本語、トビリシ有)
▼ボマーサンドの戦い (1854/8/16)
  Battle of Bomarsund
、〜英仏連合軍の勝利
  戦場:オーランド諸島サンド(Sund, Aland Islands)
バルチック海(フィンランド湾)のオーランド諸島中のボマーサンド泊地要塞を英仏連合艦隊が攻撃した海戦。2万人の水兵・海兵隊と12000人の陸兵で、ロシア兵2〜3000人が守備するボーマサンド要塞を攻撃、ロシアが1700人の死傷者・捕虜で敗北、8/16に英仏連合軍が勝利。
              ボスニア湾

オーランド 1995 発行 (200%)
フィンランド
←フィンランド湾

←オーランド諸島

←バルチック海
戦 場 フィンランド湾オーランド諸島のサンド
ロシア軍 連合軍 イギリス軍 フランス軍
兵 力 2,000〜3,000人 水兵・海兵20,000人、上陸部隊12,000人
擲弾兵 300人 - - -
結 果 敗戦 勝利 - -
損害 死傷者 1,700人 戦死15人 - -
イギリス艦隊はチャールス・ナピアー提督がイギリス蒸気式3層砲列甲板の6,071トン戦艦デューク・オブ・ウェリントン(公爵)号(HMS Duke of Wellington 1852、131guns、6071t)に座乗。フランス艦隊はアレクサンドル・デチェネス提督指揮でした。ボマーサンド泊地要塞にはフィンランドの擲弾兵(Grenadier)とロシアの守備隊が防衛していましたが、衆寡適せずロシアの敗戦となりました。
ロシアの司令官〜
 ・ヤコブ・ボディスコ
  (Jakob Bodisco)
イギリス艦隊〜
 ・チャールス・ナピアー提督
蒸気式鉄甲帆船の戦艦
  (Admiral Sir Charles John Napier KCB GOTE RN 1786-1860)
フランス艦隊〜
 ・アレクサンドル・フェルディナンド・パーセヴァウル=デチェネス提督
  (Alexandre Ferdinand Parseval-Deschenes1790-1860)
・参考HP:〜
 ・オーランド諸島の地図
 ・オーランド諸島の場所地図

ペトロパブロフスク包囲攻撃の戦い(1854/8/28〜9/7)〜ロシアの勝利
  Siege of Petropavlovsk〜ロシア対英仏連合艦隊
カムチャッカのアバチャ湾(Avacha Bay)のペトロパブロフスク・カムチャツキー(Petropavlovsk-Kamchatsky)港を英仏連合艦隊の戦列艦6隻(兵:2,600人、砲:218門)が襲撃した戦いで、8/18に6隻の英仏連合艦隊(3隻のフリゲート(frigate)艦、コルヴェット(corvette)艦、ブリッグ(brig)艦、蒸気式戦(steamship)艦)がアバチャ湾に投錨したことから始まりました。

ペトロパブロフスクの包囲攻撃戦はクリミア戦争(1853/10-1856/2)の太平洋における主要な戦いで、1854年の8月から9月にかけて、ロシア帝国の極東最大の拠点だったカムチャツカ半島のペトロパブロフスク港(当時の沿海州はまだ中国(清領)でロシア領ではない)に対して、イギリス・フランス連合艦隊(Allies)が港に砲撃を浴びせて上陸を敢行しました。これに対して、艦船の数でも兵力でも劣るロシア帝国軍が防衛戦に成功、ロシア側の犠牲者100人ほどに対して英仏連合軍は戦死:500の損害を出して敗退し、軍港都市ペトロパブロフスク・カムチャツキー港が守り抜かれました。
ロシアの軍艦

ロシア 1971/12/15 発行
・英仏連合艦隊の編成:〜戦艦6隻
 ・イギリス太平洋艦隊〜
   司令官:提督デイヴィッド・プライス少将騎下の戦艦3隻
 ・フランス太平洋艦隊:〜
   司令官:提督オーギュスト・フェヴリエ・デポワント少将騎下の戦艦3隻
・参考HP:〜
  ペトロパブロフスクの場所地図

▼アルマ川の戦い (1854/9/20)〜連合軍の勝利
  Battle of the Alma
〜ロシア対英仏土連合軍
セヴァストポール北方のアルマ川の近くで、
イギリス・フランス・オスマン帝国による連合軍がロシア軍に勝利。
・両軍の司令官〜
ロシア〜
 ・アレクサンドル・メンシコフ提督
フランス〜
 ・サン・タルノー将軍
イギリス〜
 ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット将軍
戦 場 セヴァストポール北方のアルマ川近郷
ロシア軍 連合軍 オスマン軍 イギリス軍 フランス軍
歩 兵 33,000人 60,000人 6,000人 26,000人 28,000人
騎 兵 3,400騎 1,000騎 - 1,000騎 -
大 砲 120門 264門 132門 60門 72門
結 果 敗戦 勝利 - - -
損害 死傷者 5,709人 3,342人 - 2,002人 1,340人
メモ 戦死にはコレラの戦病死を含
アルマ川(Alma River、Ukraine:83km)はウクライナのクリミア自治共和国を流れる川で、河口はイェウパトーリヤとセヴァストポールの街に2分されて、アルマとはクリミア・タタール語で「リンゴ」を意味しています。
・参考HP:〜
 ・アルマ川の場所地図(Alma River)


セヴァストポール包囲攻撃の戦い
  Siege of Sevastopol
  (1854/10/17〜1855/9/11)〜連合軍の勝利
  (クリミア戦争中のセヴァストポール包囲攻撃戦)
  ロシア帝国の軍艦旗
包囲攻撃の戦争

ガーンジー 1993/5/7 発行
セヴァストポールの戦いはクリミア戦争中の戦いの一つで、コルニロフ提督、ナヒモフ提督、イストミン提督が指揮するロシア黒海艦隊が立てこもるセヴァストポール軍港都市を英仏土連合軍(イギリス帝国、フランス第2帝国、オスマン帝国)が包囲して攻撃。約1年後に陥落。1854/10/17準備なった連合軍はセヴァストーポール要塞南面へ大砲120門と海上からの艦砲射撃の一斉砲撃を開始してセヴァストポール包囲攻撃戦が勃発、要塞の大砲130門の反撃で相当な被害を受けて、連合軍は4時間の砲戦の末に戦闘を中止。1955/4/9本国からの増援をうけてその数17万に達する連合軍が第2次の一斉砲撃を開始。連合軍の大砲444門、ロシア軍の大砲466門、合計910門がセヴァストポールに轟きましたが、2週間の砲撃戦を実施するも連合軍の被害甚大で、4/22に予定の歩兵突撃を中止。6/6には連合軍がフランス新司令官ペリシール将軍の積極策で正面からの総攻撃を開始。セヴァストポール要塞南面に向かい、西からフランス軍、中央にイギリス軍、その東にフランス・サルディニア軍が展開してセヴァストポール総攻撃を再開、イギリス軍が中央の「大レダン砲台」前面の塹壕を奪取、フランス軍がその東の「マメロン砲台」を奪取してロシアのチモフエフ将軍が戦死、「マラコフ砲台」へ突撃するも敗退。当初、1週間で落とせるとの予想に反して、ロシアの激しく粘り強い反撃と厳しい冬と疫病が包囲軍を悩ませ、349日の長期戦となりました。
・参考HP:〜
 ・セヴァストポールの場所地図
 ・セヴァストポールの場所地図(セヴァストポール、オデッサ、ヤルタ、ソチ、コンスタンツァ、有)
 ・セヴァストポール市街包囲の地図(セヴァストポール市街地外の攻撃線とバラクラヴァの英軍基地有)

バラクラーヴァの戦い (1854/10/25)〜決着つかず
  Battle of Balaclava
〜ロシア対英仏土連合軍
バラクラヴァの戦いは9/14にイギリス・フランス・トルコ連合軍がセヴァストポール攻略のための足場としていたセヴァストポール近郊のバラクラーヴァ港北部へカラミタ湾(Kalamita Bay)から上陸していたのを、ロシア軍のセヴァストポール救援部隊が攻撃したことで始まるも、連合軍がロシアの攻撃を防ぎきって戦いが終わりました。

後世の語り草となった3つの戦い〜
シン・レッド・ライン (Thin Red Line)
攻撃砲

アセンション 1985/7/21 発行
 クライド男爵麾下の第93歩兵連隊550人が2列横隊で、ロシア軍の騎兵による突撃を防いだ戦い
・重騎兵旅団の突撃 (Charge of the Heavy Brigade)
 スカーレット准将率いるイギリス重騎兵旅団600人が、ロシア軍騎兵3,500人に突撃して勝利した戦い
・軽騎兵旅団の突撃 (Charge of the Light Brigade)
 命令でカーディガン伯爵ブルデネル中将が率いる軽騎兵旅団673人が、ロシア軍砲兵陣地に正面から突撃して死傷者278人という大損害を被った戦い〜その勇敢さが賞賛される
・両軍の司令官・指揮官〜
ロシア〜
 ・パヴェル・ペトロヴィッチ・リプランディ将軍
  (General Pavel Petrovich Liprandi 1796-1864)
イギリス〜
 ・ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット将軍(ラグラン袖
  (Lord Raglan)
 ・クライド男爵コリン・キャンベル将軍〜第93歩兵連隊長
  (Field Marshal Colin Campbell, 1st Baron Clyde GCB, KSI 1792-1863)
  第93歩兵連隊(93rd (Sutherland Highlanders) Regiment of Foot)
 ・スカーレット准将
  (General Sir James Yorke Scarlett, GCB 1799-1871)
 ・第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル中将(カーディガン
  (Lieutenant General James Thomas Brudenell, 7th Earl of Cardigan, KCB 1797-1868)
フランス〜
 ・フランソワ・ドゥ・カンロベール将軍
  (Marechal Francois Certain de Canrobert 1809-1895)
 ・パヴェル・リプランディ将軍
  (General Pavel Petrovich Liprandi 1796-1864)
戦 場 セヴァストポール南東のバラクラーヴァ港近郷の北部
ロシア軍 連合軍 オスマン軍 イギリス軍 フランス軍
兵 力 25,000人 4,500人 - - -
大 砲 78門 26門 - - -
結 果 決着つかず - - -
損害 死傷者 627人 615人 - - -
英軍はバラクラヴァに軍司令部を置き、セヴァストポールまで補給物資輸送の鉄道を敷設していました。
・参考HP:〜
 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(1)アルマ川からの、連合軍の進軍地図
 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(2)バラクラーバ港への、連合軍の進軍地図
 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(3)第93歩兵連隊、重騎兵旅団、軽騎兵旅団の配置図が有
 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(4)
 ・”バラクラーヴァの戦い”の地図(5)バラクラーバ港の北部での戦闘団の配置図

インカーマンの戦い (1854/11/5)〜連合軍の勝利
  Battle of Inkerman
、Ukraine〜ロシア対英仏連合軍
セヴァストポール郊外の東5kmのチョルナ川(Chorna River 34.5km)河畔のインカーマン町で、インカーマンの戦いが勃発。ロシア軍がイギリスとフランスの連合軍と激突して、連合軍が勝利しました。
戦 場 セヴァストポール東5kmチョルナ川河畔インカーマン
ロシア軍 連合軍 イギリス軍 フランス軍
兵 力 42,000人 15,700人 7,500人 8,200人
大 砲 134門 56門 38門 18門
結 果 敗戦 勝利 - -
損害 死傷者 10,729人 3337人 2457人 887人
(戦死) - (727) (597) (130)
・両軍の軍司令官:〜
ロシア〜
 ・アレクサンドル・メンシコフ提督
イギリス〜
 ・ラグラン男爵フィッツロイ・サマセット将軍
フランス〜
 ・フランソワ・ドゥ・カンロベール将軍
・参考HP:〜
 ・インカーマン(Inkerman)場所の地図

ユーパトリアの戦い (1855/2/17)〜連合軍の勝利
  Battle of Eupatoria
、(Eupatoria) 〜ロシア対英仏土連合軍
セヴァストポールの北西にある港湾都市で、
1954/9/14に連合軍が上陸してきたユーパトリア
(別名:イェフパトリア Yevpatoria)郊外での戦い。
ロシア軍兵力:〜
 ・歩兵2〜3万
  (歩兵4個師団の36個連隊、騎兵6個連隊、108個砲兵隊)
連合軍兵力:〜
 ・オスマン軍3万
  (歩兵4個師団、騎兵1個連隊、100個砲兵隊)
蒸気式鉄甲帆船の戦艦
 ・仏騎兵3個連隊、仏騎兵1個砲兵隊
連合艦隊:〜
 ・英海軍蒸気式戦艦4隻
 ・仏海軍蒸気式フリーゲート艦1隻
 ・トルコ蒸気式フリーゲート艦1隻
戦 場 セヴァストポールの北西にある港湾都市ユーパトリア郊外
ロシア軍 連合軍 オスマン軍 イギリス軍 フランス軍
兵 力 2〜3万人 - 3万人 - 4騎兵連隊
大 砲 108門 - 100門 - -
艦 隊 - 6隻 1隻 4隻 1隻
結 果 敗戦 勝利 - - -
損害 死傷者 751人 415人 - - -
(戦死) (168) - - - -
・両軍の軍司令官〜
ロシア〜
 ・ステパン・クルレフ将軍
  (Stepan Khrulev)
オスマン〜
 ・オマー・パシャ・ラタス将軍
 ・メフメト・イスカンダル・パシャ将軍
  (Mehmet Iskender Pasha 1814-1861)
・参考HP:〜
 ・クリミヤ半島の地図
 ・ユーフパトリアの場所地図
 ・ユーフパトリアの場所地図(クリミヤ半島の地図)

アゾフ海のタガンログ包囲攻撃の戦い〜ロシアの勝利
  Siege of Taganrog
、Sea of Azov〜ロシア対英仏連合軍
・第1次包囲攻撃:(1855/5/12〜1855/5/22)
・第2次包囲攻撃:(1855/7/7〜1855/7/28)
・第3次包囲攻撃:(1855/8/19〜1855/8/31)
コーカサス地方(Caucasus)防衛の拠点で、ドン河(Don River 1,950km)が流れ込むアゾフ海のタガンログ湾の最奥部の港湾都市で、ロシア艦隊の基地タガンログ港をイギリスとフランスの連合艦隊が攻撃した戦い
ロシアの蒸気式戦艦
戦 場 アゾフ海タガンログ湾の最奥部
ロシア軍 連合軍 イギリス軍 フランス軍
兵 力 1,900人 16,000人 - -
大 砲 砲船2隻 砲船20隻 - -
艦 隊 蒸気艦1隻 蒸気船17隻 - -
結 果 勝利 敗戦 - -
損害 撃 沈 商船20隻 砲船1隻 - -
ロシアの軍司令官〜
 ・伯爵イェゴール・ペトロヴィッチ・トルストイ中将
  (タガンログ第9代総督:1854-1856)
  (Lieutenant-general Count Yegor Petrovich Tolstoy (1802-1874)
 ・イワン・イワノビッチ・カラスノフ騎兵将軍
  (Ivan Ivanovich Krasnov 1802-1871、ドン・コザックの族長)
 ・男爵オットー・ウィルヘルム・ヘルマノヴィッチ・プフェリサール=フランク将軍
  (タガンログ第6代総督:1832-1843)
  (Baron Otto Wilhelm Hermanovich Pfeilizer-Frank 1788-没年不詳)
イギリス艦隊旗艦:〜
 ・木造蒸気式スループ艦ミランダ号
  (HMS Miranda 14-gun(32pdr) wooden screw sloop 1,523tns)
撃沈〜
 ・イギリス砲船ジャスパー号(gunship HMS Jasper)、第2次
・参考HP:〜
 ・アゾフ海の地図(Taganrog Bay有)
 ・ドン河の流域地図
 ・レディ・ナンシー号(Lady nancy )の勇姿(絵画)

▼スオメンリンナ要塞の戦い (1855/8/7〜8/9)〜ロシアの勝利
  Battle of Suomenlinna
〜ロシア対英仏連合艦隊軍
イギリス海軍とフランス海軍の連合艦隊80隻がスオメンリンナ要塞を艦砲射撃して戦端が開かれました。要塞はロシア軍が守備して損害を被るも、2日後に英仏は防御を破れず、英仏艦隊が撤退しました。ロシア軍は防御用に機雷を使用したといわれています。スオメンリンナの要塞は、フィンランドの首都ヘルシンキ市内の6つの島の上に建造された星型の海防要塞。ユネスコの世界遺産に登録されており、観光客のみでなく、地元民にとっても、美しい行楽地として人気がある。当初の名前はスヴェアボリ(Sveaborg, スウェーデンの要塞)でしたが、1918年に愛国主義的な理由からスオメンリンナ(スオミの城塞)と改称されました
蒸気式鉄甲帆船の戦艦
戦 場 フィンランド首都ヘルシンキ市スオメンリンナ要塞 
ロシア軍 連合軍  イギリス軍   フランス軍
兵 力 15000人 艦隊80隻 - -
大 砲 1500門 - - -
結 果 勝利 撤退 - -
損害 死傷者 260人 - - -
フィンランドの地図
・参考HP:〜
 ・スオメンリンナの要塞の地図
 ・ヘルシンキの地図(37=Suomenlinna)
 ・フィンランドの地図(日本語)

▼チェルナヤ川の戦い (1855/8/16)〜連合軍の勝利
  Battle of Chernaya River
〜ロシア対英仏サルディニア連合軍
ロシア皇帝ツァーの命により、ためらっていた王子ゴルチャログ将軍に「8/15の聖母の被昇天日(Assumption of Mary)を祝っている包囲の連合軍を撃破せよ!」との命を受け、セバストポールを包囲するしている連合軍を街から打って出て攻撃をかけて戦端が開かれました。支援のセヴァストポール要塞北東のロシア野戦軍は、要塞から南に向って左翼前面に布陣する仏・サルディニア連合軍に総攻撃をかけ、リブランジ将軍のロシア軍が濃霧に紛れて攻撃し、激戦の末に死傷者を残して敗走しました。
・両軍の司令官〜
ロシア〜
 ・砲兵将軍ミハイル・デミトリヴィッチ・ゴルチャコフ王子
  (Prince Mikhail Dmitrievich Gorchakov 1790-1861, Warsaw没)
フランス〜
 ・マロコフ公爵エイマブル・ジャン・ジャック・ペリシール将軍
  (Marshal Aimable Jean Jacques Pelissier, 1st Duc de Malakoff 1794-1864)
サルディニア〜
 ・アルフォンソ・フェレロ、カヴァリエル・マルモラ将軍
  (Alfonso Ferrero La Marmora 1804-1878)
オスマン〜
 ・オスマン・ヌリ・パシャ将軍
  (Osman Nuri Pasha (Gazi Osman Pasha) 1832-1900)
戦 場 セバストポール近郷のチェルナヤ川の河畔
ロシア軍 連合軍 オスマン軍 フランス軍 サルディニア
兵 力 48,000人 37,000人 10,000人 18,000人 9,000人
騎 兵 10,000騎 - - - -
大 砲 270門 - - - -
結 果 敗戦 勝利 - - -
損害 戦死者 2,273人 1,700人 - - -
負傷者 4,000人 - - - -
行方不明 1,742人 - - - -
チェルナヤ川(Chernaya River 34.5km)はロシアでは黒い川(Black River)とも呼ばれる川で、セバストポール市内を貫流して黒海に注いでいます。
・参考HP:〜
 ・チェルナヤ川の場所地図(日本語、アルマ川、カッチャ川、ベルベック川、チェルナヤ川有)
 ・連合軍の進撃地図(River Alma、Katha、Belbeck、Chernaya有)

▼マラコフの戦い (1855/9/7)〜連合軍の勝利
  Battle of Malakoff
〜ロシア対フランス・サディニア連合軍
ロシア〜
・ナヒモフ提督
  (Admiral Pavel Nakhimov)
・イストミン提督
  (Admiral Vladimir Istomin)
フランス〜
・マクマオン将軍
  (General MacMahon)
要塞砲

ジブラルタル 1983/9/13 発行
戦 場 セヴァストポール市街東のマラコフ
ロシア軍 フランス軍
兵 力 - 33000人
支援兵力 ブルガリア軍団 サルディニア軍団1万人
大 砲 - 840門
結 果 敗戦 完全勝利
損害 死傷者 13,000人 10,000人
・参考HP:〜
 ・セヴァストポール(SEVASTPOL)の地図(Malakof有)
 ・セヴァストポール(SEVASTPOL)攻撃の配置地図(The Malakof有)

▼キンブルンの戦い (1855/10/17)〜連合軍艦隊の勝利
  Battle of Kinburn
〜ロシア対英仏連合艦隊
ウクライナのドニエプル河(Dniepr 2,290km)河口キンブルン半島(Kinburn Peninsula)尖端で、フランス蒸気式艦隊(French Steam Floating battery)の装甲艦(Ironclad warship)が浮き砲台(レーヴェ:Lave)として艦砲射撃し、ロシアの陸上の砲兵軍団を圧倒して破壊撃滅した戦い。フランス艦隊はロシアの陸上要塞を4時間で破壊しました。 この海戦はシノープの海戦と同じように艦隊の一方的な勝利となり、それは従来の木造軍艦の終焉と、装甲艦の時代の到来となる切っ掛けの海戦になりました。
フランス軍司令官〜
蒸気式鉄甲帆船の戦艦
 ・フランソワ・アシル・バゼーヌ将軍
  (General Francois Achille Bazaine 1811-1888)
バゼーヌ将軍は外人部隊の連隊長としてセヴァストポール包囲攻撃戦で戦功を挙げ、ナポレオン3世の信任厚く2等兵から元帥へと異例の昇進を果しました。
・参考HP:〜
 ・キンブルン半島の場所地図
 ・ドニエプル川の場所地図
 ・ウクライナの地図
 ・ウクライナのドニエプル川流域地図

カルスの包囲攻撃の戦い(1853/6/23〜1855/11/26)ロシアの勝利
  Siege of Kars、Kars(Turkey)〜ロシア対オスマン・トルコ
1853年からのクリミア戦争ではカフカス(コーカサス Caucasus)攻略の拠点としてオスマン帝国の守備隊が駐留していましたが、6/23ごろからロシア軍が街を攻撃してきて占領、要塞に立て籠って防衛するオスマン軍も、同年11/30のシノープの海戦で主な補給線を断たれて包囲攻撃戦を耐え凌ぐも、1855/11/26に食料の欠乏、医薬品の不足などで、ミハイル・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ率いるロシア軍に降伏。
要塞の砲列
パリの講和会議でセヴァストポールと交換に返還され、それでオスマン帝国をはじめとする諸国は戦勝国としての立場を事実上失いました。
・両軍の司令官〜
ロシア〜
 ・ミハイル・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵
イギリス〜
 ・男爵サー・ウィリアム・フェンウィック・ウィリアムス将軍
  (General Sir William Fenwick Williams, 1st Baronet GCB 1800-1883)
オスマン〜
 ・モハメッド・ヴァシフ・パサ・グルク将軍
  (Field-Marshal Mehmet Vasif Pasa Gurcu (生年不詳-1865没)
 ・オマー・パシャ・ラタス将軍
戦 場 コーカサス地方のカルス
ロシア軍 オスマン軍
兵 力 40,000人 17,000人
騎 兵 10,000騎 -
大 砲 軽砲88門 -
結 果 勝利 敗戦
損害 死傷者 2,300人 6500人
捕虜 (負傷5,000人) 11,127人
カルス(Kars)はトルコ北東部の都市。カルス県の県都。人口は約78,000人(2010)。アルメニアとの国境から45km。なお、露土戦争(1877-1878)で再びロシア軍が占領し、サン・ステファノ条約によってロシア帝国に併合された。露土戦争にロシアが勝利し、カルスを占領したことを記念して、ムソルグスキーが荘厳行進曲「カルスの奪還」を書いている。
・参考HP:〜
 ・トルコの地図(Kars有)
 ・カルスの場所地図
 ・コーカサス地方の区分地図(日本語)

◆その後
パリ条約(1856/3/30)の結果、ロシアは黒海での艦隊保有を禁止され、トルコ領内のギリシア正教徒の保護権も奪われる。この戦争でロシアの威信は失墜し、国内では農奴解放や軍政改革など一連の改革が始まりました。オスマン・トルコは戦勝国となるも、莫大な戦費が国家財政を苦しめ、ロシアと同様に黒海艦隊の保有が禁止されました。途中から参戦したサルデーニャ (Sardegna)は、1861年にイタリアを統一。フランスのナポレオン3世は、この戦争で国の威信を高め、その後外征を繰り返し、最後はプロイセンとの普仏戦争(1870〜1871年)で惨敗となりました。

 ・黒海の地図
 ・黒海付近の地図
 ・クリミヤ半島の地図
 ・バルカン半島の国別地図(日本語、クリミア戦争当時)

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     11/6/26

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止