日本の大航海時代(3)
★日  本
徳川家康
1598〜1616
朱印船貿易
大航海物語★
LESOTHO
徳川家康公の肖像画

(狩野山雪筆)
レソト 2001/5/31 発行
日本 Nippon
御朱印船

昭和50年1975/9/25 発行
 
琉球郵便
東南アジア、中国、日本の地図


タイ

バタビ
日本



フィリピン
琉球昭和38年1963/9/16発行
MACAU
南蛮人の交易

マカオ 1991/11/16 発行

LESOTHO
南蛮人の戦い(Battle of Lepanto)になぞらえて描かれた
関ヶ原の合戦(1600)図 (諸説有)
(香雪美術館蔵・重要文化財、日本人作画の部分図)
大将が輿では無く馬車に乗っている


Phila Nippon '01、Japan. Circa 1600-14(頃)
レソト 2001/5/31 発行
日本 Nippon
江 戸 城

日本 2003/5/23  発行

日本郵便
日光東照宮の陽明門

日本 1952-59  発行

家康の武将
本多平八郎の肖像画


平八郎(忠勝:1548-1610)
東京大学史料編纂所蔵
鎖国した家光の乳母(春日局)の養義父
稲葉一徹の肖像画


一徹(良通:1515-1589)
妙心寺、長谷川等伯(1539-1610)筆
細川ガラシャ夫人の義父
細川幽斎の肖像画、1612作


幽斎(藤孝:1534-1610)
京都市天授庵蔵
Phila Nippon '01、Japan's Golden Age. Thw Momoyama Era (1573-1615)
レソト 2001/5/31 発行

徳川家康 (とくがわ いえやす)
  1543/1/31(天文11/12/26)〜1616/6/1(元和2/4/17)

 幼名:松平竹千代
 弘治元年(1555)元服:松平次郎三郎元信、その後:松平蔵人佐元康
 永禄6年(1563):松平家康
 永禄9年(1567)勅許:徳川家康、江戸時代の初代将軍(在職期間:1603〜1605)

▼生立ちの記
徳川家康は戦国時代の真っ只中の中期(室町時代末期)、天文11年(1542)に松平宗家8代当主で三河の岡崎城(愛知県岡崎市康生町)主の松平広忠(1526-1549)の嫡男(長男)で、広忠正室の「於大の方」(1528-1602)を母として、岡崎城で誕生し、幼名は竹千代でした。母の父:水野忠政(1493-1543)没後の後継者で母の兄の信元(?-1576)が松平家の主君、今川家と絶縁して織田家に従い、母は今川家に配慮した広忠により離縁されて実家水野家の三河刈谷城(愛知県刈谷市)に返され、竹千代は幼くして母と生き別れとなりました。

▼人質の記
当時の松平氏は弱小な一地方豪族(国人)でしたが、天文16年(1547)に今川氏と対立する戦国大名の織田信秀(信長の父、1510-1551)が大軍を岡崎に送って総攻撃の動きをみせると、広忠は今川義元(1519-1560)に援軍を求め、義元は人質を要求し、広忠は竹千代を駿府に送りました。ところが、その途中の三河田原城(愛知県田原市田原町巴江)にて義母の田原御前(?-1571)の父で護送役の田原城主戸田宗光(1439頃-1508)の裏切りにより、竹千代は織田氏へ銭千貫文で舟で送られ、一時は斬首されようとしましたが生母の懇願などで、その人質となり、そのまま織田氏の元(万松寺)で数年を過ごして、織田信長に出会いました。戸田宗光は義元に天文16/8月(1547)末から攻撃され、9/5に田原城が落城して織田軍が西三河から撤退するきっかけとなりました(織田家人質、1547-1550)。天文18年(1549)には父の忠広は家臣の岩松八弥(?-1549)に暗殺されました。その後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広(?-1574)との人質交換という形で、あらためて今川氏へ送られました(天文18/11/8)。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごし、竹千代は元服して名を次郎三郎元信と改め、正室の瀬名(築山殿、1542頃-1579/9/19)と結婚し、さらに蔵人佐元康と名を改めました(今川家人質、1550-1562)。永禄元年(1558)には織田氏に寝返った寺部城(愛知県豊田市寺部町)主の鈴木日向守重辰(?)を松平重吉(1498-1580)らとともに攻め、それが初陣になりました。

▼桶狭間の合戦
永禄3/5/19(1560/6/12)に桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれた時、松平元康は今川軍本隊とは別働で前線の尾張大高城(名古屋市緑区大高町)で休息中でしたが、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入城すると、祖父・清康の代で確立した三河(愛知県東部)の支配権回復を志し、今川氏から独立。藤波畷の合戦(永禄4/9/13:1561、東条城(愛知県西尾市吉良町駮馬字城山)を攻略)などに勝利して、西三河の諸城を攻略しました。永禄5年(1562)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元(?-1576)の仲介もあって、義元の後を継いだ今川氏真(1538-1615)と決別、断交して清洲城(愛知県清須市朝日城屋敷)で信長と同盟を組びました(清洲同盟、1562-1582)。

▼三河一向一揆(家康の三大危機の最初の一つ)
永禄6年(1563)には義元からの「元」の字を返上して元康から家康と名を改め、信長の盟友(客将)として、三河から遠江(静岡県西部)に版図を広げていきました。西三河を平定しかけた頃、西三河で家康の三大危機の一つ三河一向一揆(1563-1564)が勃発するも、苦心の末にこれを約半年で鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進め、東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除して、三河への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡(愛知県東部)を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河を統一しました。この年、朝廷から従五位下「三河守」の叙任を受け、松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となりました。

▼武田信玄の駿河侵攻開始
永禄11年(1568)には、甲斐の武田信玄(1521-1573)が駿河の今川領への侵攻を開始(武田氏の駿河侵攻)。家康は酒井忠次(1527-1596)を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結んで駿河侵攻に呼応。同年末からは遠江の今川領へ侵攻して曳馬城(後の浜松城、静岡県浜松市中区)を攻め落とし、軍を退かずに遠江で越年。翌永禄12年に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城(静岡県掛川市掛川)を包囲攻撃。籠城戦の末に開城勧告で氏真を降し、氏真は永禄12/1/23(1569/2/8)に開城して相模国の小田原城へ退去。こうして遠江を支配下に置きました(遠江侵攻)。武田氏の駿河侵攻に対して今川の同盟国 東海道53次・吉原の宿

シエラオーネ 1998 発行
の相模の北条氏は武田氏と対抗するも、遠江割譲を条件とする徳川と武田の同盟には摩擦が生じ、家康は駿河侵攻から離脱。信長とも良好な外交関係を持つ武田氏は家康の懐柔を図るが家康は武田との手切を表明し、以来東海地方における織田・徳川・武田の関係は、武田と織田は同盟関係にあるも徳川と武田は敵対関係で推移しました。

▼姉川の合戦に勝利
永禄11年(1568)に信長が室町幕府13代将軍足利義(1536-1565)の弟の義昭(1537-1597:室町幕府第15代征夷大将軍:在任:1568-1588)を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣。元亀元年(1570)に岡崎から遠江の曳馬(後の浜松城)に移ると、そこを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城としました(1570-1586)。今川氏真(1538-1615、江戸幕府で高家となる)を浜松城に迎え庇護。また、信長の越前・朝倉攻め(1570/5/24-6/3)での金ヶ崎崩れの撤退で殿軍をつとめ、その後に起こった朝倉義景(1533-1573/9/16)・浅井長政(1545-1573/9/26)の連合軍との姉川の合戦(1570/7/30、滋賀県長浜市野村町付近)に勝利して、信長を助けました。後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深め信長包囲網(永禄12/1/14(1569)第1次〜3次)の殿中御掟から信長没(1582)迄)を形成した時、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めるも、家康はこれを黙殺して信長との同盟関係を維持しました。

徳川氏と武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んでいたとされるも、永禄11年(1569)には信濃(長野県と岐阜県中津川市の一部)から武田家臣の秋山虎繁(信友:1527-1575)に遠江への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真(1538-1615)と和睦すると北条氏康(1515-1571)の協力を得て武田軍を退けて武田氏とは完全に手切となりました。家康は北条氏と協調して武田領を攻撃するも、武田氏は元亀2年(1571)末に北条氏との甲相同盟(1571-1578)を回復すると駿河今川領を確保し、元亀3/10月(1572)には徳川領である遠江・三河への侵攻を開始しました。

武田氏は織田氏とは友好的関係でしたが、信長と反目した将軍・義昭は朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を迎合して信長包囲網に加わり挙兵すると、信玄は元亀3/10月(1572)に遠江・三河に侵攻し、これにより武田氏と織田氏は手切となりました。家康は織田氏に援軍を要請するも、織田氏も信長包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなりました(武田氏との合戦)。

▼三方ヶ原の敗戦(家康の三大危機の二つ目)
遠江に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で本多忠勝(1548-1610)の奮戦も虚しく敗走(一言坂の合戦、元亀3/10/13(1572)静岡県磐田郡豊田町一言)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定して、12月に二俣城は落城(二俣城の合戦、元亀3/10/16-12/19(1572)静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)。ようやく信長から佐久間信盛(1528-1582)、平手汎秀(1553-1573)率いる援軍が送られてきた頃、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づき、籠城せずに武田軍を追撃した結果、重臣や家臣、織田援軍の武将など1,000人以上の死傷者を出して徳川・織田連合軍は家康の三大危機の一つ三方ヶ原の合戦((元亀3/12/22/日(1573/1/25)静岡県浜松市北区三方原町近辺)に惨敗。家康自身は家臣の身代わりに助けられて、命からがら浜松城に逃げ帰りました。武田勢に浜松城まで追撃されるも、帰城して「空城計」などを用いて武田軍にそれ以上の追撃を断念させました。

▼長篠の合戦
武田軍は浜名湖北岸で越年した後、三河への進軍を再開し、野田城の合戦(元亀4/1月-2/16(1573/1-2月)愛知県新城市豊島)で城主・菅沼定盈(1542-1604)が拘束されました。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城(愛知県新城市長篠)まで退き、信玄が亡くなって撤兵しました。家康は奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えました。武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かしました。これに対して信玄の後継者である武田勝頼(1546-1582)は抵抗し、天正2年(1574)には東美濃の明智城(岐阜県可児市瀬田長山)、遠江高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)を奪還し、家康と武田氏は攻防を繰り返しました。信長は家康に対して積極的な支援に出て、天正3/5/21の長篠の合戦(1575/7/9)に主力でもって鉄砲を有効に活用して武田氏と戦い、武田氏は家老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくされました。一方家康は戦勝に乗じて諏訪原城(静岡県島田市金谷)、二俣城を攻略し武田
長篠の合戦、てっぽう使用
氏への優位を確保。なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(1555-1615:信長の名で信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した上、翌年には長女・亀姫(1560-1625)を正室として嫁がせました。天正6年(1578)に越後上杉氏で謙信(1530-1578)没後に御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入するも、勝頼と結んだ上杉景勝(1556-1623)が乱を制したことにより武田・北条間の甲相同盟が破綻し、天正7/9月(1579)に北条氏は家康と同盟を締結。この間に家康は横須賀城(静岡県掛川市横須賀)などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化しました。

▼嫡男・松平信康の自刃
また同じ頃、信長から正室の築山殿と嫡男の松平信康(1559-1579/10/5)に対して武田氏への内通疑惑がかけられました。家康は酒井忠次(1527-1596)を使者として信長と談判させるも、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達されました。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させました(松平信康自刃事件、1579/10/5)。

長篠の合戦以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は織田氏との和睦(甲江和与)を模索するも信長はこれを封殺。天正10/2月(1582)に信長は家康と共同で武田領へ本格的に侵攻。天正10/2/14に浅間山が噴火。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪:1541-1582)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保。勝頼一行は同年3月に天目山の合戦(1582/3/11、山梨県甲州市(旧大和村)木賊及び田野にある峠)に敗れて自害(1582/4/3)して武田氏が滅亡。家康は3/10に梅雪とともに甲府へ着陣。信長は甲斐の仕置を行うと中道往還の街道をを通って帰還(武田征伐)。家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営。信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊。また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔し、後に家康の参謀として秀吉死後の天下取りや豊臣氏滅亡などに暗躍した本多正信(1538-1616)が、徳川家に正式に帰参。

▼本能寺の変(天正10/6/2、1582/7/1)と伊賀越(家康の三大危機の三つ目)
天正10/5月(1582)に家康は駿河拝領の礼のため信長の居城の安土城を訪れた後、6/2に堺を遊覧中に京で本能寺の変(京都市中京区、当時は現:下京区内)が起こり、信長が明智光秀(1528頃-1582/7/2)の謀反で本能寺を襲撃され自害、京都の妙覚寺に居た嫡男の信忠(1557-1582/7/1)は隣の二条新御所で光秀勢と戦い自害しました。この時、家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は信長の後を追おうとするも、本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵(1542-1597)の進言を受け、伊賀の険しい山道を越え加太越(三重県伊賀市と同県亀山市の間にある峠)を経て伊勢から海路で三河に辛うじて戻りました(神君伊賀越え)。その後、家康は光秀を討つために軍勢を集めて尾張まで進軍するも、中国大返しで備中の高松城(岡山市北区)から山城の山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200kmを踏破(1582/6月-7月の約10日間)、中国地方から急遽、戻った羽柴秀吉(1537-1598:後の豊臣秀吉)に光秀がすでに討たれたことを知りました。

▼天正壬午の乱
信長の領土となっていた旧武田領の甲斐と信濃では大量の一揆が起こり、さらに越後の上杉氏、相模の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せ、旧武田領全土を委任されていた上野の滝川一益(1525-1586)は、旧武田領を治めてまだ3ヵ月程しか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、緊迫した状況でした。その上に織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直(1562-1591)率いる6万の軍が襲来。滝川一益は北条氏直を迎撃するも、神流川の合戦(天正10/6/16(1582/7/5)-6/19(7/8)で敗北、尾張まで敗走。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐に攻め入りました(天正壬午の乱:天正10年:1582/6月〜1582/10/29)。

▼北条氏と和睦(5ヵ国を領有する大々名となる)
北条氏直が甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見て、叔父・北条氏規(1545-1600)や北条氏照(1540-1590)ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠(群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠で標高約960m)を越えて信濃に侵攻。北条軍は上杉軍と川中島(長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯)で対峙した後に和睦し、南へ進軍。徳川軍は、その北条軍と新府城(山梨県韮崎市中田町)、若神子(山梨県北巨摩郡須玉町若神子)で対陣。それで徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈するも、黒駒の合戦(天正10/8/12)で小山城(山梨県笛吹市八代町東小山)からの徳川軍(鳥居彦右衛門元忠:1539-1600)が、御坂城(笛吹市御坂町上黒駒)からの北条軍(北条左衛門佐氏忠(?-1593)に勝利などと、依田信蕃(1548-1583)の調略を受けて真田昌幸(1547-1611)が徳川軍に寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は家康に和睦を求め、和睦の条件は上野を北条氏が、甲斐・信濃を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫(1565-1615)が氏直に嫁ぎ、和議がなりました(天正10/10/29)。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヵ国を領有する大々名になりました。

▼織田家の清洲会議
信長没後の天正10年に尾張の清洲城(愛知県清須市)で開催された織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議の清洲会議(1582/7/16)には、織田家々臣の柴田勝家(1522頃-1583)、丹羽長秀(1535-1585)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、池田恒興(1536-1584)の4人が集まり、滝川一益は関東地方へ出陣中の上に直前の神流川の合戦での敗戦を口実に、参加を拒まれました。織田家の後継者問題は信長の三男・織田信孝(1558-1583:欠席)を擁立する勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信:1580-1605)を秀吉が、その軍師の黒田孝高(官兵衛:1547-1604)の尽力で他の宿老たちにも根回してから擁立したのと対立が起こるも、秀吉は光秀討伐の功労者であり、長秀らの支持や、三男であり神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強い三法師が後継者として決まり、秀吉はその後見人となりました。領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝(1568-1586)は明智光秀の旧領である丹波を相続。家臣団へは勝家が越前を安堵の上で、勝家の希望から秀吉の領地である長浜城(滋賀県長浜市公園町)と北近江3郡を割譲され、長秀が若狭を安堵の上で近江の2郡を、恒興は摂津から3郡を、それぞれ加増され、新当主である三法師は近江の坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城が与えられました。それで、織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられ、この時の対立が翌年の賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の合戦となりました。

▼賤ヶ岳の合戦
・秀吉(丹羽長秀・信雄)と勝家(滝川一益・信孝)の対立
秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門・浅野長政などをすえたので、勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱きました。この後、双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うも、北陸の柴田氏の後方にある上杉景勝(1556-1623)や、信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄(1515-1589)が、秀吉になびくなどやや秀吉に有利な状況になりました。一方で勝家は四国の長宗我部元親(1539-1599)や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉の岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしました。
・秀吉の長浜城、岐阜城攻め
柴田勝家は北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由としたみせかけの和平を秀吉と行いましたが、それを見抜いた秀吉は、毛利氏対策として山陰は宮部継潤(1528頃-1599)、山陽は蜂須賀正勝(1526-1586)を置いて、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃(1582/12/26)。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、さらに勝家の養子でもある城将の柴田勝豊(1556-1583/6/6)は勝家に疎んじられたことなどで、秀吉の調略で寝返り・降伏(1582/12/29)後の半年後に病で没。さらに秀吉軍は美濃に進軍、稲葉一鉄などから人質を収め岐阜城を攻め織田信孝は降伏(1583/1/13)。
岐阜城

日本 2003 発行
・滝川一益の挙兵
翌天正11/正月(1583)には、伊勢の滝川一益が柴田勝家への味方を明確にして挙兵し、関盛信(?-1593)・一政(1564-1625)父子が不在の隙に亀山城(三重県亀山市本丸町)、峯城(亀山市川崎町森字殿町)、関城(岐阜県関市)、国府城(三重県鈴鹿市国府町字長ノ城)、鹿伏兎城(三重県亀山市加太市場)を調略。亀山城に滝川益氏(1527-1635)、峯城に滝川益重(1523-1592)、関城に滝川忠征(1559-1635)を置き、自身は長島城(三重県桑名市長島町)で秀吉を迎撃。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退くも、翌月には大軍を率いて攻撃を再開、国府城を落とし(天正11/4/11)、4月中旬には一益の本拠である長島城を攻撃するも、滝川勢の抵抗は頑強で、亀山城は4/24、峯城は6/4まで持ち堪え、城兵は長島城に合流して籠城。

越前の北ノ庄城(福井県福井市)の柴田勝家は雪のため動けずにいるも、これらの情勢に耐え切れず、ついに天正11/2月末(4/19)、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣して、前田利家(1538年-1599)、佐久間盛政(1554-1583)ら3万の軍勢を率いて近江の柳ヶ瀬(長浜市余呉町柳ヶ瀬)に到着し、布陣(天正11/5/3)。

一方、一益が篭る長島城を包囲していた秀吉は織田信雄と蒲生氏郷の1万強の軍勢を伊勢に残し、5万の兵力を率いて木ノ本(滋賀県長浜市木之本町木之本)に布陣(5/10)。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築。また丹羽長秀も勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出し、戦線は膠着して、秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還(5/18)し、伊勢と近江の2方面に備えました。ところが、一度は秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出(6/6)。これで秀吉は近江、伊勢、美濃の3方面作戦を強いられましたが、秀吉が近江から離れたのを好機と見た勝家は攻撃に出て攻勢を強め、大垣城(岐阜県大垣市郭町)にいた秀吉は敗報に接し急遽「美濃返し」で木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動。賤ヶ岳砦の攻防戦が始まり、両者一進一退する内に、勝家麾下でも、秀吉とは信長の部下時代からの親友の前田利家(1538-1599)の軍勢が突如戦線を離脱し、賤ヶ岳の七本槍などで賤ヶ岳の合戦(天正11/4/20)に勝利し、柴田勝家の軍勢は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城に向けて退却しました。(日付は諸説有)

・北ノ庄城、岐阜城、長島城の落城と信孝自害
勝家は北ノ庄城で天正11/4/23に前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲(1583/6/13)され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害(4/24)しました。また佐久間盛政は逃亡するものの捕らえられて斬首され、首は京の六条河原でさらされ、柴田勝家の後ろ盾を失った美濃方面の織田信孝は秀吉に与した兄・織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏、信孝は尾張の内海(愛知県南知多町)に移され、信雄の使者より切腹を命じられて自害(1583/6/19)。残る伊勢方面の滝川一益は長島城でさらに一ヵ月篭城し続けるも開城、剃髪のうえ出家し、丹羽長秀の元、越前大野に蟄居。

これらの戦いは柴田勝家と滝川一益に対して、羽柴秀吉と丹羽長秀の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長次男の北畠信雄と三男の神戸信孝の対立でもありましたが、この合戦の結果、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになり、秀吉はまもなく畿内の石山本願寺跡(大阪市中央区大阪城)に大坂城の築城を開始し、秀吉のもとに徳川家康はじめ、上杉景勝(1556-1623)、毛利輝元(1553-1625)、大友義統(1558-1610)など各地の戦国大名が相次いで使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めました。

▼小牧・長久手の合戦(1584/3/7-5/16)
こうして信長没後に秀吉(豊臣秀吉)が畿内の権力を掌握して織田家は瓦解し、秀吉の天下取りが確実となりましたが、信雄(北畠)は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁するも、賤ヶ岳の合戦後の織田政権においては信忠の嫡男の三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗しました。天正12/3月(1584)に信雄が、秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3/13に尾張へ出兵し、信雄と合流。当初、両勢は北伊勢方面に出兵するも、3/17には徳川軍の酒井忠次(1527-1596)が羽黒の合戦(天正12/3/17)で秀吉方の森長可(1558-1584)を奇襲・撃破、家康は3/28に尾張の小牧山(愛知県小牧市標高86m)着陣。
一方の秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張の犬山城(愛知県犬山市)を陥落させると薬田に布陣し、前半の小牧山周辺での合戦が終結して、両軍は睨み合い、戦況は全くの膠着状態になりました。4月初めになると秀吉は森長可・池田恒興(1536年-1584)らを三河に出兵させ、4/9には長久手で両軍は激突して、岩崎城の合戦(天正12/4/9、愛知県日進市)で秀吉軍が勝利して岩崎城が落城するも、追撃してきた徳川軍が奇襲して白山林の合戦(天正12/4/9、名古屋市守山区、愛知県尾張旭市との境界付近)で秀吉軍本隊(羽柴秀次(1568-1595)勢)に勝利するも、迎撃戦の桧ケ根の合戦(天正12/4/9、愛知県長久手市)で攻撃した家康軍が堀秀政勢(1553-1590)に敗退。家康本隊が 犬山城と木曽川

日本1968/7/20発行
長久手の合戦(天正12/4/9(1584/5/16)仏ヶ根(愛知県長久手市長湫仏ケ根)の決戦)に大勝利して、秀吉軍の森・池田勢を撃退。以降、尾張北部の戦線は防御陣地の構築で膠着状態に陥いり、家康は小幡城(名古屋市守山区西城)から清洲城(愛知県清須市)、信雄は桑名城(三重県桑名市)、秀吉は大坂城にそれぞれ帰還しました。なお、家康本隊は岩作の色金山(長久手町大字岩作字色金:色金山歴史公園)周辺と、香流川を渡った長湫の富士ケ根(長久手町大字長湫字富士浦)から、仏ケ根(長久手町武蔵塚の北部)、前山(長久手町城屋敷の一部)に陣を構えていました。その後に竹ヶ鼻城の水攻め(天正12/5-6/10:1584/7/17、秀吉勢勝利、岐阜県羽島市竹鼻町竹ヶ鼻城)、蟹江城合戦(天正12/6/16-7/3:1584/7/23、家康生涯で最重要な勝利、愛知県海部郡蟹江町)、末森城の合戦(天正12/9/9:1584/10/12に能登の末森城(石川県羽咋郡宝達志水町竹生野)で秀吉方の前田勢を家康方の佐々成政(1539頃-1588)が攻撃して撃退された攻城戦)などが起こるも、天正12/11/11(1584/12/14)に秀吉が信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾して戦線を離脱すると、戦争の大義名分を失った家康勢は天正12/11/21(1584/12/31)に兵を引きました。

▼秀吉に仕える
この小牧長久手の合戦(1584/3/7-5/16)で、家康は兵力差で圧倒的に不利でも戦略的勝利を収め、秀吉と家康・信雄の双方は和睦し、講和条件として10才の家康次男・於義丸(結城秀康:1574-1607)を秀吉の養子(人質、天正12/11/11決定:12/06浜松城出発)としました。戦後の和議は秀吉優位で、天正13年(1585)に入ると、紀伊の雑賀衆や土佐の長宗我部元親、越中の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属。さらに秀吉は天正13/7/11に関白に叙任され、豊臣政権が確立しました。これに対して家康は東国で武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヵ国を領有し相模の北条氏とも同盟関係を築くも、北条氏との同盟条件である上野の沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、武田遺臣で沼田領の旧領主で、武田氏滅亡後は信濃の上田城主として自立した真田昌幸(1547-1611)が越後の上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗。家康は大久保 忠世・鳥居元忠らの軍勢を派兵して上田を攻めるも、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などで撤兵(第一次上田合戦:天正13/8/2(1585)-8/28)。こうした情勢の中、天正13/9月に秀吉は家康に対して更
豊臣秀吉公

リベリア 2000 発行
なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正(1533-1593)ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせました。天正13/11/13には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革。天正14年(1586)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み、天正14/4/23には臣従要求を拒み続ける家康に対して、秀吉は実妹の朝日姫(43才:1543-1590)を正室として差し出し、5/14に家康(43才)はこれを受けて迎え、秀吉と家康は義兄弟となりました。さらに10/18には秀吉が生母の大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、10/24に家康は浜松を出立して上洛。家康は10/26に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊。その夜に秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めました。こうして家康は完全に秀吉に従うこととなり、10/27に大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓いました。天正14/11/1(1586)に京に赴き、11/5に正三位に叙任され、11/11には三河に帰り、11/12には大政所を秀吉の元へ送り返し、豊臣氏に仕えましたが、石川数正の出奔などで、12/4に本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河の駿府城(静岡県静岡市葵区)へ移しました。

▼小田原征伐
北条氏直は秀吉に臣従することに応じず、家康が北条氏と縁戚関係にあった経緯から、北条氏政の弟で旧友の北条氏規を上洛させるなど秀吉と北条氏との仲介役も務めるも、天正18年(1590)に秀吉は北条氏討伐を開始。家康も諦め豊臣軍の一軍として参戦しました(小田原征伐:天正18/2月〜7月)。
・豊臣軍本隊161,135、船手衆(水軍)20,630、北国衆35,000(計:216,765)
・北条軍82,000人

秀吉が天正18/3/27に沼津(現:静岡県沼津市)に到着。3/29に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始。山中城の合戦(天正18/3/29)では、豊臣軍67,800が包囲攻撃するも北条氏勝(
小田原城

日本 2000  発行
1559-1611)らが4,000で守備後に半日で開城(静岡県三島市山中新田)。足柄城の合戦では豊臣軍が包囲攻撃するも、北条氏忠(?-1593)が守備後、山中城落城を聞いて小田原城に退却後、落城(4/1、神奈川県南足柄市の足柄峠付近)。7月に入ると北条氏房、氏規がそれぞれ滝川雄利と家康を窓口として和平交渉に当たり、7/5に氏直は徳川勢の陣に向かい、自分の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出て、家康は氏直を雄利、次いで信雄の元まで護送し、秀吉に氏直の降伏を伝え、7/11に検視役が見守る中で氏規の介錯により自害して、小田原城は陥落(天正18/7/5)しました。その後、鉢形(はちがた)城の合戦(天正18/5/14-6/14)では、豊臣軍35,000が包囲攻撃するも、北 条氏邦(1541-1597)が3,000で守備後に突如出家して開城(6/14、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形)。韮山(にらやま)城の合戦(天正18/3/29-6/24)では、豊臣軍44,000が包囲攻撃するも、北条氏規(1545-1600)が3,600で籠城して約百日間も持ちこたえ開城(6/24、静岡県伊豆の国市韮山)。忍(おし)城水攻めの合戦(天正18/6/5-7/17)では、豊臣軍25,000が包囲攻撃するも、成田長親(1545-
1613)が3,000で守備後に降伏・開城(7/17、埼玉県行田市)。それで戦国大名としての後北条氏は滅亡、秀吉の天下統一が成就。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、奥州を平定した源頼朝(1147-1199)に倣って宇都宮城へ入城し、関東および奥州の諸大名の措置を下し (宇都宮仕置)、後北条の旧領はほぼそのまま家康に与えられました。

関東を支配していた北条氏が滅亡した後、秀吉の命令で、家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヵ国を召し上げられ、北条氏の旧領の武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部・常陸の一部の関八州に移封されました(関東移封:天正18/8/1)。それで家康は150万石から250万石(家康240万石と結城秀康10万石)となるも、徳川氏に縁の深い三河を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などで不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民
源頼朝

日本 1968/9/2 発行
という当時としては極めて低い税率を採用しており、それをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況でした。こうした事情から江戸城を居城としました。関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置して、100万石余といわれる直轄地には大久保長安(1545-1613)などの有能な家臣を代官などに抜擢して統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることになりました。なお、四公六民という北条氏の定めた低税率は、その後徳川吉宗(1684-1751)の享保の改革で引き上げられるまで継承されました。家康は長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となりました。

▼朝鮮の役
文禄元/4月(1592)から秀吉の命令により朝鮮出兵(文禄の役)が開始されるも、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけでした。文禄4/7月(1595)に「秀次事件」が起き、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図り、家康も秀吉の命で上洛(これ以降、開発途上の居城・江戸城より伏見城に在城の期間が長くなる)。豊臣政権における家康の立場が高まり、家康自身も政権の中枢で中央政権の政治を直接見聞きしました。慶長2/2月(1597)に再び朝鮮出兵(慶長の役)が開始され、日本軍は前回の反省で初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力し、この時も家康は渡海しませんでした。慶長3/5月(1598)に秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者の豊臣秀頼(1593-1615)を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命。8月に秀吉が没すると五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退。家康は一部の例外を除く東国の大名と共に名護屋に残留し兵力・財力などの消耗を免れました。
朝鮮半島

北朝鮮 2007 発行

▼秀吉の没後
豊臣秀吉の没後、内大臣の家康が朝廷の官位で最上位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになり、家康は参謀の本多正信(1538-1616)の献策に従い天下人への道を歩みだし、生前の秀吉が文禄4/8月(1595)に禁止した大名家同士の婚姻を5組も行い、婚約した娘は全て家康の養女としました。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成(1560-1600/11/6)らより「専横」との反感を買い、慶長4/1/19(1599)家康に対して三中老の堀尾吉晴(1544-1611)らが問罪使として派遣されるも、吉晴らを恫喝して追い返しました。利家らと家康は2/2には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することで、この一件は和解となりました。3/3に利家が病没すると、3/4に福島正則(1561-1624)や加藤清正(1562-1611)ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が勃発。三成は佐竹義宣(1570-1633)の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れ、家康の仲裁により三成は奉行を退き、大阪を退去して、家康の次男・結城秀康の護衛で佐和山城(滋賀県彦根市の佐和山)に行き蟄居しました。家康は公平な措置で三成を失脚させて、評判が高まりました。9/7に「増田長盛(1545-1615)・長束正家(1562頃-1600)両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とし、9/9に大阪城に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べ、9/12には三成の兄・石田正澄(1556-1600)の大坂屋敷に移り、9/28に大坂城西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなりました。9/9に登城した際、前田利長(1562-1614)・浅野長政(1547-1611)・大野治長(1569-1615)・土方雄久(1553-1608)の4人が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10/2に長政を甲斐の府中で隠居の上で蟄居させ、治長は下総の結城秀康のもとに、雄久は常陸の水戸の佐竹義宣のもとへ追放。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するも、利長が生母・芳春院(1547-1617)を江戸に人質として差し出したことで出兵は中止し、これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされました。家康の暗殺計画は、家康を大坂から追い出し挙兵しようとする三成らの謀略であったとも言われています。またこの頃、秀頼の名のもと豊臣氏の直轄領の蔵入地を諸大名、対馬の宗義智(1568-1615)、遠江の堀尾吉晴、薩摩・大隅の島津義久(1533-1611)に加増し、美濃の森忠政(1570-1634)を信濃に加増移封、丹後の細川忠興(1563-1646)に豊後・杵築6万石を加増しました。

▼関ヶ原の合戦
秀吉没後の慶長5/9/15に美濃の関ヶ原の合戦(1600/10/21、岐阜県不破郡関ケ原町)に勝利して、その覇権を決定づけました。
慶長5/3月、会津征伐(謀反の知らせ)
    大阪城の家康に越後の堀秀治、出羽の最上義光らから、
    会津の上杉景勝が軍備を増強する不穏な動きの知らせ、
    上杉家臣津川城代の藤田信吉が会津を出奔、江戸の
    秀忠(1579-1632)へ「上杉氏に叛意あり」と訴える
4/01、家康が景勝に問罪使を派遣
5/03、景勝の家老から直江状が家康に届き、景勝の征伐を決定
6/02、会津征伐の「陣触れ」が関東の諸大名に対して出される
6/06、大坂城西の丸で会津征伐の評定
6/08、後陽成天皇(1571-1617)が晒布100反を家康に下賜
6/15、天野康景(1537年-1613)と佐野綱正(1554-1600/8/27)が
    家康出陣中の大坂城西の丸留守居役となり、
    秀頼が黄金2万両と米2万石を家康に下賜
6/16、家康が大坂城から出陣
6/18、家康が伏見城を出発
7/02、家康が江戸城に入る
7/12、佐和山城での会議
    石田三成が大谷吉継(1559頃-1600)、増田長盛、安国寺
関ヶ原の合戦
    恵瓊(1539頃-1600/11/6)と秘密会議を行い、毛利輝元(1553-1625)への西軍総大将就任
    要請などを決定
7/17、毛利輝元が大坂城西の丸に入城、西軍の総大将に就任。三成が挙兵宣言を発し、会津征伐
    に従軍していた諸大名妻子の人質作戦を発動し、西軍は毛利秀元(1579-1650)の伊勢攻略
    戦、小野木公郷(重勝:1563-1600)の丹後攻略戦、大谷吉継の越前・加賀攻略戦を実施
7/18、伏見城の合戦(-8/1、京都市伏見区桃山町)
    4万の大軍に攻められ、鳥居元忠(1539-1600/9/8)らの奮戦むなしく陥落
7/19、家康が秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣する
7/19、田辺城の合戦(-9/13:1600/8/27-10/12、京都府舞鶴市)
    丹波福知山城主小野木重次(1563-1600)、亀岡城主前田茂勝(1582-1621年)らの西軍
    15,000が、田辺城に籠城する東軍細川幽斎(1534-1610)を攻め、9/13勅命で降伏・開城
7/21、家康が江戸城から出陣して会津に向かう
7/24、家康が下野の小山(栃木県小山市)で鳥居元忠の急使により三成らの挙兵を知る
7/24、白石城の合戦(宮城県白石市)
    上杉氏城代甘粕景継(1550-1611)甥の登坂勝乃(?)が代理で守備するのを
    伊達政宗(1567-1636)が攻撃して勝利
7/25、小山評定(栃木県小山市)、
    家康が諸将を集めて軍議を開き、東軍を結成し西軍攻めを決定
    景勝に対しては結城秀康の軍勢を抑えとして残し、
    家康は反転西上して三成らの討伐に向かう
7/26、浅井畷の合戦(-8/9)
    前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となったことに危機感を抱き、加賀南部や越前を制
    圧すべく大軍を率いて、7/26小松城の包囲攻撃(石川県小松市丸の内町)で前田利長軍
    25,000人が丹羽長重3000人を落せず、西軍の山口宗永(?-1600/9/10)の2,000人に向かい、
    8/2に大聖寺城の包囲攻撃(石川県加賀市大聖寺町)で宗永・修弘(?-1600/9/10)親子が自害
    して落城、8/8利長は軍勢を金沢に戻すことにし、そこへ丹羽長重が浅井畷(石川県小松市大
    領町)で待ち伏せ攻撃、前田軍は大被害を受けるも金沢に撤退を完了
8/10、福島正則が居城の尾張清洲城に入る
8/14、東軍諸将の多くが清洲城に集結
8/21、清洲城から木曽川の渡河口に到着した福島正則ら16,000人、池田輝政ら18,000人の東軍と
    岐阜城の織田秀信ら西軍9千人が、まず木曽川で激突
    ・河田(こうだ)の渡し、池田輝政・浅野幸長ら18,000
    ・下流の起(おこし)の渡し、福島正則・細川忠興・京極高知・黒田長政・加藤嘉明・藤堂高虎・
     田中吉政・井伊直政・本多忠勝ら16,000人
8/22明方、河田木曽川渡河の合戦で池田輝政、浅野幸長、山内一豊率いる東軍1万8千人が西軍の
    鉄砲隊を撃破して木曽川を渡河
8/22日昼、米野の合戦で米野村の西軍3千人に対し輝政が1万8千人で攻撃、
    夕方に飯沼長資は戦死、百々(どど)綱家(1548頃-1609)ら残存兵は岐阜城へ後退
8/22、竹ヶ鼻城の合戦(岐阜県羽島市竹鼻町)で正則16,000が攻撃、正則と旧知だった二の丸の毛
    利 広盛(1533-1616)は勧告を受けて降伏、孤立した本丸の杉浦重勝は城に火を掛け自刃
8/23、合渡川の合戦
    黒田長政や藤堂高虎、田中吉政らを大将にした一軍16,000が大垣城の東にある合渡川に進
    出、合渡川の西軍部隊は黒田軍の襲来で破られ、黒田軍らはそのまま合渡川を渡河して大
    垣城から西北に約4キロ余の赤坂を占領し、8/24には岐阜城を落とした軍勢も集結
8/23、岐阜城の合戦(岐阜県岐阜市の金華山)
    西軍の織田秀信6,000人を東軍35,000人が総攻撃して落城、秀信は降伏
9/01、八幡城の合戦(岐阜県郡上市八幡町柳町、-9/4)、美濃の郡上郡八幡城で城主の遠藤慶隆
    (1550-1632)金森可重(1558-1615)と稲葉貞通(1546-1603)遠藤胤直(?-1604)との攻防戦で
    
赤谷の慶隆軍、援軍の可重軍、五町山の金森軍別働隊が3方から八幡城を攻撃、激戦となる
9/02、慶隆と貞通間で和議なるも、八幡城の危急を知った犬山の貞通、長子の典通(1566-1626)、
    中山城(岐阜県郡上市八幡町相生)主の稲葉忠次郎が八幡へ急行
9/03未明、貞通、典通、次郎が霧中の八幡へ到着、愛宕山の遠藤勢を稲葉勢が急襲、激戦となる
9/04、慶隆と貞通間で再度の和議がなり、貞通は降伏し伊勢に退き、慶隆は兵を東美濃に戻す
9/05、慶隆が西軍に寝返り上ヶ根城に籠城の胤直を攻撃、胤直は降伏
9/07、大津城の合戦(滋賀県大津市浜大津、-9/15)
    大谷吉継の北陸方面軍の近江大津城主の京極高次(1563-1609)が、吉継が北陸から美濃へ
    と転進するうちに突如東軍に寝返って手勢3,000人で大津城に籠城、西軍は毛利元康を大将
    に立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら総勢15,000人で大津城に包囲攻撃を開始、
    9/13に砲撃で天守を破壊、9/15に降伏し高次は高野山で出家する
9/08、第二次上田合戦(9/4-9/8)、
    徳川秀忠の3万8000人が中山道を真田父子が立て篭もる上田城に迫り降伏勧告するも返事
    を3日間引き伸ばされた東軍の牧野康成の手勢が上田城下の稲の刈り取りを始め、苅田を
    阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出し、後備えの本多忠政隊が襲い、真田勢は
    上田城へ逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃して上田城の大手門前まで迫るも、城
    内からの猛反撃、染谷台北東から信繁隊200が秀忠本陣に奇襲して秀忠は馬で小諸へ逃亡、
    神川の上流での塞き止め堤防を決壊する水攻めなどで真田勢の大勝利となる、
    9/20に大津に到着するも家康は面会を拒否(秀忠の遅参
9/08、慶長出羽合戦(東の関ヶ原、上杉軍と最上・伊達連合軍)
    上杉軍が米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始
    9/29、上杉軍は関ヶ原での西軍の大敗を知って撤退を開始、
    最上勢は全戦線で反攻に転じ庄内地方を上杉氏から奪還(上杉:陸奥会津120万石から米沢
    30万石、最上:24万石から出羽山形57万石、伊達:58万石から62万石となる)
9/11、江戸城から出陣した家康が清洲に到着
9/13、石垣原の合戦(-9/14、豊後国速見郡石垣原:大分県別府市)
    黒田如水(1546-1604)軍9,000人と大友義統(1558-1610)軍3,000人の合戦で、如水が9/09に
    中津城を出陣して豊後国に侵攻を始め、9/10夜に杵築城が大友勢に攻撃されるも勝利して杵
    築勢は出撃、石垣原の大友勢と黒田一番備が激突、大友勢が勝利するも、黒田二番備と杵
    築勢に打ち破られ、義統は降伏して剃髪
9/14、家康が赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)に着陣
9/14、杭瀬川の合戦(1600/10/20)、三成のいた大垣城(岐阜県大垣市郭町)と赤坂の中間にある
    杭瀬川を、三成の家臣・島左近(1540-1600/10/21)と宇喜多秀家の家臣・明石全登(?)が奇襲
    東軍の中村一栄(?-1604)、有馬豊氏(1569-1642)らが迎撃するも敗れ、西軍が勝利
9/15、関ヶ原の合戦(1600/10/21)
    西軍の小早川秀秋の裏切りなどで、家康の東軍が大勝利
9/18、東軍が三成の居城・佐和山城(滋賀県彦根市佐和山)を落として
    近江国に進出
9/21、東軍が戦場から逃亡した三成を捕縛
10/1、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが京の六条河原で処刑される

関ヶ原の合戦に勝利した後、大坂に入った家康は西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石を400万石に加増。秀頼(1593-1615/6/4)と淀殿(1569-1615/6/4)には「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままでしたが、豊臣氏の直轄地の太閤蔵入地は論功行賞で諸将に分配され、豊臣氏は摂津・河内・和泉の3ヵ国65万石の一大名となり、家康は天下人を確固たるものにしました。
慶長6年(1601)には「慶長大判」が発行されました。
慶長大判、1601

日本 2012 発行

▼征夷大将軍
家康は関ヶ原の合戦の戦後処理を終わらせ、慶長6/3/23(1601)大坂城・西の丸を出て伏見城で政務を執りました。慶長8/2/12(1603)に後陽成天皇が勅使を伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍(在職期間:1603〜1605)・淳和奨学両院別当・右大臣に任命。武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利義満から始まった慣例でした。同年3/12に伏見城から二条城に移り、3/21に衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内して将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べました。3/27に二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を開催。4/4から3日間も二条城で能楽が行われ、諸大名や公家衆を饗応。これで征夷大将軍徳川家康は武家の棟梁となり、名実ともに豊臣氏を上回る地位を確立。慶長8年
江戸城の天守閣

日本 2003/5/23  発行
(1603)徳川幕府の開府に当たり、武家諸法度や禁中並公家諸法度の制定、各制度の整備を行い、武家の統制及び朝廷の掌握に向けた法度を定め、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させました。慶長10/4/16(1605)に征夷大将軍職を辞して、三男の徳川秀忠へ譲り、慶長12年(1607)に駿河の駿府の駿府城に隠居した後も、大御所として政治・軍事に大きな影響力を保持しました。

▼大阪の役
慶長16年(1611)に二条城で秀頼と会見した家康は、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて実感することになったといわれていますが、大御所の家康は慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣氏に宣戦布告し、大坂冬の陣(1614)、大坂夏の陣(1615)でも、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、徳川幕府の統治体制を盤石なものとしました。

・大坂冬の陣(慶長19/11月(1614)〜慶長20/5月(1615)
家康は慶長19/11/15(1614)に二条城を発して大坂城攻めの途につきました。そして20万人からな
る大軍で、10万人が立籠る大坂城を完全包囲するも、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めました。徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねるも、真田丸の戦いでは大敗しましたが、大勢に影響なく、徳川軍は一斉に勝ち鬨をあげたり、午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒)を撃って、城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅し、この砲撃で落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦を申し出て、家康が了承。和議の条件は大坂城の総堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊で、慶長20/1月中旬(1615)までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城にな 欧州の大砲と砲弾

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
りました。砲撃で使った大砲は、国友鉄砲鍛冶(滋賀県長浜市国友町)製3貫目大筒(靖国神社の遊就館に有)や、堺鉄砲鍛冶の芝辻理石衛門(?−1634)の鍛造鉄製大砲、イギリスのカルバリン砲4門、セーカー砲1門や、兵庫港に着いた(1614/12/8)オランダ製4・5貫目半カノン砲12門など。
・1614(慶長19)年
11/19、木津川口の合戦
    徳川軍3,000人が大阪軍800人に勝利して木津川口砦を占領
11/26、鴫野の合戦
    徳川軍6,300人が大阪軍2,000人と援軍12,000人に勝利して鴫野(しぎの)を占領
11/26 、今福の合戦
    徳川軍1,500人と援軍1,000人が大阪軍600人と援軍3,000人と戦うも決着つかず
11/29、博労淵の合戦
    徳川軍5,300人が大阪軍700人に勝利して博労淵を占領
11/29、野田の合戦(11/28)・福島の合戦(11/29)
    徳川軍6,600人が大阪軍3,300人に勝利して野田・福島を占領
12/04、真田丸の合戦
    徳川軍26,000人が真田丸を攻撃するも大阪軍17,000人に敗れて、退却
12/16、大阪城本丸砲撃で淀殿の侍女8人が死亡し、和議交渉が始まる
12/20、誓書が交換され和平が成立、砲撃が止む。その後に家康は駿府城に戻る
01/23、外堀の埋め立てと、三の丸・二の丸の破壊が完了し、諸大名は帰国の途に就く

・大坂夏の陣
1615(慶長20)年
3/15、大坂で浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞とい
    う不穏な動きの知らせが京都所司代板倉勝重(1545-1624)より駿府へ届
    き、徳川方は牢人の解雇、豊臣家の移封を要求
4/01、家康は畿内の諸大名に大坂から脱出する牢人の捕縛を命じ、
    小笠原秀政には伏見城の守備を命じる
4/04、家康は徳川義直(1601-1650)の婚儀のためとして駿府を出発、名古屋へ
4/10、家康が名古屋城に入る
    秀忠が江戸を出発
4/12、名古屋城で徳川義直の婚儀が行われる
4/18、家康が二条城に入る
4/21、秀忠が二条城に到着
大坂城

日本 2007/6/1 発行
4/22、家康と秀忠は本多正信・正純父子、土井利勝、藤堂高虎らと軍議を行う
    徳川方15万5千を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かうこと、
    紀伊の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じる
4/29、樫井の合戦
    和歌山城を出発した浅野軍5,000人が大阪軍3,000人に勝利
5/05、家康が京を出発
5/06、道明寺の合戦
    徳川軍34,300人が大阪軍18,400人に勝利
5/06、八尾・若江の合戦
    八尾では大阪軍が勝利するも若江では敗戦
    徳川軍9,500人が大阪軍6,000人に勝利
5/07、天王寺・岡山の合戦
    徳川軍15万人が大阪軍5万人に勝利
5/07、深夜に大坂城が炎上、陥落
5/08、秀頼と淀殿が自害、豊臣氏が滅亡

慶長20/6/28(1615)に後陽成天皇の第八皇子・八宮良純親王(1604-1669)を家康は猶子として、元和元年/9/9(1615)に家康は禁中並公家諸法度を制定し、朝幕関係を規定、そして諸大名統制のために武家諸法度・一国一城令を制定。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築きました。元和2/1月(1616)に鷹狩で倒れました。元和2/4/17巳の刻(午前10時頃)に鯛の天ぷら(食中毒説)に当って駿府城で没、享年75才。辞世の句として「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」、「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」が有。

こうして徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に仕えた後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱(1467-1477)から150年近く続いた戦乱の時代(戦国時代(1467(1493)-1573)、安土桃山時代(1568-1600)に終止符を打ちました。これを元和偃武(げんなえんぶ)と呼び、応仁の乱(東国では享徳の乱:享徳3/12/27(1455/1/15-文明14/11/27(1483/1/6)以来150年近く断続的に続いた大規模な軍事衝突が、慶長20年(元和元年:1615)5月の大坂夏の陣で江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼして終わりしました。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く平和な江戸時代となりました。

▼日光東照宮
徳川家康は「織田信長」、「豊臣秀吉」と共に戦国時代最後の三大英雄の一人で、日本の大航海時代を代表する人物の一人となり、1616年(元和2年)に駿府城で没しました。享年75才。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野の日光(栃木県日光市)に改葬されました(日光東照宮)。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、現在でも信仰の対象になっています。
日光東照宮

徳川家康と大航海時代 (御朱印船貿易)
▼家康がイギリス人アダムズを召喚
慶長5/3/16(1600/4/29)にオランダ帆船リーフデ号が嵐で豊後の臼杵に漂着したことを知った家康は、重態の船長に代わってパイロット(航海士)だったイギリス人ウィリアム・アダムスを大阪に呼び、船も回航させました。イギリス人の日本来航は初めてだったので、スペイン人やポルトガル人に通訳させると、海賊だから即刻に処刑するようにとのことで、投獄。その後、家康は再喚問し、前後3回アダムズを召喚すると、アダムズの話に興味を示し、彼を解放したばかりか、リーフデ号を堺に呼び寄せ関東にまで回航させました。家康は関ヶ原の合戦の直前だったので、リーフデ号の備砲や、積み荷の500挺の火縄銃、5,000発の砲弾、300発の連鎖弾、それに5,000ポンド
南蛮船スペイン船)の図
南蛮船






和船
パナマ 1968/5/7 発行
の火薬など、世界最新鋭の軍備に注目し、家康は関ヶ原の合戦の時に、リーフデ号の先端兵器を活用したと伝えられています。そしてアダムズとの会見で家康は、アダムズを徳川政権の枠組みに取り入れ、三浦按針として外交・貿易・技術などの顧問で厚遇し、彼の技術を生かしました。なお、アダムズは伊東(静岡県東部伊豆半島の伊東市)の海岸で日本最初の洋式船(ガレオン船の按針丸)を立派に建造して、その論功行賞で相模国三浦郡逸見(横須賀市)に250石の領地を与えられたといわれ、名前を「三浦按針」(按針は水先案内の意)と名乗りました。

1613/6/12にイギリス船としては初めて、クローブ号が平戸に入港、イギリス国王使節ジョン・セーリスがウィリアム・アダムスの通訳にて駿府で家康に謁見、イギリス商館が開設されました。このとき家康がイギリス国王に贈った国書(イギリス国王への親書)は、現在イギリスのオックスフォード大学日本研究図書館に保存されて有。

▼家康がオランダ人ヤン・ヨーステンを謁見
家康は上記のリーフデ号の遭難で救助されたヤン・ヨーステンをも謁見し、駿府城で締結された日蘭外交交渉にて、家康は正式に平戸にオランダ商館の設置を許可しました。

▼家康がスペイン人ドン・ロドリゴ総督を謁見
慶長14/9/3(1609/9/30)に暴風雨に遭遇したスペインのドン・ロドリゴ総督乗船の旗艦サン・フランシスコ号が遭難して、上総国岩和田村(千葉県御宿町)の田尻浜に漂着しました。大多喜城主が駿府の家康に使者を派遣し、彼らの扱いについての伺いをたて、家康は一行を駿府城に丁重に連れてくるよう命じ、イエズス会のファン・ポロタ宣教師の通訳でドン・ロドリゴ総督が家康に謁見。その後にドン・ロドリゴ総督がサン・ブエナ・ベントゥーラ号(按針丸)で帰国する時に、家康は遣墨使節をメキシコに派遣しました。そして、家康は朱印船貿易制度(1598〜1616)で、スペイン領マニラと外交関係を樹立しました。

参考HP:〜
日本の地図(安土桃山時代)
日本の古地図(江戸時代直前:天正10年頃、国別)
御朱印船の貿易地図(17世紀南蛮貿易)
和暦・西暦の換暦HP
本多平八郎忠勝の肖像画(岡崎藩本多家藩祖、東京大学史料編纂所蔵)
稲葉一徹の肖像画(京都市右京区妙心寺智勝院蔵、長谷川等伯筆)
細川幽斎の肖像画(絹本着色細川幽斎像、京都市左京区天授庵蔵)

こちらで
家康の略年表
織田信長
豊臣秀吉をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     12/9/12、12/12/12

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