★ロシア |
アレクセイ・チリコフ船長
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大航海物語★ |
DANMARK チリコフ船長の第2回航海の乗船 サンクト・パーヴェル号の同型船 1741 ベーリング没後200年記念 1941 デンマーク 昭和16年 1941/11/27 発行 |
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CCCP | |
アリューシャンの探検航海地図 |
サンクト・パーヴェル号からアラスカの山を望見する一行 |
1741 ベーリングの航海250年記念 1991 ソ連 1991/7/27 発行 |
TURKIYE ユーラシア大陸を横断 サンクトペテルブルグ↓6200km イルクーツク↓4000km↓カムチャッカ |
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ヨーロッパ→ | ←カムチャッカ | |
アジアとヨーロッパを結ぶ”ボスポラス海峡”大橋「渡り初め」記念 トルコ 1970/2/20 発行 |
チリコフ船長はベーリング船長の極東カムチャツカ探検隊に副隊長で2回とも参加し、ユーラシア大陸を横断してオホーツクに到達後、カムチャッカ半島東岸に渡りました。1728年ベーリング船長と共にベーリング海峡の西端デジニョフ岬を回航、アジアとアメリカの間が海で隔てられていることを発見しました。1741年の第2回目の探検航海ではサンクト・パーヴェル号でベーリング船長に随伴して新大陸アラスカに到達後、ペトロパブロフスク港に帰港を果たしましたが、ベーリング船長の捜索に再度出帆し、アッツ島を発見しました。 |
アレクセイ・イリッチ・チリコフ船長 (1703-1748) Alexei Ilich Chirikov、 ベーリング探検隊の副隊長 ロシア帝国海軍大佐 エニセイスク:45才没 1721年にチリコフ船長はサンクト・ペテルスブルグのロシア帝国海軍士官学校(Naval Academy)を22才で卒業し、海軍中尉に任官しました。1725年にベーリング船長の極東カムチャツカ探検と北東航路の探検に副隊長で参加しました。 チリコフ船長の大航海:〜 ・第1回航海(1725-1730)〜極東カムチャツカ探検隊、サンクト・ガブリール号 ・第2回航海(1733-1743)〜極東カムチャツカ探検隊、サンクト・パーヴェル号 ・第1回探検航海(1725-1730) 1725年、チリコフ海軍中尉がベーリング船長のカムチャツカ探検隊の副隊長に指名され、 デンマーク生れのマルティン・シュパンベルグ中尉(Martin Spangberg ?-1761)が 技師長(造船・操船術)に指名される 01/24、チリコフ中尉とチャプリン少尉候補生とが25人と資材をペテルブルグから先発
ホーツク港にシーチク(10mx4mくり抜いた太い丸太の両側に側板張の平底船)2隻有 フォルトゥーナ号(Fortune:フォーチュン)と命名、シュパンベルグが2隻で2往復して 資材食料をカムチャッカ半島西岸ポルシュレック村(集落24戸)に運搬 ベーリングはカムチャッカ南端のロパトカ岬(Cape Lopatka)の回航を採用せず、陸路 900kmを横断、東岸のニジニ・カムチャッカ(Yujin-Kamchatsky)へと踏破 09/03、チリコフ中尉隊も合流して全隊員がポルシュレック村に到着 ポリシャ川を遡上、最上流から犬橇で分水嶺越え、東流するカムチャッカ川下り行程 夜間は雪洞でブルガ吹雪を避ける、徴発カムチャダル族は狩猟せず犬が死で大災難 1728年、 03/11、ペテルスブルグから3年以上かかってニジニ・カムチャッカ(集落50戸)に到着 06/09、小型帆船コッチ型サンクト・ガブリール号(英:St.Gabriel、長さ18.3m 幅6.1m吃水下2.3m)が進水40人分の食料1年分を船積み 07/14、ベーリング、チリコフ、シュパンベルグ、チャプリンらの士官など44人で出帆、北へ 07/29、アナディル河口を通過 08/14、ロシア名「デジニョフ岬」を回航 08/15、士官会議で”北緯67度18分”(ベーリング海峡の北・チュクチ海)で南へ転舵を決定 08/16、今日を限度で帰還すべしとシュパンベルグ中尉が主張、 チリコフ副隊長は北極海のコリマ河口行きを提案するも、 ベーリング隊長はベーリング海峡有として安全策を採用、南へ転舵して帰途に着く 09/01、カムチャッカ河口に帰港 ベーリング隊はニジニ・カムチャッカで越冬 1729年、 07/23、ベーリング隊がオホーツク着 08/29、ベーリング隊がヤクーツク着 1730年、 03/01、ベーリング隊がペテルスブルグに帰着、 その後、チリコフは海軍大尉補に昇進 04月、ベーリングが海軍省に詳細な探検報告書を提出 元老院が濃霧で、アラスカを視認していないとして、 ベーリング探検隊の不十分さを非難しました。 ・第2回探検航海(1733-1743) 1732年、チリコフが海軍一等大尉に昇進 1733年、第2次大北方探検隊(Great Northern Expeditions of Vitus Bering)を組織 03/06、第1班、第2班がペテルブルグを出発、 03/07、第3班、第4班がペテルスブルグを出発、馬橇で陸路シベリアへ向う 04/18、ベーリング隊長と夫人アンナ・マトヴェヴナが出発 05/03、トヴェリ着 07/14、カザン着 11月、エカチェリングブルグ着 12月、シベリアの中心都市トポリスク着 1734年、 07月、イルクーツク着 10月、ヤクーツク着、基地として資材を集結、鉄工所を建設 探検準備で3年間滞在、 ベーリング隊長がオホーツクへと出発、 アンナ夫人はペテルブルグへの帰路に着く 1737年、 09月、ベーリング隊がオホーツク着、シュパンベルグの監督で アルハンゲル・ミハイル号(1本マスト長さ18.3m)、 ナジェジダ号(3本マスト長さ21.3m)、 第1回使用の1本マスト古い船(長さ18.3m)フォルトゥーナ号と 聖ガヴリール号を修理 シュパンベルグ大尉隊が食料不足で出帆出来ず 10/4、フォルトゥーナ号がカムチャッカからの食料受け取りにボルシェリックへと出帆 ボルシェリック付近でフォルトゥーナ号が嵐に遭遇、岩に激突・沈没 1738年、 07/13、シュパンベルグ船隊がアルハンゲル・ミハイル号、ナジェジダ号、聖ガヴリール号の 3隻で日本への航路と千島列島の探検調査にオホーツクを出帆、 その後に船団がバラバラになり、それぞれボルシェリックに帰港 (アルハンゲル・ミハイル号とナジェジダ号は千島列島を回航) 1739年、 05/21、シュパンベルグ船隊4隻、冬期にポリシャ河口で建造のボルシェリック号、 アルハンゲル・ミハイル号、ナジェジダ号、聖ガヴリール号がボルシェリックを出帆 06/14、ワルトン中尉の聖ガヴリール号は船団から離れ単独で南下 06/16、聖ガヴリール号が北緯38度29分で日本を望見、南下 08/29、シュパンベルグ船隊3隻が乗組員13人を失って、オホーツクに帰港 07/23、ワルトン中尉の聖ガヴリール号がボルシェリックに帰港 08/22、聖ガヴリール号がオホーツクに帰港 日本側の目撃情報が1739(元文4)年の「元文の黒船」として有 1739年、 11/19、シュパンベルグ船隊の「日本航海の報告書」をロシア政府へ発送 1740年、 06月、サンクト・ピョートル号(Saint Peter:聖使徒ペテロ号 スヴャトーイ・ピョートル・アポーストル:Sviatoi Piotr the Apostle)、 サンクト・パーヴェル号(Saint Paul:聖使徒パウロ号 スヴャトーイ・パーヴェル・アポーストル:Sviatoi Pavel the Apostle) (3本マスト、長さ24.4m、排水量約100屯、小型砲14門のパケット船 packet boat) の2隻が完成、進水 ステラー博士がオホーツク着 09/06、ベーリング船長がサンクト・ピョートル号、先任士官スヴェン・ワクセルとステラー乗船 チリコフ船長がサンクト・パーヴェル号で、それぞれ1隻の補給船を随伴して オホーツクを出帆、 ロバトカ岬を回航してアワチャ湾(Avacha Bay)へ向って航海 10/06、嵐をついてアワチャ湾に到着、 前年夏先発のイワン・ニコラギンが出迎え 静かな天然の良港に感動して乗船に因んで、ペトロパブロフスクと命名 越冬してポルシェレックから食料などを輸送 1741年、 04/18、「ベーリング探検隊の活動報告書」をロシア政府宛に発送、 ベーリング、チリコフ、チハチョフ、ワクセル、ブラウチン、ヒトロヴォの署名を付ける 05/04、士官会議で航海方針を決定、 北緯46度まで東南東(East by South East)へ航海、 幻の陸地(ファナ・デ・ガマ)を目指す、無ければ東北へ航海することを目論む 06/04、サンクト・ピョートル号77人と6ヵ月分の食料で、 サンクト・パーヴェル号75人と6ヵ月分の食料で ペトロパブロフスク港を出帆 06/12、北緯46度の「幻の陸地」の予想場所に到着するも陸影は無く、北へ航海、 東経178度付近で濃霧が発生して両船は共に船影を見失い別々に東へ航海 チリコフ船長のサンクト・パーヴェル号が高山(セント・エリアス山 5,489.1m)を望見 07/15、アレキサンダー諸島のバラノフ島(Baranof Island)南のアラスカ海岸に接近、 ボート2隻を派遣するも戻らずで、上陸を果たさず、バラノフ島(シトカ島)付近を 調査後、シトカの西16kmにあるクルソフ島(Kruzof Island)のエッジキューム火山 (Mt Edgecumbe 976m)をセント・ラザリア山(Mt St. Lazaria)と命名 西へ航海し、アラスカ南部ケナイ半島(Kenai Peninsula)の セント・エルモゲン岬(Cape St. Ermogen)を回航して南から アリューシャン列島(Alexander Archipelago)を西へ航海、 ウナラスカ島(Unalaska Island)、 アダック島(Adak Island)、 ニア諸島(Near Islands)などに到達、 乗組員が壊血病と渇き(thirst)で亡くなる 10/12、サンクト・パーヴェル号が乗組員8人を失って、 ペトロパブロフスク港に帰港を果たす 1742年、 05月、チリコフ船長がサンクト・パーヴェル号で再度出帆、 ベーリング船長達の捜索に向う 06月、惜しくもコマンドルスキー諸島を通過するも、アリューシャン列島を捜索 アッツ島(Attu Island)を発見して、サンクト・セオドール島(Saint Theodore)と命名 07/01、サンクト・パーヴェル号がペトロパブロフスク港に帰港 08/27、ステラー博士たち生存者乗船の聖ピョートル号がペトロパブロフスク港に帰港して、 1741/12/8にベーリング船長がベーリング島で亡くなったことを知る 1743年、 09/26、ロシア元老院の命令でベーリングの第2次探検が終結。 1745年、海軍大佐(kapitan-komandor、カピタン・コマンドル)に昇進 1746年、クラスノヤルスク地方(Krasnoyarsk Krai)のエニセイスク(Yeniseysk)で結核に感染、 新太平洋地図(new Pacific maps)の作製協力、九州(Kyusyuu)、、アッツ島、 アナディル湾(Anadyr Bay)、タウイスカヤ湾(Tauyskaya Bay)などを記録 1748/11月、エニセイ川河畔のエニセイスク(モスクワ説有)で亡くなる。 なお、1741年にベーリング隊長とチリコフ副隊長によるロシア探検隊がアラスカ南部に上陸したのがヨーロッパ人の最初の足跡となり、1741/7/15にチリコフ船長が現在のシトカ市に到達したとされています。 参考:〜 ・北東航路の探検 (Northeast Passage Expedition) こちらで北東航路の探検をお楽しみください。 参考HP:〜 ・ニジニ・カムチャッカの場所地図(日本語) ・エニセイスクの場所地図 (ヴォルガ川、オビ川、エニセイ川、バイカル湖、レナ川、コリマ川、アナディール川、アムール川有) (ペテルブルグ、アルハンゲリスク、モスクワ、ペルミ(Perm)、トボリスク(Tobolsk)、ナリュム(Narym)、 エニセイスク、ツルカンスク(Turukhansk)、ウスチ・クート(Ust-Kut)、キャフタ(Kyakhta)、ウラン・ウデ (Ulan-Ude)、ネルチンスク(Neruchinsk)、ヤクーツグク、ウスチマヤ(Ust-Maya)、オホーツク有) ・バラノフ島の場所地図 ・ケナイ半島の場所地図 ・セント・エリアス山の場所地図(アラスカとカナダの国境に有) ・ベーリング海とベーリング海峡の場所地図 ・オホーツク海とベーリング海の場所地図 ・太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/2/22 |