Namibia No.20 国連 1997 発行 |
ウォリス湾 (Walvis Bay) ウォルビスベイ市 |
NAMBIA ウォルビス・ベイの港 |
←ウォルビス湾→ |
NAMBIA ウォルビス湾の場所地図 |
ナミビア 1994 発行 |
難破船 |
S W A (South West Africa) チオマルガリータが見つかったウォルビス・ベイ付近の 荒れ狂うナミブ海岸の難破船 南西アフリカ 1977/3/29 発行 |
・ウォルビスベイ市 Walvis Bay City 面積:1,124ku 人口:62,096人(2011)、創建:オランダ1793年、イギリス1840年 ウォルビスベイ市は、ナミビア共和国中部の沿岸にある港湾都市で、ナミビアのエロンゴ州にあって、その一帯がウォリス湾(Walvis Bay)です。ウォルビスベイ市には大西洋に面する天然の良港があります。ウォルビス湾を含む一帯は、南アフリカ共和国がナミビア独立前に自国に併合していたため、1990/3/21のナミビア独立後も引き続き南ア領だとして自国領土の飛び地として占領していました。これに対しナミビア政府が再三の返還要求を行った結果、1994/3/1にナミビアに返還されました。 もともとウォルビスベイ市があるウォルビス湾は、1487/12/8/にポルトガルのバーソロミュー・ディアス船長が航海中に発見して、”サンタマリア・コンセィアン湾”(O Golfo de Santa Maria da Conceicao)と名づけるも、ポルトガルはこの地が不毛の地に見えたので、領有権を主張しませんでした。その後、1840年にイギリスがケープ植民地と自国との航路の中継地にするためにウォルビスベイと周辺一帯の領有を開始し、さらに1910年にはドイツの進出を防ぐために成立させた南アフリカの一部として併合しました。 これに対しドイツは第一次世界大戦中に占領するも、戦後に南西アフリカが国際連盟によって南アの委任統治領となった時にウォルビスベイ一帯も南西アフリカに併合されました。しかし、南西アフリカが南アに不法占領されていた1977年、首都ウィントフックの外港として戦略上重要なウォルビスベイ一帯がナミビア独立勢力に奪取されることを恐れた南アは、一帯をケープ州に併合しました。 ・ウォルビスベイの略史:〜
南アフリカは、南西アフリカのナミビアとしての独立(1990/3/21)後も引き続き自国領土であるとして、ウォルビスベイの実効支配を続けました。これに対しナミビア政府が再三の返還要求を行った結果、1994/3/1にナミビアに返還されました。その理由は、ウォルビスベイが南ア領になると、周囲を囲むナミビアとの間で税関の煩雑な手続きが必要となってしまうことや、ナミビアが独立したにも関わらず、南アのアパルトヘイトによる経済制裁がウォルビスベイだけ続くのではないかと考えた現地の企業や経済界(しかもこれらは、白人や英米南ア資本であった)が、ウォルビスベイのナミビア引渡しを南アに強く要求したためでした。このように、現地に味方がいないと悟った南アが引渡しを現実に考えるようになり、返還が実現しました。ただ、1994/4月に南アの政権を奪取したアフリカ民族会議 (ANC) は、ナミビア与党の南西アフリカ人民機構 (SWAPO) と旧来から親密な関係であったため、仮に3月に返還されなかったとしても、ウォルビスベイがやがて返還されるのは時間の問題でした。 参考HP〜 ナミビアの地図 ナミビアの詳細地図 こちらで ・ヒンバ族 ・ブランドバーグ山 ・グラディエーター・インセクト 世界遺産の ・トゥウェイフルフォンテーンの岩絵 (ナミビア) ・ナミブ砂漠 (ナミビア) ・サン(ツォディロ)の岩絵 (ボツワナ、砂漠のルーヴル) ・アルタミラ洞窟の岩絵 (スペイン) ・ラスコー洞窟の岩絵 (フランス) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/8/7 |