★日 本 |
徳川家康 1598〜1616 朱印船貿易 |
大航海物語★ |
徳川家康公の肖像画 (狩野山雪筆) レソト 2001/5/31 発行 |
日本 Nippon 御朱印船 昭和50年1975/9/25 発行 |
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MACAU 南蛮人の交易 マカオ 1991/11/16 発行 |
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LESOTHO 南蛮人の戦い(Battle of Lepanto)になぞらえて描かれた 関ヶ原の合戦(1600)図 (諸説有) (香雪美術館蔵・重要文化財、日本人作画の部分図) 大将が輿では無く馬車に乗っている Phila Nippon '01、Japan. Circa 1600-14(頃) レソト 2001/5/31 発行 |
日本 Nippon 江 戸 城 日本 2003/5/23 発行 |
日本郵便 日光東照宮の陽明門 日本 1952-59 発行 |
家康の武将 本多平八郎の肖像画 平八郎(忠勝:1548-1610) 東京大学史料編纂所蔵 |
鎖国した家光の乳母(春日局)の養義父 稲葉一徹の肖像画 一徹(良通:1515-1589) 妙心寺、長谷川等伯(1539-1610)筆 |
細川ガラシャ夫人の義父 細川幽斎の肖像画、1612作 幽斎(藤孝:1534-1610) 京都市天授庵蔵 |
Phila Nippon '01、Japan's Golden Age. Thw Momoyama Era (1573-1615) レソト 2001/5/31 発行 |
徳川家康 (とくがわ いえやす) 1543/1/31(天文11/12/26)〜1616/6/1(元和2/4/17) 幼名:松平竹千代 弘治元年(1555)元服:松平次郎三郎元信、その後:松平蔵人佐元康 永禄6年(1563):松平家康 永禄9年(1567)勅許:徳川家康、江戸時代の初代将軍(在職期間:1603〜1605) ▼生立ちの記 徳川家康は戦国時代の真っ只中の中期(室町時代末期)、天文11年(1542)に松平宗家8代当主で三河の岡崎城(愛知県岡崎市康生町)主の松平広忠(1526-1549)の嫡男(長男)で、広忠正室の「於大の方」(1528-1602)を母として、岡崎城で誕生し、幼名は竹千代でした。母の父:水野忠政(1493-1543)没後の後継者で母の兄の信元(?-1576)が松平家の主君、今川家と絶縁して織田家に従い、母は今川家に配慮した広忠により離縁されて実家水野家の三河刈谷城(愛知県刈谷市)に返され、竹千代は幼くして母と生き別れとなりました。 ▼人質の記 当時の松平氏は弱小な一地方豪族(国人)でしたが、天文16年(1547)に今川氏と対立する戦国大名の織田信秀(信長の父、1510-1551)が大軍を岡崎に送って総攻撃の動きをみせると、広忠は今川義元(1519-1560)に援軍を求め、義元は人質を要求し、広忠は竹千代を駿府に送りました。ところが、その途中の三河田原城(愛知県田原市田原町巴江)にて義母の田原御前(?-1571)の父で護送役の田原城主戸田宗光(1439頃-1508)の裏切りにより、竹千代は織田氏へ銭千貫文で舟で送られ、一時は斬首されようとしましたが生母の懇願などで、その人質となり、そのまま織田氏の元(万松寺)で数年を過ごして、織田信長に出会いました。戸田宗光は義元に天文16/8月(1547)末から攻撃され、9/5に田原城が落城して織田軍が西三河から撤退するきっかけとなりました(織田家人質、1547-1550)。天文18年(1549)には父の忠広は家臣の岩松八弥(?-1549)に暗殺されました。その後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広(?-1574)との人質交換という形で、あらためて今川氏へ送られました(天文18/11/8)。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごし、竹千代は元服して名を次郎三郎元信と改め、正室の瀬名(築山殿、1542頃-1579/9/19)と結婚し、さらに蔵人佐元康と名を改めました(今川家人質、1550-1562)。永禄元年(1558)には織田氏に寝返った寺部城(愛知県豊田市寺部町)主の鈴木日向守重辰(?)を松平重吉(1498-1580)らとともに攻め、それが初陣になりました。 ▼桶狭間の合戦 永禄3/5/19(1560/6/12)に桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれた時、松平元康は今川軍本隊とは別働で前線の尾張大高城(名古屋市緑区大高町)で休息中でしたが、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入城すると、祖父・清康の代で確立した三河(愛知県東部)の支配権回復を志し、今川氏から独立。藤波畷の合戦(永禄4/9/13:1561、東条城(愛知県西尾市吉良町駮馬字城山)を攻略)などに勝利して、西三河の諸城を攻略しました。永禄5年(1562)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元(?-1576)の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真(1538-1615)と決別、断交して清洲城(愛知県清須市朝日城屋敷)で信長と同盟を組びました(清洲同盟、1562-1582)。 ▼三河一向一揆(家康の三大危機の最初の一つ) 永禄6年(1563)には義元からの「元」の字を返上して元康から家康と名を改め、信長の盟友(客将)として、三河から遠江(静岡県西部)に版図を広げていきました。西三河を平定しかけた頃、西三河で家康の三大危機の一つの三河一向一揆(1563-1564)が勃発するも、苦心の末にこれを約半年で鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進め、東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除して、三河への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡(愛知県東部)を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河を統一しました。この年、朝廷から従五位下「三河守」の叙任を受け、松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となりました。 ▼武田信玄の駿河侵攻開始
▼姉川の合戦に勝利 永禄11年(1568)に信長が室町幕府13代将軍足利義(1536-1565)の弟の義昭(1537-1597:室町幕府第15代征夷大将軍:在任:1568-1588)を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣。元亀元年(1570)に岡崎から遠江の曳馬(後の浜松城)に移ると、そこを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城としました(1570-1586)。今川氏真(1538-1615、江戸幕府で高家となる)を浜松城に迎え庇護。また、信長の越前・朝倉攻め(1570/5/24-6/3)での金ヶ崎崩れの撤退で殿軍をつとめ、その後に起こった朝倉義景(1533-1573/9/16)・浅井長政(1545-1573/9/26)の連合軍との姉川の合戦(1570/7/30、滋賀県長浜市野村町付近)に勝利して、信長を助けました。後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め信長包囲網(永禄12/1/14(1569)第1次〜3次)の殿中御掟から信長没(1582)迄)を形成した時、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めるも、家康はこれを黙殺して信長との同盟関係を維持しました。 徳川氏と武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んでいたとされるも、永禄11年(1569)には信濃(長野県と岐阜県中津川市の一部)から武田家臣の秋山虎繁(信友:1527-1575)に遠江への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真(1538-1615)と和睦すると北条氏康(1515-1571)の協力を得て武田軍を退けて武田氏とは完全に手切となりました。家康は北条氏と協調して武田領を攻撃するも、武田氏は元亀2年(1571)末に北条氏との甲相同盟(1571-1578)を回復すると駿河今川領を確保し、元亀3/10月(1572)には徳川領である遠江・三河への侵攻を開始しました。 武田氏は織田氏とは友好的関係でしたが、信長と反目した将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を迎合して信長包囲網に加わり挙兵すると、信玄は元亀3/10月(1572)に遠江・三河に侵攻し、これにより武田氏と織田氏は手切となりました。家康は織田氏に援軍を要請するも、織田氏も信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなりました(武田氏との合戦)。 ▼三方ヶ原の敗戦(家康の三大危機の二つ目) 遠江に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で本多忠勝(1548-1610)の奮戦も虚しく敗走(一言坂の合戦、元亀3/10/13(1572)静岡県磐田郡豊田町一言)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定して、12月に二俣城は落城(二俣城の合戦、元亀3/10/16-12/19(1572)静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)。ようやく信長から佐久間信盛(1528-1582)、平手汎秀(1553-1573)率いる援軍が送られてきた頃、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づき、籠城せずに武田軍を追撃した結果、重臣や家臣、織田援軍の武将など1,000人以上の死傷者を出して徳川・織田連合軍は家康の三大危機の一つの三方ヶ原の合戦((元亀3/12/22/日(1573/1/25)静岡県浜松市北区三方原町近辺)に惨敗。家康自身は家臣の身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰りました。武田勢に浜松城まで追撃されるも、帰城して「空城計」などを用いて武田軍にそれ以上の追撃を断念させました。
▼嫡男・松平信康の自刃 また同じ頃、信長から正室の築山殿と嫡男の松平信康(1559-1579/10/5)に対して武田氏への内通疑惑がかけられました。家康は酒井忠次(1527-1596)を使者として信長と談判させるも、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達されました。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させました(松平信康自刃事件、1579/10/5)。 長篠の合戦以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は織田氏との和睦(甲江和与)を模索するも信長はこれを封殺。天正10/2月(1582)に信長は家康と共同で武田領へ本格的に侵攻。天正10/2/14に浅間山が噴火。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪:1541-1582)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保。勝頼一行は同年3月に天目山の合戦(1582/3/11、山梨県甲州市(旧大和村)木賊及び田野にある峠)に敗れて自害(1582/4/3)して武田氏が滅亡。家康は3/10に梅雪とともに甲府へ着陣。信長は甲斐の仕置を行うと中道往還の街道をを通って帰還(武田征伐)。家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営。信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊。また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔し、後に家康の参謀として秀吉死後の天下取りや豊臣氏滅亡などに暗躍した本多正信(1538-1616)が、徳川家に正式に帰参。 ▼本能寺の変(天正10/6/2、1582/7/1)と伊賀越(家康の三大危機の三つ目) 天正10/5月(1582)に家康は駿河拝領の礼のため信長の居城の安土城を訪れた後、6/2に堺を遊覧中に京で本能寺の変(京都市中京区、当時は現:下京区内)が起こり、信長が明智光秀(1528頃-1582/7/2)の謀反で本能寺を襲撃され自害、京都の妙覚寺に居た嫡男の信忠(1557-1582/7/1)は隣の二条新御所で光秀勢と戦い自害しました。この時、家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は信長の後を追おうとするも、本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵(1542-1597)の進言を受け、伊賀の険しい山道を越え加太越(三重県伊賀市と同県亀山市の間にある峠)を経て伊勢から海路で三河に辛うじて戻りました(神君伊賀越え)。その後、家康は光秀を討つために軍勢を集めて尾張まで進軍するも、中国大返しで備中の高松城(岡山市北区)から山城の山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200kmを踏破(1582/6月-7月の約10日間)、中国地方から急遽、戻った羽柴秀吉(1537-1598:後の豊臣秀吉)に光秀がすでに討たれたことを知りました。 ▼天正壬午の乱 信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と信濃では大量の一揆が起こり、さらに越後の上杉氏、相模の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せ、旧武田領全土を委任されていた上野の滝川一益(1525-1586)は、旧武田領を治めてまだ3ヵ月程しか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、緊迫した状況でした。その上に織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直(1562-1591)率いる6万の軍が襲来。滝川一益は北条氏直を迎撃するも、神流川の合戦(天正10/6/16(1582/7/5)-6/19(7/8)で敗北、尾張まで敗走。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐に攻め入りました(天正壬午の乱:天正10年:1582/6月〜1582/10/29)。 ▼北条氏と和睦(5ヵ国を領有する大々名となる) 北条氏直が甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見て、叔父・北条氏規(1545-1600)や北条氏照(1540-1590)ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠で標高約960m)を越えて信濃に侵攻。北条軍は上杉軍と川中島(長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯)で対峙した後に和睦し、南へ進軍。徳川軍は、その北条軍と新府城(山梨県韮崎市中田町)、若神子(山梨県北巨摩郡須玉町若神子)で対陣。それで徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈するも、黒駒の合戦(天正10/8/12)で小山城(山梨県笛吹市八代町東小山)からの徳川軍(鳥居彦右衛門元忠:1539-1600)が、御坂城(笛吹市御坂町上黒駒)からの北条軍(北条左衛門佐氏忠(?-1593)に勝利などと、依田信蕃(1548-1583)の調略を受けて真田昌幸(1547-1611)が徳川軍に寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は家康に和睦を求め、和睦の条件は上野を北条氏が、甲斐・信濃を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫(1565-1615)が氏直に嫁ぎ、和議がなりました(天正10/10/29)。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヵ国を領有する大々名になりました。 ▼織田家の清洲会議 信長没後の天正10年に尾張の清洲城(愛知県清須市)で開催された織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議の清洲会議(1582/7/16)には、織田家々臣の柴田勝家(1522頃-1583)、丹羽長秀(1535-1585)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、池田恒興(1536-1584)の4人が集まり、滝川一益は関東地方へ出陣中の上に直前の神流川の合戦での敗戦を口実に、参加を拒まれました。織田家の後継者問題は信長の三男・織田信孝(1558-1583:欠席)を擁立する勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信:1580-1605)を秀吉が、その軍師の黒田孝高(官兵衛:1547-1604)の尽力で他の宿老たちにも根回してから擁立したのと対立が起こるも、秀吉は光秀討伐の功労者であり、長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強い三法師が後継者として決まり、秀吉はその後見人となりました。領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝(1568-1586)は明智光秀の旧領である丹波を相続。家臣団へは勝家が越前を安堵の上で、勝家の希望から秀吉の領地である長浜城(滋賀県長浜市公園町)と北近江3郡を割譲され、長秀が若狭を安堵の上で近江の2郡を、恒興は摂津から3郡を、それぞれ加増され、新当主である三法師は近江の坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城が与えられました。それで、織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられ、この時の対立が翌年の賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の合戦となりました。 ▼賤ヶ岳の合戦 ・秀吉(丹羽長秀・信雄)と勝家(滝川一益・信孝)の対立 秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門・浅野長政などをすえたので、勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱きました。この後、双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うも、北陸の柴田氏の後方にある上杉景勝(1556-1623)や、信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄(1515-1589)が、秀吉になびくなどやや秀吉に有利な状況になりました。一方で勝家は四国の長宗我部元親(1539-1599)や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉の岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしました。
翌天正11/正月(1583)には、伊勢の滝川一益が柴田勝家への味方を明確にして挙兵し、関盛信(?-1593)・一政(1564-1625)父子が不在の隙に亀山城(三重県亀山市本丸町)、峯城(亀山市川崎町森字殿町)、関城(岐阜県関市)、国府城(三重県鈴鹿市国府町字長ノ城)、鹿伏兎城(三重県亀山市加太市場)を調略。亀山城に滝川益氏(1527-1635)、峯城に滝川益重(1523-1592)、関城に滝川忠征(1559-1635)を置き、自身は長島城(三重県桑名市長島町)で秀吉を迎撃。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退くも、翌月には大軍を率いて攻撃を再開、国府城を落とし(天正11/4/11)、4月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃するも、滝川勢の抵抗は頑強で、亀山城は4/24、峯城は6/4まで持ち堪え、城兵は長島城に合流して籠城。 越前の北ノ庄城(福井県福井市)の柴田勝家は雪のため動けずにいるも、これらの情勢に耐え切れず、ついに天正11/2月末(4/19)、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣して、前田利家(1538年-1599)、佐久間盛政(1554-1583)ら3万の軍勢を率いて近江の柳ヶ瀬(長浜市余呉町柳ヶ瀬)に到着し、布陣(天正11/5/3)。 一方、一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、5万の兵力を率いて木ノ本(滋賀県長浜市木之本町木之本)に布陣(5/10)。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築。また丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出し、戦線は膠着して、秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還(5/18)し、伊勢と近江の2方面に備えました。ところが、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出(6/6)。これで秀吉は近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられましたが、秀吉が近江から離れたのを好機と見た勝家は攻撃に出て攻勢を強め、大垣城(岐阜県大垣市郭町)にいた秀吉は敗報に接し急遽「美濃返し」で木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動。賤ヶ岳砦の攻防戦が始まり、両者一進一退する内に、勝家麾下でも、秀吉とは信長の部下時代からの親友の前田利家(1538-1599)の軍勢が突如戦線を離脱し、賤ヶ岳の七本槍などで賤ヶ岳の合戦(天正11/4/20)に勝利し、柴田勝家の軍勢は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城に向けて退却しました。(日付は諸説有) ・北ノ庄城、岐阜城、長島城の落城と信孝自害 勝家は北ノ庄城で天正11/4/23に前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲(1583/6/13)され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害(4/24)しました。また佐久間盛政は逃亡するものの捕らえられて斬首され、首は京の六条河原でさらされ、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張の内海(愛知県南知多町)に移され、信雄の使者より切腹を命じられて自害(1583/6/19)。残る伊勢方面の滝川一益は長島城でさらに一ヵ月篭城し続けるも開城、剃髪のうえ出家し、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居。 これらの戦いは柴田勝家と滝川一益に対して、羽柴秀吉と丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長次男の北畠信雄と三男の神戸信孝の対立でもありましたが、この合戦の結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになり、秀吉はまもなく畿内の石山本願寺跡(大阪市中央区大阪城)に大坂城の築城を開始し、秀吉のもとに徳川家康はじめ、上杉景勝(1556-1623)、毛利輝元(1553-1625)、大友義統(1558-1610)など各地の戦国大名が相次いで使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めました。 ▼小牧・長久手の合戦(1584/3/7-5/16) こうして信長没後に秀吉(豊臣秀吉)が畿内の権力を掌握して織田家は瓦解し、秀吉の天下取りが確実となりましたが、信雄(北畠)は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁するも、賤ヶ岳の合戦後の織田政権においては信忠の嫡男の三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗しました。天正12/3月(1584)に信雄が、秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3/13に尾張へ出兵し、信雄と合流。当初、両勢は北伊勢方面に出兵するも、3/17には徳川軍の酒井忠次(1527-1596)が羽黒の合戦(天正12/3/17)で秀吉方の森長可(1558-1584)を奇襲・撃破、家康は3/28に尾張の小牧山(愛知県小牧市標高86m)着陣。
▼秀吉の没後 豊臣秀吉の没後、内大臣の家康が朝廷の官位で最上位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになり、家康は参謀の本多正信(1538-1616)の献策に従い天下人への道を歩みだし、生前の秀吉が文禄4/8月(1595)に禁止した大名家同士の婚姻を5組も行い、婚約した娘は全て家康の養女としました。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成(1560-1600/11/6)らより「専横」との反感を買い、慶長4/1/19(1599)家康に対して三中老の堀尾吉晴(1544-1611)らが問罪使として派遣されるも、吉晴らを恫喝して追い返しました。利家らと家康は2/2には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することで、この一件は和解となりました。3/3に利家が病没すると、3/4に福島正則(1561-1624)や加藤清正(1562-1611)ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が勃発。三成は佐竹義宣(1570-1633)の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れ、家康の仲裁により三成は奉行を退き、大阪を退去して、家康の次男・結城秀康の護衛で佐和山城(滋賀県彦根市の佐和山)に行き蟄居しました。家康は公平な措置で三成を失脚させて、評判が高まりました。9/7に「増田長盛(1545-1615)・長束正家(1562頃-1600)両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とし、9/9に大阪城に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べ、9/12には三成の兄・石田正澄(1556-1600)の大坂屋敷に移り、9/28に大坂城西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなりました。9/9に登城した際、前田利長(1562-1614)・浅野長政(1547-1611)・大野治長(1569-1615)・土方雄久(1553-1608)の4人が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10/2に長政を甲斐の府中で隠居の上で蟄居させ、治長は下総の結城秀康のもとに、雄久は常陸の水戸の佐竹義宣のもとへ追放。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するも、利長が生母・芳春院(1547-1617)を江戸に人質として差し出したことで出兵は中止し、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされました。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し挙兵しようとする三成らの謀略であったとも言われています。またこの頃、秀頼の名のもと豊臣氏の直轄領の蔵入地を諸大名、対馬の宗義智(1568-1615)、遠江の堀尾吉晴、薩摩・大隅の島津義久(1533-1611)に加増し、美濃の森忠政(1570-1634)を信濃に加増移封、丹後の細川忠興(1563-1646)に豊後・杵築6万石を加増しました。 ▼関ヶ原の合戦 秀吉没後の慶長5/9/15に美濃の関ヶ原の合戦(1600/10/21、岐阜県不破郡関ケ原町)に勝利して、その覇権を決定づけました。
要請などを決定 7/17、毛利輝元が大坂城西の丸に入城、西軍の総大将に就任。三成が挙兵宣言を発し、会津征伐 に従軍していた諸大名妻子の人質作戦を発動し、西軍は毛利秀元(1579-1650)の伊勢攻略 戦、小野木公郷(重勝:1563-1600)の丹後攻略戦、大谷吉継の越前・加賀攻略戦を実施 7/18、伏見城の合戦(-8/1、京都市伏見区桃山町) 4万の大軍に攻められ、鳥居元忠(1539-1600/9/8)らの奮戦むなしく陥落 7/19、家康が秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣する 7/19、田辺城の合戦(-9/13:1600/8/27-10/12、京都府舞鶴市) 丹波福知山城主小野木重次(1563-1600)、亀岡城主前田茂勝(1582-1621年)らの西軍 15,000が、田辺城に籠城する東軍細川幽斎(1534-1610)を攻め、9/13勅命で降伏・開城 7/21、家康が江戸城から出陣して会津に向かう 7/24、家康が下野の小山(栃木県小山市)で鳥居元忠の急使により三成らの挙兵を知る 7/24、白石城の合戦(宮城県白石市) 上杉氏城代甘粕景継(1550-1611)甥の登坂勝乃(?)が代理で守備するのを 伊達政宗(1567-1636)が攻撃して勝利 7/25、小山評定(栃木県小山市)、 家康が諸将を集めて軍議を開き、東軍を結成し西軍攻めを決定 景勝に対しては結城秀康の軍勢を抑えとして残し、 家康は反転西上して三成らの討伐に向かう 7/26、浅井畷の合戦(-8/9) 前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制 圧すべく大軍を率いて、7/26小松城の包囲攻撃(石川県小松市丸の内町)で前田利長軍 25,000人が丹羽長重3000人を落せず、西軍の山口宗永(?-1600/9/10)の2,000人に向かい、 8/2に大聖寺城の包囲攻撃(石川県加賀市大聖寺町)で宗永・修弘(?-1600/9/10)親子が自害 して落城、8/8利長は軍勢を金沢に戻すことにし、そこへ丹羽長重が浅井畷(石川県小松市大 領町)で待ち伏せ攻撃、前田軍は大被害を受けるも金沢に撤退を完了 8/10、福島正則が居城の尾張清洲城に入る 8/14、東軍諸将の多くが清洲城に集結 8/21、清洲城から木曽川の渡河口に到着した福島正則ら16,000人、池田輝政ら18,000人の東軍と 岐阜城の織田秀信ら西軍9千人が、まず木曽川で激突 ・河田(こうだ)の渡し、池田輝政・浅野幸長ら18,000 ・下流の起(おこし)の渡し、福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・ 田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16,000人 8/22明方、河田木曽川渡河の合戦で池田輝政、浅野幸長、山内一豊率いる東軍1万8千人が西軍の 鉄砲隊を撃破して木曽川を渡河 8/22日昼、米野の合戦で米野村の西軍3千人に対し輝政が1万8千人で攻撃、 夕方に飯沼長資は戦死、百々(どど)綱家(1548頃-1609)ら残存兵は岐阜城へ後退 8/22、竹ヶ鼻城の合戦(岐阜県羽島市竹鼻町)で正則16,000が攻撃、正則と旧知だった二の丸の毛 利 広盛(1533-1616)は勧告を受けて降伏、孤立した本丸の杉浦重勝は城に火を掛け自刃 8/23、合渡川の合戦 黒田長政や藤堂高虎、田中吉政らを大将にした一軍16,000が大垣城の東にある合渡川に進 出、合渡川の西軍部隊は黒田軍の襲来で破られ、黒田軍らはそのまま合渡川を渡河して大 垣城から西北に約4キロ余の赤坂を占領し、8/24には岐阜城を落とした軍勢も集結 8/23、岐阜城の合戦(岐阜県岐阜市の金華山) 西軍の織田秀信6,000人を東軍35,000人が総攻撃して落城、秀信は降伏 9/01、八幡城の合戦(岐阜県郡上市八幡町柳町、-9/4)、美濃の郡上郡八幡城で城主の遠藤慶隆 (1550-1632)金森可重(1558-1615)と稲葉貞通(1546-1603)遠藤胤直(?-1604)との攻防戦で 赤谷の慶隆軍、援軍の可重軍、五町山の金森軍別働隊が3方から八幡城を攻撃、激戦となる 9/02、慶隆と貞通間で和議なるも、八幡城の危急を知った犬山の貞通、長子の典通(1566-1626)、 中山城(岐阜県郡上市八幡町相生)主の稲葉忠次郎が八幡へ急行 9/03未明、貞通、典通、次郎が霧中の八幡へ到着、愛宕山の遠藤勢を稲葉勢が急襲、激戦となる 9/04、慶隆と貞通間で再度の和議がなり、貞通は降伏し伊勢に退き、慶隆は兵を東美濃に戻す 9/05、慶隆が西軍に寝返り上ヶ根城に籠城の胤直を攻撃、胤直は降伏 9/07、大津城の合戦(滋賀県大津市浜大津、-9/15) 大谷吉継の北陸方面軍の近江大津城主の京極高次(1563-1609)が、吉継が北陸から美濃へ と転進するうちに突如東軍に寝返って手勢3,000人で大津城に籠城、西軍は毛利元康を大将 に立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら総勢15,000人で大津城に包囲攻撃を開始、 9/13に砲撃で天守を破壊、9/15に降伏し高次は高野山で出家する 9/08、第二次上田合戦(9/4-9/8)、 徳川秀忠の3万8000人が中山道を真田父子が立て篭もる上田城に迫り降伏勧告するも返事 を3日間引き伸ばされた東軍の牧野康成の手勢が上田城下の稲の刈り取りを始め、苅田を 阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出し、後備えの本多忠政隊が襲い、真田勢は 上田城へ逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃して上田城の大手門前まで迫るも、城 内からの猛反撃、染谷台北東から信繁隊200が秀忠本陣に奇襲して秀忠は馬で小諸へ逃亡、 神川の上流での塞き止め堤防を決壊する水攻めなどで真田勢の大勝利となる、 9/20に大津に到着するも家康は面会を拒否(秀忠の遅参) 9/08、慶長出羽合戦(東の関ヶ原、上杉軍と最上・伊達連合軍) 上杉軍が米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始 9/29、上杉軍は関ヶ原での西軍の大敗を知って撤退を開始、 最上勢は全戦線で反攻に転じ庄内地方を上杉氏から奪還(上杉:陸奥会津120万石から米沢 30万石、最上:24万石から出羽山形57万石、伊達:58万石から62万石となる) 9/11、江戸城から出陣した家康が清洲に到着 9/13、石垣原の合戦(-9/14、豊後国速見郡石垣原:大分県別府市) 黒田如水(1546-1604)軍9,000人と大友義統(1558-1610)軍3,000人の合戦で、如水が9/09に 中津城を出陣して豊後国に侵攻を始め、9/10夜に杵築城が大友勢に攻撃されるも勝利して杵 築勢は出撃、石垣原の大友勢と黒田一番備が激突、大友勢が勝利するも、黒田二番備と杵 築勢に打ち破られ、義統は降伏して剃髪 9/14、家康が赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)に着陣 9/14、杭瀬川の合戦(1600/10/20)、三成のいた大垣城(岐阜県大垣市郭町)と赤坂の中間にある 杭瀬川を、三成の家臣・島左近(1540-1600/10/21)と宇喜多秀家の家臣・明石全登(?)が奇襲 東軍の中村一栄(?-1604)、有馬豊氏(1569-1642)らが迎撃するも敗れ、西軍が勝利
▼大阪の役 慶長16年(1611)に二条城で秀頼と会見した家康は、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて実感することになったといわれていますが、大御所の家康は慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣氏に宣戦布告し、大坂冬の陣(1614)、大坂夏の陣(1615)でも、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、徳川幕府の統治体制を盤石なものとしました。 ・大坂冬の陣(慶長19/11月(1614)〜慶長20/5月(1615) 家康は慶長19/11/15(1614)に二条城を発して大坂城攻めの途につきました。そして20万人からな
・1614(慶長19)年 11/19、木津川口の合戦 徳川軍3,000人が大阪軍800人に勝利して木津川口砦を占領 11/26、鴫野の合戦 徳川軍6,300人が大阪軍2,000人と援軍12,000人に勝利して鴫野(しぎの)を占領 11/26 、今福の合戦 徳川軍1,500人と援軍1,000人が大阪軍600人と援軍3,000人と戦うも決着つかず 11/29、博労淵の合戦 徳川軍5,300人が大阪軍700人に勝利して博労淵を占領 11/29、野田の合戦(11/28)・福島の合戦(11/29) 徳川軍6,600人が大阪軍3,300人に勝利して野田・福島を占領 12/04、真田丸の合戦 徳川軍26,000人が真田丸を攻撃するも大阪軍17,000人に敗れて、退却 12/16、大阪城本丸砲撃で淀殿の侍女8人が死亡し、和議交渉が始まる 12/20、誓書が交換され和平が成立、砲撃が止む。その後に家康は駿府城に戻る 01/23、外堀の埋め立てと、三の丸・二の丸の破壊が完了し、諸大名は帰国の途に就く
徳川方15万5千を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、 紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じる 4/29、樫井の合戦 和歌山城を出発した浅野軍5,000人が大阪軍3,000人に勝利 5/05、家康が京を出発 5/06、道明寺の合戦 徳川軍34,300人が大阪軍18,400人に勝利 5/06、八尾・若江の合戦 八尾では大阪軍が勝利するも若江では敗戦 徳川軍9,500人が大阪軍6,000人に勝利 5/07、天王寺・岡山の合戦 徳川軍15万人が大阪軍5万人に勝利 5/07、深夜に大坂城が炎上、陥落 5/08、秀頼と淀殿が自害、豊臣氏が滅亡 慶長20/6/28(1615)に後陽成天皇の第八皇子・八宮良純親王(1604-1669)を家康は猶子として、元和元年/9/9(1615)に家康は禁中並公家諸法度を制定し、朝幕関係を規定、そして諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令を制定。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築きました。元和2/1月(1616)に鷹狩で倒れました。元和2/4/17巳の刻(午前10時頃)に鯛の天ぷら(食中毒説)に当って駿府城で没、享年75才。辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」、「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」が有。 こうして徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に仕えた後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱(1467-1477)から150年近く続いた戦乱の時代(戦国時代(1467(1493)-1573)、安土桃山時代(1568-1600)に終止符を打ちました。これを元和偃武(げんなえんぶ)と呼び、応仁の乱(東国では享徳の乱:享徳3/12/27(1455/1/15-文明14/11/27(1483/1/6)以来150年近く断続的に続いた大規模な軍事衝突が、慶長20年(元和元年:1615)5月の大坂夏の陣で江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼして終わりしました。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く平和な江戸時代となりました。
◆徳川家康と大航海時代 (御朱印船貿易)
1613/6/12にイギリス船としては初めて、クローブ号が平戸に入港、イギリス国王使節ジョン・セーリスがウィリアム・アダムスの通訳にて駿府で家康に謁見、イギリス商館が開設されました。このとき家康がイギリス国王に贈った国書(イギリス国王への親書)は、現在イギリスのオックスフォード大学日本研究図書館に保存されて有。 ▼家康がオランダ人ヤン・ヨーステンを謁見 家康は上記のリーフデ号の遭難で救助されたヤン・ヨーステンをも謁見し、駿府城で締結された日蘭外交交渉にて、家康は正式に平戸にオランダ商館の設置を許可しました。 ▼家康がスペイン人ドン・ロドリゴ総督を謁見 慶長14/9/3(1609/9/30)に暴風雨に遭遇したスペインのドン・ロドリゴ総督乗船の旗艦サン・フランシスコ号が遭難して、上総国岩和田村(千葉県御宿町)の田尻浜に漂着しました。大多喜城主が駿府の家康に使者を派遣し、彼らの扱いについての伺いをたて、家康は一行を駿府城に丁重に連れてくるよう命じ、イエズス会のファン・ポロタ宣教師の通訳でドン・ロドリゴ総督が家康に謁見。その後にドン・ロドリゴ総督がサン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸)で帰国する時に、家康は遣墨使節をメキシコに派遣しました。そして、家康は朱印船貿易制度(1598〜1616)で、スペイン領マニラと外交関係を樹立しました。 参考HP:〜 ・日本の地図(安土桃山時代) ・日本の古地図(江戸時代直前:天正10年頃、国別) ・御朱印船の貿易地図(17世紀南蛮貿易) ・和暦・西暦の換暦HP ・本多平八郎忠勝の肖像画(岡崎藩本多家藩祖、東京大学史料編纂所蔵) ・稲葉一徹の肖像画(京都市右京区妙心寺智勝院蔵、長谷川等伯筆) ・細川幽斎の肖像画(絹本着色細川幽斎像、京都市左京区天授庵蔵) こちらで ・家康の略年表を ・織田信長を ・豊臣秀吉をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/9/12、12/12/12 |