United Kingdom ![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの大航海(Great Exploration Voyage)探検大航海(V-25) ウィリアム・ウェールス学者 1774 タンナ島に上陸 |
大航海物語 イギリス編★ |
ウィリアム・ウェールス(天文学) クック船長の第2回探検(1772-75) レゾリューション号に乗船、ニューヘブリデス諸島に到達 タンナ島にボートで上陸 |
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![]() 1774 ニューヘブリデス諸島発見200年記念 1974 ニューヘブリデス諸島(バヌアツ) 1974/8/1 発行 |
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レゾリューション号![]() ノーフォーク 1974/10/8 発行 |
第2回航海でクロノメーター時計を使用
サモア 1970/9/14 発行 |
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クック船長の(ヴァヌアツ)航海地図 | クック船長の呼名 | 現在 | |
レゾリ ュ|シ ョン号 |
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←オーロラ島 ←レパース島 ←ウィットサンチド島 ←アンブリャン島 ←パアアマ島 ←アピー島 ←サンドィッチ島 ←エロマンゴ島 ←タンナ島 ←アンナトム島 |
←マエオ島 ←アオバ島 ←ペンテコスト島 ←アンブリャン島 ←シェパード諸島 ←エピ島 ←エファテ島 ←エロマンガ島 ←タンナ島 ←アネイチュム島 |
1774 クック船長航海200年記念 1974 ニューヘブリデス諸島 1974/8/1 発行 |
天文学者ウェールスはロンドンのグリニッチ王室天文台で働いていましたが、1769年にロイアル・ソサイエティの要請で、カナダのハドソン湾にて金星の太陽面通過を観測しました。1772年にはクック船長の第2回探検航海のレゾリューション号に乗船して参加し、クロノメーター時計”H4”を使用して経度を計測し、”H4”が航海中ずっと正確に時を刻み、経度の測定に無くてはならないものであることを実証し、大英帝国海軍の公式時計に採用されました。 |
ウィリアム・ウェールス天文学者 William Wales(1734〜1798/12/29) 生地:イングランド西ヨークシャー近郷のワームフィールド生 没地:イングランドのロンドンにて64才没(#1H) 天文学者ウェールスはジョン・ウェールス(John Wales)とサラ夫人(Sarah)の子供として、イングランド西ヨークシャー(#1D37)近郷のワームフィールド(Warmfield)で生まれ、1734年に洗礼を授けられました。長じて英国王ジョージ3世出入りの配管工(plumber)になりました。女性暦(The Ladies' Diary 1704-1841)に貢献して18世紀の新しい科学者となりました。ロンドンのグリニッチ(Greenwich, #1H80)王室天文台(Royal Observatory)の王室天文官(Astronomer Royal)の牧師マスカリン博士(Reverend Dr Nevil Maskelyne, FRS, 1732-1811)のもとで、天体暦(Ephemeris)の計算係で働きコンピューター(computer)と呼ばれ、マスカリン航海年鑑(Nautical Almanac)で船の経度(Longitude)を確立しました。1765年にウェールスは天文学のチャールス・グリーンの妹メアリー(Mary Green)と結婚しました。
▼ウェールスのレゾリューション号大航海(1772〜1775):〜 1772年:〜: 07/03、クック船長のレゾリューション号がプリマス港(Plymouth)に到着 アドヴェンチャー号トバイアス・フルノー船長と合流 レゾリューション号に海軍中尉チャールス・クラーク(Charles Clerke)が乗船 07/10、ウィリアム・ウェールズがレゾリューション号に、ウィリアム・ベイリー(William Bayly)が アドヴェンチャー号にクロノメーター時計を持参して乗船。 ジョン・エリオットとヴァンクーヴァーが14才で最も若い乗組員で乗船 07/13、合流した両船がイギリス・プリマス湾(Plymouth Sound)を出帆 07/23、スペインのフィニステレ岬(Cape Finistere)沖を航海 07/29、マデイラ諸島のフンシャル港に到着 08/13、ヴェルデ岬諸島、サンチャゴ島ポルトプラヤ湾(Porto Praya Bay, Santiago)に投錨 08/15、サンチャゴ島を出帆、アセンション島を見ないで航海 09/08、順風に乗って南下航海中、熱帯鳥を見かける 10/01、両船は喜望峰へと航海 10/29、アフリカ南部西岸を望見 10/30朝、ケープタウンのテーブル湾(Table Bay)に投錨 11/23、ケープタウンを南へ出帆、喜望峰を望見 南極海(Antarctic Seas)へと航海 11/24、南の南緯60度以南の南極海(Antarctic Seas)へと航海 12/11、マストも帆も全てが氷に覆われる、 巨大な氷山(ice islands)の間の航海が続く ▼1773年:〜: 01/01、月初から南極海を、未知の南方大陸を求めて東へと航海 01/17、南緯66度33分以南の南極圏に初めて突入 01/18、67度15分で行く手を氷山に阻まれ、荒天となる 02/03、2度目の南極圏突入で、 南緯71度10分(最南)、西経106度54分に到達 02/08、両船がお互いを見失う(=3月一杯) 02/13、ジェンツー・ペンギンの群れを氷山で見かける
03/25、ニュージーランドの山々を望見、17週と3日後に帰ってきたと記録
05/19、両船はクイーンシャーロット海峡シップ・コーヴで合流 ニュージランドを再度探検航海 06/26、ニュージーランドを出帆 07/01、両船は未知の南方大陸を求めて南太平洋を航海 08/02、1767年カートレット艦長発見のピトケーン島に接近するも島影は無く、熱帯鳥見かける 08/11、ツアモツ諸島に接近 08/15、マエティア島(Mehetia)を望見 08/16、朝タヒチ島を視認・上陸、アドヴェンチュー号の壊血病患者が30人となり レゾリューション号から13人を支援に派遣 08/21、タヒチ島マタヴァイ湾(Matavai)を出帆 09/02、フアヘイナ島(Huaheine)上陸 09/07、ライアテア島(Raiatea)上陸、豚400匹購入 09/21、ソサイエティ諸島を出帆 その後、トンガやタヒチへ航海 10/01、1643年にタスマンが望見してアムステルダム島と呼んだトンガ諸島へと航海 10/02、トンガ諸島のエウア(Eua)上陸、非武装の住民から友好的な出迎えを受けて フレンドリー諸島(Friendly Islands)と名付ける 10/03、トンガタプ島(Tongatapu)に上陸、ハアパイ諸島を探査 10/08、トンガタプ島を出帆 10/22、ニュージランドを視認、多数のカヌーが寄ってくる 10/23、アドヴェンチャー号を見失う 10/24、クック海峡へ 10/30、ウェリントン入江(Wellington)を発見するも逆潮で入れず 11/02、近くのシップコーヴ(Ship Cove、Charlotte Sound)と呼んだ所に投錨 11/16、アドヴェンチャー号を探してピンネスで東の湾を調べ、小高い丘へ上がって見る 11/25、レゾリューション号はウェリントン(Queen Charlotte Sound New Zealand)を出帆 12/16、アドヴェンチャー号は出帆 12/21、レゾリューション号は南極圏(Polar Circle)に突入 ▼1774年:〜: 01/01、レゾリューション号は南極圏を航海 03/13、1522/4/5にオランダのロッヘヘーン船長がイースターの日に発見した ラプ・ヌイ島に到達、この記録されている発見年は誤りで 「1722年」のイースターの日(4/5)でした 03/14、イースター島(Easter-Island、Hanga-roa bay, Punta Roa)に投錨 03/17、イースター島を出帆
04/26、タヒチ島を出帆、ニュージーランドへと向かっていると 159艘の双胴カヌーと小型カヌー70漕がデモ航海で湾内に集まってきた 05/15、フアヘイナ島(Huaheine)に到着 05/25、ライアテア島(Raiatea)に到着 06/04、ライアテア島出帆 06/16、クック諸島に到達、上陸 パルマーストーン島(Palmerston Island)を発見し命名 06/21、ニウエ島(Niue)に投錨、サヴェイジ島(Savage Island)と命名 06/26、さらに島々を望見、カヌーが寄ってきて 1643年タスマン発見ノムカ島(Nomuka)の存在をを知らせる 06/27、1643/1/24にタスマンが発見ロッテルダム島と命名の トンガのノムカ島に到達上陸 07/01、トンガのカオ島(Kao)に到着 07/02、フィジー諸島ヴァトア島(Vatoa)を望見 07/13、フォスター(Johann Forster)が「プリマス出帆後、苦しい航海が2年となる」と記録 07/17、キロスのエスピリトゥサント島を望見、 ニューヘブリデス諸島(ヴァヌアツ)に到達
07/29、ヴァヌアツのエロマンガ島(Eromanga)を出帆 08/05、ヴァヌアツのタンナ島(Tanna)の噴煙をあげる ヤスー火山(Mount Yasur)を視認、上陸 08/27、タンナ島(Tanna)を出帆、その南端を回航、北西のエロマンガ、エファテ島、 マラクラ島を回ってブーゲンヴィル海峡(Bougainville Strait)抜けてからフツナ島 (Futuna)では無くてヴァヌアツのウェスト・フツナ島(West Futuna)へと東へ航海 09/01、マロ島(Malo)とエスピリトゥサント島の東海岸沿いに、多くの小さい島々の周りを 航海してヴァヌアツの探査を終えて、南へと向かって航海 09/20、ニューカレドニア島(New Caledonia)のグランドテール島(Grande Terre)に上陸、 スコットランドのラテン語読みニューカレドニア島(New Caledonia、 新スコットランド)と名付ける 09/24、松の木や灌木が生い茂っている島を見つけてボタニー島(Botany Isle)と命名 09/30、ニューカレドニア島付近の探査を終えて出帆、南方へと航海
12/23、ボートとピンネス船を出して付近を調査、狩猟隊がガチョウを獲得 12/25、カヌー9隻のヒゲの無い現地人と遭遇、船に招いてナイフなどを贈り、ロースト鵞鳥、 パイやワインなどを御馳走してクリスマスを祝う 12/26、乗組員に鵞鳥スープとロースト鵞鳥、パイやワインなどを振舞い陽気に騒ぐも酩酊で 喧嘩が始まり、酩酊者全員を岸に追放、翌日スープに当たって寝込むものが続出
01/27、南緯60度を突破、いよいよ南極海に突入航海、 霧が深くなり巨大な氷山(ice bergs)が現れる 02/06、南端の島のテューレ島(Thule、Southern Thule)に到達
02/21、これ以上の高緯度に行くことに見切りをつけ、東方へ転舵する 02/24、北東方へと航海を続け、喜望峰に向かう 北東(North by East)へ進路を取れ! 03/13、喜望峰に到着、英国船やフランス船、オランダ船など多くを見かけ、交流する 03/15、アドヴェンチャー号が2ヵ月前に来ていたことを聞く 03/21、ケープタウンのテーブル湾に投錨、船の修理を実施 04/26、船の修理と補給物資の積み込みが終わり、デンマークの東洋貿易船 ダットン号のライス船長(Capt Rice)と合流して出帆を約す 04/29、ライス船長のダットン号と共にケープタウンのテーブル湾を出帆 05/15、セントヘレナ島(Saint Helena)到着、上陸、総督を表敬訪問 05/21、セントヘレナ島をダットン号と出帆 05/28、アセンション島到着、クロス湾(Cross Bay)に投錨、上陸 05/31、アセンション島を出帆、ブラジル沖の フェルナンド・デ・ノロンハ島(Fernando de Norono)へ向かう 06/09、フェルナンド・デ・ノロンハ島に到着、礼砲を放って通過 06/11、赤道を横断 07/01、アゾレス諸島へと航海 07/13、アゾレス諸島のピコ島(Pico)に到着 07/19、ピコ島出帆、テルセイラ島とグランシオーサ島の間のセント・ジョージ海峡を通過 07/22、順風に乗ってイングランド・コンウォールのリザード岬へ直行の帰途に就く 07/28、行き交う多くの船舶を望見、「母港は近い!」 07/29、プリマス沖のイングランド最初の灯台”エディストーン”(Eddystone Lighthouse)と ハッピー海岸(happy Shores)スタート・ポイント(Start Point)を通過 07/30、レゾリューション号はスピットヘッド泊地(ポーツマス, #1B21)に投錨 帰国しました。 レゾリューション号は3年と18日の航海中に死亡したのは4人で、うち病気で亡くなったのは一人だけで、1775/7/30にイギリス・スピットヘッド(#1B21)に帰国しました。なお、アドヴェンチャー号はホーン岬を経由、世界最初の東回り世界一周航海後、1774/10/14にイギリスに帰国していました。 ウェールスは帰国後は西サセックス(#1B26)のクライスト・ホスピタル(Christ's Hospital)にある、1673年設立の王立数学学校(Royal Mathematical School、11-18才)の校長に就任しました。1776年に王立協会(Royal Society)のフェロー(Fellow)に選出されました。1794年に「経度の時刻による計測法」(The Method of Finding the Longitude by Timekeepers)を出版。1795年に経度委員会(Board of Longitude, London)の書記に任命され、1798年に64才で亡くなるまでその職を務めました。 参考HP:〜 ![]() ハドソン湾とチャーチル川の場所地図(河口付近にプリンス・オブ・ウェールス砦が有) ハンメルフェストの場所地図(赤点) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/7/30、令和7年 2025/11/25 |