切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
United Kingdom

国連 1983 発行

チャールス・クラーク艦長
1779 第3回 太平洋探検航海
キャップテン・クックの没後、後継者となる

大航海物語
 イギリス編

Norfolk Island
北極の氷海を探検航海する
レゾリュ−ション号とディスカバリー号

北極圏の探検地図
ベーリング海峡を越えて北極海へ

Northern most point of the Voyages of Capt. Cook F.R.S. Aung.1778
1778 北極圏探検航海 200年記念 1978
   ノーフォーク 1978/8/29 発行
Republic of Maldives
第3回航海の北極探検航海地図
クック船長の北極探検


モルジブ 1978/7/15 発行
Tokelau Islands

ドルフィン号とアタフ島の地図
トケラウ 1970 発行

クラーク艦長はキャップテン・クックの全3回の探検航海に参加し、第3回航海では、ディスカヴァリー号艦長でしたが、クックの没後はレゾリューショウン号艦長として探検隊の指揮を執り、北西航路を求めてベーリング海峡へと探検航海し、カムチャッカで病気で亡くなりました。
チャールス・クラーク艦長 (1741/8/22〜1779/8/29)
 Captain Charles Clerke

クラーク艦長は13才でイギリス・ポーツマス(Portsmouth)の大英帝国海軍幼年学校に入学しました。七年戦争(イギリス・プロイセン対オーストリア・ロシア、1756-1763)中には戦列戦艦ドーセットシャー号(HMS Dorsetshire 70-gun third-rate)と、戦列戦艦ベローナ号(HMS Bellona 74-gun third-rate)に乗組んでいました。

クラーク艦長の探検大航海:
・バイロン船長の太平洋遠征航海〜1764/6ー1766/5、ドルフィン号
・キャップテン・クックの第1回航海〜1768ー1771、エンデバー号
・キャップテン・クックの第2回航海〜1772ー1775、レゾリューション号
・キャップテン・クックの第3回航海〜1776ー1779、ディスカバリー号

1764年にはバイロン船長のドルフィン号に23才で乗組んで、バイロン太平洋遠征隊(Byron's expedition)に参加し、22ヵ月で世界一周して、1766年にイギリスに帰港しました。帰国すると彼は南アメリカ・アルゼンチンのパタゴニア地方で「パタゴニアの巨人」(Patagonian giants)に出会ったことを執筆し書物にして発刊しました。それがカナダのDCBに取り上げられました。

キャップテン・クックの第1回航海では、1768年にエンデバー号に27才で航海士として乗組みました。クック船長は彼を1771年に30才で海軍大尉に昇進させました。

クック船長の第2回航海では1772年に31才でレゾリューション号の副官を務め、艦隊刑務所(Fleet debtor's prison)の責任者(第3回も)も兼務しました。それで囚人から結核(tuberculosis)をうつされました。

クック船長の第3回航海では1776年に35才でディスカバリー号(HMS Discovery 230t)に艦長として、副長ジョン・ゴア(John Gore)と共に乗組みました。レゾリューション号と共に北大西洋と北太平洋を連絡する幻の天然運河アニアン海峡と「北西航路」(Northwest Passage)の探索を目的として1776年にイギリスを出帆しましたが、帆船での北太平洋から北大西洋へ抜ける海路が存在しないことを確認する結果となりました。

そして、1779/2/14にクック船長がハワイで戦死すると、クラーク艦長がレゾリューション号に乗り換えて、クック船隊の司令官となって船隊の指揮をとり、クック船長の計画を追行するべくサンドウィッチ諸島(現:ハワイ諸島)の島々を海図に記入した後、「北西航路」を求めて、ロシアのカムチャッカ半島(Kamchatka)ペトロパブロフスク・カムチャツキー(Petropavlovsk-Kamchatsky)に寄航し、ベーリング海峡方面を探検航行しました。その後、クラーク艦長の結核が悪化して、カムチャッカで1779/8/29に38才で亡くなりましたので、そこに葬られました。

キング艦長がその後のディスカバリー号の艦長となり、クック船隊の司令官となってレゾリューション号(ジョン・ゴア艦長)と共に喜望峰周りでイギリスへ帰る航海を成し遂げ、1780年8月にイギリスへ帰港しました。

参考HP〜
 ・ポーツマスの場所地図
 ・パタゴニア地方の地図
 ・クック船長の航海 (赤:1回、緑:2回、青:3回)の地図   2007/4/30

参考〜
・DCB(Dictionary of Canadian Biography):トロント大学のカナダ歴史辞書。

「北西航路の発見」の航海
  Northwest Passage

1745年にイギリスは北西航路の発見者に賞金を出す法案を成立させ、1775年の法案延長時には賞金は2万ポンドに上積みされました。1776年にこの賞金を得ようとしたイギリスの海軍本部は、クック船長を北西航路の発見航海へと派遣しました。クック船長は2度の太平洋探検航海を行って引退していたため、当初はチャ−ルス・クラーク中尉が航海を指揮し、クック船長は顧問として本国から支援する予定でしたが、クック船長はロシアのベーリングの航海結果に探検欲を刺激され自ら志願して、経験のあるクック船長が大尉に昇進したクラーク大尉を従えて航海に出ることになりました。この航海に同行した海軍士官にはウィリアム・ブライが航海長で、ジェームス・キングが中尉で、
北西航路の探検航海
ジョン・ゴアが中尉で、ジョージ・バンクーバーが少尉候補生で、といった後のイギリス海軍の探検家となる人達も参加していましたが、彼らは北西航路の存在は証明できないと考えていたと言われています。

北西航路は”Northwest Passage”として、北東航路”Northeast Passage”とは別の航路があると、古くから信じられていました。それは伝説で、幻の天然運河アニアン海峡と呼ばれていました。

クック船長は太平洋を探検航海してヨーロッパ人として初めてハワイに到達し、1778/3/30にバンクーバー島西海岸ヌトカ・サウンドに到達しました。そして北西航路を西から東へ航行するためまず北米西海岸沿いに北へ向かい、ロシア人たちが40年前に通ったアラスカの沿岸の詳細な海図を作成し学術調査を行いました。海軍本部の命令は北緯65度に達するまでは途中の川や入り江は無視せよとの内容でしたが、一行が北緯65度に達する前に海岸線は南西方向へ向きを変え、一行は緯度の低い方へと押しやられて行きました。ゴア中尉はクック船長を説得し、北西航路を見つける望みを託して、北へ切れ込んだアラスカのクック海峡へと入って行きましたが、その先は行きどまりでした。一行は海岸線に沿ってさらに南西へ進み、ついにアラスカ半島の先端を越えてベーリング海へと入りました。だが北緯65度を越え、70度に達したところでベーリング海峡の氷山と流氷に行く手を阻まれ、その先に進むことはできませんでした。クック船長らはロシア人達の発表した「見せかけだけの発見」と、地理学上の幻想にすぎなかった北西航路の探検を打ち切り、越冬のためハワイ諸島に戻りました。クック船長はハワイで戦没し、クラーク船長らは再度ベーリング海峡に挑戦しましたが失敗し、一行はイギリスへ戻りました。

なお、1791年から1795年にかけて、バンクーバー船長はヌトカ・サウンドやハワイ、サンフランシスコ(当時スペイン領)などを拠点にカナダのブリティッシュ・コロンビアを中心とした北米西海岸を探検航海し海岸線の調査を行い、ベーリング海峡以南には北西航路へ抜ける水路は存在しないことを明らかにしました。この結論は、カナダ内陸から北極海までの広い範囲を探検し、1793年に陸路でカナダの太平洋岸へ到達したアレグザンダー・マッケンジー(Sir Alexander MacKenzie, 1764-1820)の記録によって裏付けられました。

参考HP〜
 ・アニアン海峡の想像図の地図
 ・アラスカ湾ケナイ半島とクック入江の地図
 ・アラスカ湾ケナイ半島とプリンス・ウィリアム・サウンドの場所地図
 ・南極周辺の島の地図(日本語)
 ・ハワイ諸島の地図
 ・アラスカ湾プリンス・ウィリアム・サウンドの場所地図
 ・アラスカの地図

こちらで
コロンブススペイン
マゼラン (スペイン)
バスコ・ダ・ガマポルトガル
カルティエフランス
バレンツオランダ
ベーリングロシア)
クック船長イギリス
世界遺産
ピラミッドエジプト
パルテノン神殿ギリシャ
姫路城 (日本
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0110 2010/3/30追記、令和 R.3/1/26 (2021)
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