Japan

国連 19 発行
漂流大航海(Drifting Voyage)
大黒屋光太夫
1783、アムチトカ島に漂着
1791、エカテリーナ女帝に拝謁・帰国を許可される

大航海物語
  日本編

廻 船・千石船

日本 1999  発行
カムチャッカ半島の火山
カムチャッカ半島
ロシア 2002 発行


エカテリーナ2世号の同時代船
18-19世紀のロシア軍艦


ソビエト連峰 1971 発行
晩年のロシア帝国エカテリーナ女帝

1786 ロシアの保険業創始225年念記念 2011
ロシア 2011 発行



東南アジア・中国・日本


昭和38年 1963/9/16 発行



←カムチャッカ半島→

千島列島→
ベーリング海峡の地図

ソ連 1966 発行
←アリューシャン列島
  アムチトカ島に流れ着く


サンクトペテルブルグ6,200km イルクーツク4,000kmカムチャッカ
ヨーロッパ アジア
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念
トルコ 1970/2/20 発行

伊勢の船乗り大黒屋光太夫は、江戸へと伊勢の白子浦を出帆、遠州灘で大嵐にあい、北へ北へとどんどん流され、アリューシャン列島のアムチトカ島に流れ着きました。ロシア帝国のサンクトペテルブルグでエカテリーナ女帝に拝謁して、帰国を許され、ロシア帝国の通商使節の軍艦で、10年ぶりに日本に戻りました。
大黒屋光太夫 (だいこくや こうだゆう)
  (宝暦元年〜文政11/4/15)

  (Daikokuya Kodayu, 1751-1828/5/28)
大黒屋光太夫は日本の伊勢国亀山藩の南若松村(現鈴鹿市)で生まれ船頭になりました。若い頃は江戸に出て船頭の仕事を していましたが故郷に戻って所帯を持ち、伊勢を本拠地に江戸廻船の船頭の仕事をして、一見勘右衛門という人が所有する「神昌丸」という船で、米や木綿などを積んで江戸へ輸送していました。
千石船

日本 昭和51年 1976  発行

天明2/12/9(1783/1/11)に紀州藩の年貢米や伊勢木綿などの江戸向けの物資を積み、光太夫と17人の乗組員を乗せた神昌丸は白子浦を出帆しました。ところが4日後の13日に駿河沖の遠州灘で大嵐に遭遇して、帆柱は折れ、櫨も失って、ただ流されるだけとなりました。神昌丸は北に向けて漂流し、食料は積荷の米を食べて流されること約8ヵ月、乗組員の一人が亡くなり、神昌丸はアリューシャン列島のアムチトカ島の岩場に乗り上げてしまいました。光太夫たちは上陸はしてみたものの、そこは極寒の不毛の島で、わずかな原住民と毛皮を商うロシアの商人が住んでいるだけでした。光太夫らは言葉もわからず、飢えと寒さで8人が亡くなりました。

約4年後にロシア船が座礁したことを知り、流木を集めて船を造り、ニビジモフらロシア商人の協力を得て、アムチトカ島を出発しました。天明7年7月(1787)に光太夫たちとニビジモフらロシアの商人は、カムチャツカ半島のニジニカムチャツカ(現ペトロパブロフスク・カムチャツキー)に到着。光太夫は帰国願いをそこの役人に申し出るも、いい返事は得られませんでした。ロシアの人々は光太夫たちをとても親切に扱ってくれましたが、飢えと寒さのため約2年の滞在で3人が亡くなりました。そこで世界的探検家のバルテルミ・ドゥ・レセップスに会い、彼の航海記に光太夫の様子が記さ カムチャッカ半島
れました。乗組員18人のうち残っているのは光太夫、小市、九衛門、庄蔵(1758-1810)、新蔵、磯吉の6人となりました。ロシア語を理解するようになっていた光太夫たちは、帰国にはシベリアの都のイルクーツクの総督の許可がいることを知り、6人は仕度を調え、天明8年6月(1788)にカムチャツカを出発、チギリスクからオホーツク海を渡り対岸のオホーツクに9月に到着。シベリアは早くも冬で、イルクーツクまでの約4,000kmは馬車からトナカイのそりに乗り換えて行きました。マイナス50度以下の極寒のシベリアを越えて、翌1789年2月にイルクーツクに到着。
イルクーツクはバイカル湖のほとりで、当時の人口は1万人で、シベリア第一の都市でした。光太夫はシベリア総督に帰国願いを提出しましたが、その返事はイルクーツクの日本語学校の講師になるようにというものでした。鎖国の日本との通商を求めていたロシアは、日本語の通訳を必要としていたのでした。そして漂流民に対して家を提供し生活費までも出してくれました。このイルクーツクで光太夫らは博物学者で、アダム・ラクスマンの父キリル・ラクスマンと知り合い、帰国への協力や生活の援助などを親切にしてもらいました。ここで水夫の九衛門が亡くなり、庄蔵はシベリア横断の際の凍傷が原因で片足を切断、新蔵も重病と不安からロシアの女性と結婚、2人ともロシア正教に入信しました。 バイカル湖

ロシア 2001  発行

ラクスマンの努力にも関わらず帰国の許可は下りませんでした。そこで光太夫はラクスマンのすすめもあり、ロシアの首都サンクトペテルブルグのロシア帝国女帝に直接願い出る決心をして、寛政2年1月(1791)にラクスマンと共に光太夫はひとり、馬そりで約6200km離れたサンクトペテルブルグまで極寒のシベリアを昼夜なく横断、約30日で到着。その年の6月に夏の離宮のツァルスコエ・セロの宮殿に呼ばれた光太夫はロシアの正装に身をかため高官や女官が居並ぶ謁見の間のエカテリーナ女帝 サンクトペテルブルグ

ソ連 1966  発行
(Yekaterina II (Catherine the Great), 1729-在位1762-1796)の前に進み出て、女帝からこれまでの漂流のいきさつやロシアでの生活について聞かれ、ロシア語で答え、女帝は光太夫の身の上を憐れみ、沙汰を待つように指示しました。それから3ヵ月後に帰国の許可がでました。各地を見学したり、女帝からはメダルや時計などの土産も頂いて、光太夫はペテルブルグからイルクーツクに戻り、新蔵と庄蔵は日本語講師としてロシアに残り、光太夫と小市、磯吉の3人は2人と別れ、帰国の途につきました。ここからキリルの子どもと、アダム・ラクスマンが日本まで通商使節として行くのに同行することとなり、3年前に横断したシベリアを戻り、オホーツクの港に到着。そこをロシア帝国海軍の軍艦”エカテリーナ2世号”に乗船して出帆しました。

1792/9/24に光太夫、小市、磯吉の3人の漂流民をのせたエカテリーナ号は日本をめざしてオホーツク港を出航しました。この船にはアダム・ラクスマン中尉を艦長とする総勢42人が乗込んでいました。エトロフ島を経由し、10月18日に蝦夷地のバラサン(現在の北海道別海町茨散)に到着。翌19日に操舵士オレソフと光太夫や12名が上陸。しかしここには幕府の役人はいないので、シベツの商人の勘四郎に紹介され、蝦夷地のネモロ(根室)に迂回することになりました。10月20日(旧寛政4年9月5日)朝9時頃に根室湾に到着し、港内の弁天島の内側に投錨しました。当時の根室は松前藩の詰所とアイヌの人たちとの運上所があるだけの小さな港でした。ラクスマンたちは小舟で上陸し、運上屋で温かく迎えられ、来航目的を告げ、越冬のために海岸に宿舎と兵舎の建築を願い出て許可されました。

交渉にあたったのは松前藩根室詰の熊谷富太郎で、熊谷は直ぐに松前にむけて第一報を放ち、指示を仰ぎました。またラクスマンも幕府宛文書を提出し、その回答を待つために海岸に宿舎を建設しました。宿舎が完成したのが11月28日で、エカテリーナ号には交替要員を残して光太夫らも含め全員がここに上陸し、9年11ヵ月めの帰還となりました。光太夫、小市、磯吉の3人もロシア人の宿舎で越冬。幕府役人の田辺安蔵らも根室に到着し、本格的な交渉が始まりました。その間、壊血病でロシア人水兵と小市が亡くなりました。小市は旧暦の寛政5/4/2(1893)に亡くなり、日本風で海岸に埋葬されました。根室には1793/6/15(旧寛政5/5/7)までの8ヵ月間滞在。ロシア船の到着に、蝦夷地を支配していた松前藩は幕府へ連絡してその指示を待ちました。ラクスマンと光太夫は箱館から松前に船を回され、ここで通商の交渉をもちましたが、幕府(老中・松平定信)は許可しませんでした。ラクスマンはこの次の長崎での交渉権(信牌)だけをもらい、光太夫と磯吉を渡して、ロシアに帰って行きました。

光太夫たちは帰国後に11代将軍徳川家斉、老中の松平定信(1759-1829、後に失脚)の前で聞き取りを受けました。その後、鎖国政策を取る江戸幕府でしたが、日本を慕ってあえて帰国した光太夫を、幕府としては儒教的考えから手厚く扱い、恩寵として屋敷を与え、光太夫と磯吉は江戸小石川(東京都文京区)の薬草園に居宅をもらいました。故郷の南若松村では、光太夫ら乗組員は難破して海に沈んだものと思われ、心海寺に供養碑が建てられていました。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ました。1795年(寛政7年)には、大槻玄沢が実施した新元会に招待され、また、多くの人に招待されてロシアの話を語るなど、比較的自由な生活を送りました。寛政10(1798)年に磯吉が、享和2(1802)年に光太夫がそれぞれ伊勢若松に帰郷が許可されました。20年ぶりに家族や親類と再会しましたが、光太夫の妻はすでに再婚していました。光太夫も薬草園内で結婚して子どもをもうけました。光太夫は文政11年(1828)に78才で、磯吉は天保9年(1838)に73才で、それぞれ波瀾の生涯を閉じました。

参考:〜:
・井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」は大黒屋光太夫をモデルにしているといわれています。

・ジャン=バルテルミ・ドゥ・レセップス
 (Jean-Baptiste Barthelemy de Lesseps, 1766-1834)
バルテルミ・ドゥ・レセップスは、スエズ運河開発者フェルディナン・ド・レセップスの叔父で、カムチャッカ半島を縦断し旅行記を書き、ペルーズ船長の探険航海に参加し、その報告書「レセップスの旅行日記」の著者。

・参考HP〜大黒屋光太夫記念館

こちらで
アダム・ラクスマン
フェルディナン・ド・レセップス
ラクスマン艦長を訪ねて!(根室の資料館調査旅行アルバム)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   08/3/20、20/3/23、令和 R.4:8/19(2022)

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Kosyo
無断転載禁止