★ロシア |
グリゴリー・シェリコフ船長 1784 コディアック島に居住地を建設 |
大航海物語★ |
スリー・セインツ号とスリーセンツ湾入植地 | ||
シェリコフ | コディアック島 | |
コディアック居住地建設記念 ソ連 1991/3/14 発行 |
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ラッコ Sea Ota ソ連 1971/8/12 発行 |
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ロシア生れの商人シェリコフは一攫千金を夢見てイルクーツクへ行って働きながら、独立して毛皮交易に乗り出すためにヤクーツクの商人ラストチキンと謀り、アレウト毛皮の利益配分で内紛を起こした会社の毛皮交易商船ニコライ号を獲得しました。1774年オホーツクからカムチャッカに大航海して渡り、地方長官から千島列島の独占交易権を手に入れたのを皮切りに、アリューシャン列島から北米アラスカ南岸方面を探検航海し、コディアク島スリーセインツ湾岸に入植を果たし、1784年ロシア最初の居住地をそこに建設しました。 |
グリゴリー・イワノヴィチ・シェリコフ船長 (1747〜1795/6/20、7/20説有) Grigory Ivanovich Shelikhov ロシア帝国の冒険商人・探検家、 アラスカ植民地建設者(Alaska Colonizer) ロシア・リルスク生、イルクーツク:48才没 シェリコフは現在のクルスク州(Kursk Oblast)のリルスク(Rylsk)で生まれ、父親の小売商店で働き、商売の基本を身につけました。1772年に25才でクルスクの街に出て、シベリア(Siberia)のイルクーツク(Irkutsk)で成功しているイワン(Ivan Larionovich Golikov 1729-1805)とミハイル・ゴリコフ兄弟の話を聞き、自らも一攫千金を夢見てイルクーツクへ行き、同郷のよしみでイワン・ゴリコフ商会(Ivan Golikov Co.)で働きました。独立して毛皮交易(Maritime Fur Trade)に進出する機会を伺がいながら、ヤクーツク(Yakutsk)にいた商人パベル・レベデフ・ラストチキン(Pavel Sergeyevich Lebedev-Lastochkin)と知り合いました。その頃、毛皮交易商人のムフィンとザスィプキンがアレウト毛皮(Aleut Fur)の利益配分で仲違いを起こし弱体化したので、シェリコフとラストチキンはムフィン・ザスィプキン商会の株の大半を買収して共同経営とし、毛皮交易の商船:ニコライ号(Nicholai)を獲得しました。 シェリコフの大航海:〜 ・大航海(1774)〜オホーツクからカムチャッカへとオホーツク海(Sea of Okhotsk)を横断航海 ・探検航海(1783-1786)〜オフォーツクからアラスカ南岸方面のコディアック島へ航海 1774年、シェリコフがオホーツク(Okhotsk)からカムチャッカ(Kamchatka)に大航海、 地方長官ベム少佐(Major Bem)からニコライ号を千島列島(Kuril Islands)方面への 航海の許可と、シェリコフがラストチキンと共に千島列島における独占交易権を 得て、ラストチキン探検隊が最初の遠征に出帆するも、オホーツク海で船が転覆し、 1回目の遠征に失敗する 1775年、28才のシェリコフがイルクーツクで大金持ちのナタリヤ・アレクシィヴナ未亡人と結婚 カムチャッカの商人のアリン・シドロフ商会と合流、ラッコなどの毛皮を求め、商船で 千島列島(Kuril Islands)とアリューシャン列島(Aleutian Islands)への探検を開始し、 シェリコフがキスカ島に上陸して毛皮交易の拠点を造り、さらに航海して 1760年頃からの毛皮交易所(fur trading post)のあるウナラスカ島に上陸 1775夏、ラストチキン探検隊が入植者40人で千島列島ウルップ島へ行き、入植地を建設して アイヌ人に日本へ案内してもらうことを目論み、商船でウルップ島に到着するも、 嵐で船が沈ん2回目の遠征も失敗 1776年、商船:聖ピョートル号と聖パーヴェル号をアリューシャン列島へ派遣 1777年、イワン・ゴリコフ商会とパノフ商会とシェリコフ・アリン・シドロフ商会の共同で 商船:アンドレイ・ベルヴォズヴァンヌイ号をアリューシャン列島に派遣 パノフとモスクワ商人サヴォリエフとの共同で聖ワルフォロメイ号とワルナワ号を アリューシャン列島のアンドリアノフ諸島に派遣 1777末、ラストチキンと共同で3本マストの商船:ナタリヤ号を千島列島に派遣、北海道の厚岸 付近に上陸して、オチェレンジ軍曹、アンチピン通訳、イルクーツクの商人シャバリン らの報告で毛皮をとる動物は千島列島より、アリューシャン列島に多いことが判明 1778年、ラストチキン探検隊が3回目の遠征で商船:ナタリヤ号と予備船を準備、国後島のアイヌの酋長ツキノエの案内で、ラストチキンの部下シャバリンが北海道の厚岸に上陸、遠征隊は松前藩士に会うことに成功。彼らは松前藩主に贈り物をして交易を求めたが、松前藩ではそのような判断はできず、幕府に相談の必要があるため、来年もう一度来るようにと言い渡された。翌年再度訪問したが、藩主の松前道広は幕府にロシア人来航を告げず、独断で蝦夷地での交易を拒否。ラストチキンの贈り物は返却され、貿易を求めるなら長崎に行くようにと言われるも長崎はロシアからは遠くて不便なことは明らかで、ラストチキンはウルップ島(Urup)に戻る 1778/10/14、ウナラスカ島でクック船長がロシアの毛皮商人イスマイロフに出会う 1779年、破産した商人ペロポニソスの持船の洗礼者ヨハネ号を買収、イルクーツクのゴリコフと シピリャコフと共同で61人乗組みでアリューシャン列島へ派遣、シェリコフの持ち船の 商船:ヨハン・ウィスキー号を合流させるもカムチャッカ海岸で遭難して大損害となる 1780年、大地震で津波(Tunami)が起こり、ウルップ島のロシア船は内陸に打ち上げられる この出来事のため、ラストチキンは日本との交易を諦める 1781年、アリューシャン列島に4隻、 シェリコフとパノフとの共同で、商船:聖ワルフォロメイ号とワルナワ号 シェリコフとラストチキンとの共同で、商船:聖グレゴリー号と聖パヴェル号、を派遣 1783/8月、シェリコフが、ギリシャ正教会の聖人でナザレの3聖人(スリー・セインツ:Three Saint(Three Holy Hierarch)=Basil the Great 1/1, Gregory theTheologian 1/25 John Chrysostom 11/13)に因んで名付けた3隻、通称:スリー・セインツ号、 商船:サンクト・ワシリイ号(Saint Basil the Great)、シェリコフ船長 商船:サンクト・グレゴリイ号(Saint Gregory the Theologian)、ゴリコフ船長 商船:サンクト・クリソストモス号(Saint John Chrysostom)、イズマイロフ船長で オフォーツク(Okhotsk)を出帆、アラスカ南岸方面のコディアック島(Kodiak Island)の スリー・セインツ湾(Three Saints Bay)と名付けた所に到着、妻ナターリヤ、 ゴリコフ、イズマイロフら遠征隊と共に上陸、現地人と親しく交流する 1784年、スリー・セインツ湾にロシア最初の居住地を建設してパブロポフスカヤ(Pavlovskaia) と名付け、現地人にロシア語の読み書きを教える学校を作り、ロシア正教を伝える 1786/12月、3年間のコディアク島滞在後、乱獲で毛皮をとる動物がいなくなることを憂いて、 イギリスやオランダの東インド会社のような単一会社を設立して、会社の乱立での 競争をなくそうと考え、サモイロフに後事を託して帰路に着くも、カムチャッカの西岸 のボルシェレック(Bol’shereck)を出帆直後に船が難破して遭難するも危うく助かる 1787/01月、オホーツク海の最奥部の湾を探検航海、 後にそこがシェリホフ湾と名付けられる 1786年、大清国々境に近いキャフタ(Kyakhta)でのロシア・中国貿易が中国の都合で途絶 シェリコフが貿易再開を見込んで大量の毛皮を買付けるも、1783年以降欧州からは 船便で広東(Canton)に毛皮が出回り、毛皮価格が暴落して大損害を蒙る キリル・ラックスマン(Kirill Laksman、1737-1796)や大黒屋光太夫らに出会う 1788/2月、ペテルブルグで女帝エカテリーナ2世(Yekaterina II 1729-在位1762-1796-1796没) に単一会社設立のため20年返済の借財とその会社への専売権を願い出るも、 女帝エカテリーナ2世はシェリコフの独占を許さず断る 1790年、シェリコフはアメリカ領の会社を任せるためにバラノフを雇いコディアク島へ派遣 シェリコフはシェリコフ・ゴリコフ会社などアラスカや北太平洋で活動する複数の毛皮 交易会社を設立し、バラノフを現地へ送り込み、首都の官房長だったニコライ・レザノ フ(Nikolai Petrovich Rezanov 1764-1807)を事業のパートナーに迎える(娘と結婚) 1791年、毛皮交易と現地人との、殺戮では無く親しく交流した手記を出版し、アメリカ領での 毛皮交易一本化と平穏な生活を送って友好的な現地人アレウト族との交流を訴える イルクーツクでラックスマンと親交を結ぶも、ラックスマンが独占を警戒し、シェリコフ が通訳(アイヌ族)と案内付きで提供した持ち船を使用せず、長男のアダムが ロシア帝国海軍々艦エカテリーナ2世号に乗船して日本へと出帆することになる シェリコフがズヴェズドチェトフをウルップ島とエトロフ島に派遣、対日貿易に備える 1792年、バラノフが島の北東に居住地を建設して、コディアック(Kodiak)と命名、 そこが後のコディアック市となる 09/24、アダム・ラックスマン中尉(Adam Kirillovich Laxman 1766-1806)と大黒屋光太夫ら 日本人の漂流民がエカテリーナ2世号に乗船してオホーツク港を出帆、日本へ向う 1795/6/20、シェリコフがイルクーツクで急死、 シェリコフの事業は娘婿となったレザノフが引き継ぎ、1799年には国策会社の露米会社となりました。シェリコフの名がオホーツク海の最奥部のシェリホフ湾(Shelikhov Gulf)やアラスカ本土とコディアック島の間のシェリコフ海峡(Shelikhov Strait)、イルクーツク州のシェリコフ町(Shelikhov Town)などに名付けられています。なお、1803年に日本との交易の確立のため、クルーゼンシュテルンがクロンシュタット軍港を出帆しています。 ・シェリコフ・ゴリコフ会社の支配人・列伝 Chief managers of the Shelikhov-Golikov Company 1783年に、イギリスのハドソン湾会社などがアラスカに進出するのを警戒して、シェリコフとゴリコフが創始したシェリコフ・ゴリコフ会社(Shelikhov-Golikov Co.)の歴代支配人。会社は主にコディアク島を本拠地として活動。
コディアク島には先住民のアレウト族ユピック系コニアガ族(Koniag Alutiiq, Yup'ik)がいて、彼らはカヤック(Kayak)で漁労をしたり、狩猟、採集農業を行って生活していました。1763年にロシアの毛皮商人ステパン・グロトフ(Stepan Glotov ?-1769)がカムチャッカからアリューシャン列島を経て探検航海してきて島の現地人のことを調査しました。1784年ににもロシアの毛皮商人グリゴリー・シェリコフが、島の南部のスリーセインツ湾に居住地を建設し、以降はロシアによる永続的な植民地となり、1792年にバラノフが植民地の中心を北東部のコディアック(Kodiak)に移し、ここがロシアの毛皮交易の中心地になりました。1867年にアメリカ合衆国がロシアからアラスカを購入したのに伴い、コディアク島もアメリカ領となりました。アメリカ人は島に定住し、狩猟や、毛皮用に狐の飼育を行いました。1912年に対岸のカトマイ火山(Katmai(Novarupta)volcano 841m)が大噴火し、大量の火山灰が降って島の生態系に大きな被害をもたらし、1964/3/28にアラスカ地震(Alaska earthquake、Good Friday Earthquake、マグニチュード8.5)が起き、地震と津波で沿岸の町が甚大な被害を蒙りました。
参考HP:〜 ・クルスク州の場所地図 ・アラスカの地図(コディアック島が有) ・コディアック島の地図 ・コディアック島の地図(シェリコフ海峡とコディアクが有) ・アラスカ半島とコディアック島の地図 ・アラスカ半島の地図(カトマイ火山(Katmai:Novarupta)とコディアック島の一部が有) ・ケナイ半島の地図 ・クリル諸島の地図(千島諸島) ・アリューシャン列島の場所地図 ・アリューシャン列島の地図 ・ウナラスカ島の地図 ・セントポール島の地図 ・シェリホフ湾の場所地図(赤線) ・太平洋の探検航海地図(歴史地図、太平洋の主要な寄港地(港)、フォート・ロス有) (ペテルブルグ〜喜望峰〜バタヴィア〜マニラ〜(マカオ・カントン)〜ペトロパブロフスク〜オフォーツク) (ペトロパブロフスク〜ウナラスカ〜コディアク〜シトカ〜ヌトカ〜フォート・ヴァンクーバー〜フォートロス) ・アラスカ湾岸の居住地地図(歴史地図:1790-1884の毛皮取引区域地図、ケナイ半島有) (スリーセインツ湾、コディアク、ノヴォ・アルハンゲリスク(シトカ)、フォート・ヴァンクーバー有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/3/11、11/5/25 |