レバノン Repablic of Lebanon |
LIBAN 白い色の所がレバノン共和国の領土 |
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地中海 | シリア領 | ||||
レバノン 1961/2 発行 | |||||
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地中海の航路地図 フェニキア人の交易路 レバノン 1966/9/25 発行 |
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第1次世界大戦(1914〜1918)後にフランス領シリアとなり、第2次世界大戦(1939〜1945)中の1943/11/22にフランス領から独立。 ・面積=10,400 km2(日本の秋田県は11,612 km2)。 ・2004年の人口=3,772,218人推計。(日本の秋田県は1,22616人=2007/9/1) ・首府は ”ベイルート” で、通貨は レバノン・ポンド。 参考=〜 ・レバノンの内戦による荒廃、 第二次世界大戦中にレバノンは独立を達成し、金融・観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させました。ベイルートは「地中海の真珠」と言われる美しい街だった時代がありました。1970年のPLOの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐。1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となりました。混乱の中で、周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終結後も断続的に紛争が続いたため、国土は非常に荒廃してしまいました。また、シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど過激派が勢力を伸ばしました。 ・PLOについて、 PLO(Palestine Liberation Organization、パレスチナ解放機構)は1964年5月の第一回アラブ首脳会議で成立したアラブ連盟によって設立され、イスラエル建国で難民となったパレスチナ人(パレスチナのアラブ人)の対イスラエル闘争の統合組織となり、反イスラエルの中心勢力となりました。1967年の第三次中東戦争がアラブ諸国側の敗北に終わると、ゲリラ組織や労働運動組織などを主体とするパレスチナ人の民衆的運動として再編され、ヨルダンで反イスラエル闘争を行ってイスラエルの越境攻撃を撃退するなどの大きな戦果をあげてパレスチナ人の間に名声を高めていたファタハが加入。1969年2月にファタハの指導者ヤーセル・アラファートがPLO第3代議長に就任して、ファタハを中心に機構を再整備、実質上のパレスチナ亡命政府となりました。拠点ははじめヨルダンのアンマンにありましたが、ファタハがたびたびイスラエルに対するテロ事件を起こしたことから、1970年9月にはヨルダンがPLOを攻撃する内戦が発生、ヨルダンは非難されて孤立し、PLOはレバノンに逃れ、後のレバノン内戦の引き金となりました。 1970/9/14のブラック・セプテンバーでヨルダンを追われ、活動の拠点をレバノンのベイルートに移しました。1974年には国際連合総会オブザーバー資格を手に入れてアラファート議長が国連本部で演説を行い、パレスチナを公的・国際的に代表する機関として国際的な認知を得ました。しかし、1982年のレバノン戦争でレバノンにイスラエルが侵攻してきたため、レバノンを追われて本部を再びベイルートからチュニジアのチュニスに移しました。しかし、1990年のイラクのクウェート侵攻に始まる湾岸戦争では、イラクのサッダーム・フセインがPLOの支持を打ち出し、PLOの側もイラクに近い動きを見せたため、国際的にイラク寄りとみなされて孤立。イラクと対立するペルシア湾岸諸国からの援助を打ち切られて財政的にも苦境に陥いりました。1993/8/20のオスロ合意の結果、PLOは武装闘争路線の放棄を約束し、イスラエルとの間にパレスチナ暫定自治協定を締結。1994年にはアラファート議長はイスラエルのイツハク・ラビン首相とともにノーベル平和賞を受賞。暫定自治のためのパレスチナ自治政府はPLOを基盤に設立され、その元首(大統領)にはPLOのアラファート議長が就任しました。 参考HP〜レバノンの地図(位置) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 07/10/25 |