冒険大航海 |
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★スペイン | アルバロ・ド・メンダーニャ 1568 ソロモン諸島発見 |
大航海物語★ |
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NORFOLK ISLAND | 太平洋とソロモン諸島の地図 | |||
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ホニアラ島 ガダルカナル島 ソロモン |
サンタイサベル島 ラモス島 マライタ島 サンタクルーズ島 サンクリストバル島 カヤオ(ペルー) |
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1567〜68の太平洋航海地図 ノーフォーク 1994 発行 |
メンダーニャの航海400年記念 ソロモン 1995 発行 |
SOLOMON ISLANDS | |
ソロモンに停泊する4隻の船隊、1595 |
サンジェロニモ号と3隻の船隊 |
ソロモン 1995 発行 |
メンダーニャはスペインから新大陸に渡り、ペルーのインディオ伝説にいう太平洋上の陸地を探して太平洋を西へと航海し、ソロモン諸島を発見しました。植民隊をつれた第2回目の航海の途上、マルケサス諸島のサンタクルス島にて53才で亡くなりました。 |
ソロモン諸島の国旗と南部の地図 | |
サンタ・イサベル島 マライタ島 ガダルカナル島 サン・クリストバル島 |
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ツバル 1986/8/4 発行 |
アルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラ (1542頃〜1595) Alvaro de Mendana de Neira (生年:1542/10/1〜没年:1595/10/18、説有) メンダーニャは1564年頃のスペインのペルー副王”ローベ・ガルシア・ド・カストロ”(Lope Garcia de Castro, 1516-1576)の甥で、スペインのアラゴン州サラゴザに生まれました。幼い頃のことは不明で、また何時、新大陸へ渡ったかも詳しいことは不明です。記録に登場するのは1567年に南太平洋方面へと出帆した時からです。彼はペドロ・サルミエント・デ・ガンボアが「インカ史」を書き上げた時に、インディオから聞き取っていた伝説の中に「インカの船乗り”パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の後に、莫大な富を持ち帰った」という話がありました(トゥパック・インカ皇帝の太平洋探検伝説も有)。ガンボアはこれを実現しようとメンダーニャに持ちかけ、メンダーニャはこれを信じて、あわよくば一山当てようと目論んで、ガンボアと共に探検隊を組織しました。 ・メンダーニャの大航海:〜 第1回航海:1567/11〜1569/7 第2回航海:1595/06〜1595/10(没)。 25才のメンダーニャを司令官として、70人の兵士と4人の牧師、多数のインディオ奴隷を乗せた探検船隊が結成され、1567/11/19に ・トドス・サントス号 (Todos Santos, 107t)と ・ロス・レイズ号 (Los Reyes, 250t)の 2隻に総勢150人が乗組んで、ペルー・リマ近郷のカヤオ港(Callao, Peru)を出帆し、噂に聞く”テラ・アゥストラリス”(Terra Australis)と呼ばれていた南方大陸を探しに出発しました。1568年エリス諸島(1975年ツバルと改名)を発見しましたが、そこへは上陸せず、80日間に及ぶ航海の末、1568/2/7に彼らはソロモンの島に停泊しました。メンダーニャはその大きな美しい島に、彼らの出立時の時期にちなんで”サンタ・イサベル島”(Santa Ysabel)と名付けました。続いてマライタ島、ガダルカナ島、サン・クリストバル島へと進みました。何と驚くべき事に、この辺りは人食い人種が住む土地で、カニバリズム(人肉食)が跋扈する地域だったのです。もちろん財宝などがあるわけも無かったのです。かといって手ぶらで帰るわけにもいかず、メンダーニャは次々に島を巡って、サンクリストバル島では居留地の建設に取り掛かりましたが失敗しました。それは、スペイン人が上陸して島民を虐殺したため島民が決起してスペイン人を殺したことや、黄金が発見できなかったことによる失敗と伝えられています。どの島に行っても、金・銀・宝石の類はおろか、まともに食料になりそうな物すら見つかりませんでした。一見、美しく豊かに見える島々は、どこまでも貧しい土地でした。森に入れば湿度が高く、腐った植物が鬱積し、そこには猛毒を持った蛇や、恐ろしい姿をしたトカゲ、大きなネズミ、重さ数キロもありそうなカエルが蠢いていました。更に住民はどこに行っても憎悪を剥き出しにして襲いかかって来ました。そして強烈な熱病によって次第に探検隊の数も減って行きました。そんな状況下、1568/2/7にメンダーニャは小さな火山島の隣の、ある大きな島に停泊しました。小さな火山島は原住民から「サブ」と呼ばれていました。この名前が後に発音が変化して伝わり「サボ」と呼ばれるようになり、この海域をサボ海峡と呼ぶようになりました。メン>ダーニャは降り立ったその島に、彼は自分の故郷の名を与え、その名を「ガダルカナル」と名付けました。結局何も発見できぬまま”サンチャゴ号”(brigantine Santiago)を建造し、1568/5/11にメンダーニャは帰途につき、1年がかりで1569年9月ペルーに帰港しました。サボ海峡は1568年にメンダーニャが名付け、ベララベラ、サボ、クラガルフ、コロンバンガラ、ツラギ、レンドバ、イサベル、などの島々の名前はこの時の探検航海で名付けられ、もしくは聞かされたものであると伝えられています。なお、サンチャゴ号は5トンのブリガンティン型の小船で原住民の焼き討ちにあって炎上したとの説もあります。 彼はその後、ソロモンの島々を征服し、植民地にすることを考えていましたが、前回の遠征が大失敗だった為なかなか叶いませんでした。また、当時のスペインは対英戦争のあおりをくって、海外領土には海賊の襲撃が相次ぎ(英のドレーク船長など)、新探検隊を派遣する余裕がありませんでした。そんなわけで約30年後の1595年まで次回の航海を始められませんでした。1595/4/9に53才で4隻の船隊、 ・旗船ガレオン型船サン・ジェロニモ号 (galeon San Jeronimo, the Capitana, 200〜300t) キロス船長、1596/2/11マニラに到着 ・僚船ガレオン型船サン・イサベル号 (galeon San Ysabel, the Almiranta, 200〜300t) ロペ・デ・ベガ船長(Lope de Vega)、 1595/9/7消息不明 ・随伴船小フリゲート船サンタ・カタリナ号 (smaller frigate Santa Catalina, 30〜40t) フェリペ・カッゾ船長(Felipe Curzo)、1595/12/10消息不明 ・随伴船小ガレオン型船サン・フェリペ号 (galiot San Felipe, 30〜40t) アロンソ・デ・レイラ船長(Alonso de Leyra)、1595/12/19消息不明 ・他に2隻(計6隻)説有 入植者の花嫁候補の女性を多数(兵士と水夫が378人でその妻子を同伴の説も有)乗せてペルーを出帆しました。その中にポルトガルの航海者”ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス”が参加していました。7月にはマルケサス諸島(ペルー副王カニョ−ラ侯爵マルケスにちなんで命名された)のマグダレ−ナ島と名付けた島に1595/7/21に到着して上陸しました。島の住民のポリネシア人とは最初は上手くいったのですが、その後は流血の惨事が起こりました。メンダーニャ一行はマグダレ−ナ島を後にして、サンタクルス島と名付けた島へ行き、今回の航海はここで打ち切りとなりました。なお、現在のウアプ島(Ua Pu、106ku)、タフアタ島(Tahuata、69ku)、他の4島をこの時に発見したとされています。 目指すソロモン諸島はまだはるか先で、病気や上陸した島での戦闘で、すでにかなりの人数を失っていた上に、サンタクルス諸島へ着くと参加者の間での対立や不和が一気に表面化してしまい、隊(組織)としての統制が取れなくなりました。そしてこの混乱の中でメンダーニャは10月半ばに53才で亡くなってしまいました。残った一行は”キロス”に率いられて、フィリピンへ向いました。そして約4ヵ月後の1596/2月に、やっとのことでフィリピンのマニラに入港できました。この結果、ソロモン諸島を最初に発見したのはメンダーニャだったのですが、スペイン人の後が続かず、領有することは出来ませんでした。 第1回航海:〜寄航地 ・1567/11/20、カヤオ港(El Callao, Peru) ・1568/1/15、 ツバルのイエス島(Isla de Jesus)、現:ヌイ環礁(Nui Atoll) ・ソロモン諸島(Islas Salomon) ・2/1、バクソス・デ・ラ・カンデラリア島(Baxos de la Candalaria)、現:オントン・ジャワ環礁(Ontong Java Atoll) ・2/7〜8/17、サンタ・イザベル諸島(Santa Isabel Islands) ・ラモス島(Isla de Ramos)、現:マライタ島(Malaita) ・サン・ホルヘ島(San Jorge)、現:アル・シュ・デ・イザベル島(al sur de Isabel) ・フィレンツェ諸島(las islas Florecida) ・ガレラ島(Galera) ・ブエナビスタ島(Buenavista) ・サン・ディマスとグアダルーペ島(San Dimas y Guadalupe)、現:フロリダ諸島 (grupo de islas Florida o Nggela Sule) ・グアダルカナール島(Guadalcanal) ・セサルガ島(Sesarga)、現:サボ島 (Savo) ・サン・ニコラウス諸島(islas San Nicolas)、 ・サン・ジュロニモ島とアレシフェス島(San Jeronimo y Arrecifes、現:ニュー・ジョージア島 (grupo Nueva Georgia) ・サン・マルコス島(San Marcos)、現:チョイスル島 (Choiseul) ・サン・クリストバル島(San Cristobal)、現:マキラ島 (Makira) ・トレグアダ島(Treguada)、現:ウラワ島 (Ulawa)、 ・トレス・マリア(Tres Marias)、現:オウル・マルア (Olu Malua) ・サン・フアン(San Juan)、現:ウキ・ニ・マシ島(Uki Ni Masi) ・サン・アーバン島(San Urban)、現:レネンル島 (Rennell) ・サンタ・カタリナ島(Santa Catalina) ・サンタ・アナ島(Santa Ana) ・バクソス・デ・サンバルトロメ島(Baxos de San Bartolome) 現:マーシャル諸島マロエラップ環礁(Maloelap Atoll, Marshall Islands) ・サンフランシスコ諸島の島(現:ウェーク島) ・1569/7/22、カヤオ港。 第2回航海:〜寄航地 ・1595年 ・6/16、パイータ港(Paita, Peru)、ペルーのピウラ県パイータ郡に有 ・7/21〜8/5、メンドーサ島(Mendoza)、現:マルケサス諸島(islas Marquesas) ・マグダレーナ島(Magdalena)、現:ファトゥ・ヒバ島(Fatu Hiva) ・ドミニカ島(Dominica)、現:ヒヴァ・オア島(Hiva Oa) ・サンタ・クリスティーナ島(Santa Cristina)、現:タフアタ島(Tahuata) ・サン・ペドロ島(San Pedro)、現:モホ・タニ島(Moho Tani) ・8/20、サン・ベルナルド島(San Bernardo)、現:クック諸島プカプカ島 (Pukapuka, islas Cook) ・8/29、ラ・ソリタリア島 (La Solitaria)、現:ツバルのニウラキタ 島(Niulakita, Tuvalu) ・ソロモン諸島(Islas Salomon) ・9/7、活火山島ティナクラ島(Tinakula)、サンタ・イザベル号が消息不明 ・9/8、フエルタ島(La Huerta)、現:トゥオツ・ノイ島(Tomotu Noi)、スワロー諸島レシフェ島(Recifes、Islas Swallow) ・9/8〜11/18、現:サンタクルーズ諸島(islas de Santa Cruz)、ネデンデ島またはネンド島(hoy Ndende o Nendo) ・10/18、メンダーニャ没 ・12/10、サン・フェリペ号が消息不明 ・12/19、サンタ・カタリナ号が消息不明 ・1596年 ・1/1 、グアム島(Guam)、サンジェロニモ号だけが到着 ・2/11、マニラ港(Manila)、サンジェロニモ号だけが到着。 そして以後2世紀に渡り、このソロモンの島々は人々の記憶から消えて行きました。18世紀になって、フランス人ブーゲンビルが再びソロモン諸島を探検。200年前にメンダーニャが受けた恐怖を彼もまた受け、彼はこの群島を「殺人諸島」と名付けたといわれています。また、ブーゲンビル島はこの時に名付けられました。2、3年後、植民地拡大を争っていた英国のクック船長がソロモンを訪れ、時の国王にちなんで「ニュージョージア諸島」と名付けたと伝えられています。ソロモン諸島は、”キロス”がその後の探検でニューヘブリデス島を発見しました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 03/10/20、08/3/20、2018/11/30 |