切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
★クック物語 第1回
第2回
第3回
United Kingdom

国連 1983 発行
キャップテン・クック
(3)アドヴェンチャ号
1772〜1775
クック船長 第2回 大平洋探検大航海

大航海物語
  クック編
アドヴェンチャー号:乗員リスト

第2回探検航海のフルノー艦長乗船:〜(1772-1775)船隊僚船(随伴船)
アドヴェンチャー号:HMS Adventure, Sail plan=Barque, 1771 アドヴェンチャー号

ブルガリア 1990 発行
帆船型 バーク型(Barque)、スループ型(Sloop)説有
マスト数 3本マスト横帆
重  量 298屯
全  長 39.7m、キール(竜骨)28.50m
全  幅 8.7m
ドラフト 吃水4.0m
武  装 4pdrs砲10門,6pdrs 6,半pdr 12,半pdrスウィヴェル砲 8
乗組員 定員80人
艦載艇 小型ボートのピンネス、大型救命艇、他
進  水 1771年にウィトビーで進水、北海の石炭運搬船を
海軍省が購入後アドヴェンチャー号に船名変更
最  後 1811年セントローレンス川で廃船






★クック物語 第1回
第2回
第3回

アドヴェンチャ号(2)HMB Adventure
主な乗組員
第2回 イギリス出帆時:総員81人)
大航海物語
  クック編
階級区分   氏  名   階  級  備  考
艦長 Captain トバイアス・フルノー
Tobias Furneaux
1st Lieutenant 海軍大尉



Wardroom
Officers
(4)
アーサー・ケンプ
Arthur Kempe
2nd Lieutenant 海軍中尉 副長
ジェームス・バーニー
James Burney
3rd Lieutenant 海軍少尉
ピーター・ファネン
Peter Fannen
Master of the ship 航海長
トーマス・アンドリュー
Thomas Andrews
Surgeon 軍医 外科医


Midshipmen
(6)
トーマス・ヲッドハウス
Thomas Woodhouse
Midshipman 少尉候補生
ラヴ・ランステイブル
Love Constable
サミュエル・ケンプ
Samuel Kemp
ジョージ・モーレイ
George Moorey
ヘンリー・ライトフット
Henry Lightfoot
ジョン・ランブレヒト
John Lambrecht


Warrant
Officers
(6)
エドワード・ジョーンス
Edward Johns
Boatswain 掌帆長
アンドリュー・グローグ
Andrew Gloag
Gunner 砲術長
ロバート・ムッディ
Robert Moody
Quartermaster 漕舵長
ウィリアム・オフォード
William Offord
Carpenter 船大工長
アンドリュー・ヒル
Andrew Hill
Sailmaker 帆布長
ジェームス・スコット
James Scott
Sergeant of marines 海兵隊長 海兵軍曹


Petty
Officers
Mustered
as Able
Seamen
(4)
モーティマー・マホーニー
Mortimer Mahoney
Cook 料理長
フランシス・マーフイ
Francis Murphy
Quartermaster's Mate 漕舵手
フランシス・トレーナー
Francis Treneer
ロバート・バーバー
Robert Barber



Civilians
学者
(2)
ジョージ・フォスター
Georg Forster
Naturalist 植物学
ウィリアム・ベイリー
William Bayly
Astronomer 天文学
その他 58人
アドヴェンチャー号 (冒険号)
  His Majesty's Ship Adventure、Barque (HMB Adventure)
   国王陛下のバーク型船アドヴェンチャー号

アドヴェンチャー号はクック船長の第2回探検航海の僚船として、海軍本部が1771年に購入した北海石炭運搬船(North Sea collier)としてノースヨークシャー州ウィトビーで1771年に進水してロッキンガム公爵号(Marquis of Rockingham)と名付けられていた平底船でした。海軍省は同船を購入し、バーク船ライリー号(HMBarque Rayleigh)として登録しましたが、クック船長の航海のためにアドヴェンチャー号(HMS Adventure Barque:冒険号)と改名しました。アドヴェンチャー号は重量298トン、定員81名で、同時に購入されたレゾリューション号より一回り小さい船でした。船長には、サミュエル・ウォリス船長のスループ船ドルフィン号による世界一周航海 (1766-1768) に副官として乗船していた経験豊富な探検家のトバイアス・フルノーが任命されました。

1771年にクックは第1回航海から戻るとすぐにロイヤル・ソサイエティ(王立協会)から伝説の南方大陸の探索を委託され、第2回航海の探検隊は1772/7/13にプリマスを出帆、クック船長はレゾリューション号を指揮し、フルノー船長は僚船アドヴェンチャー号を指揮しました。一行は、1773/1/17にヨーロッパの船として初めて南極圏に突入を果たしました。

アドヴェンチャー号は2回レゾリューション号とはぐれました。1773/2/8に2隻は霧中ではぐれ、アドヴェンチャー号はこのような時の予定の合流場所であるニュージーランドのクイーンシャーロット海峡へ向かいました。1773/02/08〜1773/05/19の間は、タスマニア島の南岸から東岸へと探検航海し、タスマニア島の東岸のアデヴェンチャー湾(Adventure Bay)に停泊したので、同湾はその船名が付けられました。この海岸線の海図が英国に初めてもたらされましたが、フルノー船長はバス海峡には入らなかったので、彼はタスマニア島はオーストラリア大陸の一部であろうと考えました。アドヴェンチャー湾をはじめ、フルノー船長の発見を記念した多くの地名が今もこの海域に残っています。

その後アドヴェンチャー号は、バス海峡を航海してフルノー諸島(52の連鎖珊瑚礁島)を発見し、1773/5/7にクイーンシャーロット海峡に到着。遅れてレゾリューション号も5/17に到着して合流しました。同年6月から10月まで2隻の船は南太平洋を探検し、8/15にトンガ諸島に到着。同地からタヒチ人のオマイ(Omai of Ra'iatea、1751-1780)がアドヴェンチャー号に乗船してイギリスに行きました。オマイは1776年にクック船長の第3航海でタヒチに帰還するまでイギリスに滞在し、ヨーロッパを訪れた最初の南太平洋先住民となりました。

トンガを訪れた後に2隻はニュージーランドに戻りましたが、1773/10/23に嵐で再度はぐれました。クイーンシャーロット海峡での合流が図られましたが、レゾリューション号はアドヴェンチャー号の到着4日前の11/26に出発し、再会は果たされなませんでした。クック船長は砂に埋めたメッセージをフルノー船長に残し、単独で南太平洋探検を再開。フルノー船長は本国に戻ることを決め、クックへその旨を伝える返事を砂に埋めました。12/09にアドヴェンチャー号は北島東岸トラガ湾(Tolaga Bay)に投錨。アドヴェンチャー号の出発前に乗員とマオリ族との間で争いが発生し、10人の乗員と2人のマオリ族が死亡する惨事となり、1773/12/16にアドヴェンチャー号は単独で本国に向けて出帆して帰途に就き、ホーン岬を経由して世界最初の東回り世界一周航海で、1774/10/14にイギリスのスピットヘッドに帰港しました。

なお、その後のアドヴェンチャー号はクック船長の第3回探検航海には参加せず、1780年に火炎船に改装された後、1783年元のウィトビーの船主に売却され、イギリスと北アメリカ間の貨物船として余生を過ごし、1811年セントローレンス川で廃船となりました。

参考HP:〜
 ・フルノー諸島の場所地図(タスマニア島の右上の緑色の所)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2010/3/25、令和 R.3/1/30 (2021)
★クック物語、第1回第2回第3回補筆
帆船(1)(2)、(3)、(4)(5)

スタンプ・メイツ
Copyright(C):StmpMates
無断転載禁止