切手で綴る 太平洋戦争 物語 第2部 <帝国の侵攻> 第7章 オランダ領 東インド攻略 35 <ジャワ・スマトラ島攻略> 帝国軍のオランダ領東インド攻略
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大日本帝国郵便 | NED. INDIE | 大日本帝国郵便 |
スマトラ 加刷 オランダ女王 |
もとの蘭領の現地切手 オランダ女王 |
ジャワ切手 ホロブドールの寺院 |
オランダ領インド切手に加刷 | オランダ領インド 発行 | 日本帝国、占領地切手 1943-44 発行 |
ジャワ切手・・・スマトラ切手 |
<スマトラ加刷切手> 上のスマトラ加刷切手は、1944/1/1に帝国占領下のスマトラ島で発行された統一加刷切手(10セント)です。スマトラ島を占領した帝国軍は、旧オランダ領東インド(蘭印)切手を接収し、そのまま無加刷で使用させたほか、各地で独自のローカル加刷を施した切手を使用させていました(この他、無加刷の日本切手や一部の地域ではマライの占領加刷切手も使用されました)。その後、状況が落ち着いてくると、1943/4/29以降、スマトラの風物を題材とした正刷切手を発行し、全島で使用させることになりましたが、島内の各郵便局には旧蘭印切手の在庫も少なからず残っていたことから、それらをメダンに集め、全スマトラで共通に使用するため、「大日本帝國郵便 〒 スマトラ」と加刷した切手を、1944/1/1から発行しました。なお、加刷は手押しのモノと機械押しのモノがあり、作業はメダンのデリ新聞社とファレカンプ印刷所で行われました。 <ジャワ正刷切手> これは、1945/1/20に日本占領時代のジャワで発行された10ルピア切手で、現地のホロブドールの寺院が描かれています。前身のオランダ領インドネシア(蘭印)時代も含めて、“ルピア”という額面の切手としては、これが最初の1枚となります。なお、ルピアのスペルが、現在の“RUPIAH”とは異なり“ROEPIAH”となっていますが、これは、現地語のラテン文字(いわゆるローマ字です)への転写方法がオランダ語式になっていたためでした。戦争開戦以前の蘭印の通貨は、本国のオランダ・ギルダーと連動した蘭印ギルダーでした。1942/3月、蘭印を占領した帝国軍は旧蘭印ギルダーを接収して、新たに、ギルダー表示の南方開発金庫券(開発券、南発券)を発行しました。当初、開発券ギルダーは、旧蘭印ギルダーと等価とされていましたが、占領費用調達のために開発券が濫発されたこともあり(ちなみに、開戦以前の蘭印ギルダーの発行残高は2億3000万ギルダーでしたが、終戦時の開発券の発行残高は数十億ギルダー規模に膨らんでいました)、急激なインフレが進行。あわせて、オランダを含む連合国との戦争への理解と協力を得るためには、現地のナショナリズムにも配慮したほうが良いとの判断もあって、1944年、インドの通貨ルピーを語源とする新通貨として“蘭印ルピア”が創設されました。上の切手は、こうした通貨改革に伴って発行されたものでした。 |
昭和17年に帝国はオランダから蘭領東インドを奪うため、セレベス島侵攻を開始しました(H作戦)。1942/1/1タカラン油田に上陸、同日メナド飛行場へは海軍空挺部隊が落下傘降下。2/14陸軍空挺部隊がスマトラ島パレンバン油田に降下。3/1ジャワ島に上陸、3/9蘭印軍が降伏。3/13スマトラ島西北端メダン占領、3/27スマトラ占領完了。5/9〜5/25小スンダ列島占領作戦を完了しました。 |
蘭印作戦(Netherlands East Indies Campaign)は蘭印(オランダ領東インド:Dutch East Indies)、すなわち現在のインドネシアをオランダから奪って、石油などの資源を確保するという、南方作戦中最大の攻略作戦でした。この作戦には困難な点が2つありました。@蘭印を攻撃するまでに、マレーと比島(フィリピン)の両作戦を終了させねばならないこと、A重要油田地帯が破壊される前に占領せねばならないこと。 マレー、比島などに航空基地を進出させ、ジャワ周辺の制空・制海権を奪う必要がありますが、果たして十分なる航空支援を蘭印に対し発揮できるかどうかという点が、時間的制限と合わせて作戦遂行上の条件でした。幸いZ作戦(ハワイ作戦)の成功によって米艦隊の側面からの攻撃の危険はなくなり、またマレー作戦、比島作戦が順調であったので、大本営は予定を1ヵ月繰上て蘭印作戦を開始しました。 一方連合軍は、1942/1月にABDA(米英蘭濠)戦域コマンド地域連合司令部(Australian-British-Dutch-American Command, American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM)を設置して、マレー・蘭印への増援を開始。比島・マレーの海空軍部隊は逐次蘭印へ後退して蘭印のABDA地域連合軍とABDA連合艦隊に合流しました。
<帝国軍の兵力> ●帝国陸軍:〜 ・第16軍:軍司令官 今村均中将(1886-1968) 参 謀 長 岡崎清三郎少将(1893-1979) 参謀副長 原田義和少将(1895-1973) ・第二師団〜師団長 丸山政男中将(1889-1957) ・歩兵第4、第16、第29連隊、捜索第2連隊、野砲兵第2連隊、工兵第2連隊基幹 (兵力13,755、3/1佐藤支隊(佐藤正三郎少将)ジャワ島西部メラク東方上陸) ・第38師団〜師団長 佐野忠義中将(1889-1945/7/3仙台で戦病死) ・歩兵第228、第229、第230連隊、山砲兵第38連隊、工兵第38連隊基幹 (香港攻略後、1/4に第23軍から転属) ・師団主力〜歩兵第229連隊基幹 (兵力12,360、2/14スマトラ島上陸) ・東海林支隊〜支隊長 歩兵第230連隊長 東海林俊成大佐(1890-1974) ・歩兵第230連隊基幹 (兵力5,910、3/1ジャワ島中部エレタン上陸) ・東方支隊〜支隊長 第38歩兵団長 伊東武夫少将(1889-1965) ・歩兵第228連隊(連隊長 土井定七大佐、1889-1968、1945/3小蒋)基幹 (兵力5,300、1/31アンボン島上陸、2/20チモール島上陸) ・第48師団〜師団長 土橋勇逸中将 ・台湾歩兵第1連隊、台湾歩兵第2連隊、歩兵第47連隊 ・捜索第48連隊、山砲兵第48連隊、工兵第48連隊基幹 (兵力15,663、3/1ジャワ島東部クラガン上陸) ・坂口支隊 支隊長 混成第56歩兵団長 坂口静夫少将(1887-1947、1943/6中将) ・第56師団歩兵第146連隊基幹(兵力5,200) (12/20ダバオ上陸、1/11タラカン、1/24バリクパパン、3/1ジャワ島東部レンバン上陸) ・戦車第8、第2、第4連隊 ・野戦重砲兵第17連隊 ・高射砲第16、第23連隊 ・独立工兵第1、第3連隊 ・電信第15連隊、自動車第28連隊 ・南海支隊〜不参加 ・第1挺進団(団長 久米精一大佐)〜空挺降下部隊 ・挺進第1連隊(山田秀男中佐) ・挺進第2連隊(大崎邦男中佐) ・航空支援 ・第3飛行集団〜179機 集団長 菅原道大中将(1888-1983) ・蘭印部隊〜50機 ・第11航空艦隊〜190機 ・第1航空艦隊(機動部隊)〜190機 総兵力 107,800人 (兵士97,800、航空部隊地上勤務10,000人) (ジャワ島第一次上陸兵力55,000人) 参考〜 ・帝国歩兵連隊の平時定員:〜 ・1個連隊〜総数:1,721人、軍馬14匹 内訳:将校70、准士官下士官145、兵卒1,440、各部66人 ・3個大隊(大隊=4中隊、約570人) ・12個中隊(中隊=約142.5人、兵=120人)
・第15駆逐隊:黒潮、親潮、早潮、夏潮 ・第16駆逐隊:初風、雪風、天津風、時津風 ・第18駆逐隊:霞、霰、陽炎、不知火 ・第四水雷戦隊(西村祥治少将、1889-1944/10/25スリガオ海峡に山城艦上で戦死) ・軽巡洋艦 那珂(旗艦)、駆逐艦12隻 ・第二駆逐隊 村雨、夕立、春雨、五月雨 ・第四駆逐隊 嵐、萩風、野分、舞風 ・第九駆逐隊 朝雲、山雲、夏雲、峯雲 ・第24駆逐隊 海風、山風、江風、涼風 ・第五水雷戦隊 ・軽巡洋艦 名取(旗艦)、駆逐艦8隻 ・第五駆逐隊:朝風、春風、松風、旗風 ・第22駆逐隊:皐月(さつき)、水無月、文月、長月 ・第17戦隊 ・敷設艦 厳島、敷設艦 八重山、特設敷設艦 辰宮丸(機雷敷設艦) ・海軍陸戦隊 ・根拠地隊 ・第1根拠地隊、第2根拠地隊、第32特別根拠地隊 ・鎮守府隊 ・呉鎮守府 ・呉鎮守府第1特別陸戦隊(呉一特)、呉鎮守府第2特別陸戦隊(呉二特) ・佐世保鎮守府 ・佐世保鎮守府連合特別陸戦隊(佐連特)〜司令官 森国造大佐(1945/5中将) (1890-1949/4/29父島捕虜人肉食事件にて終身刑、蘭軍のセレベス島マカッサルで刑死) ・佐世保第1特別陸戦隊(佐一特)、佐世保第2特別陸戦隊(佐二特) ・横須賀鎮守府(落下傘部隊) ・横須賀鎮守府第1特別陸戦隊(横一特)、横須賀第3特別陸戦隊(横三特) 横一特:司令官 堀内豊秋中佐(1900-1948/9/25メナドにて銃殺で刑死、1944/5/1大佐) ・航空部隊 ・第四航空戦隊 司令長官 塚原二四三中将(1887-1966) 参 謀 長 大西瀧治郎少将(1891-1945/8/16渋谷の官舎で割腹自決) ・航空母艦 龍驤、駆逐艦1隻 ・第11航空艦隊〜(水上機母艦2隻) ・第21航空戦隊(葛城丸) ・第23航空戦隊(竹中龍造少将(陸上基地)、小牧丸) ・落下傘部隊:横一特、横三特 ・馬来部隊(南遣艦隊) 司令長官 小澤治三郎中将(1886-1966)、参謀長 澤田虎夫少将(1891-1958) ・重巡洋艦 鳥海、練習巡洋艦 香椎 ・第七戦隊(栗田健男少将、1889-1977、1942/5中将) ・重巡洋艦 熊野、鈴谷、三隈、最上 ・第三水雷戦隊 ・軽巡洋艦 川内、駆逐艦14隻 ・第四潜水戦隊 ・軽巡洋艦 鬼怒、潜水艦8隻 ・第五潜水戦隊 ・軽巡洋艦 由良、潜水艦6隻 ・第12航空戦隊、第22航空戦隊 ・第九根拠地隊、第11特別根拠地隊 ・横須賀第2特別陸戦隊(横二特、落下傘部隊) <ABDA連合国軍の兵力> ・ABDA地域連合軍:〜蘭米英豪連合軍(ABDA)司令部(COM) (American-British-Dutch-Australian Command, ABDACOM) 総司令官:アーチボールド・ウェーベル大将、1942/2/25ジャワを去りインドへ (在任1942/1/15-1942/2/25、1942/3/6から英インド駐留軍司令官) (英人、Field Marshal Archibald Percival Wavell, 1st Earl Wavell, GCB、1883-1950) ●オランダ東インド(蘭印)軍〜 阿蘭陀東印度陸軍司令部:バタビア、兵力65,000 (Royal Netherlands East Indies Army:KNIL、Batavia, Dutch East Indies) 司令官:ハイン・テル・ポールテン中将(ABDA連合軍の陸軍総司令官) (蘭人、Hein ter Poorten, 1887-1968、帝国捕虜1942/3/9-1945/8/17) ・ジャワ島西部兵団〜司令部:バタビア 司令官:第1師団長ヒスリング少将 (Major-General Wijbrandus Schilling, 1890-1958) ・歩兵第1連隊 ・歩兵第2連隊 ・ブラックフォース(Black Force)〜歩兵2個大隊基幹 ・バンドン地区防衛兵団〜司令官:ペスマン少将(Maj-Gen. Jacob J. Pesman, 1888生) ・歩兵第4連隊 ・ジャワ島中部兵団〜司令官:第2師団長コックス少将(Maj-Gen. P.A.Cox) ・正規連隊なし ・ジャワ島東部兵団〜司令官:第3師団長イルヘン少将(Maj-Gen. G.A. Ilgen) ・歩兵第3連隊 ・米英豪連合軍 (兵力16,000) 総兵力 81,000人 ・ABDA連合国海軍:〜 ●オランダ海軍〜開戦時(1941/12/8)の編成 (Netherlands East Indies Naval Forces、Batavia) ・バタヴィア艦隊:〜 司令官:カレル・ドールマン少蒋 (Luitenant-Admiraal Karel Willem Frederik Marie Doorman、 1889-1942/2/28スラバヤ沖海戦にてデ・ロイテル号沈没で戦死) 後任司令官:コンラッド・ヘルフリッヒ中将(1942/3/2カタリナ飛行艇でセイロン島着) (Luitenant-Admiraal Conrad Emil Lambert Helfrich, 1886-1962) ・軽巡洋艦(light cruiser)〜3隻 ・軽巡デ・ロイテル号 (Hr. Ms. De Ruyter, 排水量6,642t, 32kt, 473人, 1942/2/28スラバヤ沖海戦にて那智、羽黒 の魚雷で沈没、救出17人のみで司令官が戦死) ・軽巡トロンプ号 (Hr. Ms. Tromp, 4,000t, 32.5kt, 380人, 1955退役) ・軽巡ジャワ号 (Hr. Ms. Java, 6,670t, 31kt, 526人、1942/2/27スラバヤ沖海戦にて帝国重巡 那智の雷撃で 沈没、3/1哨戒中の第五戦隊(那智、足柄)と駆逐艦 山風、江風が漂流するジャワ号生存者 を発見、江風が救助37人) ・駆逐艦(destroyers)〜5隻 ・バンケルト号 (帝国が修理後、改名:哨戒艇106号) (HNLMS Banckert, 1,316t, 36kt, 1942/2スラバヤ沈没, 帝国が引上げ) ・ピート・ハイン号 (HNLMS Piet Hein, 1,316t, 36kt, 149人,水偵1機 Fokker, 1942/2/20バリ島沖海戦で沈没) ・ヴァン・ガント号 (HNLMS Van Ghent, 1,316t, 36kt, 149人, 1942/2/15チラチャップ軍港で着底、自沈) ・コルテノール号 (HNLMS Kortenaer, 1,316t, 36kt, 149人, 1942/2/27スラバヤ沖海戦にて羽黒の雷撃で沈没) ・ウィット・デ・ワイズ号(1928) (HNLMS Witte de With、1,316t, 36kt, 149人, 1942/3/2空襲で大破後、スラバヤにて自沈) ・シンガポール艦隊:〜 ・軽巡洋艦(light cruiser)〜1隻 ・軽巡ジャワ号 (Hr. Ms. Java, 6,642t, 32kt, 525人, 水偵2、1942/2/27スラバヤ沖海戦にて那智雷撃で沈没) ・駆逐艦(destroyers) ・エヴェルトセン号(ヴァン・ガレン級:HNLMS Evertsen 1926, 1,316t, 36kt, 149人、水偵1機) (1942/2/19砲撃で大破、1942/3/1バタビア沖海戦で沈没) ・ヴァン・ネス号 (HNLMS Van Nes(1930), 1,316t, 36kt, 120人, 1942/2/17空襲でバンカ海峡に沈没) ・ジャーク・アイデス号 (HNLMS Tjerk Hiddes, 1800t, 183人 1961退役) ・スラバヤ艦隊:〜 ・潜水艦母艦(submarine tenders)〜1隻 ・潜水艦(submarines)〜14隻 ・機雷敷設艦(Mainelayer)〜7隻 ・掃海艇(minesweepers)〜5隻 ・魚雷艇(torpedo boats)〜12隻 ・タンカー(tanker)〜7隻 ・病院船(hospital ship)〜1隻 ・その他〜12隻 ・潜水艦隊 ・蘭潜 K-17号 (HNLMS K-XVII, 865t, 38人, 1941/12/21タイランド湾にて触雷で沈没) ・蘭潜 K-18号 (HNLMS K-XVIII, 865t, 38人、1942/3/2スラバヤ港にて自沈処分後、 帝国が引き上げて対空警戒艦で使用、1945/6/16ジャワ島東のマドゥラ海峡に英潜 タシターン号(HMS Taciturn, 1290t, 61人, 1971退役)の砲撃で沈没) ・蘭潜 O-16号 (HNLMS O-16, 990t, 39人, 1941/12/15タイランド湾にて触雷で沈没) ・蘭潜 O-23号 (HNLMS O-23, 990t, 39人, 1948退役) ・その他 ・航空部隊(Naval Aviation)〜27機 ●オーストラリア海軍 ・豪駆逐艦(destroyers) ・ヴァンパイア号, 1917年 (HMAS Vampire, D68, 1,188t, 34kt, 119人、1942/4/9セイロン島バッティカロア沖を英空母 ハーミーズと航行中、帝国機動部隊艦載機の爆撃で沈没、戦死9) ・豪スループ艦(sloop) ・スワン号(HMAS Swan U74, 1,060t, 16.5kt, 160人, 1962退役) ・ウォリゴ号(HMAS Warrego U73, 1,060t, 16.5kt, 160人, 1966退役) ●アメリカ海軍〜開戦時(1941/12/8)の編成 (米アジア艦隊:United States Asiatic Fleet、1910-1942) 司令官:トーマス・C・ハート大将 (Admiral Thomas Charles Hart, 1877-1971) ・重巡洋艦(heavy cruiser)〜1隻 ・ヒューストン号(USS Houston CA-30, 9,200t, 33kt, 1,061人 1942/3/1バタビア沖海戦でスンダ海峡に沈没、救助368・捕虜) ・軽巡洋艦(light cruiser)〜1隻 ・マーブルヘッド号(USS Marblehead CL-12, 7,050t, 34kt, 458人、後に米へ帰港、1945退役) ・駆逐艦クレメンソン級〜13隻 (4本煙突) (Clemson-class destroyers, 1,215t, 35kt, 95.81x9.35m, 乗員125人) ・ポール・ジョーンズ号(USS Paul Jones DD-230, 1945/11/5退役) ・ジョン・D・エドワーズ号(John D. Edwards, 1,215t, 35kt, 124人, 1945/7/28退役) ・オールデン号(Alden, 1945/7/15退役) ・ホイップル号(Whipple, 1945/11/9退役) ・エドサル号(Edsall, 1942/3/1沈没) ・スチュワート号 (Stewart, 1,215t, 35kt, 101人, 1942/2/20バリ島沖海戦で小破、3/2放棄でスラバヤ軍港浮 ドック共自沈、1942/3/8帝国が修理改名:第102号哨戒艇、帝国敗戦で米1946退役処分) ・バーカー号(Barker, 1,215t, 35kt, 132人, 1945/7/18退役) ・パロット号(USS Parrott) (ボストン出港後、1944/5/2輸送船と衝突事故、1944/6/14ノーフォークで退役) ・バルマー号(Bulmer, 1,215t, 35kt, 122人, 1946/8/16退役) ・ジョン・D・フォード号(USS John D. Ford, 1945/11/2退役) ・ポープ号(USS Pope, 1942/3/1第2次スラバヤ沖海戦で沈没、帝国駆逐艦雷が救助151) ・ピアリー号(Peary, 1942/2/19ダーウィン大規模空襲の急降下爆撃で沈没) ・ピルスバリー号(Pillsbury, 1942/3/2第2次バリ島沖の海戦で沈没) ・駆逐艦母艦(destroyer tender)〜1隻 ・ブラック・ホーク号 (USS Black Hawk AD-9, 5,690t, 471人, 1946退役) ・潜水艦(submarines)〜29隻 ・パーミット号 (USS Permit, SS-178, 1,330t, 50,人 1945/11/15退役) (1942/3/13セブ島(Tagauayan Island)にてPT-32号を帝国の拿捕前に雷撃処分) ・ポーパス号 (USS Porpoise, 1,310t, 50人, 1945/11/15退役) (1943/1/1釜石沖で貨物船連山丸(興国産業、4,999t)を撃沈 '43/4/4エニウェトク環礁北方で特設給糧 船興亜丸(極洋捕鯨、2,024t)を撃沈 '43/7/19ウェーク島とクェゼリン環礁間で海軍徴傭船第21御影丸(武庫汽船、2,718t)撃沈 ・S-36号 (S-36 SS-141, 854t, 42人, 1941/12/30ミンドロ島のカラパン護岸堤に係留の小型貨物船を 撃沈、1942/1/20スラウェシ島南タカ・バカン・リーフで座礁、全員救助マカッサルに生還) ・S-39号 (USS S-39、1942/3/4スマトラ島北ビリトン島近海で給油艦 襟裳(15,400t)を撃沈、松風と 軽巡 由良が特務艦長 相馬信四郎大佐以下162救助、戦死18、1942/8/13座礁・放棄) ・その他 ・潜水艦救助艦(submarine rescue vessel)〜1隻 ・ピジョン号 (USS Pigeon ASR-6, 950t, 72人, '42/5/4空襲でコレヒドール島海岸に沈没、全乗員捕虜) ・潜水艦母艦(submarine tenders)〜3隻 ・ホランド号 (USS Holland AS-3, 8,100t, 16kt, 388人, 1947退役) ・カノープス号 (USS Canopus AS-9, 5,975t, 13kt, 314人, 1942/4/10バターン半島マリベレス湾で自沈) ・オータス号 (USS Otus ARG-20, 5,775 t, 15kt, 644人, 1946退役) ・砲艦(gunboats)〜5隻 ・アッシュビル号(USS Asheville PG-21, 1,207t, 12.0kt, 159人) (1942/3/3帝国の摩耶、野分、嵐と交戦後、バリ島近海に沈没) ・タルサ号 (USS Tulsa PG-22, 1,207t, 12kn, 159人, 1946退役) ・オアフ号 (USS Oahu PR-6, 450t, 15kt, 55人, 1942/5/8コレヒドール島にて帝国の砲撃で沈没) ・ルソン号〜帝国の砲艦 唐津 (USS Luzon PG-47, 500t, 16kt, 80, コレヒドール沖で自沈処分、 1942/8/1帝国が修理後、唐津と改名、1944/3/3スル海東部にて米潜ナーワル(USS Narwhal)の雷撃で大破、マニラに曳航帰投、1945/2/5撤収のため爆破処分) ・ミンダナオ号 (USS Mindanao PR-8, 560t, 16kt, 65人, 1942/5/2マニラ湾で自沈処分) ・掃海艇(minesweepers)〜6隻 ・フィンチ号(USS Finch AM-9, 950t, 14kt, 78人,)〜帝国の哨戒艇第103号 (1942/4/11マニラ湾ギャビテ港にて帝国の空襲で沈没 1943/4/1帝国が修理後哨戒艇第103号と改名,、 1945/1/12ベトナム南部のファンリ沖にて米艦載機の空襲で沈没) ・ビターン号(鳥のヨシゴイの意) (USS Bittern, 840t, 14kt, 72人, 1941/12/10マニラ湾で自沈) ・タナガー号(フウキンチョウの意) (USS Tanager, 840t, 14kt, 8人, 1942/5/4バターン半島の砲撃でコレヒドール島沖に沈没) ・クエイル号(ウズラの意) (USS Quail, 840t, 35kt, 65人, 1942/5/5コレヒドール島にて帝国の空襲などで損傷後自沈) ・ラーク号(ヒバリの意) (USS Lark, 950t, 11.4kt, 72人, 1946退役) ・ホイッパーウィル号(ヨタカの意) (USS Whippoorwill, 840 t, 15kt, 66人, 1946退役) ・タンカー(給油艦, tankers)〜2隻 ・ペコス号(USS Pecos AO-6, 5,723t, 14kt, 317人) (1942/3/1クリスマス島南方にて加賀と蒼龍攻撃隊の空襲で沈没) ・トリニティ号 (USS Trinity AO-13, 5,723t, 14kt, 317人, 1946退役) ・外洋タグボート(ocean-going tugboat)〜1隻 ・ネイパ号 (USS Napa AT-32, 845t, 44人, 1942/4/9コレヒドール島で自沈) ・水上機母艦(seaplane tenders)〜4隻 ・ラングレー号(USS Langley CV-1, 11,500t, 15kt, 468人, 55機) (1942/2/27バリ島の一式陸攻空襲で炎上、チラチャップの南120kmにて自沈) ・チャイルズ号 (元クレムソン級 駆逐艦) (USS Childs DD-241, 1,215t, 35kt, 137人, 1945/12/10退役) ・ウィリアム・B・プレストン号 (元クレムソン級 駆逐艦) (USS William B. Preston DD-344, 1,308t, 35kt, 221人, 1945/12/6退役) ・ヘロン号 (USS Heron AM-10, 840t, 14kt, 78人, 1946退役) ・高速魚雷艇(motor torpedo boats)〜6隻 ・PT-41号、旗艦:3個部隊(Three Squadron)で運用 (PT-41, 40t, 23x6m, 41kt , 15人, 1942/4/15比島攻撃でミンダナオ島ラナオ湖に沈没) ・PT-34号 (PT-34, 1942/4/9ミンダナオ(Kawit Island)にて空襲で大破沈没) ・PT-35号 (PT-35, 1942/4/12セブ島(Visayas Region)にて焼却処分) ・PT-31号 (PT-31, 1942/1/20ルソン島(Subic Bay)にて自沈) ・PT-32号 (PT-32, 1942/3/13セブ島(Tagauayan Island, Visayas)にて米潜(USS Permit)が処分) ・PT-33号 (PT-33, 1941/12/15ルソン島(Subic Bay)にて自沈) ・スクーナー型機帆艦(masted schooner)〜1隻 ・ラニカイ号(USS Lanikai 1914, 340t, 26人, 1942豪へ、1945/8/22退役) ・哨戒ヨット(patrol yacht)〜1隻 ・イサベル号(USS Isabel PY-10, 710t, 103人, 1946退役) ・その他小艦艇 ※数字には諸説有 なお、ABDA連合艦隊は1942/1月にオランダのカレル・ドールマン少蒋を司令官として設置され、バリクパパン沖海戦(1/24)、エンドウ沖海戦(1/27)、ジャワ沖海戦(2/4)、ガスパル海峡海戦(2/15)、バリ島沖海戦(2/20)の後に、日本軍のジャワ島侵攻に際して発生したスラバヤ沖海戦(2/27-3/1)、バタビヤ沖海戦(2/28-3/1)で、主力艦隊が壊滅しました。スラバヤ沖海戦で脱出に成功したのは、アメリカ海軍の駆逐艦4隻(ポール・ジョーンズ号、ジョン・D・エドワーズ号、オールデン号、ジョン・D・フォード号)だけでした。 ▼蘭印攻略作戦〜(経過) 蘭印作戦は、マレー沖海戦でイギリス軍の戦艦2隻が撃沈され、地上部隊も快進撃を続けるなど、主にマレー方面で戦況が極めて有利に進展していたので、大本営と南方軍はジャワ島上陸の日程を開戦時の計画から1ヵ月繰り上げ、1942/1/11にオランダ領タラカンとメナドへの進攻を始めて蘭印作戦が開始されました。その前に帝国は蘭印作戦の前進基地となるダバオを攻略しました。ダバオを攻略すると、蘭印各地の飛行場と重要な港湾へと兵を進めました。
参考HP〜 ・ダバオの戦いの地図(坂口支隊の侵攻地図)
▽両軍の兵力:〜 ○帝国軍の編成:〜 ・坂口支隊(第56師団基幹、混成第56歩兵団) (歩兵第146連隊と野砲兵第56連隊第1大隊を基幹、坂口静夫(1887-1947)少将) ・軽装甲車集団 ・第146歩兵連隊基幹 ・Iコ大隊 第56野戦砲兵連隊 ・1コ中隊, 工兵隊 ・2コ中隊, 歩兵隊 ・海軍呉特別陸戦隊 ・油田地帯攻略部隊 ・飛行場制圧部隊、など 総兵力 約6,600人(戦死255人) ○蘭印軍の編成:〜 (Royal Netherlands East Indies Army:Koninklijk Nederlands Indisch Leger; KNIL) タラカン島守備隊 ・タラカン守備大隊 (KNIL第7歩兵大隊) ・機関銃中隊 ・装甲車7輌 ・3コ海岸砲大隊 ・2コ車載海岸砲大隊 (75mm砲3門、70mm砲2門) ・5コ海岸砲台 (120mm砲2門、75mm砲10門、37mm砲3門) ・2コ砲兵隊 (40mm砲4門、20mm砲4門) ・4コ機関銃小隊 (各12.7mm機銃3丁) ・2コ工兵小隊 ・機械化救急小隊、など 総兵力 約1,300人(ほとんど全滅) ・帝国艦艇の損害:〜 1942/1/12タラカン島陸上砲台の攻撃で沈没 ・掃海艇2隻、第13号、第14号 (2)バリクパパンの戦い、1942/1/24 (Battle of Balikpapan) 1942/1/21坂口支隊がタラカンを出発して、1/24未明にボルネオ島東岸(現:インドネシアの東カリマンタン州)バリクパパンへ上陸。主力は無事に上陸したものの、アメリカ海軍の駆逐艦4隻による急襲を受け、輸送船2隻が沈没し39人の戦死者を出しました(バリクパパン沖海戦)。1/25迄に坂口支隊はバリクパパン一帯の占領を完了。陸上における戦死は8人でした。 (3)バンジェルマシンの戦い、1942/2/10 (Battle of Banjarmasin) バンジャルマシン攻略はバリクパパン沖海戦で輸送船5隻を喪失したため、坂口支隊が陸路攻略することになりました。バンジェルマシンまでの移動距離は400kmになると見積もられ、うち100kmはジャングル地帯でした。坂口支隊は1/30にバリクパパンを出発。マラリアや蛭に悩まされながらジャングル地帯を切り開き、2/10に先頭部隊がバンジェルマシンの飛行場を占領。損害はマラリアによる戦病死9人でした。 参考HP〜 ・タラカンの戦いの地図(坂口支隊の侵攻地図) ・タラカン島の場所地図(GoogleMap, セレベス海の地図) ・バンジェルマシンの戦いの地図(支隊の侵攻地図) ・バンジェルマシンの場所地図(蘭領ボルネオ攻略、坂口支隊の進撃地図)
▽両軍の兵力:〜
○帝国軍の編成:〜 蘭印部隊(第3艦隊) ・旗艦 重巡洋艦 足柄、(CA-) 司令長官:高橋伊望中将(1888-1947)座乗 セレベス攻略護衛艦隊(第2水雷艦隊) ・旗艦 軽巡洋艦 神通、(CL-) 司令官:田中頼三少蒋(1892-1969) ・第15水雷戦隊 ・駆逐艦 大潮、朝潮、夏潮、黒潮、親潮、早潮、(DD-) ・第16水雷戦隊 ・駆逐艦 雪風、時津風、初風、天津風 ・第11水上機戦隊 司令官:藤田類太郎少蒋 ・水上機母艦 千歳、瑞穂、(CV-) ・哨戒艇 第39号 ・第1水雷艦隊 ・旗艦 軽巡洋艦 長良 司令官:久保久治少蒋 ・哨戒艇 3隻、1号、2号、34号、(P-) ・掃海艇 5隻、第21掃海隊、7号, 8号, 9号, 11号, 12号、(W-) ・駆潜艇 3隻、第1駆潜隊、1号、2号、3号、(Ch-) ・第5水雷戦隊 ・重巡洋艦 那智、羽黒、妙高 ・第6水雷戦隊 司令官:高木武雄少蒋 ・駆逐艦 雷、電 ○蘭印軍の編成:〜 (メナド市、ランゴアン飛行場、トンダノ水上機基地などの防衛隊) ・ヴィッカーズ民兵隊(Compagnie Menado, Vickers machine-gun)、188人 ・自動車部隊(Mobiele Colonne)45人、対落下傘部隊の対策隊 ・退役軍人隊(Reserve Korps)、50才以上 ・コルト・ヴェルバンド隊(Kort Verband Compagnie)、135人(15x9分隊) ・欧州民兵隊(European Militia)、200人 ・メナド民兵隊(Menadonese Militie Compagnie)、400人 ・メナド防衛隊(Home Guard)、100人、古い猟銃を装備 ・砲兵小隊(Artillery guns)、75mm砲x2門 ・トンダノ湖砲台(Lake Tondano)、37mm砲x3門 ▽両軍の損害:〜
(3)マカッサルの戦い、1942/2/9 (Battle of Makassar, Sulawesi Island) 1942年になると蘭印軍は1月末までにセレベス島マカッサルの欧州人婦女子をジャワ島へ脱出させ、現地人兵の家族は山奥へ避難させました。そこへ、1942/2/9に帝国海軍の攻略部隊(佐連特2,500人)がマカッサルに上陸して飛行場を占領しました。蘭印軍約1,000人は内陸部に退いてゲリラ戦を展開するも、司令官ヴゥーノン大佐(Colonel M. Vooren)は降伏しました。その後、捕虜の労役でマカッサル飛行場(現:ハサヌディン国際空港、Sultan Hasanuddin International Airport)が拡張整備されました。なお、2/9に駆逐艦 夏潮が米潜S-37号(USS S-37, 854t, 42人, 1945/2/6退役)の雷撃でマカッサル沖の海峡にて撃沈されました。 参考HP〜 ・メナドの場所地図 ・セレベス島メナドの場所地図 ・セレベス島ケマの場所地図(ケマとケンダリー有) ・セレベス島の地図(日本語) ・スラウェシ島の地図(詳細地図) ・マカッサルの地図(Google Map、日本語)
帝国の修理・増設で使用可能になったアンボン島と近隣の飛行場 ・ラハ〜アンボン島中南部 ・リアン(Liang)〜島北端 ・ハルク〜ハルク島 ・カイラトゥ(Kairatu)〜リアンにも近い ・アマハイ(Amahai)〜中西部の南岸 ・ブラ(Bula)〜石油を産出する所 ・ナムレア飛行場〜ブル島 その後、リアン飛行場は第7飛行師団(須藤榮之助中将)の第3飛行団(塚田理喜智少将)飛行第5戦隊(小松原虎男中佐)が、二式複座戦闘機(愛称:屠龍)の基地として使用しました。 ・ラハ捕虜虐殺事件 (Laha massacre of 1942) 帝国軍のアンボン島占領後、ラハ飛行場近くで連合軍捕虜約300人が虐殺され、敗戦後に戦犯が裁判で裁かれました。戦犯3人:畑山海軍少蒋(Rear Admiral Kouichiro Hatakeyama、戦死)、畑山海軍大佐(Commander Kunito Hatakeyama)、中川海軍中尉(Lieutenant Kenichi Nakagawa)。1990年にオーストラリアで制作された映画「アンボンで何が裁かれたか」(Blood Oath/Prisoners of the Sun)で、帝国軍による連合軍捕虜虐殺事件に関する軍事裁判が詳しく描かれました。 参考HP〜 ・アンボンで何が裁かれたか(オーストラリア映画、渡辺哲さんが池内大佐役で出演) ▽両軍の兵力:〜
○帝国軍の編成:〜 ・東方支隊〜第38師団歩兵第228連隊基幹 支隊長:第38歩兵団長 伊東武夫少将(1889-1965) ・呉第1特別陸戦隊 ・特設給兵船 ・山浦丸、あふりか丸、善洋丸、三池丸 (揚陸場所は、アンボン島東ホウトウモリ岬の南西海岸) ▽両軍の損害:〜
参考HP〜 ・アンボンの戦いの地図(若林中隊などの進撃地図) ・アンボン島の場所地図(日本語) ・アンボン島の地図
・第一次急襲作戦〜攻略部隊〜 ・海軍部隊 ・第8駆逐艦隊〜司令官 阿部俊雄大佐(1896-1944/11/29空母信濃艦長で戦死:少将) ・駆逐艦 大潮(旗艦)、朝潮、満潮、荒潮 ・陸軍部隊(第48師団) ・金村支隊〜台湾歩兵第1連隊第3大隊長 金村亦兵衛少佐(第48師団の一部) ・台湾歩兵第一聯隊第3大隊 ・歩兵1大隊(1中隊欠)、山砲1小隊、独立工兵1小隊基幹 ・特設給兵船(陸軍輸送船)2隻 ・相模丸(部隊揚陸後に空襲で小破)、笹子丸に乗船 ・第五設営班 ・補給部隊 ・マカッサル海峡部隊 ・測量艦 筑紫(1,400t, 128人、 1943/11/4カビエン港近くエドマゴ島付近で触雷・沈没) ・急設網艦 蒼鷹(1,600t, 195人, 1944/9/26ボルネオ北方にて米潜パーゴ号(USS Pargo, SS-264, 1,525t, 60人, 1946退役)の雷撃で沈没) ・第2駆潜隊、第1号駆潜艇 ・ケンダリー部隊 ・白山丸、君島丸 ・第52駆潜隊、第1駆潜隊、いくしま丸 ・支援隊〜第一根拠地隊司令官 久保九次少将 ・軽巡洋艦 長良 ・第21駆逐隊 若葉、子日、初霜 ・第二次輸送作戦 ・第8駆逐隊による第一次急襲作戦成功後 ・軽巡 長良を旗艦とする第2次輸送作戦を実施 1942/2/18午前1時、陸軍金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)乗船の輸送船2隻が第8駆逐隊の駆逐艦3隻に護衛されて、マカッサル泊地を出港。2/18午後23:00バリ島サヌール泊地沖に到着、直ちに同泊地へ進入して上陸を開始。無抵抗で24:00上陸を完了。戦前からバリ島に住んでいた三浦襄氏の案内で懐中電灯を照らしながらテンパサルへと前進し、2/19午前3:00頃に無人のテンパサル兵舎を占領。住民の証言で蘭印人はジャワ島へ、現地人兵は山奥へ逃亡と判明。デンパサルから9kmのベノア港とクタ空港を占領(午後13:30)。陸上部隊が順調に進撃する中、停泊中の艦艇は連合軍の空襲(小数機による反覆攻撃)で、相模丸が被弾(片舷航行可能状態)。午後17:00輸送船の揚陸はほとんど終了、空襲を避けるため大潮、朝潮、笹子丸が一時ロンボック海峡北側へ退避。損傷した相模丸は第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)に護衛されてマカッサルへ退避を始めるも、2/20バリ島沖海戦(バドゥン海峡海戦)が勃発しました。2/27金村支隊が北部のシンガラジャ市を占領。3/8帝国軍がバリ島全体を占領。 参考HP〜 ・バリ島の場所地図(Google Map、日本語) ・バリ島の地図 ・バリ島南部の地図 (デンパサルとトゥバン(クタ)飛行場(デンパサル国際空港)、ベノア港、サヌール海岸、有)
ポルトガルは第二次世界大戦では中立の立場を取っていましたが、1941/12/17チモール島東部ポルトガル領(総督:Antonio de Oliveira Salazar)へ帝国軍の利用を警戒したオランダ軍とオーストラリア軍(計400人)が侵攻して保障占領されました。ポルトガルのアントニオ・サラザール首相はイギリスに対して抗議し、12/19ポルトガルの議会でイギリスへの糾弾を演説。1942/2/20帝国軍がティモール全島を占領し、ポルトガル領ティモールも事実上は帝国軍の統治下となりました。 ・帝国の侵攻 ポルトガル領ティモールへは、1942/2/19深夜に帝国第16軍38師団第228連隊(連隊長 土井大佐)の別動隊1,500人がポ領ディリへ上陸を開始。飛行場(現:プレジデンテ・ニコラウ・ロバト国際空港)駐屯豪州第40大隊(2/40th Battalion, Australia)愛称:スパロー・フォース(Sparrow Force)第2分隊(18-strong Australian Commando No. 2 Section、隊長スペンス少佐:Major Alexander Spence)が迎撃するも、最初の1時間に戦死200人、帝国は戦傷7人のみで、豪州兵は降伏したにも拘らず、皆殺しにされました。降伏せず生き残った豪州兵200人は山越えで、ストラッテン中佐の蘭兵200人は南西国境へ、現地兵は山奥へと逃亡し、ゲリラ戦を展開することとなりました。 ▽両軍の兵力:〜(ポ領ディリ戦)
・帝国陸軍の侵攻 1942/1/26、1/27の両日、帝国がターバン他を空襲。2/19深夜、東方支隊第228連隊歩兵第228連隊(連隊長 土井大佐)主隊(第1、第3大隊)4,000人が無防備のチモール島南西のクーパン前方マリ岬パハ川(Paha River)に九四式軽装甲車(通称:豆タンク)5台を揚陸して上陸。直ぐに北の蘭軍撃滅(飛行場)へと進軍。豪州スパロー・フォース第40大隊(40th Battalion)と蘭印軍650人(ストラッテン中佐:Lt Col. Nico van Straten)がウスア峠(Usua Ridge)で迎撃。帝国軍は少なくとも死傷者123人の損害を受けました。ウスア(Usua)のABDA本部は遠くの補給基地シャンプロン(Champlong)へ撤退しました。
13:00、ババウ部落東端のトーチカと戦車、装甲車で連合軍が迎撃 17:00、マリ岬から退却して来た豪州軍の大部隊が合流、激戦 ジャングル戦に慣れていない横三特が甚大な被害を蒙る 2/20夜間、横三特が方向を転換、敵側面を迂回してジャングル地帯を飛行場へと進軍 2/20深夜、連合軍が燃料タンクや倉庫に火を放ち、飛行場を爆破して退却 2/21夕刻、横三特が飛行場南方4kmに到着 飛行場に着くと、すでに陸軍部隊が確保済 参考HP〜 ・海軍落下傘部隊チモール島奇襲(帝国のニュース映画) 2/23豪州兵は食糧も水もなくなり、重軽傷132人となったので、降伏。豪州兵第40大隊は戦死84、戦傷132人。第2コマンド中隊(2nd Independent Company)本部の豪蘭兵290人は国境を山越えでシャンプロンへ、ストラッテン中佐の蘭兵200人は南西国境へと逃亡しました。 ▽両軍の兵力:〜
参考HP〜 ・チモール島の地図(帝国の上陸場所地図、クーパン・ディリ) ・チモール島の地図(帝国のパハ川上陸とクーパン空挺降下場所地図 ・チモール島の地図(Google Map、日本語)
ジャワ島東部のクラガンに上陸した第48師団はジャワ島東部の中心都市スラバヤへ向けて進撃、各地で蘭印軍を圧倒、3/7に東部兵団司令官イルヘン少将が降伏しました。坂口支隊はクラガンに上陸し、寡兵で400kmを主として鹵獲貨物自動車で踏破して、10ヵ所の蘭印軍陣地を突破し、3/7にチラチャップへ突入。チラチャップの連合軍は翌日に無条件降伏しました。 ジャワ島中部のエレタンに上陸した東海林支隊(第38師団)は第2師団のバタビア攻略を支援するため、カリヂャチィの飛行場へと進軍。午後に飛行場を占領、守備隊は撤退。3/3航空隊が到着するも、バンドン要塞から強力な連合軍の反撃で苦戦するも、航空支援で撃退。3/5バンドンへと進軍を開始して、3/7バンドン防衛司令官ペスマン少将が降伏。3/8蘭印総督スタックハウエルが無条件降伏を受諾。3/9ラジオ放送で降伏の指示が蘭印の全軍へ伝達され、3/12バンドン東方の英豪軍8,000人が降伏して、連合軍全体の降伏が完了しました。 ▽両軍の兵力:〜
○帝国軍の編成:〜 ・ジャワ攻略戦の帝国軍兵力〜第16軍々司令官 今村均中将 <西部ジャワ作戦> ・第2師団々長 丸山中将〜兵力13,755人 上陸時、第2師団を分割 メラクとその東方のバンタム泊地〜上陸 現:バンテン州チレゴン市メラク港付近のバンテン湾海岸 (Port of Merak, Cilegon city, Banten province, Indonesia) ・第2師団主力 メラク東方のバンタム泊地〜上陸→バダビア→バンドン ・那須支隊(支隊長 第2歩兵団長 那須弓雄少将、1892-1942/10/26ガ島で戦死) メラク東方のバンタム泊地〜上陸→ボイテンボルグ→バダビア→バンドン 3/6ボイテンボルグ(世界一の植物園有)を占領 ・第16連隊 ・捜索第2連隊 ・第2野戦砲兵連隊第1大隊 ・第2工兵連隊第1中隊 ・自動車輸送隊〜2コ中隊 ・福島支隊(支隊長 福島久作大佐、1945/3/1少将) メラク〜上陸→ボイテンボルグ→バダビア→バンドン ・第4連隊基幹 ・第2野戦砲兵連隊第2大隊 ・第5対戦車大隊 ・第2工兵連隊第2中隊 ・佐藤支隊(支隊長 佐藤半七大佐、在任1939/8/1-1942/8/1) メラク〜上陸、1942/3/5/21:00バダビア無血入城・占領 ・第29連隊(連隊長 佐藤大佐) ・第2戦車連隊 ・第2野戦砲兵連隊第1中隊 ・第2工兵連隊 <中部ジャワ作戦> ・東海林支隊々長 東海林大佐、兵力5,910人 中部エレタン上陸→カリヂャチィ飛行場→バダビア→バンドン要塞攻略 現:西ジャワ州インドラマユ県カンダラハウ地方エレッタン湾エレタンウェタン付近 (Eretan Bay, Eretan-wetan, Kandanghaur, Indramayu, West Java) ・第38師団第230連隊(連隊長 東海林大佐) ・第1挺身隊(1コ大隊基幹)、カリジャティー飛行場(Kalidjati airfield)攻略 (若松満則少佐、1904-1945/9/2自決、1944中佐) ・第2挺身隊(1コ大隊基幹)、チカンベック攻略(バタビア〜バンドン鉄道遮断) (江頭多少佐、陸士42期) ・山砲隊〜1コ大隊 ・工兵隊〜1コ中隊 ・対戦車隊〜1コ大隊 ・軽戦車隊〜1コ中隊 ・高射砲隊〜1コ大隊 ・独立工兵隊〜2コ中隊 ・橋梁資材中隊〜1コ小隊 ・自動車輸送〜1コ中隊 ・第40泊地司令部〜1部 ・飛行場大隊〜1部 <東部ジャワ作戦>上陸後、第48師団を分割 ・第48師団々長 土橋中将〜兵力15,663人 クラガン〜上陸、1942/3/7スラバヤの蘭印東部兵団司令官イルヘン少将が降伏 ・第48師団主力 クラガン〜上陸、 ・今井隊(右翼隊)(今井一二三少蒋、陸士30期) ・第1連隊 ・山砲隊〜1コ大隊 ・工兵隊〜1コ中隊 ・阿部隊(左翼隊) ・第48師団本部要員 ・第47連隊 ・山砲隊〜1コ大隊 ・工兵隊〜1コ中隊 ・田中セプ(Cepu)急襲隊(田中徹大佐) ・第2連隊(Formosan Infantry Regiment) ・山砲隊〜1コ大隊 ・工兵隊〜1コ中隊 ・北村ボジョネゴロ(Bojonegoro)急襲隊(北村九郎中佐) ・第48偵察連隊 <南部ジャワ作戦> ・坂口支隊(坂口静夫少将(1887-1947、1943中将)〜兵力5,200人 ・第56師団第12旅団改編、混成第56旅団改編、1941/11坂口支隊 レンバン〜上陸→ジョグジャカルタ→1942/3/7チラチャップへ突入 ・山本挺進団(山本大佐) ・第124連隊第1大隊 ・金氏挺進団(金氏少佐) ・第124連隊第2大隊 ・松本挺進団(松本中佐) ・第124連隊第3大隊 総兵力 約55,000人(第一次上陸) ・航空支援 ・第3飛行集団(集団長 菅原道大中将)〜179機 ・蘭印部隊〜50機 ・第11航空艦隊(基地隊)〜190機 ・第1航空艦隊(機動部隊)〜190機 (第16軍主力の地上作戦には第3飛行集団が支援) (第48師団の地上作戦には海軍機が直接支援) ○連合軍の編成:〜 ・オランダ東インド総督チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル (Tjarda van Starkenborgh Stachouwer, 1888-1978、捕虜1942/3/8-1945/8/16) ・地域連合軍総司令官 アーチボールド・ウェーベル大将 ・ABDA司令部陸軍総司令官 ハイン・テル・ポールテン中将 ・西部ジャワ兵団 ・司令官ヒスリング少将 ・中部ジャワ兵団 ・司令官コックス少将 ・パンドン地区防衛兵団(司令官ペスマン少将) ・東部ジャワ兵団 ・スラバヤ地区防衛兵団(司令官イルヘン少将) 総兵力 約81,000人 <ジャワ島に4ヵ所から上陸>(3/1、バタビア沖海戦の数時間後) ・西部メラク〜第2師団、兵力13,755 ・師団主力隊(メラク東方バンタム泊地)〜神州丸の船団がバンダム泊地に入泊、上陸 ・佐藤支隊(メラク東方バンタム泊地) ・那須支隊(メラク)〜あきつ丸の船団がメラク泊地に入泊、上陸 ・福島支隊(メラク) ・中部エレタン〜東海林支隊、兵力5,910 ・第1挺身隊 ・第2挺身隊 ・東部クラガン〜第48師団、兵力15,663 ・師団主力隊 ・今井右翼隊 ・阿部左翼隊 ・田中セブ急襲隊 ・北村ボジョネゴロ急襲隊 ・東部レンバン〜坂口支隊、兵力5,200 (1)<西部ジャワ作戦> ・第2師団は上陸時に分離して、ジャワ島西部メラクとメラク東方バンタム湾から海岸に上陸 ・第2師団主力 メラク東方バンタム湾バンタム泊地から海岸に上陸、 バタビア(現ジャカルタ)を攻略後、 東海林支隊と協力してバンドン要塞を攻撃 ・佐藤支隊 メラク東方バンタム湾メラク泊地から海岸に上陸、 バタビアを攻略 ・那須支隊 メラクの海岸に上陸、 バタビア南ボイテンボルグ(現ボゴール)を占領して、 バンドン要塞と首都バタビアの連絡路(鉄道有)を分断 ・福島支隊 メラクの海岸に上陸、 佐藤支隊と共にバタビアを攻撃 昭和17年(1942)
・スンダ海峡の場所地図(メラク(Merak)、バンテン(Banten)有) (2)<東部ジャワ作戦> ・第48師団はジャワ島東部クラガンに上陸、スラバヤを攻略 昭和17年(1942)
(3)<南部ジャワ作戦> ・坂口支隊はレンバンに上陸、400kmを踏破、 ジャワ島南部チラチャップ(Cilacap)を攻略 昭和17年(1942)
(4)<中部ジャワ作戦> ・東海林支隊はジャワ島中部エレタン泊地バトロール海岸に上陸、 約20km先のカリヂャチィ飛行場を占領して第2師団のバタビア攻略を南方から支援、 飛行場から約30km先のバンドン要塞の攻略戦を戦う 昭和17年(1942)
▽両軍の損害:〜
自動車9,500両、鉄道車両7,108両 ・ジャワ島攻略の略年表 昭和17年(1942)
参考HP〜 ・蘭印攻略の戦いの地図(坂口支隊進撃の地図) (ダバオ・ホロ島・タラカン・コタバル・スラバヤ・チラチャップ・バンドン・バタビア有) ・ジャワ作戦の地図(ジャワ島作戦全図) ・ジャワ作戦の地図(ジャワ島上陸作戦4ヵ所) ・ジャワ島上陸の場所地図(Japanese Landing on Java)3ヵ所の上陸地点) ・ジャワ作戦の場所地図(帝国の蘭印侵攻地図) ・ムルデカ17805 (2001年公開、インドネシア独立戦争に関わった日本兵を描く日本映画) ・ジャワ島の地図(日本語、詳細地図)
3/27蘭軍2,000人(オブヒアーカー少将:Major General R. T. Overakker)が北スマトラのクタチャン(Kutatjane)付近で降伏して、スマトラ島の戦いは終わりました。連合軍兵多数が鉄道のパカンバル駅(Pekanbaru)とモエラ駅(Moera)の中間付近の捕虜収容所に収容されました。
なお、第1挺進団は挺進第1、第2連隊を有していたものの、挺進第1連隊は1/3に乗船 明光丸が積載品の自然発火で沈没し、乗船者は護衛の駆逐艦に救助されるも、兵器資材の全てを失いました。そのため空挺降下は挺進第2連隊の329人だけで実施されました。死傷者は降下人員(329)中、戦死39、戦傷入院37、戦傷在隊11人でした。 第38師団主力も2/14にバンカ島に到着、2/15に先遣隊がパレンバンに到着。師団主力は2/18にパレンバンに到着、周辺地域を確保して空挺作戦の目的を完全に達成しました。なお、日本内地においては「強力なる帝国陸軍落下傘部隊は…」で始まる 2/15, 17:10の大本営発表第192号で、挺進連隊の活躍とパレンバン空挺作戦の成功が発表され、陸軍落下傘部隊は「空の神兵」として大いに宣伝されました。 こちらで ・ジャワ海の制海権を巡る海戦 ・スラバヤ沖海戦 をお楽しみください。 参考HP〜 ・スマトラ島の地図(詳細地図) ・スマトラ島の地図(GoogleMap、日本語) ・スマトラ島の地図(GoogleMap、ウェー島(サバン)、バンダ・アチェ、Idi、メダンなど有) ・スマトラ島の戦いの地図(スマトラ島東部有) ・スマトラの戦いの地図(スマトラ島西部の地図) ・スンダ海峡付近の地図(スンダ海峡:スマトラ島とジャワ島間の海峡) ・スンダ海峡の場所地図 ・スマトラ島の油田地帯の場所地図(マレーから蘭領東インドの地図) ・帝国の侵攻の地図(1942年夏(占領)の時点) ・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。 15/8/15 |