ザンジバル諸島
Zanzibar Archipelago

アフリカの地図
ZANZIBAR
ケニヤ

タンザニア

モンバサ→

ペンパ島

ザンジバル島
  ザンジバル諸島

第10代サルタ
ザンジバル 1961/10/17 発行
・タンザニアの東方に浮かぶ島々がザンジバル諸島で、
・モンバサはケニア最大の港湾都市。

ギニア 1970/2/3 発行


←ソマリア
←ケニア
タンザニア
←モザンビーク
←南アフリカ共和国

←喜望峰



マダガスカル島

ZANZIBAR
外洋型帆船
Dhow
サルタンの御座船
16オールを立てている

Sultan's Barge
ザンジバル 1961/10/17 発行
第9代サルタン記念学校
Seyyid Kharifa Schools

ザンジバル  1952/8/26 発行
アウトリガー型外洋帆船
Dhow

ザンジバル 1913 発行

ザンジバル
 Zanzibar

ザンジバルは、アフリカ大陸東海岸のインド洋に浮かぶザンジバル諸島に存在する地方を指す呼称である。現在では、大陸部のタンガニーカと連合して、タンザニア連合共和国を構成する主体の一つとなっている。ウングジャ島(ザンジバル島)、ペンバ島という二つの主要な島と周辺の小さな島々から構成されているザンジバル諸島(Zanzibar Archipelago)と地理的には同じ。白いさんご礁とヨーロッパやアラブの石造建築遺跡が多数残る。奴隷貿易・象牙貿易の拠点でもあった。2000年、世界遺産(文化遺産)に登録された。現在はタンザニアにおいて夕陽の名所として有名。1番切手:1895年発行、最後:1967/8/20(Zanbiar-Tanzania)発行。

1499年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがザンジバルに寄港、以後、ポルトガル人が入植
      ポルトガル人は象牙や奴隷の売買を始めたオマーン人に追い出される
1698年、オマーン領となり、その後にモルッカ諸島から丁子の移植が行われる
1807年、イギリスで奴隷貿易禁止法が制定される
1832年、オマーンのスルタンのサイード・サイド王が首都をザンジバルへ移し王宮を建設して遷都、
      奴隷を使って丁子(クローブ)の栽培を増強し、象牙や黒人奴隷の輸出港としても栄える
1861年、オマーン本土と分離した独立国であるザンジバル・スルタン国となる
1871年、ザンジバル島のスルタンがソマリアのモガディシオを征服
1890年、ヘルゴランド・ザンジバル条約でイギリスの保護国(保護領)となる
1896/8/27、イギリスとザンジバル・スルタン国間で「イギリス・ザンジバル戦争」が勃発、
     戦争が40分間で、英の勝利で終わったため歴史上一番短い戦争としてギネスに記録
1963/12/10、イギリス連邦の一員としてザンジバル王国(1963〜1964)が独立
1964/01/12、ペンバ島のジョン・オケロ率いる武装勢力「自由の戦士」がクーデターを起こし
         王政を打倒、ザンジバル人民共和国が成立(100日足らずで消滅)
1964/06/24、タンガニーカ、ザンジバル両国はタンガニーカ・ザンジバル連合共和国として統合、
1964/10/29、タンザニア連合共和国に改称、
        ザンジバル革命政府に広範な自治権が認められ、現在に至るも、
        タンザニアの大陸側からザンジバル島に入るためには出入国手続きが必要

ウングジャ島
  Unguja
 (スワヒリ語:Unguja、Zanzibar Island)
面積:1,658ku
ウングジャ島は、ザンジバル島として知られるアフリカ大陸東岸、インド洋上の島。ザンジバル諸島最大の島であり、タンザニア連合共和国に属する。タンザニアの沖合36km、ダルエスサラームの北75kmにあり、船で1時間半。南北60km、東西20km。 アフリカ大陸とはザンジバル海峡で隔てられたこの島は、島の周囲の砂浜と珊瑚礁によってリゾート地としても知られる他、世界遺産であるストーン・タウンを観光資源として有している。 行政上は、島内をザンジバル北部州、ザンジバル都市部・西部州、ザンジバル中部・南部州という3つの州に分かたれ、ペンバ島の2州と併せてザンジバル革命政府の自治下にある。

ペンバ島
  Pemba Island

ペンバ島は、アフリカ大陸東岸、インド洋上に位置するザンジバル諸島の主要な島の一つ。タンザニア連合共和国に属する。小惑星ペンバ(1429 Pemba) の命名は、この島にちなんだ物である。 アフリカ大陸とは、ペンバ海峡によって50km隔たれ、ウングジャ島の北方50kmに位置する。 ウングジャ島より起伏に富んだ肥沃な土地であり、小規模な農業が多いが、大規模な物ではクローブの栽培が盛んであり、300万以上のクローブが存在する。 オマーンからの移民が多く、スワヒリ語を使用する原住民族とアラブ系住民が島の主要な民族である。 1988年の人口は、265,000人。行政上は、ペンバ北部州とペンバ南部州によって、南北に二分されている。主要都市は、北部の州都ウェテ(Wete)、南部の州都ムコアニ(Mkoani)、そして中心都市であるチャケチャケ(Chake Chake)である。島唯一の空港は、チャケチャケ近郊に位置するWawi空港である。 観光面ではダイビングの適地として知られている。

ザンジバル革命政府
 Revolutionary Government of Zanzibar

ザンジバル革命政府は、タンザニア連合共和国を構成する地方の1つであるザンジバルを統治する自治政府。ザンジバルは1963/12/10にザンジバル王国としてイギリスから独立したが、その支配層は少数派のアラブ人であり、多数派であるアフリカ人にとって不公平な制度のまま独立した。独立して最初の新年を迎えてすぐの1964/1/12にペンバ島のジョン・オケロ率いる武装勢力がクーデターを起こし、王政を打倒。アフリカ人政党であるアフロ・シラジ党(ASP)が実権を握り、ザンジバル人民共和国を成立させた。その際、新たな統治機構として設立されたのが、ザンジバル革命政府である。その後、治安維持のために隣国タンガニーカに対して援軍を要請したことから、両国は急速に統合への道を歩む。そして1964年6月24日、両国はタンガニーカ・ザンジバル連合共和国として統合した(更に同年のうちにタンザニア連合共和国に改称)。連合共和国結成後もザンジバルには広範な自治権が認められ、外交・国防・通貨といった連合全体に関わる事項以外は、引き続きザンジバル革命政府が担うことになり、現在に至っている。ザンジバル革命政府の長は大統領(タンザニアの大統領とは別の役職)で、ザンジバル革命政府が管轄する5州の住民によって直接選挙により選出される。任期は5年。3選は禁止されている。閣僚は大統領がザンジバル議会の議員の中から任命する。現在の大統領はタンザニア革命党(CCM)のアマニ・アベイド・カルメ。 大統領のもとには革命評議会が置かれ、大統領への諮問機関として機能する。革命評議会の議長は大統領が兼任するが、その他の議員はザンジバル革命政府の閣僚や、大統領が任命する議員で構成される。

第9代ザンジバル・サルタン
  サイード・カリフ・ビン・ハルブ・アル=ブサイド
   Sayyid Khalifa bin Harub Al-Busaid
   (1879/8/26〜在位:1911/12/9〜1960/10/9)

第10代ザンジバル・サルタン
  サイード・サー・アブダラ・ビン・カリフ・アル=サイド
   Sayyid Sir Abdullah bin Khalifa Al-Said, KBE, CMG
   (1910/2/12〜在位:1960/10/9〜1963/7/1)
第9代75才記念

ザンジバル1954/8/26発行

第11代ザンジバル・サルタン(最後のサルタン)
  サイード・ジャムシード・ビン・アブダラ・アラー
   Sayyid Jamshid bin Abdullah Alah
     (在位:1963/12/10〜1964/1/12、約1ヵ月)

参考:〜
ザンジバルの繁栄は19世紀はじめにスルタンによって導入されたクローブと、アフリカの内陸から集められた「象牙」「黒人奴隷貿易」である。クローブ農園でも奴隷が使われてはいたが、さほど労働力を必要としなかった。イギリスを中心とした大西洋の奴隷貿易に比べると小規模であったが、その数は年に数十万人と推定され、徐々にその奴隷市場は中央アフリカ最大と呼ばれるまでに成長していく。現在、奴隷市場のあった場所には、 1877年建造のカテドラル・チャーチが建っている。また教会の横に、奴隷の像が立っている。アラブとアフリカの文化が融合したストーン・タウンはスワヒリ文化の中心であるともいえる。かつてこの地にはからゆきさん(唐行きさん、娘子軍)がいた。現在のストータウン人口:約15000人。

参考HP:〜
 ・ザンジバル諸島の場所地図
 ・ウングジャ島の地図(ザンジバル島)
 ・ペンバ島の地図
 ・タンザニアの場所地図
 ・タンザニアの地図
 ・タンザニアの州区分地図(2〜6がザンジバル諸島で、プワニ州(Pwani)沖がマフィア島)
 ・18〜19世紀のオマーン領

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      10/1/23
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