序 章 第1回 ★ベーリング物語第2回 遭 難 |
ベーリング船長
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大航海物語 ロシア★ |
CCCP ベーリング船長 ベーリング生誕300年記念 ソ連 1981/3/25 発行 |
DANMARK ベーリング船長の乗船 サンクト・ピョートル号 1741 ベーリング没後200年記念 1941 デンマーク 昭和16年 1941/11/27 発行 |
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CCCP | |
アリューシャン列島・アラスカの探検航海地図 |
サンクト・ピョートル号からアラスカの山を望見する一行 |
1741 ベーリングの航海250年記念 1991 ソ連 1991/7/27 発行 |
デンマーク生まれのロシアの探検家・航海家ベーリング船長は2度にわたって極東シベリア海域の探検隊の指揮をとり、1728年ベーリング海峡の西端デジネフ岬を回航、アジアとアメリカの間が海で隔てられていることを発見し、1741年の第2回目の探検航海ではアラスカを視認・上陸。その後、病に倒れて、コマンドル諸島の無人島で亡くなり、ベーリング島と名付けられたその島に葬られました。 |
ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング (1681/8/12〜1741/12/19) Vitus Jonassen Bering 大北方探検隊(ベーリング探検隊)隊長 ロシア帝国海軍大尉 デンマーク人 ホルセンス生、ベーリング島:60才没 ベーリング船長はデンマークのユトランド半島の町ホルセンス(Horsens Jutland Denmark)で子だくさんの家に生まれ、兄弟達と同じように、早くから海に出ました。アムステルダムで勉学したという説もありますが、東インド航路の帆船で働きました。ちょうどその頃、ロシアはピョートル大帝がスウェーデンと大北方戦争(1700-21)を戦っており、1703年22才でロシア海軍に士官(sublieutenant 少尉)で入隊し、バルチック艦隊の所属となってスウェーデン海軍と戦いました。1710〜1712年の間は大尉(Captain)でアゾフ艦隊(Azov Sea Fleet)に転属して、オスマン帝国との戦い(Russo-Turkish War)のタガンログ(Taganrog)の戦いとプルート川の戦い(Pruth River Campaign 1710-1711)に従軍しました。1712年に再びバルチック艦隊に転属になりました。1715年にベーリング大尉がコペンハーゲンでブルロ号を購入してクロンシュタット軍港に運んだことや、アルハゲリンスク港で建造されたセロフィル号をノルウェイに回航させたことなどがドルゴスキー公爵の目にとまって、ピョートル大帝に手紙で報告されていました。 1721年に大北方戦争がロシアの勝利で終結すると、ロシアはニシュタット条約(Treaty of Nystad 1721/9/10)でバルチック海のへの進出を果たし海港を確保(覇権を取得)して、多くの軍人が昇進しましたが、ベーリング大尉には昇進の沙汰がありませんでしたので、ロシア人女性アンナ・マトヴェエヴナ夫人と子供を連れて、一度故郷に戻ろうと思って、1724/8/7に国境通過の許可を取り付けました。ところが故郷を離れて20年以上も経て、何の縁故もないので今更どうしょうもないと考え直して、ロシア海軍に復帰できるように運動しました。大北方戦争で活躍したノーム・セニャーヴィン提督(Naum Akimovich Senyavin 1738-1727、セニャーヴィン提督の大叔父)などの支持をとりつけ、バルチック艦隊に復帰し、43才(1724/8/14)で大尉(1等大尉)に任官して分遣艦隊司令官(captain-commander)に任命されました。1725/1月にピョートル大帝はシベリアとアメリカの関係を明瞭にするための探検隊を組織し、44才のベーリングを隊長に任命し、アジアと新大陸くとの関係を明らかにし、ホーマンの地図にある北方へ伸びている陸地「ガマの陸地」(Joao-da-Gama-Land)が不明な新大陸アメリカなのかどうかを調査することを命じました。ベーリングはピョートル大帝没後に重臣アプラクシンの手によって、2/3頃に極東シベリア探検命令書を受領しました。 ・ピョートル大帝の極東シベリア探検命令書:〜(皇帝の自書といわれている)1725/1/18署名 (1)カムチャッカまたはその地域で1〜2隻の甲板を有する船を造ること。 (2)その船で北方へ伸びている陸地沿いに航海すること。その陸地はアメリカの一部と考えられる。 (3)その陸地がアメリカに接続する地点、あるいはヨーロッパ領の植民都市まで航海せよ。もしヨーロッパの船に出会えば、彼らからその海岸の名称を聞き、それを書きとめ、自らも上陸してさらに詳しい情報を入手し、地図に書き込んで帰還すること。 ・ベーリング船長の大冒険:〜 ・第1回カムチャツカ探検(First Kamchatka Expedition):〜1725-1730 別名:〜大北方探検(Great Northern Expedition) ぺテルブルグ〜陸路〜オホーツク〜極東シベリア探検航海 航海(1728/7/14)〜デジニョフ岬回航(1728/8/14)、サンクト・ガブリール号 ・第2回カムチャツカ探検(Second Kamchatka Expedition):〜1733-1742 ぺテルブルグ〜陸路〜オホーツク〜極東シベリア探検航海 航海〜アラスカ陸影視認(1741/7/16)、サンクト・ピョートル号 ・遭 難(Shipwreck):〜(1741/11/7) コマンドルスキー諸島の無人島に漂着 |
序 章 第1回 ★ベーリング物語第2回 遭 難 |
第1回探検航海 1728 ベーリング海峡突破、チュクチ海突入 |
大航海物語 ロシア★ |
サンクト・ガブリール号 同型船のコッチ ソ連 1949/1/30 発行 |
カムチャッカとベーリング海の航海地図
ソ連 1957/2/6 発行 |
TURKIYE ユーラシア大陸を横断 サンクトペテルブルグ↓6200km イルクーツク↓4000km↓カムチャッカ |
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ヨーロッパ→ | ←カムチャッカ | |
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念 トルコ 1970/2/20 発行 |
第1回航海はセミョン・デジニョフ船長の航海から80年後の1725年から1730年にかけて、ベーリング隊長がオホーツク(Okhotsk)、カムチャツカ(Kamchatsk)への遠征探険隊を指揮して、サンクト・ぺテルブルグ(レニングラード)を出発。1万kmの悪路を陸路でヨーロッパからシベリアを横断した後、オホーツクまでの旅はレナ川(Lena 4,400km)と支流アルダン川(Aldan 2,273km)を通ってジュグジュル山脈(Mt.Dzhugdzhur 最高地点:トプコ山(Tonko)1,906m)を越え、約19ヵ月後の1726/10/1に太平洋への出口オホーツク海々岸オホーツクに辿り着き、そこで越冬しました。そこで遠征隊はカムチャッカを目指すべく、ホーツク港で建造中のシーチク(Shitik 10mx4mくり抜いた太い丸太の両側に側板張の無甲板平底船)2隻を仕上げて、フォルトゥーナ号(Fortuna boat-shitik=フォーチュン:Fortune)と名付け、カムチャッカ半島西岸のポルシュレック(Bolsheretky 集落14戸)へ海路で到達。そこから陸路で半島を900kmも川沿いに横断してニジニ・カムチャッカ(Yujin-Kamchatsky 集落50戸)に到達。そこでサンクト(聖)ガヴリール号(Sviatoy Gavriil)を建造。1728/7/14にベーリング船長はサンクト・ガヴリール号に乗船して、第1回の探検航海に出帆。デジニョフ船長とは逆向きに、1728年夏にカムチャツカ半島東岸から北に向けて出帆し「ガマの陸地」の発見を目指しました。その途上でアナディル湾、8/10にサンクト・ラヴレンチイ島(St. Lavrentij island=現在のセントローレンス島)などを発見。船はそのまま北上し、1728/8/14にはロシア名「デジネフ岬」(東岬)を回航後にチュクチ海(Chukchi Sea)に突入して、アジア大陸が終焉している(海峡となっている)と信じ、デジニョフ船長が確認していた海峡中央部の島もベーリング船長が、1728/8/16に再発見してダイオミード諸島(Diomede Islands)と名づけました。また荒涼と凍結する未知の海岸での越冬を避けるため「北緯67度18分」の地点で引き返して、1729年一行はカムチャツカ湾に帰港・越冬。翌年夏にカムチャツカ半島の南端のロパトカ岬(Cape Lopatka)を回り、オホーツクを経由して、1730/3月にベーリング船長は重い病気に冒されながらもサンクト・ペテルブルグに帰還しました。東方の陸地の存在を確認することなく帰路に着いたので、その結果が不十分で勇気に欠けるとの非難を受けました。1732年には再度の探検を要請しました。 第1回探検隊の主な参加者:〜 ・海軍大尉ヴィトゥス・ベーリング隊長(総司令官) ・海軍中尉アレクセイ・チリコフ副隊長(副司令官) ・海軍中尉マルティン・シュパンベルグ (Martin Spangberg ?-1761)技師長(造船・操船術)、デンマーク生 ・海軍少尉候補生ピョートル・チャプリン (midshipman Piotr Chaplin)1725/1/25出発〜1730/3/1帰還 ・ツングース族 (Tungus、シベリアで現地徴発の犬ソリ隊)〜途中で逃亡 ・カムチャダル族 (Kamchadal、シベリアで現地徴発の犬ソリ隊)〜途中で逃亡、など ▼第1回探検航海(1725-1730):〜
大砲、弾丸、弾薬、帆、柵具、錨、鎖造船用の釘など馬車33台分、マコスキー棚柵から エニセイ川河畔エニセイスク(Yeniseysk)迄の運搬に馬160頭をチャプリン候補生が 発注して馬匹の荷駄(@80kg)とし、雪上は橇(@100kg)を人が引く
ポリシャヤ川(Bolshaya 297km)河口のポルシュレック(Bolsherechye)へ海路輸送 07/03、ベーリング船長がフォルトゥーナ号ともう1隻で資材食料をポルシュレックへ海路輸送
カラギン湾(Karaginsky Gulf)沖を航行 カラギン島(Karaginskiy Island)沖を航行、 カムチャッカ半島東岸と同島の間の海峡を後にリュトケ船長が探検、リュトケ海峡と命名 07/29、当時知られていたアジア最東端のアナディル川河口(Anadyr River)沖を航海
副長のチリコフ中尉は「北極海のコリマ川(Kolyma 2,129km)河口行き」を提案するも、 濃霧の中で、ベーリング司令官は海峡となっていることを信じて安全策の採用を決定 08/16、濃霧の中で、”北緯67度18分”から南へ転舵、帰路につく そこが後にベーリング海峡と命名される、 ロシア正教タルソスの聖ディオメデス祝日(英:聖ダイオミード、8/16)に1648年の デジニョフ報告によるダイオミード諸島(Diomede Islands)を再発見、命名 09/01、カムチャッカ川河口に帰港、ニジニ・カムチャッカで越冬 1729年、 07/23、オホーツク着 イルクーツク着 08/29、ヤクーツク着 1730年、 03/01、ペテルスブルグに帰着 04月、海軍省に詳細な探検報告書を提出 元老院が濃霧で”アラスカを視認”していないとして、探検の不十分さを非難しました。 ・第1回探検の行程:〜 陸路:ペテルスブルグ〜ヴォログダ州〜チュメニ州〜タタールスタン国〜クラスノヤルスク地方〜 イルクーツク州〜サハ国〜ハバロフスク地方オホーツク到着 航海:オホーツク出帆〜カムチャッカ半島西岸ポルシュレック〜 陸路:カムチャッカを横断〜東岸ニジニ・カムチャッカ到着、探検船2隻を建造 航海:ニジニ・カムチャッカ出帆〜カラギン湾〜アナディル湾〜クレスタ湾〜 セントローレンス島〜デジニョフ岬〜ベーリング海峡〜チュクチ海〜ベーリング海峡〜 ダイオミード諸島〜ニジニ・カムチャッカ帰港〜オホーツクへ航海 帰路:オホーツク〜ヤクーツク〜イルクーツク〜ペテルスブルグに帰着 参考HP:〜 ・第1回カムチャツカ探検の地図(ペテルスブルグ〜オフォーツク〜カムチャッカ〜ベーリング海峡) ・エニセイスクの場所地図(ペテルブルグ〜エニセイ川〜オホーツク、コリマ川有) ・ヴォログダ州の場所地図(ヴォログダ州ヴォログダ) ・タタールスタンの場所地図(タタールスタン共和国カザン、マコスキー棚柵?) ・ヴォルガ河の場所地図(タタールスタン共和国カザン有、マコスキー棚柵?) ・チュメニ州の場所地図(チュメニ州トボリスク) ・クラスノヤルスク地方の場所地図(クラスノヤルスク地方エニセイスク) ・イルクーツク州の場所地図(イルクーツク州イルクーツク) ・イルクーツクの場所地図 ・カムチャツカ半島の地図(ロシア語) ・カムチャツカ川の地図 ・カムチャツカ半島の地図 (ポルシュレック(Ust Bolsheretky)、ポリシャヤ(Bolshaya)川、カムチャッカ(Kamchatsk)川有) ・ニジニ・カムチャッキーの場所地図(日本語) ・カラギン湾の場所地図 ・カムチャッカの場所地図(カラギン島、セントローレンス島有) ・アナディル河の場所地図 ・クレスタ湾の場所地図 ・セントローレンス島の場所地図(アナディリ湾有) ・チュクチ自治管区の場所地図(チュクチ自治管区) ・チュクチ海の場所地図(セントローレンス島有) ・ロシアの地図(日本語) ・ロシアの州別地図 ・イルクーツクの場所地図の場所地図(Google Map) ・ロシアの主な川の場所地図(ヴォルガ川、オビ川、エニセイ川、レナ川、アムール川) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/1/2画像追加、10/7/7追記、11/4/11 |
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