★ロシア
イワン・クスコフ船長
1812
カリフォルニアにフォート・ロスを建設

大航海物語★
CCCP
フォート・ロス入植地
クスコフ船長 カルフォルニア
ソ連 1991/3/14 発行

ラッコ
Sea Ota


ソ連 1971/8/12 発行
US AIR MAIL
アラスカ州の地図

アラスカ州昇格記念
アメリカ 1959/1/3 発行





シトカ


フォートロス

ロシアのトチマ生れのクスコフ船長は露米会社のパラノフ支配人と出会い、その子アンチパトル(Antipatr)とも親交を持ち、その右腕となってアラスカ南部方面からカリフォルニア沖に至る毛皮狩猟採集地探しに探検航海し、カリフォルニアにフォート・ロスを建設しました。それはロシア領アメリカの最南部入植地になりました。北米西海岸方面での31年間に渡る冒険の後に、ロシアの故郷に戻って、アラスカでの冒険がもとで病気になり亡くなりました。
イワン・アレクサンドロヴィッチ・クスコフ (1765〜1823/10)
 Ivan Alexandrovich Kuskov

   ロシア帝国の冒険商人(毛皮)・探検家
   カリフォルニア植民地フォート・ロス建設者(Fort Ross California Colonizer)
   ロシアのヴォログダ州トチマ生、トチマ:58才没
イワン・クスコフはヴォログダ州(Vologda Oblast)のスホナ川(Sukhona 558km)沿いの河港都市トチマ(Totma)で生まれました。

クスコフが生まれた町トチマは、1137年頃にノヴゴロド公国(Novgorod Republic 1136-1478)に毛皮を貢納していました。トチマは中世にはカザン・ハン国(Khanate of Kazan 1438-1552)の襲撃や大動乱期のポーランド軍の侵略で荒れたものの、17世紀にはロシア中央部と白海(White sea)のアルハンゲリスク(Arkhangelsk)の港をつなぐ南北交易路の途上の港として栄え、スホナ川と北ドヴィナ川(Northern Dvina 744km)を経由して、イギリスのモスクワ会社(Muscovy Co.)やオランダの商人も訪れて繁栄していました。1780年には町として承認され、毛皮の町を象徴する「黒いキツネの紋章」が制定されました。トチマの毛皮商人(fur traders)は狐(fox)やアザラシ(seals)、ラッコ(sea ottars)などの毛皮(pelts)を求めて遠くシベリアや太平洋のアラスカ、カリフォルニアにまで進出し、数多くの探検家や航海者を輩出しました。こうした探検で得た毛皮を売って資本を築いた商人たちは多くの聖堂(cathedral)を献納しました。

こうした環境で育ったクスコフは22才で故郷を離れ、ロシア横断の旅に出発。
当時、シベリアの首都だったイルクーツクに辿りつき、やがてアラスカへと出帆。

クスコフ船長の大航海:〜
・1791年、極東シベリア〜アラスカへ大航海
・1808年、コディアック出帆〜1隻が遭難・沈没
・1809年、コディアック出帆〜ボデガ湾に到着〜毛皮を持ってシトカに帰港
・1810年、シトカ出帆〜ジュノー到着〜シトカ帰港、1隻が遭難・沈没
・1811年、ボデガ湾へ3回目の航海、ルミャンツェフを建設
・1812年、ルミャンツェフの北方にフォート・ロスを建設
・1822年、フォート・ロスを出帆〜サンクト・ペテルスブルグに帰国

1787年、トチマを離れ、ロシア横断の旅に出発
1790年、イルクーツク(Irkutsk)に到着
1790/5/20、カルゴポリ出身のアレクサンドル・バラノフに出会う
1791年、バラノフがシェリコフ・ゴリコフ会社の支配人となり、クスコフを雇用して右腕として、
      中国貿易の商品になるラッコ毛皮獲りの入植地探しにアラスカへ派遣
1792年、ロシアの毛皮交易の中心地がアラスカ植民地のコディアク島コディアックとなる
1804/10/01、バラノフ島シトカの戦いが勃発するも、ロシアが勝利する
1808/12/15、コディアックを2隻とバイダルカ船で出帆、1隻が嵐で難破、沈没するも帰港
1809/01/08、コディアックから狩猟遠征隊のロシア人40人とアレウト族150人を指揮して
      スペインのボデガ・イ・クァドラ船長が発見したボデガ湾(Bodega Bay)に到着、
      上陸して、付近全域を探検調査しながらラッコ毛皮を採集
1809/08/12、バラノフ島ノボ・アルハンゲリスク(シトカ)に帰港、ラッコ毛皮1,160枚を持ち帰り、
      バラノフ総督に豊富な毛皮採集動物、魚、材木、耕作できる土地が有ると報告
      バラノフ総督がクスコフ船長に其処へ戻って交易基地を建設することを命ずる
1810/5、ボデガ湾への2回目の航海で、ジュノー(Juno)付近に到着、
      現地人コロシ族(Kolosh Indians=トリンギット族)に攻撃され、アレウト族(Aleuts)8人
      が殺害されるも、イギリス(NAL)のサムエル・ヒル(Samuel Hill)に助けられて、シトカ
      へ戻る航海に出帆、途中で恐ろしい嵐に遭遇、1隻は沈没、もう1隻はマストは折れ、
      錨(anchor)、食料(food)、大砲(guns)3門と2人を失うも、帰港を果たす
1811/3/4、カリフォルニアへの航海へスクーナー船チリコフ号(schooner Chirikof)で、
      交易基地の建設とラッコ毛皮狩猟採集のため毛皮罠猟商人隊(fur trappers)25人と
      建設資材を積み、バイダルカ船(baidarkas)40艘にアレウト族80人を随伴して出帆、
      長く苦しくエキサイティングな航海で病気になりましたが、幸運にも2回目航海の様な
      攻撃を受けることもなく、サンパブロ湾(San Pablo Bay)の北西岸から、
      サンフランシスコ北方129kmの所のボデガ湾に無事に到着。
      ボデガ湾に着くとロシア帝国商業大臣ルミャンツェフ伯爵(Count Nikolai Petrovich
      Rumyantsev 1754-1826)に因んでルミャンツェフ港(Port Rumyantsev)と名付け
      居住を地建設し、ファラロン島(Farallone Islands)には狩猟基地を設営
1812/8/13、ルミャンツェフから24km北方の現地人カシャヤ族(Kashaya)ポモ部族(Pomo)が
      メテニ(Metini)と呼んで夏場の狩猟城にしていた所が、船の停泊に都合が良く、
      飲料水が豊富で、木材の供給もあり、その上に獲物が多いとみられるので上陸。
      居住地(trading post)を建設して、"Rossiya"の砦として
      フォート・ロス(Fort Ross California 1812-1841)"と名付ける
      そこ(サンフランシスコ北129kmの所)がロシア最南端の入植地になる
1812年にサンフランシスコ(San Francisco)北方129kmの所にフォート・ロスが建設され、交易所(trading post)とロシア領アメリカ(Russian America in Alaska)への農産物(agricultural products)の土壌産物(soil,)、果樹園産物(planting orchards)、牧畜産物(raising livestock), アメリカスギ丸太(logging redwoods)、ラッコ毛皮(harvesting sea otters)の供給地となりました。また、砦はロシア人とその雇うアレウト族猟師(Aleut hunters)の居住地とカリフォルニア州ソノマ郡(Sonoma County)の現地人カシャヤ族Kashaya)のポモ部族(Pomo)を守り、森に行っていると現地人に頭の皮を剥ぎ盗られることがありましたが、クスコフの妻エカチェリーナ(Ekaterina Prokhorovna Kuskova)夫人は現地人の言語を習得して、フォート・ロスに隣接する地帯の人々の信頼を勝ち取り、フォートロス居住地に多大な貢献をしました。現在そこはフォート・ロス国立公園(National Park of Fort Ross)になっています。

1812年秋、スペインからの抗議があったので、砦を軍事基地風に強化
1817年、獲物が枯渇しだしたので、さらなる良好な狩猟地を探しに探検航海に出帆
      ボデガ湾は主に木材の積み出しに利用されるようになる(〜1870年代)
1821年、リタイアして、帰国の途に着く準備にとりかかる
1822年、31年間のアラスカ生活後に帰国のため出帆
      サンクト・ペテルスブルグ(St. Petersburg)に到着
      58,425ルーブル(rubles)23コペイカ(kopecks)を与えらる
      ラッコ毛皮(otter pelts)6枚と別の7,000ルーブルを持って故郷のトチマに戻り、
      妻エカチェリーナ(Ekaterina Prokhorovna Kuskova)と余生をおくる
1823/7/4、故郷トチマに戻るも30年以上のアメリカでの生活がたたり病気が重くなる
1823/10、トチマで亡くなり、スモリン僧院(Spaso-Sumorin monastery)に葬られる

1828年、フォート・ロスの人口がロシア人60人、アレウト族80人、カシャヤ族ポモ部族80人など約220人となる。最近、クスコフ船長の大理石製胸像(granite bust)がフォート・ロスの最後に暮らした邸宅前に建立されました。

フォート・ロス植民地監督官列伝:〜
  Colonial administrators of the Fort Ross colony
氏 名 在任期間
1 イワン・クスコフ船長 (Ivan A. Kuskov) 1812-1821
2 カ−ル・ヴォン・シェミッツ (Karl J. von Schmidt、German) 1821-1824
3 ポール・シェリコフ (Paul I. Shelikhov) 1824-1830
4 ピーター・コストロミチノフ (Peter S. Kostromitinov) 1830-1838
5 アレクサンドル・ロチェフ (Alexander G. Rotchev) 1838-1841

参考:〜
ロシア帝国植民地フォート・ロス(1812-1841)
  Russian Colony Fort Ross California

  現在のアメリカ合衆国カリフォrニア州ソノマ郡
  Sonoma County, California, USA
フォート・ロス(ロス砦)は1812年に露米会社(RAC)が派遣したイワン・クスコフ船長が毛皮狩猟採集基地として建設しました。その建設は、1806年にRAC
       フォート・ロス入植地
カルフォルニア
から派遣されたロシアのクヴォストフ船長(captain Lieutenant Nikolai Khvostov)が、未だスペインが支配していなかったサンフランシスコ湾(San Francisco Bay)の北部(Alta California)海岸を探検航海。シトカに帰港してラザノフ支配人に毛皮狩猟採集基地としての好適地だと報告したことから始まりました。1809年にボデガ湾に遠征したクスコフ船長が多数のラッコの毛皮を持ち帰ったので、そこへの遠征が本格化して、ボデガ湾に港が建設されルミャンツェフ港と名付けられ、さらに北部でポモ部族の人達が利用していた所に居住地が建設されてフォート・ロスと名付けられました。そこはロシア領アメリカ(アラスカ)への食料供給地としても重要になり、豊富な木材(アメリカスギ)を利用して、太平洋岸で最初の造船が行われました。ロシア人はポーランド人(Poles)、フィンランド人(Finns)、ウクライナ人(Ukrainians)、エストニア人(Estonians)などで、現地人はアレウト族(Aleuts)、カシャヤ族(Kashaya)ポモ部族(Pomo)、クレオール人(Creoles)などで構成されていました。ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病の天然痘(smallpox)や麻疹(ハシカ:measles)などで、人口が減少して労働力が不足しました。1821/8月にペルーのカヤオ港から来航したロシアのクズコフ船長(Kutuzovs)の船医(surgeon)が54人に種痘をした記録が残っており、1833年にはハドソン湾会社(Hudson's Bay Co)の狩猟隊の上陸を禁止しています。1837年にシトカからやって来た天然痘がソノマ郡と東のナパ郡(Napa County)一帯で猛威をふるい、多数の現地人が亡くなりました。1838年にシトカのRACとイギリスのHBCが食料契約を締結、フォート・バンクーバー(Fort Vancouver)とフォート・ラングレー(Fort Langley)から食料が供給されることになり、その重要性は失われました。1841年にスイスのジョン・サッター(John Augustus Sutter 1803-1880 Swiss-American California)へ$30,000ドルで売却されました。なお、米国のアラスカ買収により、1867年から米国領となりました。1906/4/18早朝にサンフランシスコ周辺を襲ったサンフランシスコ地震(San Francisco earthquake、M7.8)で被害を受けました。フォート・ロスはサンフランシスコから北29kmの所に有って、フォートロス歴史公園(Fort Ross State Historic Park)として保存されています。

参考HP:〜
ヴォログダ州の場所地図
白海の場所地図(アルハンゲリスク有)
ボデガ湾の場所地図
ボデガ・ハーバーの場所地図
ドレーク湾とサンフランシスコ湾の場所地図
ファラォン諸島とサンフランシスコ湾の場所地図(1579/7/24ドレーク船長が島を発見・上陸)
太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有)
  (ペテルブルグ喜望峰バタヴィアマニラ〜(マカオカントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク
  (ペトロパブロフスク〜ウナラスカコディアクシトカヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス
アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有)
  (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     11/4/11
スタンプ・メイツ
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