|
||
ペリー提督 1853 浦賀に”黒船”来たる |
大航海物語 ★アメリカ |
|
|
琉球郵便 那 覇 |
|
琉球執政会見の図 |
ペリーと米国東洋艦隊 |
ペリー来航100年記念 琉球 昭和28年(1953/5/26) 発行 |
「下 田」 嘉永7年(1854))伊豆の下田沖に 停泊中のペリー艦隊旗艦”ボーハタン号” 日本 江戸開府400年記念 2003 発行 |
「小笠原」 ペリ−提督は 嘉永6年(1853) 小笠原諸島に来島 小笠原諸島返還記念 日本 1968/6/26 発行 |
1853年ペリー提督は米国東洋艦隊の4隻の黒船を引き連れて、「ミシシッピ号」に乗船、江戸湾のノドモト「浦賀」にやってきました。やがて日本は開国し、明治維新を経て外国文明がどっと入って来ましたね。 |
マシュー・ガブレイス・ペリー (1794〜1858) Mathew Galbraith Perry ペリー提督はアメリカのロード・アイランド州サウス・キングストンで海軍一家の三男に生まれました。1809年15才で海軍に入隊。兄オリバーの砲艦勤務を最初に、1812年18才で米英戦争(1812/6/18-1814/12/26)に従軍。その後、アフリカ・西インド諸島・地中海方面で海賊退治などに従事。1833〜1841は海軍教育の改革に尽力、米海軍の近代化を強力に唱えました。 1833年1月ニューヨークのブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年アメリカ最初の蒸気軍艦フルトン2世号を建造し、大佐に昇進して艦長となり「海軍蒸気船の父」と呼ばれました。1841年には同工廠の司令官に就任。蒸気船を主力とする米海軍力の強化策を推進、さらに士官教育の振興、灯台施設の改善に尽力し、米海軍の近代化の基礎作りに貢献しました。1843年アフリカ艦隊司令官として奴隷貿易禁圧に従事、1846-47年に米墨戦争(1846-1848)で、メキシコ湾艦隊副司令官として戦果を上げました。 ペリー提督の大航海:〜 乗艦・米東インド艦隊8隻の旗艦フリゲート艦ミシシッピー号 1852/11/24〜米バージニア州ノーフォーク港を出帆 1852/12/11〜マデイラ島到着〜12/15出帆 1853/01/10〜セントヘレナ島到着〜1/11出帆 1853/01/24〜南アフリカのケープタウン〜到着〜2/3出帆 1853/02/18〜インド洋のモーリシャス到着〜2/28出帆 1853/03/10〜セイロン到着、〜3/15出帆 1853/03/25〜マラッカ海峡からシンガポール到着〜3/29出帆 1853/04/07〜マカオ到着 1853/04/28〜ホンコン(香港)出帆 1853/05/04〜上海到着〜5/17ペリー艦隊出帆 1853/05/26〜薩摩藩付庸国の琉球王国・那覇沖に停泊、ペリーは首里城を威力訪問 ペリーは艦隊の一部を那覇に駐留させ、自らは 1853/06/09〜那覇出帆、まだ領有のはっきりしていない小笠原諸島の探検へと航海 1853/06/14〜小笠原諸島到着、ペリーは小笠原の領有を宣言 1853/06/18〜小笠原出帆 1853/06/23〜琉球に再度到着、再び艦隊の一部を残して 1853/07/02〜4隻で日本へと那覇を出帆 1853/07/08〜嘉永6年6月3日、浦賀沖に到着、(ミシシッピー号とサスケハナ号が外輪式蒸気帆船) 1853/07/14〜嘉永6年6月9日、ペリー一行が久里浜上陸、浦賀奉行・戸田伊豆守・井戸石見守と会見 1853/07/17〜嘉永6年6月12日、江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰港 1853/07/27〜嘉永6年6月22日、将軍家慶が亡くなり13代将軍が家定となる ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考え出帆を決意 1854年にペリーは約束より半年早く琉球を経由して再び浦賀に来航 乗艦・米東インド艦隊8隻の旗艦フリゲート艦サスケハナ号 1854/02/11、嘉永7年1月14日に輸送艦「サザンプトン号」(帆船)が江戸湾に現る 1854/02/13、同年1月16日までに 旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」、 「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」、の6隻が到着 なお、江戸湾到着後に旗艦はボーハタン号になる 同年2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着 (合計9隻の大艦隊が江戸湾に集結) 1854/03/31、同年3月3日、ペリーは約500人の兵で武蔵国神奈川の横浜村(現横浜市)に上陸 全12ヵ条の日米和親条約(神奈川条約)を締結 ペリーが日本の徳川家光以来200年以上続いた鎖国を解くことに成功 同年5月25日、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺で和親条約の細則を定める 全13ヵ条からなる下田条約を締結 、同年6月1日、ペリー艦隊は下田を出帆、帰路に琉球王国とも正式に通商条約を締結 1855/1/11、ホンコンからオランダを経てアメリカに到着・帰国 1852年東インド艦隊司令官に准将として任命され、フィルモア大統領に親書をたくされ日本遠征を命じられました。ペリーは日本を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカの歴史的使命だと確信していたそうです。日本について周到な調査研究のうえ、旗艦の外輪蒸気船フリゲート艦「ミシシッピ号」ほか3隻の米東洋艦隊を率いて、1852/11/24バージニア州ノーフォークを出港、ケープタウン、シンガポール、ホンコン、上海、琉球、に寄港した後、浦賀沖に投錨しました。日本の幕府は江戸湾からの退去を要求しましたが、ペリーは拒否し、体面を重んじて最高位の役人との面会を強要し砲撃して威嚇したりしましたが、1853/7/8(嘉永6年6月3日)久里浜で、浦賀奉行に大統領の親書を手交して、開国を要求しましたが翌年までの猶予を求められて、一旦退去しました。 1853年ペリー提督は米東洋艦隊を率いて、捕鯨船の補給基地の確保を目指して小笠原諸島に寄航しました。ペリーはセイバリーを米艦隊エージェントに任じるとともに、島の自治化を図り、当時指導的立場にあったセイバリ―の被選首長への道を開くなど米国の影響力強化を策しました。 翌1854/2/13(嘉永7年1月16日)再び江戸湾金沢沖に、米東洋艦隊旗艦の「サスケハナ号」を含む7隻の艦隊で来航し、その威力をもって、3月31日に林大学頭らと神奈川条約(日米和親条約)が調印されました。さらに下田で日米和親条約付録に調印。この時は、下田・函館の開港、薪炭の供給、遭難船員の保護、領事の駐在、最恵国待遇などが約束されましたが、通商条約はなかったそうです。 ペリ−は遠征中に高度の戦略的観点から琉球の占領を米本国に具申して却下されたとか。大した戦略家だったんですね。琉球は第二次世界大戦の日本敗北後の1945〜1972年の間、実際に連合軍(米)に占領統治されましたね。帰途、琉球王国と通商条約を調印、その後、ホンコンに戻り、オランダを経て1855/1/11に米国に帰国。ペリーは米国へ帰国後、これらの航海記「日本遠征記」をまとめて議会に提出。1858/2/4ニューヨークにて64才で亡くなりました。 なお、その後、米国は南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、かわりに、英国やフランス、ロシアが勢力を拡大。日本と沖縄は第二次世界大戦を経て米国の勢力下におかれることになり、「1945年(昭和20年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ボーハタン号」に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた」との説があります。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/12/12追記 |