大航海物語
フェルナンド2世
1479〜1516

参考資料
ESPANA
アラゴン王国フェルナンド2世国王
(イサベラ女王の夫君)
FERNANDO EL CATOLICO


1452 フェルナンド王500年記念 1952
スペイン 1952/10/12 発行
ESPANA
カトリック王フェルナンド2世
(Fernando el Catolico)


スペイン 1952 発行
GRENADA
カトリック両王 (Los Reyes Catolicos)
イサベラ女王・フェルナンド2世


グレナダ 1987 発行
REPUBLICA DE HONDURAS
グラナダへ入城するカトリック両王
馬上のフェルナンド2世とイサベラ女王へ
鍵を差出すグラナダのムハンマド王


V CENTENARIO ISABEL LA CATOLICA
LA RENDICION DE GRANADA
A LOS REYES CATOLICOS
1492 グラナダ勝利500年記念 1992

ホンジュラス 1992 発行
Commonwelth of Dominica
グラナダのアルハンブラ宮殿、1390

2000年紀記念のミレニアム切手
ドミニカ 1999 発行


参考HP:〜
グラナダ入城 (LA RENDICION DE GRANADA)

フェルナンド2世
  (Fernando II de Aragon, 1452/3/10〜在位1479〜1516/6/23)
フェルナンド2世の父はアラゴン国王フアン2世で、母はカスティーリャ貴族の娘フアナ・エンリケスで、フアン2世の2番目の妻でした。異母兄に王太子カルロス・デ・ビアーナ、異母姉にブランカ(カスティーリャ王エンリケ4世の妃)とナバラ女王レオノール、同腹の妹にフアナ(ナポリ王フェルディナンド1世の妃)がいました。1461年にフェルナンドが9才のとき、異母兄カルロスが亡くなったため、アラゴンの王太子となりました。1468年に16才で父からシチリア王位を継承し、シチリア王フェルディナンド2世となりました。

1469/10/19にカスティーリャ王国イサベル王女と結婚。この婚姻関係の効力として、1474年にイサベルが女王に即位したのに伴い、彼はカスティーリャ共治王フェルナンド5世となりました。それまではアラゴン王である父を補佐し、対フランス王国戦に従事していましたが、これ以降はイサベルと共にカスティーリャ国内の統一。そしてイベリア半島に唯一残ったイスラム教国グラナダ王国との決戦を最優先とする方針を固めました。まずカスティーリャの王位継承問題に介入してきたポルトガル王アフォンソ5世と戦い勝利した後、カスティーリャ領内の反イサベル派を北から南へ討伐していきました。その中途の1479年にフェルナンドは父の死去に伴いアラゴン王位を継承し、アラゴン王フェルナンド2世となりました。カスティーリャの共同統治者であるフェルナンドがアラゴンの王位をも得たことにより、両国は内政面ではそれぞれ独立しているものの対外的には一体化し、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア王国)が誕生したのです。1492/1にグラナダ王国を滅ぼして約800年に渡るレコンキスタ(キリスト教徒によるイベリア半島回復を目指す運動)を完成させました。1496年にはローマ法王庁教皇アレクサンデル6世(Pope Alexander VI, 1431-在位1492/8/11-1503)によりこの偉業が讃えられ、フェルナンドとイサベルは「カトリック両王」の称号を授けられました。フェルナンド夫妻はグラナダ戦の後、休む間もなく王宮をバルセロナへ移し、対フランス戦へ突入。翌1493年に和平条約が成立し、フランスはピレネー山脈の北側に撤退しました。しかし、この和平が一時的なものであることは容易に予測できたため、他の強国との婚姻政策をとりました。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルグリットを長男フアンの妃に、同じく皇帝の息子フィリップを次女フアナの婿に、また、イングランド王ヘンリー7世の長男(王太子)アーサーを四女カタリーナの婿として、スペイン、オーストリアとネーデルラント、イングランドのフランス包囲網を形成。フランスは1494年からイタリア戦争を開始しますが、1504年に締結された条約により、フランスはナポリの王位を放棄し、フェルナンドがナポリ王(ナポリ王フェルディナンド3世)を兼ねることとなりました。

1504/11にカスティーリャ女王である妻イサベルが死去したため、フェルナンドもカスティーリャ王の地位を失いました。カスティーリャの王位は、長男フアン、長女イサベル、そして彼らの子らが既に死去していたため、次女フアナが継承しました。フアナは夫のブルゴーニュ公フィリップ(美公)や子らと共にフランドルで生活していたため、彼女らがスペインに到着するまでの間、フェルナンドはイサベルの遺言に基づいてカスティーリャの摂政の地位につきました。1506年にフアナがスペインへ帰国し、即位の手続きを終えると、フェルナンドはカスティーリャから離れ、政情不安定なナポリへ行きました。およそ4ヵ月後、フアナの夫フィリップが疫病で急死しました。一説には毒殺とも伝えられ、これ以降フアナの精神状態は極度に不安定となり政務を執れなくなる一方、カスティーリャの貴族らは権力闘争を始めて混乱状態に陥りました。フェルナンドは急ぎカスティーリャへ戻り、女王フアナの承諾を得て再度、摂政となり、政務を代行することになりました。 その一方でフェルナンドは新たにアラゴンの王位継承者が誕生することを期待して、1505年に南フランスの貴族フォワ家の娘ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚。翌年に待望の男子が出生しますが夭折。1511/10にフェルナンドはローマ教皇ユリウス2世の提唱する対フランス戦同盟(神聖同盟)に参加。その一方で1512年にはピレネー山脈の西部にあったナバラ王国を占拠してカスティーリャへ併合。その結果、イベリア半島はスペインとポルトガルの2国だけとなりました。ナバラ王フアン3世と女王カタリナはフランスへ逃れ、その後も度々領地を奪還しようとして出兵が繰り返しますが、旧領の一部を取り戻すことができたのはフェルナンドの死後でした。この部分はナヴァール王国として1593年まで存続し、その後は事実上フランスに併合されました。

フェルナンドは、後継者に孫のカルロス(次女フアナの長男)を指名して、1516年に亡くなりました。フランドルで生まれ育ち、スペイン語を理解できなかったカルロス王子に対し、その弟であるフェルナンド王子はスペインで生まれ、祖父のフェルナンド国王が手元に置いて養育してきたため、アラゴンの貴族や民衆には弟の方を新国王に迎えたいという想いがありました。また、フェルナンドにも、自らが育てた王子に自らの国を継がせたいという気持ちがありましたが、ハプスブルク家の既定方針に反して弟のフェルナンドを後継者とするならば、スペインとハプスブルクとの戦争は避けられないことは自明でした。彼本人は娘のフアナを正式なスペインの後継者として期待していましたが、それも叶わぬのならばと、最後まで自分の嫡子を渇望していましたがそれも叶いませんでした。カルロスは、フェルナンドの有していたアラゴンその他の王位を継承すると共に、カスティーリャの王位も母フアナとの共同統治という形で獲得。これらの王位はそれぞれこの先も形式上は伝統として存続するも、実質上は「スペイン王位」として1つに統合され、彼はスペイン国王カルロス1世と呼ばれることになりました。彼はさらに1519年には神聖ローマ皇帝に選出されたため、カール5世とも呼ばれました。一方、フェルナンド王子は兄カルロスの退位後、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世となり、ハプスブルク家の領土のうちオーストリアを継承し、ボヘミア・ハンガリーなどを獲得して、オーストリア・ハプスブルク家(後のハプスブルク・ロートリンゲン家)の祖となりました。

参考:〜
・グラナダ王国の最後の君主
 ムハンマド12世(Muhammad XII of Granada, 1460?-1527)
 別名:アブ−・アブド・アッラーフ(Abu ‘Abd Allah)
グラナダ王国(Emirate of Granada、1230-1492)の最後の君主は、アブー・アブドゥッラー・ムハンマド12世(Muhammad XII of Granada, Abu ‘Abd Allah Muhammad、またはスペインではアブー・アブドゥッラーの訛りのボアブディル:Boabdil, 在位:1482-1483、1487-1492)は、ナスル朝(グラナダ王国、Nasrid dynasty、1232-1492)の最後の君主。なお、グラナダのアルハンブラ宮殿はムハンマドV世(Muhammed V、1338-1391)が、1390年に完成させました。

参考HP:〜
1474年頃のスペイン

こちらで
イサベラ女王 (カスティーリャ国王)
カルロス1世 (スペイン国王)

世界遺産の
ヌビア遺跡 (エジプト)
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2018/8/5追記

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