★ロシア |
クルーゼンシュテルン提督
|
大航海物語★ |
ROSSIJA POCCUST 世界1周航海の航海地図、ナジェージタ号 |
|
クルゼンシュテルン | |
クルーゼンシュテルン提督の航海190年記念 ロシア 1994/11/22 発行 |
|
ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
corner label |
ESTONIA クルーゼンシュテルン提督とナジェージタ号、ネヴァ号 エストニア 2003/8/6 発行 |
日本郵便 NIPPON |
||||||||
|
北海道と北方4島 日本 2005/8/22 発行 |
←エトロフ(択捉)島 ←クナシリ(国後)島 ←シコタン(色丹)島 ←ハボマイ(歯舞)諸島 ←ラッコ |
||||||
|
FIJI 太平洋 と 世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
US AIR MAIL アラスカ州の地図 アラスカ州昇格記念 アメリカ 1959/1/3 発行 |
←シトカ |
クルーゼンシュテルンはエストニア出身のロシア海軍提督であり探検家で、ロシアで最初に世界一周航海を成し遂げました。彼はこの航海で「日本海」を通り、後に彼が作成した地図には「日本海」を”MER DU JAPON”と記し、「日本海」を最初に命名した人物となりました。 |
アダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン (1770/11/19〜1846/8/24) Adam Johann von Krusenstern Ivan Fedorovic Kruzenーtern、イワン・フェドロヴィチ・クルーゼンシテルン ロシア帝国海軍探検家 (Russian Naval Explorer) ロシア科学アカデミー会員 (1827) ロシア帝国海軍大将 (1841) バルト・ドイツ人(Baltic Germans) エストニア生、エストニア:76才没 クルーゼンシュテルンはエストニアのハグディ(Hagudi、現在のラプラ近郷)で生まれました。彼の生家はバルト・ドイツ人で、スウェーデンの貴族でエストニアがロシアに割譲された後も当地に留まったクルーゼンシュテルン家の子孫でした。1787年に17才で、海軍士官学校を卒業してロシア帝国海軍に入隊しました。 1793〜1799年までの間はイギリス海軍に派遣されて、学びながら軍務につきました。1803年にロシア皇帝アレクサンドル1世(Alexander I、1777-1825)の命により、露米会社のニコライ・レザノフ男爵(Nikolay Petrovich Rezanov 1764-1807)の支援下で、ロシア最初の世界一周探検航海艦隊の指揮官に指名されました。クルーゼンシュテルン司令官は旗艦ナジェージタ号(Nadezhda=希望号 Hope)に乗艦、ネヴァ号(Neva)は艦長ユーリ・リシアンスキー少佐(Lieutenant Commander Yuri Fyodorovich Lisyansky 1773-1837)が乗艦し、艦隊の隊長は遣日使節ニコライ・レザノフでした。ナジェージタ号にはベリングスハウゼンが乗艦して世界周航に参加していました。 ・世界一周探検航海(1803-1806)の目的は、 ・ロシア帝国の太平洋航路の開拓 ・中国の「清」および「日本」との交易の確立 ・南米との交易拡大 ・カリフォルニアをロシアの植民地にするための事前調査 ・津太夫ら4人の日本人漂流民の本国送還など 2隻の艦隊は遣日使節ニコライ・レザノフと仙台藩出身の津太夫ら4人の日本人漂流民、ロシアやヨーロッパ各地の博物学者・天文学者・画家らを乗せ、バルト海のペトログラード(サンクトペテルブルク)から西に約30kmのコトリン島にあるロシア海軍の軍港都市クロンシュタット(Kronstadt)を出帆しました。 1803/7/18、2隻がロシアのクロンシュタット軍港を出帆 1803/08/8、デンマークのコペンハーゲンを経て、イギリスのファルマス港に寄港 1803/10/8、カナリア諸島のテネリフェ島サンタクルス港に寄港 1803/12/9、2隻はブラジルのリオ・デ・ジャネイロ近郊サンタサンタカリナ島に寄港、 ネヴァ号の修理で1ヶ月半ほど滞在 この時間を利用して学者たちは海洋生物の調査を行い、クラゲなどの新種を発見 1804/1、2隻はブラジルを出帆、ナジェージタ号は難所マゼラン海峡を通過するのに1ヵ月を要し、 マゼラン海峡を回って太平洋に向かうも、ホーン岬に向かったネヴァ号を見失う 1804/4、ナジェージタ号はフランス領ポリネシアのマルケサス諸島ツアモツ諸島のティケハウ環礁 (Tikehau-Atoll)に到着、周辺は波も高く船着き場を求めてかなりの時間を要しましたが ヌク・ヒバに停泊。ブラジルを出て以来、3ヵ月もの間、陸に上がらなかった一行は旅の 疲れを癒しながら滞在しました。ここで彼らは、3年前の紛争でこの島に置き去りにされた後 島の首長の身内と結婚して暮らしていたロバーツというイギリス人に出会いました。同じよう な境遇にあったフランス人ジョゼフとは仲が悪く(一説ではジョゼフが島の案内役を務めた とも)、クルーゼンシュテルン一行は彼らの案内で原住民との物々交換や島の自然の観察、 聖地の確認など、多くの収穫をあげました。ナジェージタ号に乗艦していた研究者たちは 地理や生物学の研究に熱中、「マルケサスバト」という新種のハトを発見しました。停泊地で 常に見聞を広めていた日本漂流民の太十郎も見聞につとめました。 1804/5、ネヴァ号がヌク・ヒバに到着、2隻は航海の間、詳細な地図と記録、動植物の標本を作成 クルーゼンシュテルン司令官とレザノフ隊長とは事あるごとに対立 その後、2隻でサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)に向かい出帆 出帆前夜にロバーツとジョゼフは船に招かれ酒席を伴にするも、深夜にロバーツは泳いで 島に戻り、熟睡していたジョゼフが目覚めた時には船が外洋に出ていたことに驚く 艦隊はギルバート諸島、マーシャル諸島のアイルク環礁(Ailuk-Atoll)を探検した後に、 太平洋を東に航海
1804/8、ナジェージタ号はペトロパブロフスクを出帆、 日本海を通って長崎に向かう 1804/9/4、ナジェージタ号が長崎に入港(文化元年) 津太夫をはじめとする日本漂流民の護送を行なおうと幕府と通商交渉するも、 半年近く待たされたすえ、結局交渉は拒絶されて、 長崎での幕府との交渉は不調に終わる 1804/9/14、幕府はナジェージタ号を湾の入り口にある神崎沖に移すよう要求。 日本人漂流民は取り調べのため江戸へ向かいました。 ナジェージタ号はここでしばらくの間滞在することになりました。この待機期間を使い、 クルーゼンシュテルンは対馬海峡から日本海を北上し、北海道に上陸しました。 このときクルーゼンシュテルンが「日本海」の呼称に関する最初の国際的定義を行う 一行は北海道の宗谷湾に寄港してアイヌ人と交渉を持ち、この航海で日本地図を作成 1805年、(文化2年)、日本人漂流民は江戸に到着 1805/3、ナジェージタ号は長崎を出帆。 日本人との紛争が相次ぎ、レザノフの勧めもあって出帆、ペトロパブロフスクへ向う 1805/6、ナジェージタ号は再びペトロパブロフスクに入港し、レザノフは下船 1805/7、クルーゼンシュテルンはナジェージタ号でサハリン近海の探検に出帆、千島列島 (Kuril Islands)を経て、サハリン北端まで探検後、次第に水深が浅くなったために探検を断念 1805/8、サハリン(樺太)から、ペトロパブロフスク・カムチャツキー港に帰港 その後、マカオへと出帆後、マカオに到着、ネヴァ号と再会して中国の調査を実施 1806/7/22、喜望峰経由で、3年に渡る世界一周航海を果たしクロンシュタット軍港に帰港。 1806年、母港クロンシュタットに戻ったクルーゼンシュテルンは詳細な航海記 "Reise um die Welt in den Jahren 1803, 1804, 1805 und 1806 auf Befehl Seiner Kaiserliche Majestat Alexanders des Ersten auf den Schiffen Nadeschda und Newa" (「アレクサンドル1世陛下の命令下、1803年、1804年、1805年、1806年にナジェージタ号とネヴァ号により行った世界周航の記録」、 「クルーゼンシュテルン周航図録」)を書き、 1810年、サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)で出版 1811-1812年、ベルリンで出版し、 1813年、英訳版がロンドンで出版され、フランス語、デンマーク語、オランダ語、スウェーデン語、 そしてイタリア語でも出版されて周航図録も掲載される 1815年、再び航海に出てベーリング海峡を探査 1816年、エストニア(Estonia)のキルツィ(Kiltsi)で農園の領地(manor)を取得 1827年、「太平洋の地図」などを含む図録がサンクトペテルブルクで出版され、 ロシア科学アカデミー会員に迎え入れられる栄誉を得る 1841年、海軍兵学校の校長を勤め、海軍大将になり、そして彼はロシア海軍の父と呼ばれ、 1846年、エストニアのキルツィの領地で76才で亡くなり、 エストニア首都のタリン大聖堂(Tallinn Cathedral)に葬られました。 なお、アラスカのクルーゼンシュテルン岬(Cape Krusenstern in Alaska)、北極のカラ海のミッデンドルフ湾(Middendorff Bay)沖に浮かぶノルデンスクジョルド群島(Nordenskiold Archipelago)のクルーゼンシュテルン諸島、ベーリング海峡の中間にある諸島でアメリカ合衆国アラスカ領のリトルダイオミード島(Little Diomede Island)はロシア語ではクルーゼンシュテルン島(Krusenstern Island)といい、フランス領ポリネシアに属する諸島のツアモツ諸島のティケハウ環礁(Tikehau Atoll)の中のクルーゼンシュテルン島、マーシャル諸島のアイルク環礁(Ailuk Atoll)の中のクルーゼンシュテルン島などにその名を残しています。 ネヴァ号はしばらくサンドウィッチ諸島に留まってからアラスカのコディアク島へ行き、シトカの戦い(Battle of Sitka 1804/10/1〜10/4)を原住民のトリンキット族(Tlingit)と闘いました。その後、 1804年、イースター島に寄航。 1805年、マカオでナジェージタ号と再会しましたが、また分かれてハワイへ向かいました。 1805/10/15、ハワイ北西近海のリシアンスキー島(Lisianski Island)を発見して、モンク・アザラシ(Hawaiian Monk Seal)を見つけました。リシアンスキー島を発見すると同時に座礁。ネヴァ号のユーリー・リシアンスキー艦長は浅瀬から脱出するため船の貨物のいくつかを放棄して捨て、脱出に成功しました。島の名はネヴァ号艦長リシアンスキー少佐の名に因んで名付けられました。 参考HP:〜 ・カムチャツカ半島の場所地図 ・日本海の場所地図、日本海の地図 ・バルト海とフィンランド湾の地図 ・フィンランド湾の奥クロンシュタット湾の地図(島がコトリン島で湾奥の街がサンクトペテルブルク) ・エストニアの地図、カラ海の地図 ・カラ海のノルデンスクジョルド群島の場所地図、 ノルデンスクジョルド群島の地図、 ミッデンドルフ湾沖のクルーゼンシュテルン島の場所地図 ・ツアモツ諸島のティケハウ環礁の地図 ・マーシャル諸島のアイルク環礁の地図
参考〜 ・シトカの戦い (1804/10/1〜10/4) Battle of Sitka こちらでシトカの戦いをお楽しみください。 ・アレキサンダー諸島 Alexander Archipelago こちらでアレキサンダー諸島をお楽しみください。 参考HP:〜 ・アレキサンダー諸島の場所地図 ・アレキサンダー諸島シトカ島(バラノフ島)の地図 ・太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有) (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/3/23、10/7/7 |