Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)
聖イグナチオ・デ・ロヨラ神父
1534/8/15
イエズス会を創設
パンプローナの戦い
大航海物語
 参考資料
  スペイン編

COLOMBIA
イグナチオ・デ・ロヨラ神父

1556 ロヨラ没後400年記念 1956
コロンビア 1956/11/26 発行
PHILIPINAS
イグナチオ・デ・ロヨラ神父

1556 ロヨラ没後400年記念 1956
フィリピン 19/11/26 発行

MACAU CHINA
マテオ・リッチ神父聖フランシコ・ザビエル、イグナチオ・デ・ロヨラ、ヴァリニャーノ神父カルネイロ神父

1556 イエズス会創始者イグナチオ・デ・ロヨラ没後450年記念 2006
マカオ 2006 発行

スペイン生まれのイグナチオ・デ・ロヨラは青年時代を騎士で軍人として各地を転戦、30才で足に大怪我をして、故郷に戻り療養に努めて九死に一生を得ました。療養中に聖人伝などを読み耽り、キリストの下僕を志し、パリ大学で神学を修め、そこでフランシスコ・ザビエルに出会い、同志6人と共に「モンマルトルの誓い」を立ててイエズス会を創設し、自ら初代総長となって多くのイエズス会の会員を育てました。

イエズス会の会員は「ローマ法王の精鋭部隊」とも呼ばれ、折りから活発になっていた大航海の波に乗って、世界各地にその会員の宣教師を派遣し、ローマ法王への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍、キリスト教の布教を成して現在に至っています。
聖イグナチオ・デ・ロヨラ (イニゴ)
 St. Ignacio (Inigo)Lopez de Loyola (1491/12/24〜1556/7/31)
  別名:Ignatius of Loyola
イグナチオ・デ・ロヨラはバスク地方(Basque Country of Gipuzkoa, Spain)サン・セバスティアン(San Sebastian)アスペイティア(Azpeitia)に近いロヨラ城で生まれました。13人兄弟の末っ子だったイニゴは7才で母を失い、1506年に17才で親戚の騎士でカスティーリャ王国(kingdom of Castile)の財務官を勤めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラル(Juan Velazquez de Cuellar)の従者となりました。1517年(26才)以降、軍人として各地を転戦。30才の時にスペイン北東部ナバーラ王国のパンプローナの戦い(Battle of Pamplona 1521/5/20、Italian War of 1521-1526)で、飛んできた砲弾(1521/5/2)が足に当たって片足は折られ、もう一方には重傷を負うも九死に一生を得て、父の城に戻り数度の手術を受け療養生活を送りました。彼はこの間のことを後に「26才まで、この世の虚栄を追求する人間だった。特に名誉を獲得しようとの空しい欲望に激しくかられ、武術の修行に喜んで励んでいた」と述べています。

療養生活の間、イエスの生涯の物語や聖人伝を読み耽り、聖人たちのように自己犠牲的な生き方をしたいと思うようになりました。特にアッシジの聖フランシスコ(Saint Francis of Assisi 、伊:Francesco d'Assisii、本名 ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone、1181-1226、フランシスコ会創設者のカトリック修道士)の生き方に影響され、聖地に赴いて異教徒を改宗させたいという夢を持つようになりました。聖人にあこがれるあまり、彼は自分の名前をイニゴから、アンティオキアのイグナティオス(Ignatius of Antioch、35頃-110、使徒ヨハネの弟子)にならって、イグナチオ(Ignacio)に改めました。

健康を回復すると1522/3/25にスペイン北東部ピレネー山脈の南にあるカタルーニャ州バージェス郡バルセロナ県のバルセロナ近郊にあるキリスト教の聖地モンセラート(Montserrat)山のサンタ・マリア・モンセラート修道院付属大聖堂(Santa Maria de Montserrat)のベネディクト会修道院(Benedictine monastery)を訪れ、そこで世俗的な生き方との決別を誓い、一切の武具を聖母像の前に捧げました。1522年から1523年にかけて、モンセラートからの帰途、バルセロナ県の都市マンレザ(Manresa)に滞在し、そこにある洞窟(Cova Santa Maria de Montserrat)で瞑想するうちに霊的啓示を受け、世俗の出世を捨て、ひたすらわが身を聖母に捧げることを誓い修道者として生きることを決意したと伝えられています。そのため、イエズス会の歴史にとってマンレザは重要な土地となりました。

1528年にイグナチオはパリ大学に入学し神学を学びました。パリでは7年学びましたが、多くの人々がイグナチオの霊的指導を求めて来ました。そうする内の1534年までに6人の重要な同志を得ました。
・フランス出身のピエール・ファーヴル(Pierre Favre、1506-1546)、
・バスク出身のフランシスコ・ザビエル、(日本へ最初にキリスト教を伝道)
・スペイン出身のアルフォンソ・サルメロン(Alfonso Salmeron 1515-1585)、
・スペイン出身のディエゴ・ライネス(Diego Laynez 1502-1565)、
・スペイン出身のニコラス・ボバディリャ(Nicholas Bobadilla 1507-1562)、
・ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス(Simao Rodrigues 1510-1579)でした。

1534/8/15にイグナチオと6人の同志はパリで一番高い丘モンマルトルの丘(Montmartre)に登り、丘の中腹にあったサン・ドニ記念聖堂(Basilique de Saint-Denis)で唯一の司祭だったピエール・ファーブルがミサを行って、自分の生涯を神にささげる「モンマルトルの誓い」を立てました。 彼らの立てた誓いは「清貧・貞潔の誓いとともに、今後7人は同じグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。またはローマ法王の望む所ならどこでも行く」というものでした。これがカトリック教会の修道会イエズス会(Society of Jesus、1534/8/15創設)の始まりになりました。1537年に7人は教皇から直接修道会としての許可を受けようとローマに向かい、時のローマ法王庁教皇パウルス3世は一同に司祭叙階と聖地巡礼の許可を与え、6/24にヴェネツィアでアルベの司教から司祭叙階を受けました。当時、イタリア半島では神聖ローマ皇帝や教皇、オスマン帝国を巻き込んだ戦いが行われていたため、聖地への渡航をあきらめ、当面はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたて、1538/10月にファーヴルおよびライネスを従えて再びローマに赴きました。

イグナチオはイエズス会初代総長(Superior General of the Society of Jesus)に選ばれ、会員(companions)たちを欧州全域に派遣して、一般学校と神学校を各地に創設させました。ローマにおけるカール5世の名代をつとめていたホアン・デ・ヴェガ(Juan de Vega, Lord of Grajal 1547-1557)はイグナチオと会談し、その志の高さに感銘を受けシチリア総督に任命されるとイグナチオとイエズス会員を同地へ招き、メッシーナに大学を開かせました。メッシーナの大学は評判を呼び、その教育システムは以後のイエズス会学校の雛形となりました。1548年に「霊操」(Spiritual Exercises of Ignatius of Loyola)の決定版を出版しました。

1553年から1555年、イグナチオは自らの生涯を振り返って「自伝」を口述し、秘書のゴンサルベス・ダ・カマラ神父に書き取らせました。この自伝は「霊操」の精神を理解する上でも重要な資料となっています。同書は150年近く書庫に秘蔵されていましたが、ボランディストらによって「聖人伝」が出版された際に始めて公刊されました。

イグナチオはローマにて64才で亡くなりました。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は「7/31」で、1609/7/27にローマ法王パウルス5世(Pope Paul V 1552-1621)が列福、1622/5/22にグレゴリウス15世(Pope Gregory XV 1554-1623)に列聖されました。

なお、イエズス会は上智大学の設立母体で、「霊操」は霊性修業、霊的エクササイズの実践書であり、霊操者と霊操を受けるものとの間の細かな点まで考え抜かれ、相対峙しながらキリストへの信仰と自身の霊的成長を堅固にするための方法論を書いたもの。

参考:〜
・パンプローナの戦い (1521/5/20)
 Battle of Pamplona
、(Italian War of 1521-1526)
パンプローナの戦いは16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争の「イタリア戦争」の時に勃発した戦争。1521年以降にヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)がイタリアを巡り争った期間が一般にイタリア戦争と呼ばれる(1544年まで、あるいは1559年にカトー・カンブレジ条約が結ばれるまでの期間)、何度もスペインとフランスが戦っていた。その中で、スペイン北東部ナバーラ王国首都でナバラ州の中間にあるクエンカ・デ・パンプローナで知られる円形の谷の中の城塞都市パンプローナにフランスが攻め込んだ戦争を「パンプローナの戦い」と呼ぶ。1512年にカスティーリャ王国が軍事侵攻して以来、敗北したナバーラ王フアン3世
パンプローナのロヨラ城塞
Fortress of Loyola, Pamplona, Spain

スペイン 1988 発行
はフランスへ逃亡して、その後の奪回戦はことごとく失敗した。1521/5/20にもフランスの支援のもとに奪回に攻め込んだが奪回ならず。その時にロヨラが重傷を負ったので有名になった戦いでもある。

<スペイン(カスティリア)国王>
 (Kings of Reino de Castilla)
・フェルナンド1世(Fernando I, 在位1035-1065)、初代
アラゴン王国(1035-1715)とカスティーリャ王国(1035-1735)の同君連合成立、1469(スペイン王国)
イサベラ1世(Isabel I de Castilla、在位1474-1504)称号:カトリック両王
・カスティリャ共治王フェルナンド5世(在位1474-1504)称号:カトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世)
・フアナ(Juana、フェリペ1世の妃、狂女フアナJuana la Loca、1479-1555、在位1504-1516)
・フェリペ1世(ブルゴーニュ公フィリップ美公、Felipe I、在位僭称:1504-1506)
・アラゴン王フェルナンド2世(Fernando II、摂政在位1506-1516)、1512年ナバーラ王国併合
カルロス1世(Carlos I, 在位:1516-1556)
・フェリペ5世(Felipe V,在位1700-1715)、最後(カスティリア王国消滅)。

参考HP:〜
 イベリア半島(ナバーラ王国の場所)の地図(日本語)
 イナバーラ王国の場所地図(1400年頃)
 スペイン北東カタルーニャ州の場所地図
 パリの行政区の地図(セーヌ川右岸18区に「モンマルトルの丘」が有)

こちらで世界遺産の
ヌビア遺跡 (エジプト)
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/09/09, 2018/10/16、令和 R.2:2020/3/26、令和6年 2024/9/24
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Kosyo
無断転載禁止