★ギリシャ ナバリノの海戦
Battle of Navarino
1827/10/20
大航海物語★

GREECE

1827 NAVAPINON 1927
ナヴァリノの海戦 100年 記念
ギリシャ 昭和2年 1927 発行

ギリシャ 大正13年 1924 発行
白地が1830年ギリシャ領土

ナヴァリノはペロポネソス半島の
西のピロス沖の海戦
ギリシャ 昭和5年 1930 発行

・ナバリノの海戦。
  Battle of Navarino (1827/10/20)。 
ナヴァリノの海戦はギリシャ独立戦争(1821-29)の時に起きた大海戦で、英・仏・露・連合艦隊24隻とオスマントルコ・エジプト連合艦隊89隻が戦いました。英仏露が、数は多いが旧式艦のオスマントルコ・エジプト連合艦隊をわずか4時間で撃破しました。ただ、偶発的に起こった海戦だったのですが、本国の許可無く戦闘したとの理由で、
イギリスの司令官コドリントン卿はその職を解任されました。

英仏露連合艦隊  トルコ・エジプト連合艦隊
戦  艦
フリゲート艦 10 17
コルベット艦 30
ブリッグス艦 28
スクーナー艦
カッター艦
火炎艦
24 89
.
戦死 181 3000
負傷 480 1109
661 4109

(英)Sir Edward Codrington
エドワード・コドリントン(英)
イブラヒム・パシャ (エ)Ibrahim Pasha
ヘンリー・ドゥ・リグニイ(仏) (仏)Henri de Rigny
ペトロヴィチ・ジェイデン(露) (露)Login Petrovich Geiden

ギリシャ独立戦争(1821〜29年)はオスマントルコの支配下にあったギリシアが1821年ペロポネソス半島で反乱を起こし、翌年独立を宣言して、ペロポネソス半島はギリシャ独立戦争の舞台となりました。ギリシャでは3月25日を独立記念日としています。オスマン帝国に対するギリシャ側の反乱は、1821年3月21日に半島南部の都市カラマタが反乱側の支配下に入った時点から始まりました。独立戦争における転換点となったのは半島西岸のピロス沖で戦われた”ナヴァリノの海戦”で、半島東北部に位置するナフプリオは独立ギリシャの首都として第一回議会が開催されました。首都はその後アテネに移動しました。

トルコはエジプトの援助を得て、反乱を鎮圧しようとしましたが、イギリス・フランス・ロシアが干渉。ナバリノ海戦はギリシア独立戦争中の1827年にギリシアを支援するイギリス・フランス・ロシア艦隊がギリシアを包囲せんとするトルコ・エジプト艦隊をナバリノ(Navarino、ペロポネソス半島南西部)沖で撃破した海戦です。

1827年10月20日ナヴァリノ湾において、トルコ・エジプト艦隊が英仏露の連合艦隊に撃破されました。この勝利によって1829年ロシア・トルコ間にアドリアノープル和約が結ばれて独立が承認され、翌1830年に王国として独立。バルカン半島のオスマン帝国領の処遇を扱った条文の中で、ギリシャについては自治国としての独立が保証されていました。1832年6月11日に開かれた会議でギリシャを君主国とすることが正式に決定され、同年7月にオスマン帝国およびヨーロッパ列強の間で調印されたコンスタンティノープル条約で、ギリシャの独立が正式に認められました。

・ナヴァリノの海戦の詳報は;
1827年9月、イギリスとフランスの地中海艦隊がギリシアに到着し、現地のエジプト軍司令官イブラヒム・パシャに停戦を勧告しました。イブラヒムはオスマン政府からの明白な支持がなければ停戦は出来ないとつっぱねました。ギリシア軍の中央は停戦を受諾しましたが、前線の部隊は勝手な行動を続けていました。

10月14日、ロシア艦隊が到着。3艦隊の司令官は再びエジプト軍に交渉を申し入れましたが、「閣下は留守です。どこにいるかわかりません」と告げられただけでした。冬が近付いており、艦隊をそのまま地中海の荒天にさらす訳にはいかなくなって、3艦隊の首脳は相談の上、エジプト・オスマン艦隊のいるナヴァリノ湾に進入し、大砲をちらつかせながら話に決着をつけるしかないと考えました。ただし、相手が先に発砲しない限り、こちらからは絶対に戦闘をおこさないことが決められました。

10月18日、ナヴァリノ湾に入った連合艦隊はオスマン艦隊に極めて隣接する形で錨を降ろしました。連合艦隊は英将コドリントン提督の指揮下にあわせて27隻の戦列艦(大砲1280門)、エジプト・オスマン艦隊は大小130隻(大砲2430門)を揃えていました。この数は上表とは別説です。

20日午後2時、使者を乗せた小艇がオスマン艦の銃撃を受け、たちまち本格的な大海戦へと発展。ネルソン提督以来ヨーロッパ最強のイギリス艦隊を含む連合艦隊と、数は多いが旧式艦ばかりのオスマン艦隊では全く勝負にならず、オスマン艦隊は4時間たらず後に7割以上の艦艇を失って敗走しました。この「ナヴァリノの海戦」は帆船のみをもって行われた最後の大海戦となりました。

・近代ギリシャ小史
1261年に東ローマ帝国は復活しましたが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていきました。1453年東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服されました。以後400年近くオスマン帝国の統治が続きました。

オデッサにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、1821年オスマン帝国に対する反乱が企てられました。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まりました。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1827年10月20日ナヴァリノ湾において、トルコ・エジプト艦隊が、英仏露の連合艦隊に4時間たらずで撃破されました。1829年アドリアノープル条約によってギリシャの独立が承認されました。翌1830年バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王にすえギリシャ王国として独立し、東ローマ帝国滅亡以来約380年ぶりにギリシャ人の国家が復活しました。1897年に希土戦争、1912年から1913年にバルカン戦争、1919年〜1922年に再度希土戦争が勃発。1924年にクーデターにより共和制がしかれますが、1935年には王政が復活した。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      
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