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★日 本 | 天正遣欧少年使節 1582 欧州へと長崎を出帆 |
大航海物語★ |
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NIPPON 日本郵便 遣欧少年使節400年 南蛮船と古地図 日本 昭和57年 1982/9/.20 発行 |
日本郵便 NIPPON 春の野遊図 はるののあそびず 西川裕信作 日本 1982/4/21 発行 |
天正年間(1582)に、イエズス会派の企画で、少年使節が九州のキリシタン大名の名代として、ヨーロッパに派遣され、3年1ヵ月後の1585年3月にローマ法王に謁見しました。 |
・天正遣欧少年使節 (1582〜1590) Tensho embassy
当時のポルトガルはスペイン王のフェリペ2世が兼ねていましたので、マドリードに行きエル・エスコリアル宮殿で謁見を賜り、その援助によって地中海を渡って、イタリアへ向かい、トスカナ大公国で大歓迎を受けました。1585/3/23に少年達はローマ法王グレゴリウス13世(Pope Gregorius XIII,1502-在位1572-1585/4/10)から、ローマ法王庁の「帝王の間」において最高の待遇をもって謁見を受け、次の法王シスト5世(Pope Sixtus V, 1520 -在位1585−1590)からも援助を約束されました。そして、ローマの市民権証書を授けられ、北イタリアからスペイン〜ポルトガルを経て帰国の途につきました。 インドでバリニャーノ巡察使と再会を果たし、マカオに着いたところで、日本から豊臣秀吉が宣教師追放令を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節という資格で日本入国を許可され、1590/7(天正18/6)に一行は長崎に帰着しました。翌年3月(旧暦の閏正月)聚楽第にて、豊臣秀吉に拝謁しました。その後、4少年(正副四使節)はイエズス会に入りましたが、千々石ミゲルは棄教し、他の3名は司祭になりましたが、病死したり、あるいは殉教死したりしました。彼らがヨーロッパに行き、日本と日本人を知らしめた功績は大きく、また彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によってキリシタン版と呼ばれる日本語書物(イソップ物語など)の活版印刷が初めて行われるなど貢献したことが、キリシタン禁教令で密かに長く語り伝えられました。 使節の少年4人:〜(セミナリヨで学ぶ生徒の中から選抜) ・伊東マンショ(正使:Mancio Ito, 1569頃-1612/11/13) 13才出帆、21才帰国、43才頃没。 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。 後年、司祭に叙階・神父となる。1612年長崎で病死。 ・千々石ミゲル(正使:Miguel Chijiwa 1569頃-1633/1/23) 13才出帆、21才帰国、虚弱だったといわれるが64才頃没。 大村純忠の名代。純忠の甥で晴信の従兄弟。後に棄教。 ・中浦ジュリアン(副使:Juliao Nakaura 1568頃-1633/10/21) 2007年列福・聖人となる、14才出帆、22才帰国、65才頃没。 後年、司祭に叙階・神父となる。1633年に長崎で「穴づり」の刑で殉教。 ・原マルチノ(副使:Martinho Hara 1569頃-1629/10/23) 13才出帆、21才帰国、60才頃没。 後年、司祭に叙階・神父となる。1629年に追放先のマカオで病死 随員として、 ・ジョルジェ・ロヨラ修道士 使節の教育係、日本人 ・コンスタンチノ・ドラード 印刷技術習得要員、日本人少年 ・アグスチーノ 印刷技術習得要員、日本人少年 ・アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアに留る。 ・ヌーノ・ロドリゲス神父 ヴァリニャーノの後をついで一行に従う。 ・ディオゴ・メスキータ神父 通訳、イエズス会員 ・ロレンソ・メシア神父 ・オリヴィエーロ修道士、の名が伝わっています。 それから、30年後に伊達政宗の命を受けて、支倉常長は2年以上の旅路の末に1615年ローマ法王パウロ5世に謁見しました。(30年=1615-1585) 参考HP:〜 ・ローマ法王謁見の図(1585/3/23のグレゴリウス13世との謁見図) ・天正遣欧少年使節の肖像画(1586年、京都大学図書館蔵) ・大航海時代のスペイン(白)・ポルトル(青)の貿易航路地図(16世紀頃) 参考:〜 こちらで、支倉常長(慶長遣欧使節:1613-1620)をお楽しむください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2012/4/26追記、13/10/1 |