大航海物語 | United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 海戦物語(Naval Battle) マルティニーク島の海戦 1780/4/17 Sea Battle of Martinique ★イギリス VS フランス★ |
France 国連 1980 発行 |
海戦物語 |
Saint Lucia ロドニー提督 と グラス提督 セントルシア 1982 発行 |
ANTIGUA ロド二ー提督 フォーミダブル号(HMS Formitable) アンチグア 1970 発行 |
REPOBLIKA MALAGASY グラス提督 アメリカ独立200年記念 マダガスカル 1975 発行 |
帆船の海戦図 Battle of Frigate Bay, 1782 ネヴィス 1989 発行 |
・マルティニーク島の海戦 (Sea Battle of Martinique, 1780/4/17) アメリカ独立戦争(American Revolutionary War, 1775〜1783)中の海戦 場所:カリブ海のマルティニーク島沖(Off Martinique, West Indies) 結果:フランスの戦術的勝利(French strategic victory) 両軍の戦力:〜 ・英艦隊:〜戦列艦(ships of the line):20隻 総司令官:提督ロドニー卿 ・仏艦隊:〜戦列艦(ships of the line):23隻 総司令官:提督グラス伯爵 1780年のマルティニーク島の海戦は、アメリカ独立戦争(1775-1783)の一環で、マルティニーク島沖の海上で、イギリス艦隊がフランス艦隊を追撃するも、イギリスのロドニー提督の命令の不徹底が原因で取り逃がす結果となりました。1780/1月にフランス総司令官の伯爵グッシェン提督は強力な艦隊とともに西インド諸島に派遣され、イギリスのロドニー提督と対峙しました。1780/4/13にグッシェン伯爵は全艦隊にジャマイカ侵攻のための地上部隊3,000人を乗せて出帆。報せを受けたロドニー提督はこれを捕捉すべく出撃し、遭遇して激戦となるもフランス艦隊は逃げ去り、仏艦隊はジャマイカ攻撃に向かいました。なお、マルティニーク島の海戦(1780)概要はこちら、マルティニークの戦い(1762)はこちら。 ▼戦い(Action:海戦) 両艦隊は4/16午後4時にマルティニーク島の風下側で遭遇するも、日没が迫ったためそのまま前進。翌17朝の段階ではロドニー艦隊がグッシェン艦隊の風上(右方)の場所で、フランス艦隊をやや後方から追いかける状態でしたが、フランス艦隊の艦戦列が長く伸びきっていたのに対し、イギリス艦隊はほぼ同数ながら緊密な距離の艦戦列でした。ロドニー提督は、まず「敵艦戦列の後尾を攻撃する」と信号し、次に11時50分頃「各艦はそれぞれ対応する相手に向かえ」と信号しました。ロドニー提督の心積りでは、第1の信号で目標を明確にしておき、第2の信号にて艦戦列の各艦が真横(すなわち敵戦列の後部)の敵艦に一斉に攻撃を仕掛ける筈でした。しかし先頭のスターリング・キャッスル号カーケット艦長(Robert Carkett)が、信号の「対応する相手」とある部分にこだわり、はるか前方にいるフランスの先頭艦に向かって進行。そして後続する艦隊もそれに従いました。また他にも同様の行動をとる艦があり、ロドニー提督の戦力集中の意図は実現されませんでした。フランス側では、グッシェン提督配下の艦隊指揮官が整然と規則正しく危機に対処したこと、特に第3の白色艦隊指揮官の提督グラス伯爵がすばやく艦戦列を詰めたことでなんとか危機を脱出。その代わりグッシェン伯爵の意図したジャマイカ攻略は頓挫しました。
<英の艦隊編成>:〜参加艦船名
・マルチニーク島の地図 こちらで ・ブルドネス提督 ・エリオット将軍 ・チュラッカ艦長 ・キリアム艦長(ヴィクトリー号操艦長) ・ヴィルヌーヴ提督 ・ツーロン海戦(1744) ・サフレン提督 ・フランスの王と王族
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.4/1/22、 令和 R.4/10/20(2022) |