Eritria 国連 1999 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.27
エリトリア Eritrea |
大航海物語 地図編★ |
ERITREA エリトリアの国旗と地図 エリトリア独立1年記念 エリトリア 1994/9/2 発行 |
ITALIA カプロニ (Caproni Ca.1) エリトリア 1996 発行 |
マッサワ→ |
ERITREA ダフラク諸島の地図 DAHLAK ISLANDS (画像:200%) Scientifi Explorational Society |
←ダフラク諸島 ←南マッサワ水路 |
ジュゴン |
ウミガメ |
ミッチェル・コッツ貨物輸送社ロンドン |
DAHLAK ISLANDS エリトリア 1969 発行 |
Mitchell Cotts Ltd Headquarter London |
ETHIOPIA | |||
エリトリアとエチオピアの地図 | COLONIA ERITREA エリトリアの現地人 イタリア領エリトリア 1930 発行 |
||
(エリトリア) マッサワ港→ アスマラ→ ゴンダル→ アジスアベバ→ (エチオピア) |
エチオピア最期の皇帝ハイレシ ェ ラセ夫妻 |
||
エリトリアとのエチオピア連邦結成記念、1952 これで内陸国エチオピアに港(マッサワ港)ができていた。 エチオピア 1952/9/11 発行 (画像:200%) |
ERITREA エリトリアの鉄道 |
|
エリトリア鉄道の再建記念 エリトリア 1996 発行 |
エリトリア国 State of Eritrea エリトリア国はアフリカの角(Horn of Africa)と呼ばれるアフリカ北東部にある国家。 ・面積:117,600ku(日本の北海道と九州とを併せた広さとほぼ同じ) ・人口:約5,600,000人(2012)、人口密度:37人/ku、人口増加率2.8%(2012推計) ・首都:アスマラ (Asmara)、人口約69万人(2009)、標高約2300mの高地に有 ・港湾:マッサワ港(Massawa) ・通貨:ナクファ (Nakfa)、通貨コード:ERN、固定レート:1米ドル=16.5ナクファ ・独立:1991/5/29(エチオピアから独立宣言)、1993/5/24(承認)、・国連:1993/5/28加入 ・1番切手:1892年イタリア切手に”Colonia Eritrea”加刷でイタリア領エリトリア1番切手を発行 ・GDP(国内総生産)約3.7億ドル(2008)PPP:購買力平価説(155位)、1人当 746ドル 2012年の世銀155位:約3.47億ドル(国際比較はこちらを参照)。 エリトリアは紀元前26世紀には古代エジプト王国と紅海(Red sea)を航海する海路で交易していた古代のプント王国(Land of Punt、BC25世紀-BC1070頃の後)があったとされて繁栄していました。それはエジプトのクセイル港(Al-Qusayr, Egypt)から船でプント王国へ交易品を運んでいたとされています。その後、エチオピアのダモト王国(Kingdom of Damot, BC980-BC400)、アクスム帝国(Aksumite Empire, AD100-AD940)の支配を受けました。アクスム帝国時代には対岸のアラビア半島沿岸も領土としたので、アラビアと活発な交易が営まれました。アクスム帝国は、始祖が「ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世(Menelik I, 在位BC950頃、エチオピア初代王)だと主張していました。19世紀になると欧州からの侵略を受けたエチオピア帝国との戦いの後に、独立しました。独立戦争などの戦争で多くの犠牲者がでましたが、内戦では10万人以上ともいわれる人々が犠牲になりました。 ・支配略史:〜 1262、エチオピア帝国(Ethiopian Empire, 1137-1974)が支配 1415、アダル・スルタン国(Adal Sultanate, 1415-1577)が支配 1557、オスマン帝国(Ottoman Empire, 1299-1923)のエジプト領エチオピアの一部となる 1591、エジプト領エリトリア 1882、イタリアが植民宣言、イタリアが占領(-1885) 1890、イタリア領エリトリアとなる 1936、イタリア領東アフリカの一部となる 1941、イギリスの軍政下となる 1942、イギリスの保護領となる 1952、エチオピア・エリトリア連邦 1991/5/29、エチオピアからの独立を宣言 1993/5/24、エリトリアの独立が承認される ・関連の戦闘:〜 1889-1896、第一次アビシニア戦争(エチオピア帝国とイタリア王国) 1935-1936、第二次アビシニア戦争(エチオピア帝国とイタリア王国) 1940/6/10-1941/11/27、第二次世界大戦の東アフリカ作戦(イタリアとイギリス) 1961-1991、エチオピアからの独立闘争(30年間) 1998/5/6〜2000/6/18、エチオピア・エリトリア国境紛争で死傷者が10万人以上となる ・エリトリア略史:〜 紀元前8世紀頃、古代のプント国が支配 紀元前5世紀頃、アクスム王国(Kingdom of Aksum 100-940)が支配 1137、ティグレ人(Tigray-Tigrinya people)の王国ミドゥリ・バリ(Medri Bahri 1137-1890)が支配 1262、エチオピア帝国が支配 1415、アダル・スルタン国が支配 1541、ポルトガルのヴァスコダ・ダ・ガマの子クリストヴァン・ダ・ガマ(Cristovao da Gama 1516- 1542/8/29)がエチオピア遠征(1541-1543)でマッサワ港に来航 1542/8/29、遠征隊長クリストヴァン・ダ・ガマが捕虜となり処刑される 1557、オスマン帝国ハベシュ領エリトリア(Habesh Eyalet of the Ottoman Empire, 1554-1802, 1813-1872)となり、エジプト領エチオピアの一部となる 1591、ハベシュ(Habesh)がベジャ総督(local Beja Na'ib)支配、オスマン帝国へは朝貢国となる エジプト領エリトリア(Khedivate of Egypt, 1872-1890) 1769/9/19、イギリス(スコットランド)のジェームス・ブルース(James Bruce, 1730-1794)がマッ サワに上陸、青ナイル河(Blue Nile 1,450km)の水源を求めてエチオピの首都ゴンダル (Gondar)へと出発(1770/2/14着) 1869、エジプトでスエズ運河が開通する イタリアがエチオピアに介入を始める 1882、イタリアが植民宣言 1885、イタリア王国とエチオピア帝国のエリトリア戦争(1885/2-1888)が勃発、 イタリアがエリトリアのマッサワ港を占領 1889/5/2、エチオピアはエリトリア戦争の講和条約ウッチャリ条約(Treaty of Wuchale)を イタリア王国と結び、エリトリアをイタリアに割譲 1889、第一次エチオピア戦争(1st Italo-Ethiopian War,1889-1896)勃発、エチオピアの勝利 1890、イタリアが「エリトリア」と命名、イタリア領エリトリア(Italian Eritrea, 1890-1936)となる 1892、イタリアの切手に”Colonia Eritrea”加刷でイタリア領エリトリアの1番切手が発行される 1896/10/23、第一次エチオピア戦争のアディスアベバ条約(Treaty of Addis Ababa)で、 エリトリアはイタリア支配継続となる 1935、第二次エチオピア戦争(1935-1936)が勃発 1936/5/9、エチオピアと、イタリア領ソマリランド、エリトリアの3地域を合わせたイタリアの植民 地のイタリア領東アフリカ (Italian East Africa, 1936-1941)が成立
1972、エリトリア人民解放戦線(EPLF)が結成される 第1次エリトリア内戦(1st Civil War、1972/2-1974/10/13) 第2次エリトリア内戦(2nd Civil War、1980/2-1981/3/24) 1974、エチオピア内戦勃発(Ethiopian Civil War、1974/9/12-1991/5/28) 1991/05、EPLFがエリトリア臨時政府樹立を宣言 1991/5/29、エチオピアからの独立を宣言 この時の合意でTPLFを中心としたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)による エチオピア新体制(メレス・ゼナウィ政権)が確立される 1993/04、国連監視の下、エリトリア地域の分離・独立を問う住民投票実施 1993/05/24、エリトリアの独立が承認される 1993/05/28、国際連合へ加盟申請、承認される 1993/6月、イサイアス・アフェウェルキが大統領に就任 1993、ハニーシュ群島紛争(1993-1998)が勃発 1996/7、エリトリア憲法(Constitution of Eritrea)が批准されるも、実現せず 1997/11、独自通貨ナクファ(ERN)を導入 1998/05/06、バドメ紛争が勃発(〜2000/5/25) バドメの帰属をめぐるエチオピア・エリトリア国境紛争が武力衝突に発展 2000/06/18、エチオピアとエリトリア戦争がアフリカ統一機構の調停で停戦合意が成立 2000/07/31、国際連合PKOエチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)展開が決定される 国境案が提案されたものの、両国間の合意が進まず 2000/12、エチオピアとの包括的和平合意成立 2001/02、エチオピアとエリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意 2002/04、国境委員会によりエチオピアとの(地図上の)国境線確定 2004、第3回地方議会選挙 2005、バドメがエリトリア領となって、エチオピアとの関係が再び緊張状態となる 2007/12、エリトリア軍12万とエチオピア軍10万が国境で対峙 2008、PKO(UNMEE)は撤退、エチオピア・エリトリア間の緊張状態が続く 2008/6/10、エリトリアが侵攻、ジブチ国境紛争(Djiboutian-Eritrean border conflict、〜6/13) 2010/1/01、エチオピア・エリトリア国境事件(Eritrean-Ethiopian border skirmish) ツォロナ・サランベッサ(Tsorona-Zalambessa)で小競り合いが勃発。 エリトリアには6州(Region)が有:〜 (1)中部地方(Centrale Zone):マアカル州(Maekel Region)、人口:1,053,254人 州都:アスマラ (2)南部地方(Southern Zone):デブブ州(Debub Region)、人口:1,476,765人 州都:メンデフェラ (3)ガシュ・バルカ州(Gash-Barka Region)、人口:1,103,742人 州都:バレンツ (4)アンセバ州(Anseba)、人口:893,587人 州都:ケレン (5)北紅海地方(Northern Red Sea Zone): セメナウィ・ケイバハリ州(Zoba Semienawi Keyih Bahr Region)、人口:897,454人 州都:マッサワ (6)南紅海地方(Southern Red Sea Zone): デブバウィ・ケイバハリ州(Zoba Debubawi Keyih Bahri Region)、人口:398,073人 州都:アッサブ これらの州がさらに複数の地区(District)に分けられている。 参考:〜 ・イサイアス・アフェウェルキ大統領(1946/2/2〜大統領在任(1993/5/24〜) (Isaias Afewerki) イサイアス・アフェウェルキはエリトリアの初代大統領で、民主正義人民戦線(PFDJ)書記長。 1946/2/2、アスマラで誕生、エチオピアのアディスアベバで技術者の訓練を受ける 1966、エリトリア解放戦線(ELF)に参加 1967、中国に留学し毛沢東思想や軍事知識を学ぶ 1969、ELF総司令官となる 1973、分派のエリトリア解放人民戦線(EPLF、現在のPFDJ)の創設に参加 独立をめぐりエチオピアと争う 1987/3月、EPLF書記長 1991、エチオピア社会主義政権崩壊後、エリトリアが独立 1993/6月、同国大統領に就任 1998、エチオピアのティグレ州に侵攻し、エチオピア・エリトリア国境紛争が始まる 国内で紛争の是非やイサイアスの政治姿勢に批判が高まり始めると強権的な統治を始め、メディア統制や野党勢力弾圧を強め、PFDJによる一党制統治のもと、憲法は施行されず、大統領・議会選挙は事実上無期延期の形となり、イサイアスによる個人独裁政治が敷かれている。イサイアスはエリトリアを軍事国家とし、完全な国民皆兵制度をしいており、エリトリア人は男女を問わず全員、無期限の兵役または政府事業での労役が義務付けられている。これは事実上の強制労働であり、大統領の圧政から逃れるため、2014年も毎月何千人ものエリトリア人が命がけで国境を超えており、その後は欧州への長い旅が始まっている。 ・アスマラ (Asmara)、標高:2,300m、人口:649,000人(2009推計) 中部地方マアカル州の州都で1993年に首都となる、 アスマラ〜マッサワ港間の鉄道と、アスマラ国際空港、世界遺産が有 アスマラは1870年代までは小さな村でしたが、1880年代にエチオピアに併合されてからは、重要都市となり行政機関が置かれました。1900年にイタリア領エリトリアの首都となり、1930年代にはイタリア様式の建築が多く立てられ、ピッコーラローマ(リトルローマ)と呼ばれました。1935年に第二次エチオピア戦争が始まると、イタリアが軍備を強化しましたが、第二次世界大戦開戦後の1941年に連合軍がエリトリアに侵攻・占領し、1952年までイギリスの軍政下に置かれました。現在もイタリア時代に作られたヨーロッパ風の美しい街並みや、イタリア語の店名などが多く残っています。1952年から1962年までエチオピアと連邦制を布いたエリトリア国の首都でしたが、1962年にエリトリア議会をエチオピア帝国の軍隊が取り囲み、エリトリアはエチオピアの一州であるエリトリア州となりました。その後アスマラはエリトリア州の州都となりました。 エチオピアからの独立戦争の時、アスマラ空港は重要拠点となって、武器や物資が流入しました。その後エリトリア人民解放戦線(現在の民主正義人民戦線)によりアスマラは解放され、国民投票で1993年にアスマラは正式にエリトリアの首都となりました。 アスマラ略史:〜 BC800-BC400、チグレ人(Tigre people)が住んでいた痕跡が有 1137-1890、メドリバアリ王国(Medri Bahri)、 王都はアスマラ南25kmのデバルア(Debarwa) 1527頃、アフマドのエチオピア侵攻:〜(ポルトガルのエチオピア遠征とエリトリアへの影響) アダル・スルタン国(Adal Sultanate1415-1559)のイマーム(宗教指導者)のアフマド・イ ブン・イブリヒム・アル=ガジー(Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi, 1507-1543/2/21)が、1517 年のエチオピア軍の攻撃で、混乱状態になっていたアダル国のスルタン(首長)に代わっ てアダル軍をまとめ直し、アダルの首都をアダル(Adal)からエチオピア東部の都市でハ ラール(Harar, Harari Region, 海抜1900m,現ハラリ州々都)に移して支配 1529、アフマド・アル=ガジーがオスマン帝国から支援を受けてキャノン(大砲)やマスケット銃 などの最新兵器で強化したアダル軍でエチオピアへ進軍して、アビシニア・アダル戦争 (Abyssinian-Adal war, 1529-1543)が勃発(緒戦は圧倒的にアダル軍優位に進む) 1529/3、アフマド・アル=ガジーがエチオピア皇帝ダウィト2世(Dawit II, 在位1507-1540/9/2)自 ら率いるエチオピア軍をアジスアベバ南東シムブラ・クレの戦い(Battle of Shimbra Kure, 1529/3)で破り、エチオピア高原の支配権を握る 1531、アフマドは軍をエチオピア北部に進め、ハイク湖の修道院(Lake Hayq Monastery)やラリ ベラの教会(Lalibela Church)で略奪を行う 1531/10/28、アムバ・セルの戦い(Battle of Amba Sel)でエチオピア軍に勝利し、アスクム手前 のティグレイの戦闘(Battle of Tigray)でもエチオピア軍に勝利 1531/11、アクスムに着くと、代々エチオピア皇帝の戴冠式が行われてきたシオンのマリア教会 (Church of Our Lady Mary of Zion)を破壊 1541/5/21、ポルトガルのエチオピア援軍司令官クリストヴァン・ダ・ガマがマッサワに上陸 1541/7/20、ポルトガル軍が内陸のデバルワ(Debarwa)に到着 1542/4/01、アクスム近郊でのジャルテの戦い(Battle of Jarte,1-6)ではポルトガル軍が勝利 1542/8/28、アシェンジェ湖(Lake Ashenge)畔ウォフラの戦い(Battle of Wofla)でポルトガル軍 が大敗し、軍司令官クリストヴァン・ダ・ガマは捕らえられて処刑される 1543/2/21、ポルトガルの援助を受けたエチオピア軍の反撃を受け、ポルトガル・エチオピア連 合軍がタナ湖周辺のワイナ・ダガの戦い(Battle of Wayna Daga, 1543/2/21)でアダル軍 を破り、アフマド・アル=ガジーが戦死、アフマド軍は崩壊(タナ湖は青ナイル川の水源) 1889、イタリアがアスマラを占領 1900、アスマラがイタリア領エリトリアの首都となる イタリア様式の建築が多く立てられ、ピッコーラローマ(リトルローマ)と呼ばれ、現在もイ タリア時代に作られたヨーロッパ風の美しい街並みや、イタリア語の店名などが多く残る 1935、第二次エチオピア戦争が始まると、イタリアが軍備を強化 1941、第二次世界大戦開戦後に連合軍がエリトリアに侵攻・占領 1952年までイギリスの軍政下に置かれる。 1952、エチオピアと連邦制を布いたエリトリア国の首都(-1962) 1962、エリトリア議会をエチオピア帝国の軍隊が取り囲み、エリトリアはエチオピアの一州のエ リトリア州となると、アスマラはエリトリア州の州都となり、エチオピアからの独立戦争の 際、アスマラ空港は重要拠点となり武器や物資がここから流入した。その後エリトリア人 民解放戦線(現在の民主正義人民戦線)によりアスマラは解放される 1993、国民投票でアスマラは正式にエリトリアの首都となる。 ・ポルトガルのエチオピア遠征(1541-1543) (ヴァスコダ・ダ・ガマの子息クリストヴァン・ダ・ガマの戦死後、アフマド軍が滅亡) 1541/5/22、クリストヴァン・ダ・ガマ遠征隊長がマスケット銃隊400人他で、 エチオピア・ソマリア遠征(1541-1543)にマッサワ港に来航・上陸 1541/7/20、ポルトガル隊がデバルワ(Debarwa)着 1542/4/01、ジャルテの戦い(Battle of Jarte)、アクスム近郊で現アナサ付近 4/04、ポルトガル軍の勝利 4/16、アフマド軍の勝利 1542/04/04、ポルトガル軍は歩兵方陣(Infantry square)を組み、マスケット銃と大砲でアフマド 兵を退けながら進軍。銃撃が偶然アフマドの足に当たり、それを機会にアフマドは退却。 エチオピア・ポルトガル両軍は追撃を行い、混乱するムスリム軍を打ち破るもアフマド軍 は遠方の川を渡ると体勢を建直し、全軍崩壊は免れる 数日後、アフマド軍に援軍が加わった。ポルトガル軍はこの状況を受けて直ちに行動を開始 1542/04/16、再び歩兵方陣で軍を進めた。戦闘は2週間足らず行われ、アフマド軍の馬に多少 の損害を与えたものの、今度はポルトガル軍が敗北。ポルトガル軍はエリトリア地方の王 バール・ニーガス・イシャク(Bahr negus Yeshaq、1578没)の援軍と合流して南方に向かう 10日後、ポルトガル連合軍はアフマド軍と対峙 雨季、しばらく睨み合いが続き、ポルトガル軍はエチオピア皇后サブラ・ウェンゲルの助言で、アク スム南方のアシェンジェ湖(Lake Ashenge)畔のウォフラ(Wofla)に宿営し、一方のアフマ ド軍はゾビル山に宿営。アフマドは銃の多寡が勝敗を決めると考え、オスマン帝国に助 力を頼んでマスケット銃士2000人、大砲、他900人を送ってもらう。一方、ポルトガル軍は これまでの戦闘や部署振り分けの都合などで、マスケット銃士は300人に減少 1542/08/28、ウォフラの戦い(Battle of Wolfa)ソマリア・オスマン軍(Somali-Ottoman)完全勝利 クリストヴァン・ダ・ガマが捕虜となりイスラムへの改宗を拒んで処刑される 雨季終了、アフマド軍はポルトガルの宿営地に攻撃をかけ、その大半を殺し、140人を捕虜とし 司令官クリストヴァン・ダ・ガマも部下10人と共に捕まる 1542/08/29、クリストヴァン・ダ・ガマがイスラムへの改宗を拒否して処刑される その後、ポルトガル軍生存者エチオピア軍と合流、さらにポルトガルからの新援軍も加わる 1543/02/21、ワイナ・ダガの戦い(Battle of Wayna Daga) ポルトガル・エチオピア連合軍(9000)の完全勝利 アフマド軍(1万5千)は敗北、アフマド戦死 アフマドの戦死でアフマド軍は崩壊。アフマドの妻バティ・デル・ワムバラは残った兵と共 に戦場から逃げ、本拠地のハラールに戻り、バティは体勢を立て直すため、甥のヌル・イ ブン・ムジャヒド(英語版)と結婚し、軍を再編するも、すでに反撃するだけの力は残って いなかった。アフマドの侵攻は、その後長くエチオピアで語り継がれました。 ・メンデフェラ (Mendefera)、標高:1,972 m、人口:28,492人(2005推計)、南部地方デブブ州々都 BC5thにはすでに町あったと推定されている 首都アスマラ南50km、アディ・ウグリ空港が有 ・バレンツ (Barentu)、標高:1,032m、人口:20,968人(2005推計) ガシュ・バルカ州の州都で、1978年にエチオピア・エリトリア国境紛争のバレンツ包囲で 街が要塞化され激戦地となり、戦闘で深刻な被害を受け、現在は復興中。 ・ケレン (Keren)、標高:1,590m、人口:86,483人(2005推計) アンセバ州の州都で、エリトリア鉄道がアスマラと結んで発展してくるも、 現在はこの路線は廃止されている。 第二次世界大戦(ケレンの戦い(Battle of Keren,1941/2/3-4/1、首都アスマラと紅海沿岸の マッサワ港への鉄道及び道路が有ったのでイギリス軍とイタリア軍が戦い、英軍が勝利)や、 エリトリア独立戦争の1971年に虐殺事件で約70人が犠牲となる戦場となる
1990年2月、エリトリア独立戦争中のエリトリア人民解放戦線が 奇襲で町を占領(第2次マッサワ戦(フェンキル攻勢) 1993/5/24、正式独立で、エリトリア国のセメナウィ・ケイバハリ地方の州都、戦争で町は被害を受け、2005年時点でも復興作業が行われている。近くにダフラク諸島が有。 ・アッサブ (Assab)、標高:16m、人口:20,222人(2005推計)、39,600人(1989) 南紅海地方デブバウィ・ケイバハリ州の州都で、 1869年に建設され、1882年にイタリア領となると、後背地への交易が拡大し、貯炭所がおかれ紅海を走る蒸気船への石炭供給地のひとつとなった。1952年にエリトリアがエチオピアとの連邦制をとると(1962年にエチオピアに併合される)、首都アディスアベバやエチオピア中央高原から最も近いエチオピア領の港として開発が進められ、エチオピア最大の港となった。1993年のエリトリア独立後も、エチオピアの外港としての重要性は変化しなかったが、1998年にエチオピア・エリトリア国境紛争が勃発すると両国は国交を断絶。同港の生命線であったエチオピア交易は現在も停止したままである。
・セメナウィ・バハリ国立公園 (Semenawi Bahri National Park) セメナウィ・バハリ国立公園はエリトリアの北紅海地方セメナウィ・ケイバハリ州にある国立公園で、公園には施設間輸送のため、単層アスファルト舗装された道路を備えている他に ・メグオ(Meguo) ・メドハニト(Medhanit) ・サブル(Sabur) にレクリエーションセンター設備が設けられている。セメナウィ・バハリ国立公園は国外及び国内旅行者にあまり知られていないが、豊富な野生動物や植物に恵まれており、特にバードウォッチングに適している。 ・ガシュ・セティッツ国立公園 (Gash-Setit National Park) ガシュ・セティッツ国立公園はガシュ・バルカ地方にある国立公園。
(Hanish Islands conflict) 1993、ハニーシュ群島紛争が勃発 エリトリアが天然ガスをめぐって紅海上のハニーシュ群島の領有を主張 同じく領有を主張するイエーメンと対立 1995、イエメンが群島のリゾート開発をドイツ、イタリアの業者に一方的に許可 同時に、イエメン軍を派遣したことからエリトリア側が態度を硬化 エリトリア軍が上陸し逆占拠 1996、フランスの仲介により、仲裁裁判所の設置を合意 1998、仲裁裁判所が、群島の帰属をイエメンと決定。 ・バドメ (Badme) アフリカの角にあるエリトリアとエチオピアの領土問題の焦点となっている町。エリトリアはバドメについてガシュ・バルカ地方に属すると、エチオピアはティグレ州の一部だと主張している。この紛争は、1998年から始まったエチオピア・エリトリア国境紛争(1998/5/12〜)から続いている。現在、この町はエチオピアに管理されている。 ・バドメ紛争 (Badme conflict)、死者数が10万超 (Eritrean-Ethiopian War、1998/5/6〜2000/5/25)、エチオピアの勝利 1998/5/12、エチオピア・エリトリア国境紛争勃発 エリトリアと国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦争に発展 2000/5、エリトリア軍が撤退を表明 2000/6、メレス首相はアフリカ統一機構 (OAU) の停戦提案を受け入れる 2000/7、国連の安保理はPKOである国連エチオピア・エリトリア派遣団 (UNMEE) 設置を決定 2001/2、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。 <エリトリアのユネスコ世界遺産>〜1件 ・アスマラ:近代主義的アフリカ都市、文化遺産(建造物群)、2017 (Asmara:A Modernist African City)。 参考HP:〜 ・エリトリアの地図 ・エリトリアの詳細地図 ・エリトリアの場所地図 ・エリトリアの地方地図 ・アダル国時代頃のエリトリアの地図("Aksum" と "Adal" の間の所) ・エリトリア鉄道の地図 こちらで ・ジブチ鉄道 ・アンゴラ鉄道 ・スパイス (香辛料) ・ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産 ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2014/9/13、2019/11/19 |