★ロシア |
フョドール・ウシャコフ提督 1799、第二次露土戦争 ロシア帝国海軍の地中海派遣艦隊司令官 |
大航海物語★ |
ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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CCCP ウシャコフ提督 コルフの海戦 1799 Storming of Corf ソ連 1987/12/22 発行 |
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フョドール・フョドルヴィッチ・ウシャコフ提督 (1744/2/24〜1817/10/2) Admiral Fyodor Fyodorovich Ushakov ウシャコフ提督はロシア帝国でモスクワとサンクトペテルブルクの両方に近いヤロスラヴリ州ブルナコフ(Burnakovo )村で生まれました。1761/2/15にサンクトペテルブルクでロシア帝国海軍に入隊し、海軍学校で訓練を終えた後に、バルチック艦隊のガレー船(galley)に乗船しました。 1768年にロシア連邦ロストフ州の都市で、黒海の北部アゾフ海のタガンログ湾に面する所のアゾフ海艦隊(Azov Sea Navy)に転属となり、タガンログ(Taganrog)で露土戦争(ロシア・トルコ戦争、Russo-Turkish War, 1768-1774)に従軍して活躍しました。戦後はロシア帝国女帝エカテリーナ2世(Catherine II)のプライベート・ヨットの指揮官を勤め、その後は地中海で脅威となっていたイギリス海賊からロシア商船を護衛する任務に就きました。ロシア帝国が露土戦争の勝利でクリミア半島を獲得した後に、ウシュコフは個人的にセヴァストポール海軍基地建設とオデッサ近くのヘルソン港のドック(docks in Kherson)造りを監督しました。 第二次露土戦争、1787-1792)では ・フィドニシ海戦(Battle of Fidonisi、July 1788/7/14、 ロシア艦隊は戦艦11隻と他34隻:対: トルコ艦隊は戦艦20隻と他の艦艇24隻と小艇多数、との海戦にウシャコフ艦隊が勝利、 ・ケルチ海峡海戦、Battle of Kerch Strait、1790/7/19、 ロシア艦隊は戦艦17隻と他16隻:対: トルコ艦隊は戦艦18隻と他の小艦艇36隻、との海戦にウシャコフ艦隊が勝利、 ・テンドラ海戦、Battle of Tendra 1790/9/9、 ロシア艦隊は戦艦17隻と他20隻:対: トルコ艦隊は戦艦22隻と他の小艦艇3隻と小艇多数、との海戦にウシャコフ艦隊が勝利、 ・カラクリア岬海戦、ブルガリア北部で黒海に面する岬、Battle of Cape Kaliakra、1791/8/11、 ロシア艦隊は戦艦19隻と他19隻:対: トルコ艦隊は戦艦28隻と他の小艦艇7隻と小艇43隻、との海戦にウシャコフ艦隊が勝利、 など、全ての海戦で、トルコ艦隊を撃破して輝かしい戦果を挙げました。 そして、ウシャコフ提督は、不敗神話を持つロシア帝国陸軍の大将軍アレクサンドル・スヴォーロフ(Alexander Suvorov 1729-1800)とならび賞賛されました。 1799年にウシャコフは提督となって、スヴォロフ将軍(Prince Alexandr Vasiljevich Suvorov, 1729-1800)のイタリア作戦支援のために地中海へ派遣されました。この遠征中にイオニア諸島(Ionian Islands)海域を一ひねりでギリシャから切り取りました。その後、そこはオスマントルコの属国の7島共和国(Republic of Seven Islands、1800ー1807)として存在することになりました。フランスの勢力を、全イオニア諸島とその北方のコルフ(Corfu)から一掃しました。ウシャコフ提督の艦隊はイタリアで、ナポリ(Naples)とローマ(Rome)のフランス軍を急襲して勝利し、ジェノヴァ(Genova)とアンコーナ(Ancona)のフランス軍基地をひどく破壊しました。 イギリスが聖ヨハネ騎士団(Order of St John,、Knights Hospitaller)のマルタ島(Malta,)基地を労することなく占拠したことを快しとしなかったロシア帝国皇帝のパーヴェル1世(Paul I、1754-1801、ロマノフ朝の第9代ロシア皇帝,在位:1796-1801)がウシャコフ提督の艦隊をマルタ島へ派遣しました。するとイギリス艦隊司令官のネルソン提督は、ロシア艦隊のウシャコフ提督の方が上の階級でしたが、ロシア艦隊はマルタ島ではなく、エジプトへ急派されるべきだと突っぱねました。 ロシア帝国で新皇帝のアレクサンドル1世(Alexander I、1777-1825、ロマノフ朝の第10代ロシア皇帝,、在位:1801-1825、ポーランド立憲王国初代国王、在位:1815-1825、フィンランド大公国初代大公、在位:1809-1825)が即位すると、ウシャコフ提督は数々の海戦で勝利し手柄を立てていたにもかかわらず、1800年に「指揮官の意見衝突」のかどで、地中海からロシアへ呼び戻しました。1807年に63才で海軍のロシア帝国の軍務に復帰することを諦めて、ボルガ連邦モルドヴィア共和国(Mordovia)のサナコブ修道院(Sanaksar Abbey)に引き篭もりました。 ナポレオン戦争(ロシアでは祖国戦争、1812年ロシア戦役、Patriotic War of 1812)が起こると、郡部で田舎の国民軍の指揮をまかされましたが、サナコブで73才でなくなりました。 参考HP:〜: ・モルドヴィア共和国のサナコブ(Sanaksar Abbey)にあるウシャコフ提督の墓 08/3/10 |