United Kingdom

国連 1983 発行
切手で綴る 海賊大航海(Pirates Voyages)
ジョージ・アンソン提督
1740〜1743
世界一周 ”海賊” 大航海

大航海物語
 イギリス編

GUERNSEY
艦長室で航海日誌を記録するアンソン、1740
Correos del Ecuador
海賊船の旗印

エクアドル  2006/12/29 発行
ポーツマスを出帆するアンソン艦隊、1740
ホーン岬の沖を回航するアンソン艦隊の帆船、1740
セント・キャサリン沖のアンソン艦隊、1740
ファン・フェルナンデスに上陸するアンソン艦隊、1741
1740 アンソンの世界一周航海250年記念 1990
ガーンジイ 1990 発行

アンソン提督は裕福な貴族の家に生まれ、順調に昇進して、提督となってから、世界一周”海賊”大航海を成し遂げ、初めの乗組員が疫病などで、たったの188人に減少し、無事に帰国したのは旗艦ただ一隻となり、戦利品を国王(政府)に収め、ドレーク船長と比べられるようになりました。
・提督ジョージ・アンソン男爵 (1697/4/23〜1762/6/6)
 Admiral George Anson
, 1st Baron Anson(初代) PC・RN(=Royal Navy)
  イギリス海軍提督(Admiral of the Fleet)・政治家
アンソン提督はイングランドのグレートヘイウッド村シューボロゥ(Shugborough、Great Haywood, Stafford, England)で裕福貴族(wealthy aristocrat)の家に生まれ、1712/2に15才で海軍に入隊し、1716年に海軍大尉(lieutenant)、1722年に海軍中佐(commander)、1724年に海軍大佐(post-captain)へと順調に昇進しました。この間に北アメリカ派遣艦隊(North American station)スカーボロー号(HMS Scarborough 1724-1730)とスクゥィレル号(Squirrel、1733-1735)の艦長を務めました。1737年には艦隊司令官(ship of the line, commander)として四等戦列艦センチュリオン号(Centurion 60g、1,021t、1737-1740)に乗艦しました。1740年にはオーストリア継承戦争争(1740-1748)の海外版のジョージ王戦争(King George's War,1744-1748)に従軍、ジェンキンズの耳戦争(War of Jenkin's Ear 1739)では海軍代将(Commodore)に昇進して南アメリカでスペイン艦隊と戦い、フェニステレ岬の海戦でフランスに勝利して爵位を授けられ貴族になりました。七年戦争(1756-1763)が勃発して、ニューカッスル公と大ピットの連立内閣が発足すると海軍卿(海軍大臣)に再度就任。海軍増強計画をやりぬき、海戦の指揮をして対フランスの植民地での勝利に大きく貢献しました。1746年には海峡艦隊(Channel Fleet 1746/7)の司令官になりました。

アンソン提督は世界一周大航海(1740〜1742)に43才で出帆し、この航海ではスペインのウルダネータが発見したフィリピンのマニラ港からメキシコのアカプルコ港へと向かう太平洋航路を行きかう積荷満載のスパニッシュ・ガレオン船(Galeones de Manila-Acapulco)を拿捕して積荷を奪ったことと、出帆時に1854人いた乗組員が嵐や疫病などで、たったの188人に減少し、世界一周航海を達成してイギリスに帰国できたのは旗艦のセンチュリオン号だけだったと伝えられています。帰国後は国民的英雄になりました。

ジョージ・アンソン提督の世界一周”海賊”大航海:〜(1740〜1743)
ポーツマス出帆時の艦隊編成、8隻:〜
 ・旗艦:戦列艦:センチュリオン号:1005t、アンソン提督
 ・戦列艦:グローセスター号、853t、リチャード・ノリス艦長
 ・戦列艦:セヴェーン号、683t、エドワード・レッグ艦長
 ・戦列艦:パール号、600t、マッソー・ミッチェル艦長
 ・戦列艦:ウェイジャー号、599t、ダンディ・キッド艦長
 ・スループ艦:トライアル号、200t、ジョルム・ミュライ艦長
 ・補給艦:アンナ号
 ・補給艦:インダストリー号。
海賊船の旗印
アンソン艦隊は1740/09/18にポーツマス港を出港し、スピットヘッド海峡から出帆して行きました
 ウェイジャー号には17才のジョン・バイロン少尉候補生が乗組んでいました。
 それを知ったフランスはその情報をスペインに通報しました
 スペインのピザーロ提督(Admiral Pizarro)は5隻の艦隊で待ちうけるべくマデイラ諸島へ出帆
1740/10/25にアンソン艦隊はマデイラ諸島に到着し、新鮮な水と食料を補給し、
1740/11/3に何事も無く出帆できました
1740遅くにフォークランド諸島に到達
1740/11/20には補給艦インダストリー号と会合できて、補給を受けましたが、
 赤痢(dysentery)やチフス(Typhus)、熱病(ship fever)などで乗組員の25%が寝込みました
1740/11/21にサンタ・カタリナ島(Brazilian state of Santa Catarina. 523ku)に到達
 乗組員を上陸させて船を消毒・清掃。すると上陸者はマラリアにやられました
1741/01/18に出帆する時には80〜96人が罹患。
1741/01/18にまマゼラン海峡入り口の港、サンジュリアン港(Puerto San Julian)に到達
 4日後に大嵐で修理したトライアル号のマストが破壊されグローセスター号が救援、
 その嵐でパール号が艦隊を見失い、艦長が亡くなり、スペイン艦隊と遭遇し、夕闇でかわして、
 1等航海士ソルト(First Lieutenant Sampson Salt)の指揮で帰国
1741/03/7にホーン岬への入り口のルマール海峡からホーン岬沖へ向かいましたが、
 南からの激しい風でトライアル号を先導として先頭にし、スタテン島へ吹かれることを避け、
 艦隊はドレーク海峡を回航して太平洋へと出ました、
 壊血病(scurvy)で1週間に100人以上が亡くなりました
1741/4月初めに300miles (480km)かなたに陸地を視認。アンナ号が崖に注意との信号、
 セヴェーン号とパール号を見失ってから10日以上経過
1741/04/24に嵐でにウェイジャー号が艦隊から見えなくなり、別の嵐でセンチュリオン号と
 グローセスター号の帆は裂かれたり緩んだりしましたが正常な乗組員が少なく補修できず、
 艦隊は散じりになりました
1741/05/8にセンチュリオン号がまずソコロ島(Isla Guamblin, 45°S on Chilean coast)に到達、
 2週間待てども他の船は現れず、風下の見つけにくい第2の会合ポイントのヴァルデヴィア
 (Valdivia)を変更して、第3の会合ポイントのファン・フェルナンデス諸島へと出帆、海図では
 ヴァルパライソ(ヴァルデヴィアの北方)から西へ135mil(217km)行くとある筈のフェルナンデス
 諸島(33°30')が、なかなか見つからず、この間にも70〜80人が亡くなりました
1741/06/9にファン・フェルナンデス諸島(Juan Fernandez Islands)を視認
1741/06/21にカンバーランド湾(Cumberland Bay)到着するも人員減少で停泊が困難
1741/07/23にサンジュリアン(Port St Julian)にセンチュリオン号がやっと停泊。
 出帆する時には壊血病で254人が亡くなり、92人の衰弱した乗組員となりました。
1741/08/16に4/24からソコロ島(Socorro)で浜に吹き寄せられて会合するため
 待っていたアンナ号が、ようやくカンバーランド湾到達。
1741/9月に出帆準備が整い、センチュリオン号とグローセスター号、トライアル号を調査してみると、
 乗組員の2/3が減少していました。3隻の行方は未だ不明。
1741/09/8アンソン提督は準備整ったセンチュリオン号とグローセスター号でパナマ攻撃を計画し、
 ピザーロ提督艦隊を警戒しながら、1隻のスペイン船を発見、2日間探し回りましたが、別の
 軽武装備の輸送船(Nuestra Senora del Monte Carmelo )と遭遇し拿捕、降伏した船から
 積荷の金塊(£18,000 bullion)を奪いました。ジーザス号(Santa Teresa de Jesus)や
 カルミン号(Nuestra Senora de Carmin)などを捕らえ積荷を奪いました
 アカプルコ(Acapulco)近海付近を荒らしまわってパナマのコイバ島(Coiba)で停泊休養、
 センチュリオン号とグローセスター号(6隻の賞船(prize ships )は、そこで亀を捕らえ食し、
 7ヵ月前のファン・フェルナンデス以来、欠乏していた栄養をとりました。
1741/11/13-15の間、ペルー北西の町パイタ(Paita or:Payta)に留まって補給しました
1742/01/26にアカプルコと同緯度で東に転舵した時にスパニッシュ・ガレオン船を発見、攻撃、拿捕
1742/03/03には乗組員が400人、大砲が58門となりました

打ち続く災害で船は減り、疫病で乗組員が次々と亡くなり、パール号とセヴェーン号はホーン岬沖のドレーク海峡で艦隊からはぐれて帰国し、バイロン候補生乗船のウェイジャー号はチリ沖で難破してしまいました。ホーン岬の回航中は季節が悪く大嵐で航海用器具類も正確な測定が出来ず役にたちませんでした。1741/6にファン・フェルナンデス諸島に到達しましたが、6隻の内、3隻残るのみになり、乗組員は961人が335人となっていました。

1742/05/06に太平洋へとセンチュリオン号とグローセスター号が転舵し、アンソン提督は
 2ヵ月での横断を目論みました。グローセスター号は7月から水漏れが発生
1742/08/13にミッチェル艦長(Mitchell)がセンチュリオン号に信号を送るも、同船も水漏れ
 センチュリオン号に全員を乗り移らせてグローセスター号を火をつけて廃船処分
1742/08/23にようやくテニアン島(Tinian)を視認、上陸して休養した後、
1742/09/18に大嵐
1742/10/20に2200miles(3500km)離れたマカオ(Macau、澳門)に向け出帆
1742/11/11にマカオ到達
1743/04/19にマカオ出帆
1743/05/20にニューヘブリディーズ諸島最大の島でキロスが発見したバヌアツ
 エスピリトゥサント島(Cape Espiritu Santo)に到達
1743/06/20にグアム島近海でスペイン・ガレオン船コヴァドンガ号(Neustra Senora de Covadonga
 700t)を発見、攻撃、相手が搭載砲(44cannon 28Swivel gun)で反撃、射撃の名手あるいは
 ぶどう弾で応戦し拿捕、積荷の銀貨1,313,843枚、35,682オンス(約101万グラム)の銀塊を獲得
1743/11/11にマカオ、虎門要塞(Bocca Tigris、HuMen)着、
 そこは、中国・清朝時代の戦力拠点で、中国の近・現代史で重要な要所(広州、南の玄関口)、
 黄埔区(こうほく、Whampoa)に寄航
1743/12/07に広東を出帆、マカオでガレオン船を$6000で売却
1743/12/15にマカオを出帆
1744/01/08にインドネシアのスマトラ島とジャヴァ島間のサンドラ海峡にあるプリンス島
 (Prince's Island Straits of Sundra)に寄航、新鮮な水や補給品を補給して出帆後、
1744/03/11にケープタウン港到着
1744/04/03に出帆、イギリス海峡を巡航しているフランスやスペイン艦船を霧にまいて、
1744/06/15に英仏海峡のフランス艦隊をかわして、スピットヘッド海峡ポーツマス港に帰港しました。

1840/9月の出帆当初乗組員約1900人は、センチュリオン号、グローセスター号、トライアル号とアンナ号乗組みの内の188人が、そしてセヴェーン号、パール号、ウェイジャー号乗組みの内の約500人(合計約688人)とが、嵐や病気、あるいは飢え死にを免れたを生存者になりました。戦利品の分け前はアンソン提督は艦長給与£719の3年9か月分に相当する£91,000(コヴァドンガ号積荷の3/8)を受取り、士官達は£500〜£6000を、そして水兵は20年分の給料に等しい£300を受取りました。(セヴェーン号とパール号、ウェイジャー号乗組みの士官は減額されているようです)。かくして、アンソン提督はドレーク船長と良く比較されることになりました。

参考:〜
出帆時の艦隊編成、8隻:〜
・センチュリオン号
 HMS Centurion, 4th rate ship of the line,60guns, 1005t, 400men, Flagship、3mst
・グローセスター号
 HMS Gloucester, 4th rate ship of the line,50guns, 853t 300men, Capt Richard Norris、3mst
・セヴァーン号
 HMS Severn, 4th rate ship of the line,50guns, 683t, 300men, Captain Edward Legg、3mst
・パール号
 HMS Pearl, 4th rate ship of the line,40guns, 600t, 250men, Captain Matthew Mitchel、3mst
・ウェイジャー号
 HMS Wager, A square-rigged 6th rate RN ship,28gns,599t, 160mn, Cap Dandy Kidd、3mst
・トライアル号
 HMS Tryal, sloop,8guns, 70men, 200t,8 guns, Captain Jolm Murray、2mst
・補給艦、2隻
・アンナ号 HMS Anna, 8-gun, storeship
・インダストリー号 HMS Industry, storeship

イギリスへ帰国後は大金持ちとなり、シューボロゥ宮殿(Shugborough Hall)を再建しました。
1748年に「世界一周航海記」(A Voyage Round the World)を出版しました。
1744-1747の間、国会議員(Member of Parliament)。

1747/5/14に、同年勃発のオーストリア継承戦争(1740-1748)の一部としてイギリスとフランスで戦われた海戦を、フランスのジョンキエール提督第一次フィニステレ岬の海戦(First Battle of Cape Finisterre 1747/5/14)を戦い、勝利しました。
第一次フィニステレ岬の海戦はアンソン提督がプリンス・ジョージ号に乗艦して率いる14隻の戦列艦からなるイギリス艦隊が4/9にプリマスから出航、ド・ラ・ジョンキエール提督率いる30隻のフランス船団を攻撃し、スペインの北西、フィニステレ岬沖のビスケー湾で5時間にわたって行われた戦いで、イギリスはフランスの戦列艦4隻、フリゲート艦2隻および商船7隻を捕獲しました。その他の輸送船は捕獲を免れました。東インド貿易船も9隻が捕獲され、死傷者はフランス側が700人、イギリス側が520人でした。アンソン提督はこの勝利により海軍中将(Vice Admiral)に昇進し、爵位(Peerage)を授けられ貴族に列せられました。 爵位の親授式

ヴァ−ジン諸島 1980 発行
・その後
1756年に七年戦争(1756-1763)が勃発。
1755/9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争(1754-1763)が始まり、フランスとイギリスとの対立はヨーロッパにも飛び火し、この機に乗じてオーストリアがプロイセン(Prussia:ドイツ)との戦争を始める情勢となり、その開戦前にプロイセンのフリードリヒ大王(フリードリヒ2世:Friedrich II., 1712-1786)が、1756/8/29に先制攻撃して、ザクセン・オーストリア軍を撃破。一方、プロイセンの同盟国イギリスは戦争の準備をしていなかったので、初期には苦戦となり、地中海ではミノルカ島をフランスに奪われ、北米ではオンタリオ湖畔のオスウェゴ要塞などを失いました。

1756/6/29、ミノルカ島セント・フィリップ砦の包囲攻撃戦(Siege of Fort St Philip 1756/4-6/29)
      で、英が敗れて、仏がミノルカ島を占領。
1756/8/14、オスウェゴ要塞の戦い(Battle of Fort Oswego 1756/8/10-14)で英が敗れる
その後、ラゴスの海戦とキブロン湾の海戦でイギリスがフランスに勝利して制海権を握り、フランスはイギリスに制海権を握られたので、植民地に増援部隊を送ることができず、北米やインドでの攻防戦で弱化しました。アンソン提督は1757年に海軍大臣(First Lord of the Admiralty 1757-1762)に任命されて、数々の作戦を指導しました。
1759/08/18、ポルトガル南岸のラゴス沖でのラゴスの海戦(Battle of Lagos -8/19)で英仏艦隊
      が激突、イギリスが勝利。(英:戦列艦14隻、仏:戦列艦12隻)
1759/11/20、フランスのブルターニュ南部ビスケー湾に面するキブロン湾でのキブロン湾の海戦
      (Battle of Quiberon Bay)で英仏艦隊が激突、イギリスが勝利
      (英:戦列艦24隻・フリゲート艦5隻、仏:戦列艦21隻・フリゲート艦6隻)。
1760迄に、英が仏からカナダセネガルグアドロープを奪う
1761/6月、アンソン提督が艦隊司令官(Admiral of the Fleet)となる
1761/4/07、キブロン湾南のベル・イル島(Belle Ile)を英が占領(-6/8)
1762/6/06、アンソン提督が亡くなる
1762/8/13、ハバナの戦い(Battle of Havana 1762/6/6-8/13)で英がスペインに勝利して
      キューバのハバナを占領。(西インド作戦:West Indies Campaign 1759-1763)
1762/9/24、マニラの包囲攻撃戦(Seize Manila -10/6)で英がスペインに勝利して
      フィリピンのマニラを占領。(英西戦争:Anglo-Spanish War 1761-1763)
1763/2/10、英仏間でパリ条約が締結され、7年戦争が終結。イギリスはフランスからカナダを獲得、
      北米全土がイギリス領となりました。

アンソン提督は海軍大臣を5年間勤め、1762年に65才で亡くなりました。7隻のイギリス軍艦がアンソン号(HMS Anson)と名付けられました。

参考:〜
第一次フィニステレ岬の海戦」(1747/5/14)での英仏両軍の艦隊編成:〜
イギリス艦隊:〜戦列艦14隻、他3隻
 ・プリンス・ジョージ号、旗艦、アンソン提督、座乗
  (HMS Prince George:90-g、 second rate ship of the line、1546t)
 ・デヴォンシャー号、ウォーレン少将(Rear-Admiral Sir Peter Warren, KB 1703-1752)座乗
  (HMS Devonshire:66-g、 1741 proposals 66-gun third rate ship of the line、1471t)
 ・ネイマー号(HMS Namur:74-g)
 ・モンマス号(HMS Monmouth、64-g third rate ship of the line、856t)
 ・プリンス・フレデリック号(HMS Prince Frederick:64-g)
 ・ヤーマス号(HMS Yarmouth:64-g)
 ・プリンセス・ルイーザ号(HMS Princess Louisa:60-g)
 ・ノッティンガム号(HMS Nottingham:60-g)
 ・ディファイアンス号(HMS Defiance:60-g)
 ・ペンブローク号(HMS Pembroke:60-g)
 ・ウィンザー号(HMS Windsor:60-g)
 ・センチュリオン号(HMS Centurion、50-g、fourth rate ship of the line、1005t)
 ・フォークランド号(HMS Falkland:50-g)
 ・ブリストル号(HMS Bristol:50-g)
 ・アンバスケード号(HMS Ambuscade:40-g、フリゲート艦)
 ・ファルコン号(HMS Falcon:10-g、スループ艦)
 ・ヴァルカン号(HMS Vulcan:8-g、火船)

フランス艦隊:〜戦列艦14隻とフランス輸送船団30隻
 ・ディヤマン号(Diamant:30/56-g)※、捕獲された後沈没
 ・フィリベール号(Philibert:30-g)※、捕獲される
 ・ヴィジラン号(Vigilant:20-g)※、捕獲
 ・シメール号(Chimere:36-g)
 ・リュビ号(Rubis:52-g)、捕獲
 ・ジャソン号(Jason:50-g)、捕獲
 ・セリユー号(Serieux:64-g)、旗艦、ジョンキエール乗艦、捕獲後(HMS Intrepid 1747)
 ・アンヴァンシーブル号(L'Invincible:74-g、1793t、旧英国艦(HMS Invincible)、捕獲
 ・アポロン号(Apollon:30-g)※、捕獲
 ・テティス号(Thetis:22-g)※、捕獲
 ・モデスト号(Modeste:18-g)※、捕獲
 ・グロワール号(Gloire:40-g)、グラス乗艦、捕獲
 ・エムロード号(Emeraude):40-g
 ・ダートマス号(Dartmouth:18-g)※、イギリス私掠船を捕獲した船、捕獲
 ・輸送船団30隻の内、6隻捕獲
  ・※捕獲はイギリスによるもの、※印はフランス東インド会社の船。

参考HP〜
アンソンの使用した南米南端の地図
ファン・フェルナンデス諸島の場所地図:〜
  チリ沖約670Kmの太平洋上のロビンソン・クルーソー島(旧名マスティエラ島)、セルカーク島、
  サンタ・クララ島の3つの島から成り、チリ領の岩肌がむき出した地形の火山性の諸島。
グレートヘイウッドの地図
ジェンキンスの耳戦争の地図
ヴァルディヴィアの地図(Valdivia, Chile)
テニアンの地図
マカオの地図
エスピリトウサント岬の地図
虎門(コモン)の地図
ジャヴァ島の地図
スピットヘッド海峡ポーツマス港の地図
フィニステレ岬の地図

こちらで
サフレン提督
東海道53次日本
世界遺産
富士山 (日本)
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/9/24、12/9/20 令和 R.3/12/25(2021)
スタンプ・メイツ
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