切手で綴る 太平洋戦争 物語 第4部 <帝国の敗戦> 第22章 無条件降伏 108 <昭和天皇> 「玉音放送」 1945/8/15 大日本帝国、ポツダム宣言受託 帝国、無条件降伏 |
・昭和天皇の玉音放送、1945/8/15(昭和15年8月15日) (Jewel Voice Broadcast by Japanese Emperor Hirohito) 最高戦争指導会議での即時和平派、近衛、細川、高松宮、木戸内大臣、鈴木首相、東郷外相、米内海相と統帥部の徹底抗戦派、梅津参謀総長、阿南陸相、豊田軍令部総長の抗争あるも、御前会議での天皇の発言は「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である。念のために理由を申しておく。大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきたことを見ると、どうも予定と結果が大変違う場合が多い。今陸海軍では先ほども大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、自分はその点について心配している。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか。あるいは日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるか。今日となっては一人でも多くの日本国民に生き残って貰ってその人達に将来再び立ち上がって貰う他に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。自分のことはどうなっても構わない。耐え難い事忍び難い事ではあるが、この戦争を止める決心をしたのである」と伝へられています。 昭和15年8月12日午前0時15分サンフランシスコ放送によるバーンズ国務長官名での対日回答の放送が傍受されました。「天皇の地位は降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国司令官の制限の下に置かれる。最終的な日本国政府の形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思により決定さるべきである」。この訳文をめぐって、外務省と陸軍省が対立。原文は”Subject to”ですが陸軍省はこれを「隷属する」と訳し(外務省は「制限の下に置かれる」)、統帥部では受諾反対の態度を固め、午前8時20分に梅津参謀長と豊田軍令部総長が、受諾が危険であるとの上奏を天皇に行い、東郷外相は午前8時の段階で「不満足ながらも受諾」との方針を決定。午前11時、天皇陛下から東郷外相に「直ちに応諾するように」との指示がありました。陸軍省は受諾反対で阿南陸相を突き上げ、陸相は午前11時半、鈴木首相を訪ねて受諾反対を申し入れ。閣議決定で天皇大権が不明確なら戦争継続だったからです。8/12午前3時、対日回答にかんする閣議が開かれ、東郷外相は即時受諾「戦争継続は決定的壊滅を招き、国体護持は不可能になる。我が方の了解事項を承認したものと認める」と主張。阿南陸相は受諾に全面反対。 8月14日午後1時から閣議が開催され、終戦詔勅案を審議。公布手続きが完了したのは午後11時でした。同時にポツダム宣言受諾通告も発信されました。 <ポツダム宣言受諾> 米英ソ支四国に対する8月14日付帝国政府通告:〜 ポツダム宣言の条項受諾に関する8月10日付帝国政府の申入並びに8月11日付バーンズ米国務長官発米英ソ支四国政府の回答に関連し帝国政府は右四国政府に対し左の通り通報するの光栄を有す。 一天皇陛下におかせられてはポツダム宣言の条項受諾に関する詔勅を発布せられたり 二天皇陛下におかせられてはその政府及び大本営に対しポツダム宣言の諸規定を実施する為必要とせらるべき条項に署名するの権限を与え且つ保障せらるるの用意あり。又陛下におかせられては一切の帝国陸海空軍官憲及び右官憲の指揮下にある一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し武器を引渡し前記条項実施の為連合国最高司令官の要求することあるべき命令を発することを命ぜらるの用意あり。 <玉音放送> 昭和20年8月15日正午、「大東亜戦争」の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送、いわゆる「玉音放送」で知られる昭和天皇の詔勅。終戦前日の8/14、御前会議に於いて、昭和天皇の「御聖断」により実施となったもので、ラジオ放送で使われた円盤(レコード盤)への録音は同日深夜、宮内省内の天皇政務室で行われました。「玉音放送」に関しては、降伏反対・戦争継続を主張した近衛師団等による録音盤奪取未遂事件等、「長い一日」(8月14日〜15日)の中で予定通り放送され、日本は「現人神」(あらひとがみ)昭和天皇の「鶴の一声」で降伏を甘受、整然と矛を収め、粛々と武装解除に応じることとなりました。 大東亜戦争終結の詔書<原文> 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ。抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所。曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス。然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦。朕カ百僚有司ノ励精。朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス。世界ノ大勢亦我ニ利アラス。加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル。而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ。是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ。朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス。帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク。且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ。惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス。爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル。然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ。以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ。常ニ爾臣民ト共ニ在リ。若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ。或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム。宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ。 (御名御璽)昭和二十年八月十四日。 以下、内閣総理大臣・鈴木貫太郎はじめ、閣僚16人が連署。 昭和20年8月15日午前5時半過ぎ陸相官邸で阿南陸相が割腹自殺。遺書は「一死以って大罪を謝し奉る」。阿南陸相は敗戦が決定した後、淡々と手続を進め、ポツダム宣言受諾詔勅案に副署した上での割腹自殺を選択。昭和史を政略で塗りつぶした帝国陸軍において、阿南陸相が謝し奉った大罪は、彼自身としては敗戦の責任のつもりなるも、大きな眼で見れば、昭和軍閥が犯した、統帥権の独走そのものだったとも言えますね。 <対日回答> 連合国の対日回答案の鍵を握るのはアメリカであり、トルーマン大統領を囲んだ次の4人。バーンズ国務長官、スチムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官、リーヒ大統領付幕僚長。このうちスチムソン長官は満州事変当時の国務長官で知日派です。「戦争が長引くことに比べれば、天皇制は小さな問題だ。承知してやればいい。」バーンズ長官を除く3人は、このスチムソン長官の考え方に同意。しかし、主務者であるバーンズ長官は、無条件降伏を主張して来た経緯もあり、天皇制は否定しないが明瞭に保証もしないという案を作りました。フォレスタル長官は、もう少し明瞭にした方がよいと考えますが、バーンズ長官は 「誰が天皇になっても、天皇制さえ残ればいいんだろう」と応答。こうして、対日回答案が承認され連合国内の調整を経て、日本に回答されました。 こうして停戦となり、連合軍が帝国へ上陸・進駐、帝国は占領されました。そして、1945/9/2に東京湾の米戦艦ミズーリ号上で帝国の降伏文書調印式が挙行されました。 参考:〜 ・裕仁:第124代(昭和)天皇(1901-在位1926(大正15)12/25-1989(昭和64)/1/7)88才没 ・近衛文麿:公爵(1891-1945/12/16服毒自殺) ・細川護貞(もりさだ、1912-2005)第2次近衛内閣総理秘書官(1940/7/22-1941/7/18) ・高松宮宣仁:親王(のぶひと、1905-1987) ・木戸 幸一:侯爵(1889-1977)内大臣、東京裁判で終身刑後に仮釈放(1955) ・鈴木貫太郎:男爵(1868-1948)内閣総理大臣(在任1945/4/7-8/17) ・東郷茂徳(1882-1950) 鈴木内閣外務大臣(在任1945/4/9-8/17) ・米内光政(よない、1880-1948/4/20)第23代連合艦隊司令長官(1936/12/1-1937/2/2) 第39-41、49-52代海軍大臣、第37代内閣総理大臣(在任1940/1/16-7/22) ・梅津美治郎(よしじろう、1882-1949)、東京裁判で終身刑後に獄中死 参謀総長(1944/7/18-1945/9/2)大本営全権で降伏文書調印式に出席 ・阿南 惟幾(これちか、1887-1945/8/15自殺)鈴木内閣の陸軍大臣(在任1945/4/9-8/15) ・豊田副武(そえむ、1885-1957)第29・第30代連合艦隊司令長官(1945/5/1-5/29) 最後(第19代)の軍令部総長(1945/5/29-8/15)
午後2時頃、東部憲兵司令部の藤野中佐は5人程の部下と共に川口放送所へ説得に向う。藤野中佐は窪田少佐らと会談し、送電が止められている事を告げ、これ以上やっても成功の見込みは無いと言って説得。窪田少佐らは説得を受けて計画の失敗を悟り、行動中止を決め、その場で藤野中佐らに投降。その後、寄居演習隊の高島中隊長も駆けつけ、隊員に帰隊を命令。さらに田中大将が到着、全員を前に訓示、午後4時頃、隊員はトラックで駅へ向かい、列車で寄居に帰営。この事件の影響で午前6時頃から午後3時頃までの約9時間にわたって関東地方一帯でラジオ放送が停止。その後、窪田少佐は身柄を拘束され、事情聴取の後釈放されるも以降の詳細は不明。本田中尉は窪田少佐とは別々に浦和地区憲兵隊に送られ、その夜、九段憲兵分隊に移送。同所で翌25日から28日まで事情聴取を受けた後、8/30に釈放され、後日、30日間の謹慎処分。その後、帰郷するも、11月に上京して検察官の聴取を受けたが12月に不起訴処分。その後、2001年(平成13年)9月9日、NHK放送博物館でのインタビューに応じ、当時の事を証言している。 陸軍予科士官学校は8/29に解散し、生徒らは復員。 田中大将は事件が収束した日の夜、司令官室で拳銃自殺。 参考HP〜 ・戦争終結の大勅煥発さる (戦争終結を報じる新聞と皇居前の写真)
参考〜 ・米国の戦艦ミズーリ号の装備:〜就役:1944/6/11、退役 1992/3/31 (USS Missouri, BB-63、アメリカ海軍の戦艦)アイオワ級戦艦の3番艦
大日本帝国の無条件降伏(8/15)による降伏文書調印式(9/2)は、東京湾(中の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊するミズーリ号の甲板上で行われ、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドが調印して帝国の降伏が受け入れられました。この日(1945/9/2)で正式に太平洋戦争(第2次世界大戦)が終結して、世界に平和がもたらされました。 ※<朝鮮戦争に従軍>朝鮮戦争(1950/6/25-1953/7/27停戦)に従軍して、 1951/9/15の「仁川」上陸にて艦砲射撃などで活躍。 ※<湾岸戦争に従軍>1986/5/10サンフランシスコで再就役、1991/1/17イラク領内へ トマホーク・ミサイルを発射して湾岸戦争(1991/1/17-2/28)が開始されました。 ※<記念艦> 1999年からハワイ州パールハーバーで記念艦として保存。 参考HP〜 1992年製作のアンドリュー・デイヴィス監督の米映画「沈黙の戦艦」にミズーリ号が登場。 ・スティーヴン・セガール(ケイシー・ライバック役) ・トミー・リー・ジョーンズ(ウィリアム・ストラニクス役) ・ゲイリー・ビジー(クリル中佐役) ・エリカ・エレニアック(ジョーダン・テイト役) などが競演したアクション映画。 |
109 <帝国の降伏> 大日本帝国、降伏文書に調印 1945/9/2 ミズーリ号上の調印式 |
東京湾の米戦艦"ミズリー号"上での「降伏文書」調印式 マーシャル諸島 1995 発行 |
・大日本帝国の「降伏文書」調印式、1945/9/2(昭和15年9月2日) (Surrender ceremony of Imperial Japan) 東京湾「横浜」の米戦艦ミズリー号上で「大日本帝国の降伏文書(Imperial Japanese Instrument of Surrender)」調印式が挙行されました。帝国側代表は重光葵(まもる)や梅津美治郎など、そしてアメリカ側はマッカーサー総司令官やニミッツ提督などが署名しました。 1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告。このことは翌8月15日に国民に発表されました(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリ号の甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(帝国軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印。これで、宣言ははじめて外交文書として固定されました。 なお、その時の米戦艦ミズーリ号には、嘉永6年(1853)に江戸湾浦賀沖に到着したペリー提督の「黒船」(ボーハタン号)に掲揚されていた米国旗が掲げられていました。 参考HP〜 ・連合国代表団と署名するマックアーサー将軍の写真 ・帝国代表団の写真 |
こちらで ・ソ連軍の侵入 ・長崎へ原子爆弾投下 をお楽しみください。 ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 2016/6/6 |