Japan

国連 1987 発行
伝道大航海(Missionary Voyage)
キリスト教の日本伝来
1549
来日宣教師と日本人改宗者


大航海物語
  日本編
BELGISH CONGO BELGE
聖フランシコ・ザビエル

ベルギー領コンゴ 1952/5/28 発行
MACAU





安土城

マカオ 1997 発行

DEUTSCHE BUNDESPOST
ユリウス暦 グレゴリオ暦
1582 グレゴリオ暦400年 1982
西ドイツ 1982 発行 (200%)
日本郵便 NIPPON
世界地図

61回列国議会同盟記念
日本 昭和49年 1974/1/1発行


ESPANA
フランシスコ会宣教師
Franciscan Missionaries


San Pedro Nolasco
スペイン 1963/9/24 発行
Portugal
イエズス会宣教師
Jesuit missionaries
コスメ・デ・トーレス神父


1593 ポルトガルの日本到達450年記念 1993
ポルトガル 1993 発行
CITTA'DEL VATICANO
ドミニコ修道会宣教師
Order of the Dominican Preachers


1216 ドミニコ会800年記念 2016
バチカン 2016 発行


MACAU CHINA Portugal
聖フランシコ・ザビエル
ヴァリニャーノ神父
カルネイロ神父
フロイス神父
1556 イエズス会創始者イグナチオ・デ・ロヨラ没後450年記念 2006
マカオ 2006 発行
ポルトガル 1997 発行

キリスト教の日本伝来:〜
1549(天文18年7月)、フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸(初の日本上陸)、1551(天文20年8月)豊後府内(現大分市)着、九州の大名・大友宗麟(1530-1587)から布教許可を得る。その後、京都へ行くも、布教できず、周防長門(すおうながと)の大内氏のもとに行く。1559(永禄2年11月)にイエズス会(Society of Jesus, 1534-)ガスパル・ビレラ宣教師豊後府内(現大分市)から京都へ上洛を果たす。三好長慶(1522-1564)・松永久秀(1508-1577)と親交。1560(永禄3年)にガスパル・ビレラが足利義輝(1536-1565)に謁見、夏頃に布教許可の制札を取得。制札は京都でのキリスト教会への「乱入と乱暴」、「寄宿と悪口」、「非分課役賦課」の3項目の停止を保証。

ルイス・フロイス神父「日本史」では九州の大名・大友宗麟の紹介の室町幕府(1336-1573)政所・伊勢の伊勢守貞孝(年不詳〜永禄9年9月11日(1562)討死)の尽力で制札を得るも、1565(永禄8年8月)にガスパル・ビレラが京都から追放される。

サンフェリペ号の遭難事件を取り調べた五奉行の増田長盛(1545-1615)報告がきっかけで、日本最初の禁教令(豊臣秀吉のバテレン追放令)による日本二十六聖人殉教(1597/2/5、慶長元年12/19)が起こる。

来日したキリスト教の主な宣教師:〜
 (切支丹・伴天連 キリシタン・バテレン)
フランシスコ・ザビエル
 スペイン人(ナバラ州生誕)、1549年に日本を初めて訪れたイエズス会宣教師

コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres, 1510〜1570/10/2)、
バレンシア出身のスペイン人、イエズス会、天草志岐で病没。サビエルと共に来日、その後を継いで18年滞在の宣教師、初のキリシタン大名大村純忠を洗礼

ルイス・フロイス
 ポルトガル人、イエズス会、1563年31才で横瀬浦に上陸、「日本史」を執筆

ルイス・デ・アルメイダ
 (Luis de Almeida, 1525?〜1583/10)、ポルトガル人、日本でイエズス会員となり、天草河内浦(熊本県天草市)で没。1552年貿易目的で来日、商人で医師免許を持ち、豊後府内で私財を投じて乳児院を建設、さらに大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を自費で建設して西洋医学を日本に導入、日本人医師の養成も行う

・ガスパル・ヴィレラ
 (Gaspar Vilela、1525(大永5)頃〜1572(元亀3)頃、ポルトガル人、ゴアで病没、1556年イエズス会インド副管区長ヌーネス・バレトとともに豊後府内に上陸、イエズス会宣教師で京都布教を開始、高山友照(生年不詳-1595)・右近父子らを洗礼、堺を東洋のベニスと紹介

・グネッキ・ソルディ・オルガンティノ
 (Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533〜1609/4/22)、イエズス会
 1570/6/18に37才で天草志岐に上陸、京都を中心に活躍、イタリア人、長崎で76才病没。
戦国時代末期の日本で宣教活動を行い、人柄が良く、日本人が好きだった彼は「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となる

・フランシスコ・カブラル
 (Francisco Cabral, 1530〜1609/4/16)、イエズス会、元軍人、ゴアで病没、1570/6に天草志岐に到着、日本地区布教長、大友宗麟の洗礼、トーレスの後を継ぐがヴァリニャーノと意見を異にして罷免

・ガスパル・コエリョ
 (Gaspar Coelho、1530〜1590/5/7)、ポルトガル人、イエズス会司祭、フランシスコ・カブラル後任、1572年に来日、初代日本準管区長、大坂城で豊臣秀吉に謁見、追放令後平戸で隠れ活動、肥前国加津佐で病没
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
(Father Alessandro Valignano,1539/2/15〜1606/1/20)Pioneer Adaptation
ヴァリニャーノ神父はイエズス会、東インド管区巡察師、総長の名代として、1579/7/25に島原半島南端の口ノ津港に上陸。1582年まで日本を視察、天正遣欧使節派遣を計画・実施。1571年からローマの修練院で教えており、中国の宣教で有名なマテオ・リッチは教え子の一人

メルキオール・カルネイロ
 (Bishop Melchior Carneiro, SJ (1516-1583、First Bishop of Macao)
  マカオ最初の司教
マテオ・リッチ神父
・カルロ・スピノラ
 (Carlo Spinola、1564〜1622/9/10)、イエズス会、イタリア人数学者、1602年に来日、1612年に長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定、江戸時代初期の1622/9/10(元和8/8/5)長崎の「元和の大殉教」(55人)で火刑(25人)に処され殉教

ルイス・ソテロ
 (Luis Sotelo, 1574/9/6〜1624/8/25)、スペインのアンダルシア州セビリア出身、フランシスコ会、1603(慶長8年)にフィリピン総督の書簡を携えて来日、支倉常長ローマへ案内。1609(慶長14年)に田尻浜で座礁難破したサン・フランシスコ号乗船の前フィリピン総督ドン・ロドリゴ(スペインのカンタブリア州で成長)の通訳や斡旋にあたり伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行う。その後、メキシコマニラを経て、1622(元和8年)に長崎に密入国するも捕らえられ、この時も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2人、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一人と共に火刑により殉教

日本人修道者など:〜
・鹿児島のベルナルド
 (生年不詳〜1557/3)、鹿児島出身の日本人。イエズス会、ザビエルに見出され、ヨーロッパに学ぶもポルトガル(コインブラ?)で病没。日本人初のヨーロッパ留学生で、日本人として初めてローマ教皇に謁見(パウルス4世、Pope Paul IV:1476-在位1555-1559)

・ロレンソ了斎
 (1526〜1592/2/3)、イエズス会修道士、元盲目の琵琶法師、サビエルが洗礼した協力者
名説教家で、織田信長の面前で反キリシタンの論客の仏僧・朝山日乗(生年不詳-1577)と議論を行い論破、長崎で逝去

・ペトロ・カスイ・岐部
 (岐部茂勝、1587〜1639/7/4)、ローマで叙階(1620)のイエズス会日本人司祭、カトリック教会の「福者」、ローマへの途上、日本人として初めてエルサレムを訪問、日本に戻って殉教、中世の日本人の中でもっとも広い世界を見た彼は「日本のマルコ・ポーロ」と言われる

▼戦国動乱期(15世紀末〜16世紀末)の主な日本人キリシタン改宗者:〜
主なキリシタン大名:〜
・大友フランシスコ宗麟〜豊後領主、代表的なキリシタン大名の一人
 1530/1/31(享禄3年1月3日)生、洗礼1578/7(49才)〜1587/6/11(天正15年5月6日)没

・高山ジェスト右近
 (1552〜1615/2/4、天文21〜慶長20/1/8)洗礼1564(永禄7、12才)
 代表的なキリシタン大名、一時は高槻城・明石城・船上城主
 追放先のフィリピンのマニラで63才没

・毛利シマオ秀包
 (1567〜1601/4/24、永禄10〜慶長6/3/22)、関ヶ原の合戦では西軍、後に剃髪
 毛利元就の9男、小早川隆景(1533-1597)の養子、筑後国久留米城主、35才で病没

・結城山城守アンリケ忠正
 (生年没年不詳)畿内における最初期のキリシタン大名の一人
室町幕府の奉公衆なるも三好長慶(1522-1564)に仕え、その家宰・松永久秀(1508-1577)に従属。当初は久秀の命でキリシタンを弾圧するも、永禄6年(1563)、京都の町人ディエゴとの宗論を機にキリスト教に関心を寄せ、日本人宣教師のロレンソ了斎に感化されて、戦国大名の高山友照(1531-1596)や清原枝賢らと共に受洗(フロイス日本史)。

・有馬アンドレ義直
 (1521-1577)肥前日野江(島原)領主。
 日野江城は1616年に廃城となり、島原城が建設され、
 原城で農民一揆が起こって、島原の乱が勃発。

・小西アウグスティノ行長
 (1558-1600)肥後宇土城主、関ヶ原敗戦後、
 キリシタンであるため切腹を拒み刑死。
原城跡

日本 2018 発行

・大村純忠(バルトロメオ)、長崎港を開港(1571)、トーレス神父が洗礼
 (1533-1587)三城城主(現長崎県大村市三城町)、日本最初のキリシタン大名。

・織田有楽斎(ジョアン)
 (1547〜1621/1/24、天文16〜元和7/12/13)74才没
  織田信長の弟。利休七哲の一人。

・織田秀信(ペトロ)
 (1580〜1605/6/24、天正8〜慶長10/5/8)25才没、三法師、織田信忠の嫡男、信長の嫡孫、1597(慶長2)年には弟秀則と共に洗礼、1599(慶長4)年に岐阜城下に教会と司祭館、養生所を建設、一方で、寺社を建立、関ヶ原の戦いで岐阜城に籠城するも降伏。

・蒲生氏郷(レオン)
 (1556〜1595/3/17、弘治2〜文禄4/2/7)39才没、近江日野城主蒲生賢秀(1534-1584)の嫡男で信長の人質となり、伊勢松阪城主から陸奥会津へ転封後、若松と改称、文禄の役へ参戦途上に病没、高山右近とも親交があったためにキリシタンとなりこのほか、台湾に出兵したという逸話もある、利休七哲の筆頭。

・黒田孝高(シメオン)
 (1546-1604)官兵衛の通称と如水の号で知られる。豊臣秀吉の家臣

・明石全登(ジョパンニ・ジュスト)
 (生年不詳-1618)宇喜多家臣。関ヶ原の戦い、大坂の陣で活躍後行方不明

・大友義統(コンスタンチノ)
 (1558-1610)大友宗麟の長男。棄教

天正遣欧使節
 ・伊東マンショ
  (Mancio, 1569〜1612年11月13、永禄12年頃〜慶長17/10/21)
  正使、大友宗麟の名代。
 ・千々石ミゲル
  (ちぢわ みげる、Miguel 1569〜1633/1/23(永禄12年頃〜寛永9/12/14?)
  正使、有馬晴信・大村純忠の名代
 ・中浦ジュリアン
  (Juliao, 1568〜1633/10/21、永禄11年頃〜寛永10/9/20)、副使
 ・原マルティノ
  (Martinao, 1569〜1629/10/23、永禄12年頃〜寛永9/9/7)、副使

▼慶長遣欧使節
 ・支倉常長(ドン・フィリッポ・フランシスコ)
  (1571〜1622/8/7、元亀2年〜元和8/7/1)
  伊達政宗(1567-1636)の家臣。

▼その他
・ヤジロウ(パウロ・デ・サンタ・フェ)
 (弥次郎、1511(永正8年)頃-1550(天文19年)頃:アンジローともいわれる)
 ザビエルと知り合い、マラッカで洗礼を受ける。

・細川ガラシャ
 (1563-1600)細川忠興(1563-1646)正室
  関ヶ原の戦い(1600/10/21、慶長5年9月15日)を前にして
  大阪城に入ることを求められるも拒み、大坂の細川邸で家臣の手を借りて自害

・京極マリア(ドンナ・マリア)
 (1542頃-1618)京極高吉(1504-1581)正室、浅井長政(1545-1573)の姉。
 1581、夫と共に安土城オルガンティノから洗礼を受けるも、夫はその数日後に没

・豪姫(ごうひめ、前田利家(1538-1599)四女)
 (1574-1634)宇喜多秀家(1572-1655)正室

・メンシア松東院
 (1575-1657)大村純忠の娘、松浦隆信(1592-1627、28代当主)の母

・ジュリアおたあ
 (生没年不詳)朝鮮出身。小西行長、後に徳川家康の侍女

日本二十六聖人(慶長元/12/19、1597/2/5)〜パウロ三木(1562頃-1597)
  ペトロ助四郎:イエズス会員世話のため一行に付き添い、道中で捕縛
  伊勢の大工フランシスコ:フランシスコ会員世話で、道中にて捕縛、他

・元和の大殉教(江戸時代初期の元和8/8/5、1622/9/10)の殉教者55人、スピノラ神父、他

・清原枝賢(1520-1590):公家で儒者。後に棄教

・曲直瀬道三(まなせ どうさん、1507-1594):医師、1584年)
  豊後国府内でイエズス会オルガンティノ神父を診察したことがきっかけでキリスト教に入信

・吉弘ジュスタ菊姫(生年不詳-1595)尊寿院:大友義統(おおとも よしむね、1558-1605)正室

・愛姫(めごひめ、1568-1653)田村御前:伊達政宗(1567-1636)正室

・五郎八姫(いろはひめ、1594-1661):松平忠輝(159-1683)正室。伊達政宗・田村御前の長女

・山浦光則(生年不詳-1654)米沢藩士:斬首殉教者。元公家。伯母は上杉景勝(1639-1664)の妾

など。

こちらで世界遺産の
潜伏キリシタン関連遺産 (日本)
をお楽しみください。


参考:〜
・グレゴリオ暦
 Gregorian calendar

グレゴリオ暦は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して制定した暦で、現行の太陽暦として世界各国で用いられている。単に新暦(英語:New Style、略称:N.S.、NS)と呼ばれる場合もある。現在使われている西暦はグレゴリオ暦である。1年を365日とし、4年に1回閏年を置いて366日とする。ただし、400年に3回は閏年とせず平年とする(結果的に、400年間に閏年は97回となる)。日本では明治5年(1872年)に採用され、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)として採用された。
グレゴリオ暦400年
・1582年に織田信長が朝廷に暦の変更(閏)を要求するも、信長の横死で実現せず。
・グレゴリオ暦はニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus、1473-1543)の太陽年(1年=365.2425日)が採用されたとされて、「西暦の年数が100で割り切れてかつ400では割り切れない年は閏年としない」ともされ、3300年で約1日の誤差が生じるとされている。
・カトリックの法王が1582/2/24にその採用を教書で「10月4日(木曜日)の翌日を10月15日(金曜日)とすることを定める」と布告したので、プロテスタント(新教徒)諸国では復活祭などの日が変ることなどを嫌ったり反発したりして100年以上も採用が遅れ、ティコ・ブラーエの助手をしたことのあるヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571-1630)が改良暦を発表したのを妥協して採用したが、21世紀になっても未だに採用していないところも有ると言われている。
・1582/10/15に採用のカトリック諸国〜イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド王国、
 1582/12/20に採用のカトリック国〜フランス王国、
       後にフランス共和暦使用〜1793/11/24〜1805/12/31の12年間、
 1700/3/1に採用のプロテスタント諸国〜ドイツのプロテスタント諸都市、デンマーク、
 1752/9/14に採用〜イギリス帝国と植民地、
 1753/3/1に採用〜スウェーデン、
 1873(明治6)/1/1に採用〜日本、
 1896(建陽元年)/1/1に採用〜李氏朝鮮
 1912(民国1年)/1/1に採用〜中華民国(建国とともに採用、
       同年2/12の清朝滅亡とともに国内全域で正式な暦となる)、
 1918/2/14に採用〜 ロシア(ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)、
 1923/3/1に採用〜ギリシャ。
・ユリウス暦は、地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦(太陽暦の一種)で、ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar BC100〜44、シーザー)によって制定され、紀元前45年1月1日から実施されていた。

参考HP:〜
アルメイダ病院の公式HP
日本キリシタン物語(元和の大殉教)

こちらで
地図と子午線
スパイス
コーヒー
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2009/2/22、 09/11/15追記、令和 R.2:2020/3/25
スタンプ・メイツ
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