Netherland

国連 1989 発行
切手で綴る オランダの大航海(Adventure Voyage)(III-6
リーベック総督
1652
ケープ植民地建設

大航海物語
 オランダ編

NEDERLAND
リーベック総督

オランダ 1952 発行
SOUTH AFRICA-SUID AFRICA
ドロメダ号

南アフリカ 1926 発行

リーベック総督
リーベック船長の船団
リーベック船長のケープ上陸
1652 Jan van Riebeeck 1952
ヤン・ファン・リーベック船長のケープ上陸300年記念

南アフリカ 1952/3/14 発行

リーベック総督は20才でオランダ東インド会社に入社して、東インドのバタビア、ヴィエトナムのトンキン、日本の長崎出島などで勤務しましたが、闇取引の嫌疑をかけられ、本国送還となりました。1652年南アフリカの喜望峰に上陸、ケープタウンの町(オランダの植民地)を建設しました。1662年ケープタウンを出帆しバタビアにて14年間働き、同地で59才でなくなりました。
ヤン・ファン・リーベック
Johan Anthoniszoon Jan van Riebeeck (1619/4/21〜1677/1/18)
リーベック総督はオランダ中央部ヘルダーラント州カレンボルグ(Culemborg, #4)で1619年に外科医の息子として生まれ、南部の南ホラント州シーダム(Schiedam, #10)で育ちました。学校を卒業後、東方貿易を行うため1602年に設立されていたオランダ東インド会社(VOC)に1639年に入社しました。東インドのジャワ島バタビア(現インドネシアのジャカルタ)で、色んなポストに勤務したのを手始めに、日本への赴任、ヴェトナムのトンキンでの東インド会社の責任者の要職をも務めましたが、私服を肥やしたとの嫌疑をかけられ1647年に本国へ召還されました。帰国後の1649/3/28にはマリア・デ・ラ・クエイレーリエ(Maria de la Quellerie, 1629-1664)と結婚しました。

また、日本の長崎の出島勤務時代に闇取り引きの嫌疑をかけられ、本国召還処分とされたとの説も有ります。リーベック総督が1647/3月のある日、本国へ帰るオランダ船団の中の1隻「ハーレム号」に乗り合わせていると、喜望峰を回ってテーブル・ベイの北方で座礁してしまいました。座礁した船には数多くの高価な商品が満載されていたため、船団長は乗組員のレンダード・ヤンセン(Lenderd Jansen)以下58人に対しこれらの商品を守って、翌年の本国向けオランダ船の到来を待つように指示を与えました。こうして彼らは現在のケープタウン北方のリートフレイ近辺に砦を築き、年を越すはめになりました。彼らは原住民と取り引きを行ったり、テーブルベイ近辺の様子を視察してまわり、翌年にアジアから本国へ帰る船に拾われて無事に本国へ戻りました。

オランダ東インド会社は、ヤンセンにテーブルベイ付近の状況に関する報告書を提出させました。この報告書に基づきオランダの東インド会社は、テーブルベイ近辺の気候・風土が食料補給地として適していると判断し、ケープ入植を決定しました。入植の指揮官の人選にあたっては、若いヤンセンは見送られ、リーベックに白羽の矢が立ちました。彼は再びアジアで勤務する夢を捨てきれれず、そのための踏み台として喜望峰のケープ入植の指揮官職に自ら応募していました。こうした状況の中でオランダのオランダ東インド会社の最高機関である評議会(Council of Seventeen)は、1650年アジア貿易の中継地とするためにアフリカ南端のケープに食料の補給基地を建設することを決定しました。そして、評議会はリーベック総督をオランダ東インド会社の商人および補給基地の責任者として派遣することを決定しました。

1651/12/24にリーベック総督は妻子や80人の部下とともに、
・ドロメダリス号(Drommedaris, 200トン(ラクダの意)船にラクダの絵が彫られていた)
・レイガー号(Reyger)
・グッド・ホープ号(Goede Hoope)
・オリファント号(Oliphant)
・ウォルヴィッシュ号(Walvisch)
の5隻で船団を組んでオランダを出帆し、1652/4/6にリーベック総督を乗せたドロメダリス号と他の4隻の船団は南アフリカ・ケープのテーブル湾に投錨しました。リーベック総督は1652〜1662の間、総督としてケープで働きました。

着いて間もなく、評議会の指示の通り、リーベックは砦の建設に取りかかりました。四稜郭で五門の大砲を備えたこの砦が、南アフリカに於けるヨーロッパ人の侵略第一歩となる「喜望の砦」でした。彼らが砦で身を守ろうとした相手は黒人系の人たちではありませんでした。友好的な物々交換によって羊や牛を得た相手である先住民族のコイコイ人(Khoikhoi、ホッテントット)を、リーベック総督たちは「敵」と考えたのでした。

オランダ東インド会社がリーベック総督に与えた命令は、
@寄港するオランダ船に水と食料を調達すること、
Aケープ植民地として自給自足を維持すること、
B原住民との紛争を避け、平和を維持すること等でした。
こうして1652年「ドロメダリス号」でテーブル・ベイに総勢約90人で来航し、テーブル・マウンテンの麓に歴史的第一歩を印したことは前述の通りです。ケープ上陸後、リーベック総督は、さっそく食料の調達に取りかかりました。肉類はホッテントット族とのバーター取り引きで牛や羊が手に入りました。また野菜類については大きな畑を作り、南アの気候も手伝ってか、よい収穫が得られた物もあったようです。オランダ東インド会社はあくまで利潤追求を目的とする会社であったため、当初はケープ植民地の領土拡大の意図はなく、原住民との争いを避け、自給自足を維持しつつオランダ船への安定的な食料供給ができればそれで十分との立場でした。原住民との最初の紛争(コイコイ・オランダ戦争)が生じた際にも、停戦後にリーベック総督は、これ以上の紛争を避けるために原住民との境界線にアーモンドの垣根を植え、相互不干渉の意思表示をしました。

しかし、肉や野菜は足りても主食である小麦粉などを本国やアジアからの輸入に頼らざるをえない状況が続き、ケープ植民地の自給自足は実現困難であることが次第に判明してきました。かといって原住民に農業を経営させることは困難と判断されたため、入植5年目に、リーベックは社員9名を解雇して「自由市民」として土地を与え、農業開墾を行わせることにしました。これがケープ植民地の拡張の始まりとなりました。1657年になると、部下の何人かはオランダ東インド会社の仕事から自由になって入植することが認められました。free burgherと呼ばれる彼らが南アフリカにおける白人農民第一号と いうことになります。しかし、コイ人は彼らの下で働くことを嫌がったので、評議会は数百人の奴隷をケープに送ることにしました。黒人への差別政策であるアパルトヘイトが生まれる以前にも、コイコイ人や奴隷に対する差別的関係があったのでした。

さて、リーベック総督は砦近くの農園に「ほうれん草、豆類、キャベツなど」の野菜を何種類も植えました。それは雨に流されてしまい、はじめからやり直すことになりますが、食糧補給基地であるケープにとって食料生産は最重要課題でした。その中にはワイン用ブドウの栽培も含まれていました。しかし、土着のブドウの木からはワインを作ることができませんでした。そこでワインの木を輸入することになりました。記録によれば、最初のブドウの木(カットされたもの)がケープに着いたのは1655/7/22のことでした。翌年、リーベック総督はフランスからブドウの木が届いたことを記録しています。これらの木は砦近くのオランダ東インド会社の農園に植えられました。1659/2/2リーベック総督は南アフリカ最初のワイン生産の様子を、感動を込めて日誌に記しました。また、彼は彗星(C/1652 Y1)を1652/12/7に発見してレポートしたので、南アフリカでの最初の彗星発見者となりました。

ケープでの生活を幸せとは感じていなかったリーベック総督はたびたび転任を希望し、ようやく評議会はバタビアへの転任を許しました。1662/4/23彼はケープの地から東インドへと出帆しました。リーベックは14年間をジャワ島のバタビアで過ごし、妻のマリアは1664/11/2マラッカで35才で亡くなり、彼は1677年にバタビアで59才で亡くなりました。

・参考:〜
1652年 オランダ東インド会社のリーベックがケープの初代総督となる 1655年ブドウの木が初めてケープに到着。1688年フランスのユグノー教徒200人が入植。 ユグノー教徒によりフランスの優れたワイン栽培・醸造技術が持ち込まれ南アフリカのワイン産業が一気に発達しました。

もともと南アフリカは、狩猟民族のコイコイ族(ホッテントット)とサン族(ブッシュマン, サン人)が住んでいたとされています。15世紀、北方から南下してきたバンツー系アフリカ人がこの地に定住するようになり、先住民は砂漠地帯やサパンナヘと移り住みました。その同じころ、ヨーロッパは大航海時代を迎えていました。1488年ポルトガル人航海士バーソロミュー・ディアスがアフリカ大陸最南端(実際の最南端はアグラス岬)の喜望峰を発見し、1497年ヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパ人としては初めてナタール(今の南アフリカ)へ足を踏み入れました。ヨーロッパ人が最初にアフリカに移住したのは1652年オランダ人のリーベックが現在のケープタウンに、オランダ東インド会社の補給基地を建設したのが始まりでした。もちろん当時のケープタウンは未開の地。リーベックがこの地に町を築き上げたことで、アフリカは近代文明への第一歩を踏み出したのです。これがケープ植民地の拡張の始まりで、その後オランダ人の移民だけではなく、フランスでの宗教迫害を逃れて移住してきたユグノー(フランスのカルビニスト)などが加わり、自由市民の数は増加の一途をたどり、彼らに与えられた土地は次々と内陸へと広がっていきました。こうしてオランダによるケープ植民地支配が始まり、1795年のイギリス来襲までの約150年間オランダ東インド会社を中心として今日の南アの基礎が築かれていきました。この植民地に形成されたボーア人(Boer アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれる)の領地拡大とともに原住民との争いも起き、一方では彼らや奴隷との混血(カラードと呼ばれた)も進みました。

町のシンボルはテーブル・マウンテンで、その横にそびえているライオンズ・ヘッドと呼ぱれる山の中腹から桃めるケープタウンの今日の夜景は素晴らしいそうで、この場所は週末になると車が押し寄せ、格好のデートコースになるそうです。ケープタウンの創設者ヤン・ファン・リーベックとその夫人マリアの銅像が立っています。

なお、オランダ東インド会社は、1795年にフランス革命軍によりオランダ本国を占領され、この混乱のなかで1799/12/31に会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収されました。オランダ共和国が、ナポレオン戦争後にイギリスから返還された、東インドの経営(インドネシア)に専念することになりました。


難破船
 (Shipwreck)
 南アフリカ誕生のきっかけとなった難破船
1647年にオランダ船ニウウェ・ハーレム号(Nieuwe Haerlem)がテーブルベイ(Table Bay)で難破し、乗組員は1年以上にわたり取り残されました。彼らの生存と、船員の一人であるレンダート・ヤンセンの書面記録により、オランダ東インド会社はケープに補給ステーションを設置することが可能であると確信しました。1649/7/26にヤンゼンはケープでの会社の入植の可能性に関する報告書を提出しました。1652年に、アムステルダム議会への勧告(Remonstrantie)を受けて、ヤン・ファン・リーベックの指導のもと、会社の幹部たちがケープへ向けて出発しました。ケープに休憩所が設置されたことで、南アフリカの歴史の流れは永遠に変わりました。

1647/1/16にオランダの3隻
・ニウウェ・ハーレム号(Nieuwe Haerlem)
・オリファント号(Olifant)
・シーダム号(Schiedam)の船隊がバタビア(現ジャカルタ)を出帆し、オランダへの帰路につきました。これらの船は東方からの貨物を豊富に積んでいました。航行中、船は嵐に遭遇し、互いに離れ離れになりました。孤立したニウウェ・ハーレム号は1647/3/25にテーブル湾に到着し、浅瀬で座礁しました。貨物は貴重で、主に香辛料、織物、中国磁器、藍色であったため、ニウウェ・ハーレム号の船長は、若手商人レーンダート・ヤンセン(Merchant Leendert Janszen)に約60人の乗組員と共に残り、より大きな船隊が彼らと貨物を帰還させるまで貨物の管理を命じました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和8年 2026/3/18 追記

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