★ロシア |
クリミア戦争”セヴァストポールの戦い” 1854/10/17〜1855/9/11 Siege of Sevastopol |
大航海物語 参考資料★ |
セヴァストポールを防衛して戦死したロシア帝国の提督 |
|
コルニロフ提督(1806-54) ソ連 1989/12/28 発行 |
イストミン提督(1809-55) ソ連 1989/12/28 発行 |
|
||
ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
corner label |
ナヒモフ提督(1802-55) Battle of Sinop ソ連 1987/12/22 発行 |
|
古代の戦艦アルゴノート | クリミヤ半島 (セバストポール) |
||
イ オ ニ ア 海 |
ア ゾ フ 海 黒 海 ←シノープ カルス |
||
ギリシャ エーゲ海 ↑スクタリ トルコ(小アジア半島) | |||
(Jason & Argonaut) ジョージア 1998/6/23 発行 小型シートより |
セヴァストポールの戦い (1854/10/17〜1855/9/11) Siege of Sevastopol (セヴァストポール包囲攻撃はクリミア戦争(1853-1856)中の戦い) セヴァストポール(セヴァストポリとも)の戦いはクリミア戦争中の戦いの一つで、コルニロフ提督、ナヒモフ提督、イストミン提督が指揮するロシア黒海艦隊が立てこもるセヴァストポール軍港都市を英仏土連合軍(イギリス帝国、フランス第2帝国、オスマン帝国)が包囲して攻撃しました。セヴァストポールは黒海艦隊の根拠地でしたので頑丈な要塞都市となっていました。また、ロシア側の補給を絶つこともできませんでした。その上、1854/9/11にロシア側が黒海艦隊(Black Sea fleet)の艦艇を自沈させて英仏艦隊の湾内侵入を防ぎ、その艦砲を要塞防衛に転用、水兵も要塞防衛の要員に利用したたため、戦いはほぼ1年にわたる長期戦となりました。 1854/9月にイギリス・フランス・トルコの連合軍(Allies)がクリミヤ半島に上陸し、セヴァストポールの南にあるバラクラバ港(Balaclava)に基地を設営、10月初旬にはセヴァストポールの南側に砲台(redoubts)を築きました。 ロシア軍総司令官のメンシコフ王子(Prince Aleksandr Sergeyevich Menshikov 1787-1869)が去って、コルニロフ提督とナヒモフ提督が代わりを務め、35,000人で防衛することになりました。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化しました。
1854/10/24にバラクラヴァの戦い(Battle of Balaclava)が、ロシア軍のセヴァストポール救援部隊がバラクラヴァ連合軍基地へ攻撃したことで始まりました。トルコ軍が撤退するも、残された弱小の英軍シン・レッド・ライン(The Thin Red Line、550人と少数のトルコ歩兵とイギリス海兵隊)の活躍(2列横隊でロシア軍の騎兵3,500人による突撃を防いだ)で防衛されるというバラクラヴァの戦いは、連合軍がロシアの攻撃を防ぎきって戦いが終わりました。 1854/11/5にインカーマンの戦い(Battle of Inkerman)が、31,000人のロシア軍歩兵(Infantry)と4,000騎の騎兵(Cavalry)、110門の大砲で、イギリス軍が7,500人と38門、フランス8,200人、18門で合計15700人56門の連合軍とがインカーマンで戦い、連合軍が勝利しました。 援軍で増強された5万の兵力を擁するロシア野戦軍は3方面に別れてイギリス軍陣地東側面に向け総攻撃を開始。早朝でしかも雨天下の不意打ちを喰らったイギリス軍は大混乱に陥り、泥沼と潅木のしげみが各隊の連係を妨げ、防御力を欠く砲陣は次々と敵の手に落ちました。この戦いにおけるイギリス軍は味方フランス軍よりも数が少ないうえに(この時点では)ロシア野戦軍の比較的近くに布陣しており、しばしばロシア軍に苦杯をなめさせられました。この時壊滅の危機に瀕したイギリス軍を救ったのはカンロベル率いるフランス軍6000の来援でした。急を聞いたフランス軍はイギリス軍右翼に駆け付けて激戦を展開し、その日の午後にはどうにかロシア軍を追い払いました。このわずか1日の戦闘における連合軍の死傷者約4200人、ロシア側の死傷は8800人を数えていました。 その後しばらくの間(1854年の冬)、両軍は冬の到来による自然休戦を過すことになりました。連合軍は越冬の準備をしておらず、それどころか11/14には補給物資を満載してクリミアに向かっていた連合軍の補給船隊の輸送船多数が暴風雨のため沈んでしまい、以降の連合軍は冬の寒気と降雨、さらに劣悪な住環境からくる疫病に苦しみ、その補給の遅れで難渋することになりました。その頃、イギリスの野戦病院にナイチンゲール従軍看護婦団の一行が到着しました。
ロシア軍(総司令官ゴルチャコフ公爵、Prince Gorchakov:Alexander Mikhailovich Gorchakov 1798-1883、後の外務大臣、パリ条約特使)はセヴァストポールの放棄を決定し、開城を告げる急使(トルストイもいた)が首都サンクト・ペテルブルグへ派遣されました。籠城349日でロシア軍の死傷者10万2千人、連合軍の死傷者12万8千人以上、ヨーロッパ諸国にとっては、ナポレオン戦争(1803-1815)の終結以来数十年ぶりに経験した大戦争でした。かろうじて生き残ったセヴァストポールのロシア兵達は、港内の艦船を沈め、残った砲台を爆破して、セヴァストポールから北方に撤退して行きました。こうして黒海艦隊は無力化し、連合軍が黒海の制海権を獲得しました。セヴァストポールは、後の1856年にパリで開かれた講和会議(パリ条約、Treaty of Paris 1856)で、カルス要塞と引き換えにロシアに返還されました。
1855年末までに自沈させたロシア戦列艦他:〜 ・グランドヂュークコンスタンチン号、(Grand Duke Constantine 120 guns) ・シティオブパリ号、(City of Paris 120 guns) ・ブレイヴ号、(Brave) ・エンプレスマリア号、(Empress Maria) ・チェスマ号、(Chesme)
参考:〜 ・目出し帽・バラクラバ Balaclava (clothing) クリミア戦争(1853年〜1856年)中の1854/10月に東ヨーロッパの黒海に面した町バラクラバでイギリス軍とロシア軍が争ったバラクラバの戦いにおいて、寒冷な気候の戦地に出兵するイギリス兵のために妻たちが顔ごと覆う手編みのウールの帽子を持たせた。その帽子を被って戦った地名から「バラクラバ」と呼ばれ世界的に広まった。 ・カーディガン Cardigan (sweater) クリミア戦争のバラクラヴァの戦いに於て無茶な突撃を行った事で有名な、英国陸軍軽騎兵旅団長の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネル(en:James Brudenell, 7th Earl of Cardigan、1797-1868年)が考案、その名前の由来となっている。けがをした者が着易いように、保温のための重ね着として着られていたVネックのセーターを前開きにしてボタンでとめられる様にしたのがそのはじまりと言われている。 ・ラグラン袖 Raglan sleeve ラグラン袖は洋服の袖の一形式で、ラグラン男爵・フィッツロイ・サマセット(Field Marshal FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan, GCB, PC 1788-1855)が、ワーテルローの戦いで右腕を失った彼のコートに合うようにデザインされてから名付けられたと言われていますが、クリミア戦争の最初の冬に外套も無く震える兵士のために、イギリス軍の司令官だったラグラン男爵が天幕用の布を使った冬用外套を作らせ、楽に着られ、縫い上げもやさしい袖付け法の自分の外套と同じ物を造らせました。それが「ラグラン袖」の始まりとなりました。 ▼カルス Kars カルスはトルコ北東部の都市で、カルス県の県都。人口は約78,000人(2000)。アルメニアとの国境から45km。1853年からのクリミア戦争ではカフカス攻略の拠点としてオスマン帝国の守備隊が駐留していたが、同年11/30のシノープの海戦で主な補給線を断たれてしまい、1855/11月に包囲戦の末ミハイル・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ率いるロシア軍の前に降伏。パリの講和会議でセヴァストポリと交換に返還されるが、これによりオスマン帝国をはじめとする諸国は戦勝国としての立場を事実上失った。1877年から1878年にかけての露土戦争で再びロシア軍が占領し、サン・ステファノ条約によってロシア帝国に併合された。露土戦争にロシアが勝利し、カルスを占領したことを記念して、モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky 1839-1881)が荘厳行進曲「カルスの奪還」を作曲、1880/10/30に初演。 1918/3/3のブレスト・リトフスク条約で、ロシアはアルダハン、バトゥミとともにカルスを失った。1918/4/25にカルスはトルコによって占領される。1919/1月にはアルメニア軍が反撃し、カルスを占領。アルメニア軍はカルスのムスリムの虐殺を行ったとされる。その後、1920/9月にトルコがカルスを再び併合した際に、報復として多数のアルメニア人が殺された。1921/11月にカルスにおいて国境画定の会議が行われ、カルス条約によって現在の国境線が最終的に決定された。 ・参考HP:〜カルスの場所地図 ▼セヴァストポール Sevastopol 人口360,000人の、黒海に面したクリミア半島南西部にあるウクライナの都市で、帝政ロシア時代以来セヴァストポールは軍港都市・商港都市として発展。またリゾート地・観光地としても有名。ソ連時代、クリミア戦争と第二次世界大戦での攻防戦の奮闘を讃え英雄都市の称号を与えられた街。現在のセヴァストポール軍港にはロシア連邦の海軍基地とウクライナ海軍の司令部も置かれている。ソビエト連邦時代はソ連の黒海艦隊の基地であったが、ソ連邦解体後の1997年にロシア・ウクライナ間で締結された協定により、2017年まで租借することになった。ウクライナが受け取る租借料は年間9800万ドルで、ウクライナ政府は、2017/5/28までの黒海艦隊の退去をロシア政府に求めている。しかしセヴァストポール軍港の租借料はウクライナがロシアへ払うガス料金未納分を考慮して決められており、延長しない場合には、利息を含め約8億ドルを支払う必要が生じる。このためウクライナは租借料の値上げも検討している。最近のロシアとウクライナの政治対立から、セヴァストポリのロシア領土編入を求める運動が、同地に住むロシア人住民によって起きており、新たな両国の対立の火種となっている。 古代この地にはボスポロス王国の都市ケルソネソス(ケルソン)があり、6世紀に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の統治下になった後も東ローマ帝国のクリミア半島における統治の拠点、ハザールやキエフ大公国などとの交易拠点としてテマ(軍管区)が置かれ、12世紀のコムネノス王朝時代まで東ローマの領土だった。12世紀後半に東ローマが衰退すると、その後はモンゴル人のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、その後裔のクリミア・ハン国などの支配下にあったが、1783年にロシア帝国がクリミア半島を併合した際、一緒に組み込まれた。その後、重要な海軍基地、商業港として発展してきた。1853年からのクリミア戦争では、同地を拠点とする黒海艦隊がシノープの海戦でオスマン帝国の艦隊を撃破するなどの戦果を挙げたが、1854年にオスマン帝国と同盟を結んで参戦してきたイギリスとフランスがオーストリアの妨害工作により攻略目標をオデッサからセヴァストーポリに変更。ロシア軍は英仏艦隊の侵入を阻止するために黒海艦隊を湾内に自沈させ、市街地全体に防塁を敷き詰めて要塞化したが、長期にわたる包囲戦の末にナヒモフ提督やコルニロフ提督も戦死し、1855/9月に放棄を決定。後にパリで開かれた講和会議でカルス要塞と引き換えに返還された。 第二次世界大戦時、要塞化された同地に対してドイツ軍は80cm列車砲「ドーラ」、カール自走臼砲などを用いて攻略、占領したが、その後赤軍の反撃によりセヴァストポールはソ連へ取り戻された。 ソビエト連邦の時代には、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国内のクリミア州の一部としてではなく、キエフの直轄下に置かれ、外国人の立ち入りを固く規制する閉鎖都市だった。 ・参考HP:〜 セヴァストポールの場所地図 セヴァストポール付近の地図(1854/9連合軍のカラミタ湾からの進軍地図) バラクラヴァの戦闘の地図(1854/10/25) 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/8/26 |