★ロシア |
グリゴリー・スピリドフ提督 1770 第一次露土戦争、チェスマの海戦・勝利 |
大航海物語★ |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
corner labe |
17-18世紀、ロシアの戦艦 Oriol 1668 ソビエト連峰 1971/12/15 発行 |
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GREECE ギリシャの地図 |
POCCUST ROSSIJA チェスマ湾、1770年
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ドゥブロヴニク→ アドリア海→ オトラント海峡→ |
ギリシャ 1930 発行 |
←黒海 ←ボスポラス海峡 ←マルマラ海 ←ダーダネルス海峡 ←アトス山半島 |
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イ オ ニ ア海 | エーゲ海 | |||||||
ペロポネソス半島(白色下)→ ピロス→ |
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←ミルトア海 クレタ海 |
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ナヴァリノは ペロポネソス半島の 西岸のピロスに有 |
←クレタ島 地中海 |
スピリドフ提督は10才で海に出てロシア帝国海軍に入隊し、バルチック艦隊で活躍した後に、エーゲ海遠征艦隊の指揮を執り、チェスマ湾の海戦でオスマン・トルコ艦隊を撃破して、エーゲ海に平和をもたらしました。 |
グリゴリー・アンドレイェヴィッチ・スピリドフ提督 (1713〜1790/4/19) Grigory Andreyevich Spiridov スピリドフ提督の海軍歴は10才の時に始まり、1733年20才の時に士官に推挙されました。1741年28才でバルチック艦隊の艦艇の艦長になっていました。スピリドフが43才の時に始まった7年戦争(1756-1763)では、1762年にポーランドのコルバーグ港(Kolberg)砦の包囲攻撃中のザデュナイスキー元帥(Peter Rumyantsev-Zadunaisky 1725-1796)のもとへ、2000人の兵を敵前上陸させ、49才で海軍准将(rear admiral)に昇進し、プロイセン(Prussia)のロシア帝国陸軍を支援するため艦隊を指揮しました。1764年にエストニアのタリン港(Tallinn、Revel )司令官となり、1766年にはクロンシュタット軍港(Kronstadt、ロシア連邦レニングラード州の都市、サンクトペテルブルクから西に約32km、フィンランド湾に浮かぶコトリン島に有)の軍司令官に任命されました。 第一次露土戦争(ロシア・トルコ戦争、Russo-Turkish War of 1768-1774)中はオスマン・トルコから独立を図ろうとするギリシャで、ギリシャ独立戦争(Greek War of Independence 1821)に先駆けて、アレクセイ・グリゴリエヴィッチ・オルロフ伯爵(Alexey Grigoryevich Orlov1737-1808)が仕掛けた事件、オルロフ・レヴォルト(Orlov Revolt 1770)を支援するためにロシア帝国海軍のバルチック艦隊が1769年夏に地中海に派遣されましたが、スピリドフ提督はエーゲ海遠征(Archipelago expeditions)艦隊を指揮し、ジブラルタル海峡を通過してエーゲ海に入りました。 1770年の早い時期に、ギリシャ南部のペロポネソス半島にあるミストラス(Mystras)、アルカディア(Arcadia)、ナバリノ(Navarino)、ピロス(Pylos)を上陸部隊と協力して占領しました。1770/7/5にアレクセイ・オルロフ伯爵指揮下のロシア帝国海軍艦隊のスピリドフ提督艦隊がオスマン・トルコ艦隊をシオス海峡(Chios Strait)で撃破して、チェスマ湾(Chesma Bay、キオス島の対岸でトルコ領チェシメ)に追い詰めました。1770/6/26の夜間にスピリドフ提督とグレッグ提督(Samuil Karlovich Greigr 1736-1788)が指揮するロシア帝国海軍艦隊が戦力に勝るオスマン・トルコ艦隊を、チェスマの海戦(Battle of Chesma 1770/7/5-7 Chesma Bay)で撃破して、エーゲ海(Aegean Sea)に最高の平穏を打ちたてました。1771年〜1773年の間はスピリドフ提督がこの海域のロシア帝国艦隊を指揮する司令官となりしました。 1774年に61才のスピリドフ提督は、全ての手柄がオルロフ伯爵に盗られたので、ロシア帝国海軍に嫌気が差して海軍を辞職し、モスクワで引退生活をおくった後に、77才で亡くなりました。 参考:〜
参考HP:〜 ナバリノ(Navarino、Pylos)の地図 チェスマ湾の地図(トルコ西部でキオス島の東に有) ・チェスマ半島の場所地図(トルコ西部でカラブラン半島のさらに西へ突き出た最西端) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/3/8、 11/3/31 |