★ロシア
ウランゲル提督
1825年
クロトキイ号で世界一周航海

大航海物語★
ROSSIJA POCCUST
千島列島とアリューシャン列島の航海地図
クロトキイ号
ウランゲル提督
ウランゲル船長の航海170記念
ロシア 1994/11/22 発行

     北極洋 ウランゲリ島
   チュクチ海  ↓
US AIR MAIL
アラスカ州の地図

アメリカ 1959/1/3 発行
ロシア
アラスカ




シトカ
カムチャッカ半島→
            ↑
        ベーリング海
ノーフォーク 1978/8/29 発行

ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

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FIJI
クロトキイ号で世界一周航海

太平洋と世界地図
フィジー 1977/4/12 発行

ロシア生れのウランゲル提督は21才でゴローニンの極東アジア遠征航海に参加して世界一周航海をなし、21才でシベリヤの北極を探検して、北極シベリヤの貴重な資料をヨーロッパにもたらしました。29才でクロトキイ号の船長となって世界一周航海を達成しました。その後にアラスカ総督となり、また露米会社の支配人として経営の悪化していた露米会社を立て直し、ロシア帝国海軍大臣になりました。晩年はエストニアの農園に引退して、エストニアで亡くなりました。

提督フェルディナント・フォン・ウランゲル男爵 (1796/12/29〜1870/5/25)
 Admiral Baron Ferdinand Friedrich Georg Ludwig von Wrangel
 
Baron Ferdinand Petrovich von Vrangel
   ロシア帝国海軍北極探検家(Russian Naval Arctic Explorer)
   ロシア科学アカデミー会員 (1855)
   ロシア帝国海軍大将
   ロシア・プスコフ生、エストニア・タルトゥ:74才没
ウランゲル提督はロシア帝国領プスコフ州の州都プスコフ(Pskov、Pskov Oblast、Russia)で、バルト・ドイツ人(Baltic Germans)の貴族ウランゲル家で生まれ、1815年に19才で海軍士官養成学校(Naval Cadets College)を卒業しました。

ウランゲル提督の大冒険:〜
・第1回(航海、1817〜1819)〜カムチャッカ号に乗船してゴローニン世界一周航海に参加
・第2回(冒険、1820〜1824)〜シベリヤ北極探検、北東航路の探査
・第3回(航海、1825〜1827)〜クロトキイ号で世界一周航海

・極東アジア遠征航海から世界一周航海、1817〜1819
1817年にゴローニン提督(Vasily Mikhailovich Golovnin 1776-1831)の極東アジア遠征航海に、21才でロシア帝国海軍フリゲート艦カムチャッカ号(Russian frigate Kamchatka)に士官候補生(Midshipman)で乗船して世界一周航海に参加し、1819/9月にロシアに帰港しました。

・シベリヤ北極探検(Wrangel's Siberian Arctic Expedition)、1820〜1824
1820年にウランゲルは北東航路(North East Passage)の探査で、東シベリア海(East Siberian Sea)沿岸を調査して、鳥の群れが北の海へと飛んでゆくのを見ました。そして、1764年のコザック(Cossack)アンドレイエフ軍曹(Sergeant Stepan Andreyev)の報告書を読み、北極海には未知の陸地があるに違いないと考え、チュクチ族から、彼らがチケゲンランド(Tikegen Land)と呼んでいた陸地の場所を聞いて、1820年から4年間の探検に出かけましたが、見つけることは出来ませんでした。後に発見されたのは島で、1867年にアメリカ捕鯨船のトーマス・ロング船長(Thomas Long, American whaling captain)が上陸して、その島にウランゲリ提督に因んでウランゲリ島(Wrangel Island)と名付けました。

ロシアのシベリヤ極北(現在のサハ共和国(Sakha Republic 首都:ヤクーツク市 Yakutsk)、マガダン州(Magadan Oblast 州都:マガダン)、チュクチ自治管区(Chukotka Autonomous Okrug 首都:アナディリ Anadyr)周辺を探検する旅は、1820年にコリィマ川(Kolyma River 2,129km)を北へと下り、その河口部からロシア極東最北端のシェラグスキィ岬(Cape Shelagsky)へと回り、ユーラシア最東端の北側は当時考えられていたような陸地ではなく、海(北極海)であることを確認しました。それはコリマスカヤ探検隊(Kolymskaya expedition)を指揮しての探検で、デジニョフが探検(1641-42)したコリマ丘陵から流れ出ているコリマ川(Kolyma River 2,129km)を確認して、シェラグスキィ岬(Cape Shelagsky)へと探検して、それの河口が東シベリア海に流れ出ていることを発見しました。

スンタル・ハヤタ山脈(水源の標高790m)から、河口が東シベリア海へと流れるインディギルカ川(Indigirka River 1,726km)、チュクチ半島最東端のチュクチ海に面したコリュチンスカヤ湾(Kolyuchinskaya Bay)までの海岸線を、ピョートル・マチューシュキン(Admiral(1867) Fyodor Fyodorovich Matyushkin 1799-1872)とクズミン(P. Kuzmin)らと共にも行い、北東航路(Northeast Passage)の可能性を探りました。その探検は遥かに遠い極東シベリアの雪氷学(glaciology)、地磁気学(geomagnetics)、気候学(climatology)、民族誌学(ethnography)的な貴重な資料と情報をもたらしました。

・クロトキイ号で世界一周航海((Krotky expedition)、1825〜1827
1825年にウランゲル艦長はロシアの世界一周航海司令官としてクロートキイ号(Krotky)で出帆し、1827年に帰国しました。

その後は、1830年から北アメリカ大陸のアラスカ植民地の総督(Governor of Russian colonies in Alaska)に就任し、1835年まで務め、同時期の1830/6/1にアラスカの毛皮取引を独占する露米会社(Russian American Company)の第6代支配人(社長)になり、1835/10/29まで5年間務めました。

1845/8/6にサンクトペテルブルクで設立されたロシア地学協会(RGO:Russian Geographical Society)の設立メンバーにリュトケ提督と共に名を連ねました。1855年にサンクトペテルブルグのロシア科学アカデミー(Russian Academy of Sciences)会員になりました。1855年から1857年には海軍大臣(minister of navy)を務めました。1864年に引退して、1840年に入手したエストニア(Estonia)東部の農園で暮し、1867年のアメリカ合衆国に対するアラスカ売却には強く反対しましたが、聞き入れられませんでした。1870年にエストニアのタルトゥ(Tartu)で亡くなりました。代表的な著書には1841年刊行の「シベリア北岸と北極海への旅行」(Journey along the northern coastline of Siberia and the Arctic Ocean)や、アメリカ大陸北西部の民族についての書籍を執筆し、英語やドイツ語に訳されました。

シベリアからアラスカにかけて多くの地名にウランゲル提督に因む名がつけられました。北極海に浮かぶウランゲリ島のほか、アラスカ南東岸のアレキサンダー諸島にあるランゲル島(Wrangell Island)、その主要都市ランゲル(Wrangell)とランゲル海峡(Wrangell Narrows)、アッツ島の西の先端でアラスカおよびアメリカ合衆国の西端でもあるランゲル岬(Cape Wrangell)、アラスカの火山・ランゲル山(Mount Wrangell)、ランゲル・セントエライアス国立公園(Wrangell-St. Elias National Park and Preserve)など。

・ウランゲル提督の略年表:〜
1796年、プスコフ生
1815年、海軍士官養成学校卒業
1817〜19年、カムチャッカ号に乗船、ゴローニン世界一周航海に参加
1820〜24年、シベリヤ北極探検、北東航路の探査
1825〜27年、クロトキイ号で世界一周航海を指揮
1830〜35年、アラスカ総督、露米会社の支配人(社長)
1840年、エストニア東部の農園を入手
1845年、ロシア地学協会(RGO)設立メンバー
1855年、ロシア科学アカデミー会員
1855〜57年、ロシア帝国海軍大臣
1864年、エストニアの農園に引退
1867年、アラスカがアメリカに売却される
1870年、エストニアのタルトゥで亡くなりました。

参考:〜
ロシア・アメリカン会社
  Russian-American Company
 (1799〜1867)
   略称:露米会社(RAC)、ロシア・アメリカ毛皮会社)
1799年にパーヴェル1世(Pavel I、ロマノフ朝第9代ロシア皇帝、1754-在位:1796-1801)のニコライ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 1764-1807)への勅許で、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易の会社として、ロシア貴族などの出資で設立された露米会社は、バラノフ(Alexandr Andreevich Baranov, 1746-1819)が
ラッコ
現地で入植地を増やしましたが、1818年にバラノフがロシアに帰る途中で病死しました。同年、ロシア政府が露米会社の経営権を商人達から取り上げ海軍士官達が経営に携わり、士官達のほとんどが毛皮交易についての知識が無くて、会社の経営が悪くなりました。この時期にウランゲル提督が、1830年から1835年までロシア帝国の首都サンクトペテルブルクでアラスカ総督兼務の露米会社の支配人(社長)になり、競争相手のイギリスやアメリカの商人(例:イングラハム船長)らと競争しながら、入植地の経営を立て直しました。

露米会社の設立以前は、アラスカの毛皮交易はイルクーツクの商人グリゴリー・シェリコフとその娘婿であるレザノフの会社が独占していました。1784年にシェリコフは仲間のゴリコフとともにアラスカ南部のコディアック島に進出して入植地を築き、1790年にはアラスカを植民地化していくつかの毛皮会社(シェリコフ・ゴリコフ毛皮会社(Shelikhov-Golikov company)や、ロシア・アラスカ(Russian-American Company)会社)を設立しました。シェリコフが1795年に亡くなるとレザノフが会社を継いで、アラスカの現地ではシェリコフに雇われた商人アレクサンドル・バラノフがアラスカ南部でシトカなどの入植地を増やしました。

露米会社はアラスカからカリフォルニア(California)の海岸部(フォート・ロス)の支配にとどまりましたので、1830年代以降はイギリスのハドソン湾会社(HBC:Hudson's Bay Company)やアメリカの毛皮猟師(ハンター)などがカナダ方面から内陸部を伝って進出してきてアラスカの毛皮交易に参入し、露米会社の競争相手になりました。ラッコなどの毛皮はアラスカからシベリアを横断してロシアに向かうため、輸送料が高くついた上に、露米会社の弱点だった食糧問題は最後まで解決できませんでした。ロシアの入植地は太平洋を航海するアメリカの船による補給に頼っていたのに、1821年の新たな勅許で競争相手である海外勢力との接触を禁じましたので、食糧を補給し毛皮を買ってくれるアメリカ船との交易が断たれました。こうして露米会社はアラスカ沿岸を通って北極海に出る航路をハドソン湾会社に認めるという同社との協定を結ばざるをえませんでした。当初、レザノフは日本との交易を通じて食料を調達しょうと考えていましたが、日本の鎖国で実現できなかったと伝えられています。海岸部の先住民達は露米会社で厳しい労働を強いられ、アリュート人はアリューシャン列島からアラスカ本土へ移されてラッコ狩りや軍務などに従事し、その人口は疫病や労役で減少しました。トリンギット族は露米会社に服従せず何度も入植地を攻撃(1804年シトカの戦い)しましたが、ロシア正教会の聖職者達がアラスカに入り、毛皮商人の先住民への虐待を止める一方で、学校や病院の建設を行い生活向上の努力をして、先住民に現地文化や共同体を重んじた布教をおこなったため、先住民の入信者が増加しました。アリューシャン列島などでは今でもアメリカ正教会に属する聖堂が多く建っており正教徒もいます。

1860年代には露米会社の経営は、毛皮の動物乱獲や英米商人との競争のため依然として厳しさが続きました。ロシア政府は本土から遠く離れ補給も防衛も困難なアラスカを切り離そうと、1867年にはついにアラスカはアメリカ合衆国に売却され、露米会社もその幕を閉じました。露米会社がアラスカの初期の探検や学術調査も行ったので、アラスカ南東部には今も、バラノフやウランゲルといった露米会社の支配人や総督たちの名に因んだ地名が多く残っています。露米会社はロシア領アメリカ(北緯55度以北のアラスカ)やアリューシャン列島、千島列島での毛皮採取、鉱物採掘を20年にわたり独占的に認められていました。20年後の1821年には新たな勅許により露米会社は北緯51度以北にまでその支配地域を伸ばしました。会社には貴族や商人達が出資して、勅許で会社の利益の3分の1は皇帝のものとされていました。アラスカ総督バラノフ(1790-1818)のもとで、露米会社は多くの居住地を築きました。1804年の「シトカの戦い」を経てアラスカ南部にノヴォ・アルハンゲリスク(Novo-Arkhangelsk 現:シトカ Sitka, Alaska)を建設して、北西太平洋沿岸のアラスカからカリフォルニアにまで要塞を築き、最も南の要塞フォート・ロス(Fort Ross,)は現在のサンフランシスコ(San Francisco)のすぐ北にありました。

露米会社支配人・列伝 (アラスカ総督兼務?)
  Chief Managers of the Russian American Company
氏 名 生年没年 在任期間
1 アレクサンドル・アンドレイェヴィッチ・バラノフ
Alexander Andreyevich Baranov
1746-1819 1799/7/9〜1818/1/11
2 レオンティ・ガゲメイスター海軍大尉
Captain Leonty Andrianovich Gagemeister
1780-1833 1818/1/11〜1818/10/24
3 セミョン・ヤノヴスキー海軍大佐
Lieutenant Semyon Ivanovich Yanovsky
1788-1876 1818/10/24〜1820/9/15
4 マットヴェイ・イワノヴィッチ・ムラヴイェフ
Matvey Ivanovich Muravyev
1784-1826 1820/9/15〜1825/10/14
5 ピョートル・イグロヴィッチ・チヒスチャコフ
Pyotr Igorovich Chistyakov
1790-1862 1825/10/14〜1830/6/1
6 提督フェルディナンド・ウランゲル男爵
Baron Ferdinand Petrovich von Wrangel
1796-1870 1830/6/1〜1835/10/29
7 イワン・アントノヴィッチ・クプレイアノフ
Ivan Antonovich Kupreianov
1800-1857 1835/10/29〜1840/5/25
8 アドルフ・カルロヴィッチ・エトリン
Adolf Karlovich Etolin
1798-1876 1840/5/25〜1845/7/9
9 ミハイル・テベンコフ海軍中将
Vice Admiral Mikhail Dmitrievich Tebenkov
1802-1872 1845/7/9〜1850/10/14
10 ニコライ・ローセンバーグ海軍大尉
Captain Nikolay Yakovlevich Rosenberg
1807-1857 1850/10/14〜1853/3/31
11 アレクサンダー・イリッチ・ルダコフ
Aleksandr Ilich Rudakov
1817-1875 1853/3/31〜1854/4/22
12 ステファン・ヴォイェヴォドスキー海軍大尉
Captain Stepan Vasiliyevich Voyevodsky
1805-1884 1854/4/22〜1859/6/22
13 イワン・フルゲルム海軍大尉
Captain Ivan Vasiliyevich Furugelm
1821-1909 1859/6/22〜1863/12/2
14 ドミトリー・ペトロヴィッチ・マクストフ王子
Prince Dmitri Petrovich Maksutov
1832-1889 1863/12/2〜1867/10/18

参考HP:〜
ロシアの地図(日本語)
ロシアの地図(日本語)
ロシアの州別地図
プスコフ州の場所地図(全ロシア地図)
プスコフ州の場所地図(欧州ロシア地図)
プスコフの場所地図(バルチック海付近のロシア地図)
タルトゥの場所地図(エストニアの地図)
コリィマ川の場所地図(東シベリア海の地図、ペヴェックとウランゲル島有)
コリィマ川の場所地図(チュクチ方面の地図)
インディギルカ川の場所地図(チュクチ方面の地図)
コリュチンスカヤ湾の場所地図(ベーリング海付近の地図)
チュクチ海の場所地図
ベーリング海の場所地図
サハ共和国の地図(レナ川(Lena)有)
東シベリア海の場所地図
ウランゲル島の場所地図
太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有)
  (ペテルブルグ喜望峰バタヴィアマニラ〜(マカオカントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク
  (ペトロパブロフスク〜ウナラスカコディアクシトカヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス
アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有)
  (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。    11/2/3
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