大航海物語
スペイン国王・フェリペ2世
在位1556〜1598

参考資料
ESPANA
スペイ王国フェリペ2世国王
FELIPE II


マドリード首都 400年 記念
IV CENTENARIO DE LA CAPITALIDAD DE MADRID

スペイン 1961 発行
ESPANA
フェリペ2世
FELIPE II (即位 1556)


2000年紀記念のミレニアム切手 (風刺画)
スペイン 2001 発行
Liberia
フェリペ2世
FELIPE II (1556)


2000年紀のミレニアム切手
リベリア 1999/12/31 発行

フェリペ 2世
  Felipe II, King of Spain (1527〜在位1556〜1598)
フェリペ2世は1527年にスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)とポルトガル王マヌエル1世の娘イザベラ王女との間に生まれました。1556年父帝のカルロス1世退位により29才でスペイン王位と共にネーデルラント・ミラノ・ナポリ・シチリア等のヨーロッパ所領と新大陸およびアジアの植民地と共に、莫大な負債も継承し、翌年の1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言(Sovereign default:State Bankruptcies)バンカロータ)をせざるを得なくなりました。在位中にこれを含め4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が伺えます。フェリペ2世はアラゴン王国にあった副王制を用いて帝国全体を統治しました。各地に副王を置き、中央集権体制を整えたのです。1561年に宮廷をバリャドリッド(Valladolid)からマドリード(Madrid)に移しました。後にマドリード郊外にエル・エスコリアル宮殿を作り(1563年着工、1584年完成)、この宮殿の中から広大な領土への命令を発しました。前王とは違ってほとんど宮殿に籠って政務に専念して、「書類王」ともいわれます。

フェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想とし、本人も熱心なカトリック教徒でした。本家オーストリアのハプスブルク家の皇帝が、プロテスタント勢力と迎合し、その信仰を許可(アウグスブルクの和議、1555/9/25になされたドイツにおけるルター派容認の決議)した事に対し不満を持ち、カトリックの盟主になる事を自認したといわれています。1559年にはカトリックに対して害をなす本の禁書目録が公布されました。フランスのユグノー戦争(1562-1598)にも介入し、カトリック側を支援。このような異端不寛容的政策に対して、1568年にはネーデルラントの反乱が起こり、そしてアルプハラース山地では、モリスコ(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が起こりました。当時のスペインにはキリスト教に改宗したイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ教徒(マラノ)たちが多くいました。

カトリック盟主として、1571年のレパントの海戦では異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアをヨーロッパ連合艦隊の総司令官に任命してオスマン・トルコ帝国艦隊に勝利し、1579年にネーデルラント南部諸州(現ベルギー)を独立戦争から離脱させ、1580年にはフィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル王位を継承して併合しスペイン最大の版図を獲得しました。それは、カスティーリャ王国領(インディアス(新大陸)、フィリピン、ネーデルラント、ミラノ公国、ブルゴーニュ家領)、アラゴン連合王国領(サルデーニャ島、シチリア島、ナポリ王国)、ポルトガル王国領ブラジル、アフリカ大陸の南西部、インドの西海岸、マラッカ、ボルネオ島)という広大な領土を手中にし、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えたのです。しかしこの強大さがヨーロッパの勢力均衡を破壊した事から、フランス・イギリス・教皇庁の警戒心をよび、これら諸国を敵に回す羽目に陥り、又カトリックの護持のための絶え間ない戦争に駆り立てられました。

1581年にネーデルラント北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出しました(これをもってネーデルラント(オランダ)連邦共和国の独立とする説あり)。1588年にフェリペ2世は北部諸州を支援しているイングランドをたたくために無敵艦隊で攻め込み上陸を試みましたが、1588年にアルマダ(無敵艦隊)の海戦でイギリスに大敗を喫し、イギリス上陸は果たせませんでした。この頃からスペインに衰退の兆候が現れ始め、貴族位や領主権などの売却や、1590年にはミリョネス新税を導入するなど重税の傾向を強めました。この頃には新大陸からの金銀財宝の流入も最大になりましたが、軍事費増大は対外債務を増大させ、再三にわたる国家財政の破綻を招き、1596年に大規模なバンカロータを行わざるを得なくなりました。

さらに、スペインでは大航海時代の最盛期だったフェリペ2世治世化下の1596年から3年間に渡るペストの大流行ありました。スペイン帝国の最盛期をもたらしたフェリペ2世が死の床につく頃には、「スペインの世紀」は終わろうとしていました。

新大陸から流入する大量のスペイン銀貨(ポトシ銀山)はスペインに超インフレをもたらし、国民を途端の苦しみに追いやりり、商人の力を増大させ、価格革命を引き起こし、国王の経済的基盤を衰退させました。それはやがて全ヨーロッパに影響を与えました。

15世紀末から、一応の発展をみていた農業と手工業も、対外戦争追行に伴う重税と国家の適切な保護の欠如から、治世最後の10年は衰退に向かいました。対プロテスタント戦争という側面をもつ、これらの対外戦争は国内にも大きい精神的緊張を呼びました。彼の正統信仰護持の姿勢は、異端に対する厳重な弾圧だけに留まらず、祖先に異教徒の血を持つ者をも追求し、外国との知的交流を断つ結果となり、このこともスペインの没落を促す要因となりました。彼は死の直前まで国王としての使命感にあふれ、政務に精励し、1598/9/13に42年間の在位後にマドリードのエル・エスコリアル宮殿で71才の生涯を閉じました。なお、1584年に日本からの天正遣欧少年使節を謁見しています。

フェリペ2世は1543年に同い年生まれのポルトガル王女マリア・マヌエラと結婚。マリアの父はポルトガル王ジョアン3世、母はスペイ王カルロス1世の妹カタリナで、父方でも母方でもフェリペの従妹でした。1545年に長男ドン・カルロスが誕生し、マリアは死去。1554年に11才年上のイングランド女王メアリー1世と結婚。メアリーとは性格が合わず、1556年に即位のためスペインに帰国し、1年半後に3ヵ月ほどロンドンを再訪したのみで別居状態。既にこの当時における高齢出産の年齢であったメアリーは婦人科系の病に冒されていて子供を生まないまま1558年に亡くなりました。1559年にフランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワと結婚。イサベル・クララ・エウヘニアとカタリーナ・ミカエラの2女が誕生するも1568年に亡くなりました。さらにこの年には一人息子であったドン・カルロスも亡くなりました。1568年にオーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリア(アンナ・フォン・エスターライヒ)と結婚。アンナの父の皇帝マクシミリアン2世はフェリペと同年生まれの従弟であり、母マリアはフェリペの妹でした。アナとは4人の息子と1女マリアが誕生、マリアとフェリペ以外のいずれの子供も夭折。残された子供はイサベル、カタリーナ、フェリペ(後のフェリペ3世)だけという家庭的に恵まれない人物でした。

参考HP:〜
1600年頃のヨーロッパの地図
スペインの自治州の地図
バリャドリッドの場所地図
マドリードの場所地図

こちらで
カルロス1世 (スペイン国王)

世界遺産の
モヘンジョダロ (パキスタン)
サンマリノ (イタリア)
ヌビア遺跡 (エジプト)
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      2018/8/8追記

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