★イギリス
ジョン・デイヴィス船長
1592
フォークランド諸島発見

大航海物語★
FALKLAND ISLANDS
デイヴィス船長
デザイアー号がフォークランド島を視認
HMS Desier 1592

1592 フォークランド発見400年記念 1992
フォークランド 1992/8/14 発行
FALKLAND ISLANDS
デイヴィス船長 バックスタッフ
1592 フォークランド発見400年記念 1992
フォークランド 1992/8/14 発行
FALKLAND ISLANDS
フォークランド諸島の地図
ジョ|ジ6世
フォークランド 1952/1/2 発行

ISLAND
バフィン島、グリーンランド、アイスランド
カナダ イギリス
アイスランド 1962/11/20 発行
St.Helena
デイヴィス船長の乗船”デザイアー号”
HMS Desier 1588


セントヘレナ 1998/8/25 発行

デイヴィス船長は北西航路の探査にグリーンランドの西へ3度航海し、スペイン無敵艦隊の来襲時には海戦を戦い勝利し、デザイアー号での航海でフォークランド諸島を発見し、「バックスタッフ」という便利な航海用天体観測器具を考案し、1604年暮れにイギリスを出帆した東インド遠征航海船団の水先案内人でスマトラへ行き、同地で海賊に襲われて亡くなりました。
ジョン・デイヴィス (1550〜1605/12/29)
 John Davis
、navigators、explorers under Elizabeth I, especially in Polar regions.
ジョン・デイヴィスはイギリス・デヴォン州ダートマス(Dartmouth,Devon)近くのサンドリッジ(Sandridge)で生まれ、ギルバート一族やローリー一族が同郷だったので、少年時代から彼らの船に乗っていました。1583/7に北西航路(Northwest Passage)探検の計画をメルカトルと交流のあったジョン・ディー(John Dee、1527-1609、ロンドン生まれの錬金術師、占星術師、数学者)やエリザベス女王側近フランシス・ウォルシンガム卿(Sir Francis Walsingham、1532-1590)に見てもらい、色々な助言をもらいました。

デイヴィス船長の大航海:〜
・1585年〜北西航路の探検
・1586年〜北西航路の探検
・1587年〜北西航路の探検
・1588年〜スペイン無敵艦隊アルマダの来襲
・1589年〜クリフォード伯爵船隊でアゾレス諸島へ
・1591年〜キャベンディッシュ船隊デザイアー号で世界1周航海、1593年帰港
・1594年〜「デイヴィスの四分儀」を考案
・1596年〜ローリー卿船隊でスペインのカディス港を襲撃
・1597年〜アゾレス諸島へ
・1598年〜オランダ船団のパイロットで東インドへ、1600年オランダ帰港
・1601年〜ランカスター卿船隊パイロットで東インドへ、1603年帰港
・1604年〜ミシェルボーン卿船隊パイロットで東インドへ、1605年ビンタン島で55才没

1585年に北西航路の探検にイギリスを出帆し、グリーンランド(Greenland)東岸の氷(ice-bound)に沿って南下してフェアウェル岬(Cape Farewell)まで進み、グリーンランドのリトラル(Greenland littoral、沿岸)を海岸沿いに戻り氷海から抜け出て、中国への航路発見に向けて進みました。ところが北緯66°でバフィン島(Baffin Island)に到達。さらにバフィン島のホ−ル半島とカンバーランド半島(Baffin Island's Hall Peninsula and the Cumberland Peninsula)の間のカンバーランドサウンド(Cumberland Sound)を行ける所まで進み、そこが海峡だと考え、8月も終わりになったので、イギリスに戻りました。1586年と1587年にも探検航海をなし、グリーンランド西岸バフィン湾(Baffin Bay)の北緯73°ウベアナヴィーク(Upernavik)まで航海。北極圏の多くの場所、カンバーランドサウンドやワルシンハム岬( Cape Walsingham)、エクゼターサウンド(Exeter Sound)、デーヴィス海峡(Davis strait)などに名前を残して北西航路の探検は終りました。この地域は後年のウィリアム・バフィン(William Baffin、-1622)やハドソンなどにより、さらに探検されました。

1588年のスペイン・アルマダの来襲時にはブラックドック号(Black Dog)に乗船してドレーク船長などと一緒に戦い、勝利しました。1589年にはクリフォード伯爵(George Clifford, 3rd Earl of Cumberland 1558-1605)とアゾレス諸島へ航海をしました。

1591年にはマゼランやドレーク船長の航海長を勤めたトーマス・キャベンディッシュ船長(Sir Thomas Cavendish 1560-1592)の最期の遠征航海船団に乗船デザイアー号(HMS Desire、50gun ship)で加わり、キャベンディッシュ船長はマゼラン海峡での悪天候で亡くなりましたが、デイヴィスは1592/8/14にフォークランド諸島を発見しました。そこで乗組員が食料として125,510羽ものペンギンを獲ったと報告していますが、貯蔵中の肉は赤道付近を航行中に腐敗し海へ投棄、以降は乗組員が飢餓に陥りました。ファン・フェルナンデス島に寄航、食料事情でイギリス兵5人を残して出帆。その内1人はスペイン側に寝返り、残りは1691/10/22にロンドンから来島のストロング船長に救出された説あるも定かではありませんが、それからの航海は悲惨で初めの67人の乗組員の内、14人だけがイギリスに帰国できました。

1593年に航海から戻って「船乗りの秘密」(The Seaman's Secrets 1594)と「世界水路詳述」(The World's Hydrographical Description 1595)を出版。1594年にクロス・スタッフの一種の「デイヴィスの四分儀」(Davis quadrant)と呼ばれるバックスタッフ(backstaff、航海用天体観測器具)を考案し、それは1730年にジョン・ハドリー(John Hadley 1682-1744)開発の八分儀(Octant)が導入されるまで、航海に長く使用されました。 バックスタッフ

1596年にサー・ウォルター・ローリーの船隊でサー・マーチン・フロビシャーなどと、スペインのカディス港を襲撃して大戦果を上げ、1597年にはアゾレス諸島へ航海しました。1598年にオランダの東インド遠征航海船団の水先案内人で東インドへ行き、スマトラのアチェ(Aceh)騒乱に巻き込まれ、オランダのミデルブルフ(Middelburg)へ逃げるようにして、1600年に戻りました。1601〜1603年の間はにランカスター卿(Sir James Lancaster)のイギリス東インド会社の遠征艦隊の第1水先案内人で東インドへ行きました。

1604/12にミシェルボーン卿(Sir Edward Michelborne1564-1626)の遠征艦隊の水先案内人で東インドへ行き、1605/12/29にスマトラのビンタン島(Bintan)で日本人海賊に殺害されて、55才で亡くなりました。

参考HP:〜
バックスタッフ
デーヴィス海峡
スマトラ島
インドネシア各州地図
イギリス・デヴォン州の地図
バフィン島の地図
バフィン島のホ−ル半島とカンバーランド半島の地図
ビンタン島の地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     08/10/30、09/5/6
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Nicky
無断転載禁止