Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガルのインド副王(6-5
ガルシア・デ・ノローニャ船長
1538〜1540
インド副王
ノロ−ニャの大航海(第5次遠征艦隊)

大航海物語
ポルトガル編

ESTADO da INDIA
ノローニャ副王の紋章

ポルトガル領インド 1958/4/3 発行

MOZAMBIQUE
ポルトガル・ナオ船、1520

ポ領モザンビーグ 1963/12/1 発行
SULTANATE of OMAN
インド洋の地図

オマーン 1981/11/23 発行
ESTADO da INDIA
ゴアの地図

ポ領インド 1956/3/24 発行

ノローニャ船長は24才でアルブケルケ将軍率いる第5次インド遠征艦隊に参加してインドへ航海。その後、ポルトガルの北アフリカ攻撃戦に従軍。インドのカリカットへ航海後に国王の顧問官となり、北アフリカ攻撃戦に再度従軍。1538年にインド副王に任じられてインドのゴアに航海し、再び故国に帰ることも無く、インドのコーチンで亡くなりました。
ガルシア・デ・ノローニャ船長 (1479〜1540/4/3)
 Garucia de Noronha (第3代インド副王在任:1538/9/14〜1540/4/3)
ノロ−ニャ船長は、ポルトガル王フェルナンド 1 世(King Ferdinand I, 1345-在位1367-1383)の玄孫(やしゃご:孫の孫)で、ポルトガル貴族の父フェルナンド・デ・ノローニャ(Dom Fernando de Noronha)の没後、マヌエル1世ジョアン3世に仕えていました。

1503年にノロ−ニャ船長はアルブケルケ将軍のインド遠征艦隊で、ゴア、ホルムズカリカット攻撃に参加。1511年のポルトガルによる北アフリカ攻撃戦に従軍。1513年にインド・カリカットへ航海。1516年にポルトガルに帰国して、国王の顧問官として22年間勤務。1534年のポルトガルによる北アフリカ攻撃戦に従軍して戦いました。

1538/3/18勅令でインド副王に任命されたノロ−ニャ船長はインド遠征艦隊を率いてインドへ航海。1538/4/6にインド副王としてゴアに上陸。直ちに職務継承を要求して、ガレオン船14隻、ガレー船8隻、キャラベル船数隻、小型ガレー船30隻以上からなるディウ(グジャラート州:Gujarati, India)への救援艦隊を編成しました。

ノロ−ニャ副王は、9月中旬にゴアに到着したディウ要塞アントニオ・ダ・シルヴェイラ司令官(Antonio da Silveira)が送った船隊で、南インドでトルコのガレオン船隊を拿捕。船隊からはぐれてインドのカルナータカ州ホナヴァル(Honavar, Karnataka, India)に寄港した別のガレー船を地元民の助けを借りて破壊(この戦いにはフェルナン・メンデス・ピントも参加)。

1538/11/14には、イスラムの包囲攻撃(Siege of Diu, 1538/6/26-1538/11/6)を受けているディウ要塞(Fort Diu)の救援のために、オール(櫂)の無い高舷側船のナオ船、ガレオン船、カラベル船など83隻、その他はガレー船、ベルガンティン船、フォイスト船が142隻に、1万人の兵士と3万人の水夫、操船員、キリスト教徒奴隷などの乗組員が乗船した225隻のポルトガル救援艦隊を編成、準備しました。

救援艦隊がディウに向けて出帆しようとした時に、ディウ要塞アントニオ・ダ・シルヴェイラ司令官からのカトォール船便がディウから到着。「ゴアにポルトガルの大艦隊が集結している」とのカリカットのサモリン王の通報でイスラムの軍船が包囲を解いて撤退したことが伝えられて来ました。ノロ−ニャ副王は、なお、5日間ゴアに留まって、マルティン・デ・アフォンゾ船長とヴィセンテ・ヴェガード船長の2隻のナオ船をコーチン胡椒を船積みさせて母国へ帰国させました。そぢて、コーチンでサンタ・クルス号(Santa Cruz)に乗船していた前副王ヌーノ・ダ・クーニャを追放する使者に財務官フェルナン・デ・ロドリゲス・デ・カステルブランコ(Fernan de Rodriguez de Castelblanco)を派遣し、ク−ニャ前副王は母国ポルトガルへ強制送還となって、コーチンを出帆しました。

1538/12/6(木)にノロ−ニャ副王はゴアを出帆、4日目にシャウル(Chaul, Maharashtra)に投錨。3日間滞在して、艦隊に補給を施し、ディウへと出帆。ダヌ山脈(Danu Mountains)付近の湾を横断中に大嵐に遭遇、艦隊は散り散りになり、副王令息アルヴァロ・デ・ノローニャ(Don Alvaro de Noronha)坐上の24漕座ガレー船、ソーン号(Thorn(茨)いばら)ジョアン・デ・ソーザ船長(Joao de Souza)を含む数隻がダブル(ダラムタル(?)Dharamtar, Maharashtra)港口に流され難破し、令息は帰らぬ人となり、その他7隻が遭難しました。1ヵ月かかって再編された艦隊を率いて、1539/1/16にディウに到着。イスラムが撤退する時に破壊しつくしたディウ要塞を再建しました。

ノロ−ニャ副王は1540/4/3に61才でコーチン没となりました。

ノロ−ニャ副王は
ルイス・デ・カモンイスの作品・叙事詩「ウス・ルジ−アダス」と
メンデス・ピントの「東洋遍歴記」に登場しています。      2008/8/9、09/9/29追記







ガルシア・デ・ノローニャ船長
1503〜1504

第5次インド遠征艦隊に参加

ESTADO da INDIA
ノローニャ副王の紋章

ポルトガル領インド 1958/4/3 発行
MOZAMBIQUE
15世紀ポルトガル・ナオ船

モザンビーク 1963/12/1 発行

PORTUGAL
ポルトガルからインドへの航海地図

ヴァスコ・ダ・ガマ生誕500年記念
ポルトガル 1969/12/30 発行

・第5次インド遠征艦隊10隻の編成:総司令官アルプケルケ将軍
 (5th Portuguese India Armada, 1503/4/6〜1504/7下旬)
第1艦隊4隻:〜総司令官アルブケルケ将軍
・第2艦隊3隻
・第3艦隊3隻、計10隻。
・第5次インド遠征艦隊10隻の中に、24才のノローニャが乗組み参加して、
 1503年にポルトガルのテージョ河々口のリスボン港を出帆しました。

・ガルシア・デ・ノローニャの大航海:〜
1503年
04/06 第1艦隊4隻がリスボン港を出帆
04/16 第2艦隊3隻がリスボン港を出帆
5月上旬 第3艦隊3隻がリスボン港を出帆
5月中旬 第1艦隊4隻が、カーボヴェルデ諸島
第3次インド遠征艦隊のノーヴァ船長発見のアセンション島
7月上旬 喜望峰で第2艦隊のヴェイガ船長の船が嵐に遭遇して遭難、沈没 嵐の岬(喜望峰)を回航

シスカイ 1991/5/11 発行
7月中旬 第1艦隊が喜望峰を回航するも、嵐でカタリナディアス号を失う
ばらばらになった第1艦隊と第2艦隊がモッセルベイで合流
7月下旬 マリンディ着
8月中旬 レイニャ号がインドのゴアのアンジャディプ島(Anjadip Island)着
次いでファイアル号がアンジャディプ島に到着
8月下旬 エスピリトサント号がアンジャディプ島に到着、2週間後の
9月上旬、アルブケルケ将軍の旗艦サンチャゴ号がアンジャディプ島に到着

1503年2月にガマ提督第4次インド遠征艦隊が帰国のためインドを去り、司令官ヴィセンテ・ソダー提督のカリカット残留艦隊アデン湾から紅海方面に出動して留守のところへ、3月にカリカット王が兵50,000人でコーチンに陸上から攻め込み、第1次コーチン包囲攻撃戦(1st Siege of Cochin, 1503)が始まり、ポルトガルは苦戦していました。そこへ第5次艦隊第2艦隊のレイニャ号、ファイアル号が到着し、残留艦隊のフラデサ号他3隻が修理のため戻ってきました。アルブケルケ将軍がサンチャゴ号で到着すると、カナノールで大型 欧州16世紀頃の大砲と砲弾

クリストファーネヴィスアンギラ1970発行
船7隻が合流して、コーチンの救援に駆けつけ、勢いづいたポルトガルが勝利し、カリカット王が戦死しました。1503/9月にカリカット王軍が撤退し、カリカット王軍に加担したケラーラ州のヴェンバナド環礁島(Vembanad lagoon)、エダパリー(Edappally)、クンバラン(Kumbalam)に対する攻撃にカラヴェル船4隻・ファイアル号(Faial)・エスピリトサント号(Espirito Santo、ペレイラ船長)・フラデサ号(Fradessa)・サルタニャパルハ号(Saltanyaparha)が派遣され、アルブケルケ将軍の命で強固なコーチン要塞(Fort Manuel de Cochim)が建設されました。
1504年
01/12 アルブケルケ将軍がコーチン着
コーチンに戻ると地元サルタンの協力なしには香料取引が成り立たないことを悟り、帰国を急ぐので、カリカット王国のイタリア人協力者引き渡しは棚上げして、平和裏に講和条約を締結。スパイスを初めとするインドの産物を船積みできました
1月下旬 アルブケルケ将軍がコーチンを帰国のため出帆
コーチン要塞の司令官ペレイラ船長に兵150人と、カラヴェル船2隻:エスピリトサント号、ラファエル船長のガリダ号、ナオ船コンセプション号(Concepcao)が残留軍として駐留
01/30 カナノールでレイニャ号がスパイス(香料)を船積み中なので、サンチャゴ号、サンクリストバン号とカリカット残留艦隊フラデサ号の3隻が出帆
02/05 カナノールをレイニャ号とファイアル号が出帆
2月下旬 サンチャゴ号とサンクリストバン号がモザンビーク島着
フラデサ号がキルワで遭難して多くの乗組員を失い、アタイデ船長(アタイデの別)と数人が
地元のボートに救出されてモザンビーク島に着くも、重病で残留
レイニャ号とファイアル号がモザンビーク海峡で遭難
03/16 司令官ペレイラ船長が守るコーチンにカリカット王国連合軍が攻撃を始める
コーチンの戦い(1504)が勃発
月中旬 3サンチャゴ号、サンクリストバン号がリスボンへとモザンビーク島を出帆
サンクリストバン号がトラブったので、両船がモッセルベイ(Sao Bras)着
アルブケルケ将軍が第3艦隊のサルダーニャ船長の手紙「10月通過」を受け取る
05/01 サンチャゴ号ともう1隻が喜望峰を回航
カーボヴェルデ諸島着、修理、補給
6月 サンチャゴ号がモーリタニア沖で水漏れを起こし、カーボヴェルデに戻って修理、補給
07/03 ペレイラ船長がコーチンの戦いで、アルブケルケ将軍艦隊の支援のもとで、コーチンを
守り抜き勝利、カリカット王国連合軍が撤退、ファクトリー(貿易拠点・商館)を建設
7月下旬 アルブケルケ将軍のサンチャゴ号と、もう1隻がリスボンに帰港
1504年 ガルシア・デ・ノローニャが帰国の艦隊で、ポルトガルのリスボン港に帰国しました。

参考HP〜
インド西岸の地図
カンバラオ水路の地図(Pass of Cambalao、コーチンの戦い1504)
アフリカ南部海岸の地図
アフリカ東部海岸の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2010/11/15追記、令和6年 2024/7/26

スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止